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    既刊本⑤【夢華・哀】
    毎日タルタリヤが泣く夢を見る鍾離。そんな鍾離が、悪夢の原因を探しながら自分の中にある感情を理解する話です。

    こちらはバドエンバージョンになります。
    ※モブが出てきます。

    夢華・哀 暗いくらい世界の中で、タルタリヤは一人座っていた。瞳からはらはらと涙を流し、ただ前だけをじっと見つめて。その顔に感情はない。嬉しいも、悲しいも、悔しいも何も無い顔。その、無表情とも呼べる顔を見ながら、鍾離は一人、唇を噛み締める事しか出来ないのだ。
    一面を覆い尽くす闇は、タルタリヤだけをほんのりと照らしていて、後は深淵を生み出している。日差しなどは、どこにもない。あるのは、一面を覆い尽くす静寂と……ほろほろと流れ落ちる涙だけ。ほろほろと流れ落ちた涙は、タルタリヤの身体を沈めるように、少しずつ……少しずつ……地面に水を張っていく。そんな異質とも呼べる世界の中で、鍾離はただ立ち尽くすことしか出来ないのだ。瞳から流れ落ちた涙で濡れていくタルタリヤを前に、鍾離が出来ることなど最初から用意されていないとでも言われているかのように。

    何度も見ているこの夢の中で、鍾離はあまりにも無力だった。

    はらはらと流れる涙を拭う事も、身を巣食う程の憂いを晴らしてやることも出来ない。ただ、透明な壁に阻まれて、はらはらと涙を零す男を見ることしか出来ないのだ。
    毎回毎回、どこか空虚を見つめながら涙を零すタルタリヤの姿は、普段の彼とは似ても似つかないが美しい。儚げと言えば良いのか……、泡沫の夢でも見ていると言えば良いのか……。今にも壊れてしまいそうなその姿を見ながら、鍾離は静かに透明な壁に触れた。
    熱くも冷たくもない透明な壁。
    この無機質な壁は、叩こうが蹴ろうが壊れる事はない。厚みはよく分からない。声が届かないから厚いのかもしれないが、もしかしたら薄いのかもしれない。そんな事を考えながら、鍾離が力を込めて殴っても、その壁が壊れる事は一度として無かった。
    これが夢のせいなのかさえ分からないが、鍾離はその無機質な壁に手を付いて、顔を歪める。ただただ……悲しそうに……、そして、悔しそうに。名前を呼ぼうと開いた口は、音を紡ぐ事なくただ空気を奏でる。その、空気が漏れ出す音にさえ顔を歪めながら、鍾離はこの悲しい夢が終わる事を、いつも願うのだ。暗い闇が晴れて、美しい青空が見える事を願うんだ……。そうすれば、いつもの彼を見る事が出来ると言わんばかりに。
    その願いさえも、無慈悲に闇に溶ける。嘲笑うように……、世界を飲み込むように……。そうして聞こえた音に、鍾離はこの夢の終わりを知る。それに対して喜んだ事は一度も無いのだけれど。これは、本当の終わりではない。言うなれば……、そう、つかの間の現実を見るだけだ。

    終わらない。終わらない。終わりなどない。
    そう言って笑った自分を、誰が叱ってくれるというのだろう。


    ◆◆◆

    鼓膜を揺らす騒々しい音に、鍾離は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。ずきずきと痛む頭と、世界を朧気にさせている視界。そのどれもが、鍾離に煩わしさを覚えさせ、鍾離は思わず眉を寄せる。毎日のように見てしまう悪夢は、鍾離の身体を確実に侵食していて、鍾離の身体は少し前から安眠というものを得る事が出来なくなっていた。
    眠ってしまえば、嫌な夢を見る。それでも、人間というのは眠らなければならない。その苦痛を漸くその身で体験した鍾離は、重たい身体を無理矢理起こして、ゆっくりと息を吐いた。下に溜まるような重たい息が、低い音と共に口から漏れ出す。その音は、窓の向こうを染め上げる曇天と変わりなくて、鍾離は思わず視線を窓へと向けた。
    ザァーっという雨音と、視界を黒く染め上げる闇。子供たちの声も、小鳥の囀りも何一つ聞こえないこの街はどこか寂しい。そうして、活気ある街並みが深海に沈んでしまったような感覚を覚えながら、鍾離はゆっくりと目を細めたのだ。
    夢も現実も区別がつかないほどの曇天。その空の下に振り落ちる雨は、今も璃月の美しい景観を濡らしている。深海に落ちるように……、全てを闇に沈めるように。その光景を見つめながら、鍾離はほうっと息を吐いて、最近自身を悩ませている夢の事を思い出した。

    公子タルタリヤの夢を最初に見たのは、数週間前だった。最初は、だれが座っているかも分からないぐらい遠い場所に、鍾離は立ち尽くしていたのだ。赤朽葉色の髪の人間が、ただ座り込んでいる。そんな夢からのスタートだった。毎日、毎日、夢を重ねる度に、鍾離の立つ位置は、座り込んでいる人間に近くなり、今では手が届きそうな所まで来ている。そんな不可思議で少しだけ目覚めの悪い夢。
    タルタリヤの泣く姿など決して想像が出来ないのに、夢の中のタルタリヤはいつも泣いていて、鍾離はそんなタルタリヤに、声一つかけられないのだ。そんな不思議な夢を、ここ数週間毎日見続けている。
    そもそも、毎日毎日同じ夢を見るという事は、偶然では起こり得ない。誰かがそのような仙術を使っているか、あるいは……。そこまで考えた鍾離は、今この地にいない男を思い浮かべた。赤朽葉色の髪を遊ばせ、赤いスカーフを身に着ける男。グレーの服に身を包み、弓を構えて笑う男は、存外、人の憎悪も嫌悪も恋慕も集めやすい男だと言えるだろう。
    彼がこの地を経って、早一か月。出会う事もないから分からないと放って置いたが、どうやら彼は厄介な事に巻き込まれているらしい。そうして、自分もまたその厄介な出来事に巻き込まれているようだ。そう考えてしまえば、鍾離はまた重たい空を見つめて眉を寄せてしまうしかない。夢に類似した暗く重たい世界。柔らかい布団は鍾離を優しく包んでくれていたのに、あの空は、鍾離に優しくないみたいだ。
    そう馬鹿な事を考えた鍾離はゆっくりと身体を動かして、床に足をつける。体勢を変える時に手に触れたシーツの感触は、少しだけ水を含んでいるのかしっとりとしていて、鍾離は思わず苦笑いをした。夢を見るようになってから雨が続いている。そのせいで、洗ったシーツも外に干せやしない。その事実に、少しばかり不安を覚えながら立ち上がった鍾離の後ろで、結われていない髪が遊ぶように揺れた。さらり……さらりと、湿気さえも感じさせない髪。その髪の先は黄金色に輝いていて、暗い曇天の空をほのかに照らす。
    それでも空が晴れないのは……、きっと自身の感情が晴れていないからだ。そう思いながら、鍾離はふぅっと息を吐いて窓を見た。まだ雨は止まない。それでも、それでも良い。たった一人、不思議な出来事に遭遇したであろうファデュイの執行官に会いに行こう。分からない現状を理解する為に。

    彼は今どこにいるのだろう。旅人の話では、最後に目撃したのは稲妻だという。ならば稲妻に向かう方が早いか? いいや、彼なら、きっともう別の場所に行っただろう。彼の行動範囲は恐ろしく広いのだから。先回りしなければ会う事は難しいだろう。

    そう思いながらも身支度を終わらせた鍾離は、ひらりと裾を翻しながら、玄関へと歩き出した。こつこつと鳴る靴の音はいつもと何も変わらない。それでも、扉の向こうに人々の賑やかな声はないのだ。いつもの璃月港の街は、きっと閑散としているだろう。薄暗い霧と、濡れた建物だけを残して。そう分かっていながらも、鍾離は傘を一つ掴んで扉を開ける。その瞬間流れ込んできた湿度の含んだ風は鍾離の頬を撫で、鍾離はその風の気持ち悪さに眉を寄せる。
    鼓膜を揺らす雨音も、頬に張り付く風の気持ち悪さも、全てあの夢に類似していて気持ち悪い。そう思いながらも、鍾離は傘を咲かせて歩き出す。たった一人の男を探して。

     ◆◆◆

     ぴちゃん……ぴちゃん……と足元から水音が聞こえ、鍾離のズボンを無慈悲にも雨が濡らす。それでも璃月の街を歩き続けていた鍾離は、璃月港から郊外へと繋がる橋の上で、一人の男を見つけた。赤朽葉色の髪に、水を含んで暗めの色に変わってしまった赤いスカーフ。その重たいそのスカーフからは、水がポタポタと滴り落ちていて、鍾離は少しだけ目を見開いた。
     璃月に居ないものだと思っていたからこそ、彼がこの場所で濡れながら立っている事に驚いたのだ。髪から零れ落ちる雫は、夢の中で見た彼の涙にも似ていて、鍾離の心をかき乱す。それに気付いた鍾離は、傘の柄をぎゅうっと握って、足を前へと進めた。一歩また一歩と足を前に進める度に、地面に溜まった水が跳ね、鍾離のズボンの裾を濡らす。その跳ねる水の姿は、まるで目の前の男が生み出す小魚のようにも見えて、鍾離はますます心をかき乱された。
    「公子殿」
     ある程度、距離が縮まってから奏でた音は、雨音に邪魔される事もなくタルタリヤの鼓膜を揺らしたのだろう。こちらに背中を向けていたタルタリヤは、重たいスカーフを揺らしながら振り返った。深淵の瞳に、流れ落ちる雫。顔色が少しばかり悪いのは、春の冷たさに身体を震わせているからか。
     そんなタルタリヤを見て、鍾離は本当に面倒な事になったと、そう思った。鍾離の視界に居る顔色の悪い男の首には、黒い首輪のようなもやが漂っている。凡人では見えないであろうそれは、まるで執着を具現化したかのように、タルタリヤの首を絞めつけている。それに圧迫感を感じていないのか、タルタリヤはへらりと笑ったまま鍾離の目をじっと見つめた。白い首に、まるで手でも添えられているかのように纏わりつく黒いもや。そのもやをじっと見つめながら、鍾離はスッと目を細めた。そんな鍾離に気付いているのかいないのか、視界の中のタルタリヤがへらりと笑って、手を上げる。
    「やぁ! 鍾離先生じゃないか。こんな所でどうしたんだい?」
     そう尋ねたタルタリヤに、鍾離はほうっと息を吐いて、また一歩足を前に出した。傘を叩く水音が煩い。防ぎきれなかった雨水が、体に触れて煩わしい。それでも、目の前の男がこれ以上濡れないようにと前に進んだ鍾離に、タルタリヤは気が付いた。少しばかり思い詰めた顔に、暗い空。それだけで、タルタリヤは鍾離を拒絶するように、後ろへと下がってしまう。それに気付いていながらも、鍾離は傘を手にしたまま、また一歩足を前に出した。
    「こんな所と言うのは俺の方だろう。公子殿が璃月に戻っているとは思わなかった」
    「あぁ、今日からまた任務で璃月に戻って来たんだ。途中面倒くさい奴に襲撃されたせいで、こんなにずぶ濡れになっちゃったけどね」
     その言葉にタルタリヤを見れば、所々に怪我をしていて、鍾離は思わず見つめた。重傷のようなものはどこにも無いが、それでも至る所に傷のある姿は痛ましい。その中で雨水に濡れ続けるのは身体に悪いだろうと傘を差し出せば、視界の中の男は分かり易く拒絶を示した。
     笑みを浮かべ、手を前に出し、差し出された傘を優しく押し返す。そうして紡がれた音は、雨音に似て冷たくて、鍾離は口を噤んだまま眉を寄せた。
    「止めてくれよ。先生」
     ファデュイがどうなろうとどうでも良い筈なのに、顔色が悪いだけでなく、黒い首輪でも付いているようなタルタリヤを見ていると、どこかあの夢を思い出してしまう。はらはらと声も漏らさずに泣くタルタリヤを思い出してしまって、腹が立って仕方ないのだ。気にしたくないのに、興味などないのに、泣いているタルタリヤが脳裏に居て腹が立つ。
     そう思いながらも、それ以上傘を差し出そうと思えなかった鍾離は、傘で自身の身体を雨水から守りながら、ゆっくりと唇を震わせた。
    「すまない。あまりにも顔色が悪くてな。早く休む事を勧める。そのままでは、例え貴殿でも、風邪を引いてしまうだろう」
     その言葉に、タルタリヤは前髪を掻き上げながら笑った。黒い手套をぐっしょりと濡らす雨水。その雨水は手套の下にある素肌までもを濡らしていて、鍾離ははぁっと息を吐いた。黒いもやは、この暗い世界の中でもはっきると見えているのに、タルタリヤは息苦しくないのか、今も尚、鍾離の視界でへらりと笑っている。
    「ありがとう先生。ちゃあんと、帰ったら身体を温かくして寝るよ。何事も体が大切だからね。こんな所で風邪を引いている場合じゃないし」
     その言葉に鍾離がこくんっと頷き、次の瞬間、スッと目を細めてタルタリヤの首元を見つめた。暗い世界の中で輝く黄金色。その黄金色はタルタリヤの首に纏わりつく黒いもやだけを、ただ見つめている。そうして、誘われるように、鍾離は黒い靄に手を伸ばした。その際、開かれた唇から漏れ出した音は、何にも阻まれる事なく、この世界を舞う。
    「公子殿は、何か他に、俺に言いたい事があるのではないか?」
     その言葉に、タルタリヤは目を丸くして、それから楽しそうに笑ったのだ。ゆらりと揺れる靄に包まれて、世界を奈落に突き落としてしまいそうな深淵を呼びながら。そうして笑った顔は、彼がファデュイの執行官だと言う事を物語っていた。触れてしまえば……、近づいてしまえば……、最後。そう言われているような気がして、鍾離は思わず眉を寄せてしまう。
     伸ばしかけた手を下して、タルタリヤの首だけをじっと見つめる鍾離。その鍾離の視線に気付いていながらも、タルタリヤはただ微笑んで、伸ばしかけて下げられた手を見つめた。その顔は、これ以上踏み入れるなという感情を滲ませていて、鍾離は何も言わずにただその呪いに苛まれた首を見つめる。わざわざ、踏み込んで来るなと言っている人間の内情に踏み込む趣味はない。まして、相手はファデュイだ。勝手に足を踏み込んで、勝手に呪いを貰い受けても、それは鍾離が気遣う範囲でもない。
     それでも……、それでも何故か、鍾離の脳内には、あの泣いているタルタリヤの顔が浮かんだのだ。感情を持たず、ただ涙を流すだけのタルタリヤの顔が、どうやっても離れない。そう思いながら目を細めた鍾離の視界の中で、タルタリヤはへらりと笑って鍾離に背を向けた。その瞬間、流れたのは冬を思わせるような冷たい風。その風は、まるで彼の故郷に吹く風に似ていて、鍾離は思わず目を見開いた。
    「じゃあまたね。先生。……あぁ、そうだ。一応報告しとくけど、俺、今日からまた璃月に配属になったから……くれぐれもよろしくね?」
     少しばかり重たい声。その声はやはり氷のように冷たく、鍾離はふぅっと息を吐いて手に持っていた傘を強く掴んだ。
    「あぁ、こちらとしても、ファデュイに深入りするつもりはないからな。安心すると良い」
     その言葉に、タルタリヤはうれしそうに笑って背を向けて歩き出す。生暖かい雨は今も大地を濡らし、彼の赤いトレンドマークを重たくさせる。あの首には、今もなお黒いもやが纏わりついている。誰に恨みを買ったのか、どこで拾ってきたのか、そんな事はどうでも良いが、鍾離は少しだけ……、そうほんの少しだけやるせない気持ちになったのだ。
     自分とファデュイの……ましてや、騙した相手との関係性が良好ではないと分かっていても、多種多様な知識を持ち合わせている鍾離に、何も尋ねてくれなかった事が、鍾離の心を重たくさせる。自分なら、どうにか出来るかもしれないとタルタリヤだって分かっているだろうに……、それでも頼ってくれない事が、少しだけ腹立ってしまう。
     何故そんな事を思うのかも分からないが、それでも、鍾離は思ってしまった。遠ざかっていく青年を見つめながら。
     きっと今日も夢を見る。彼が泣く夢を。そんな彼に胸が締め付けられる理由が分からないままに。
     雨はまだ止まない。そう、空が告げていた。 
    ◆◆◆


     音の無い湖。その幻想的とも呼べる大きな水溜りの上に、鍾離は一人立ち尽くしていた。風が吹く事も、小鳥が羽ばたく事もない、切り取られた無音の時間。それはまさしく静寂と言えるもので、その静寂の中で、鍾離は未だ目の前にある透明な壁に手を付いた。熱はやはり感じられない。ただ無機質な壁。その壁の向こうには、相も変わらず公子タルタリヤが座り込んでいて、鍾離はそのタルタリヤの横顔をただ見続けていた。
     時間の流れがあるのか無いのかも分からないこの場所では、鍾離自身も、どれだけの時間タルタリヤを見つめているのか分からないのだ。一瞬なのかも知れないし、それこそ一生なのかも知れない。毎日毎日同じ夢を見ているせいで、いよいよどちらが夢で、どちらが現実かさえも分からない。そんな膨大な時間の中で、鍾離は無表情のままに泣くタルタリヤを、じっと見つめ続ける。そうして、今日はそんな男を見ながら、ゆっくりと顔を歪めたのだ。
    不愉快とでも言うように。この美しい幻想世界を呪うように。
    脳裏に過るのは、あの曇天の空での邂逅。
    「お前は何故泣いている? 何故毎回、俺の夢に出てくる? 伝えたい意図はなんだ。何を求めている。……何故、現実のお前は俺に救いを求めようとはしない?」
     そこまで音を奏でた鍾離は、自分が何故こんな事を言っているのか分からないと言わんばかりに、また顔を歪めた。口元に手を当てて悩み始め、そのまま理解が出来ないと言わんばかりに首を傾げれば、自分の内部に、もやもやとした感情が生まれている事に気付く。言葉に上手く表せられない渦巻く感情。その感情は、鍾離の腹を少しだけ重たくしていて、鍾離はその感情を前に眉を寄せた。
     上手く言葉にできず、口からは空気だけが漏れ出す。何か、何か不満な事がある筈なのに、それが何かうまく纏められないのだ。それでも、脳内にはタルタリヤの顔ばかりが浮かぶのだから、自分はきっとタルタリヤに対して何か不満な事があるのだろう。
     そう思いながら彷徨わせていた視線をタルタリヤに戻せば、タルタリヤは昨日と変わらず何処か空虚を見つめたまま、はらはらと涙を零し続けていた。こちらを見ることもせず、ただ空虚だけを見つめるタルタリヤ。そのタルタリヤに対して、昨日までの自分なら胸が締め付けられるような息苦しさと、無力さを感じていたが、今日の鍾離は違っていた。苛立ちが体内で暴れ、眉が自然と中央に向けて寄る。
    「お前は何故、頼らない。何故こちらを見ようとしない。お前一人で解決が出来ると豪語するならば、俺にこんな夢など見せるな」
     苛立ちが音に変わり、荒々しい音が透明な壁を震わせる。それでも、タルタリヤの鼓膜を揺らす事など一つも無くて、鍾離は苛立ちを顕わに、無機質な壁を殴った。ドォンっと言う人の身体では出せないような音が響き渡るが、それでも壁が壊れる気配は全くと言って良い程無かった。壊れないと分かっていて叩いたが、それでも、こうも壊れてくれないと腹が立つのは仕方ない事で、鍾離は舌打ち一つ零してタルタリヤをジッと睨み付けた。
     どうせもうすぐ夜が明ける。この世界にザーッと降りしきる雨音と、ほのかに日が差し込んだから間違いない。つまり今日も、何も出来ずに終わったのだ。その事実がまた不愉快で、鍾離は石珀の美しい瞳を瞼に隠した。
    「お前が嫌がろうと、俺はお前にかかっているそれを必ず解いてやる。毎日毎日、夢にまで現れて本当に迷惑しているんだ。分かったな」
     言葉が届かないと分かっていても、宣言しないと気が済まなかった。これが凡人らしい感情なのかとも一瞬思ったが、多分違う。存外、自分は負けず嫌いだったらしい。そう思いながら、鍾離は煩い雨音に身を預けた。もうすぐ朝が来る。そう言わんばかりに。

     ◆◆◆

    重たい瞼を持ち上げれば、視界は昨日と同じで暗い闇に染まっていた。朝なのか夜なのか分からない曇天。最後に晴空を見たのは数日前だと言うのに、鍾離はその晴空が愛おしく感じてしまう程に、視界の中にある曇天は重かった。
    痛む頭と、少しばかり肌寒さを感じる室内。ゆっくりと視線を彷徨わせば、窓に水滴がいくつも付いているのが見えて、思わず息を漏らしてしまう。鼓膜を揺らす音は昨日とあまり変わらない。今日も世界は雨に包まれている。人々の活気ある声も、今日は水に溶けてしまっているのだろう。そう考えてしまえば、鍾離は身体を起こす事が少しばかり億劫になってしまった。
    傘も心配も、何一つ受け取ってくれなかった男。その男を記憶から追い出そうとしても、夢が鍾離に忘れるなと語りかけてくる。はらはらと涙を流し、空虚だけを見つめる男。その男に腹が立ってしまうというのに、鍾離はその男を忘れる事も出来ないのだ。
    璃月に今日からまた配属となったらしいファデュイの執行官、公子タルタリヤ。首に黒いもやをつけながら、それでもこちらを頼ろうとしなかった子供に、鍾離は言い難い不快感を覚えて、寝台から降りた。昨日、夜更けまで調べものをしたが、これと言った原因が分からなかった。鍾離は、その事を思い出して、曇天の世界の中で一人溜息を零してしまう。
    鍾離が、明確に仙術や呪いの類が絞れなくても、正直仕方ないのだ。何故なら、公子タルタリヤは何一つ鍾離に伝えなかったから。何処で貰って来たものか、タルタリヤの身体に何を及ぼしているのか、何一つ分からない以上、鍾離は調査の幅を狭める事は出来ない。膨大とも呼べる症例から一つのそれを絞り込むなど、ほぼ不可能と言える。そう思った鍾離は、昨夜、早々に調べるのを諦め寝台に潜り込んだのだが、結局、上手く睡眠を取る事さえ出来なかった。
    「公子殿に聞くほうが早いだろうな」
    結局は、その結論に至ってしまう。ファデュイの事になど深入りしたくないが、璃月に害を及ぼさないとも言い切れない。そう考えてしまった鍾離は、重たい身体を引き摺って璃月の街に出向くしかないのだ。
    服を着替え、髪を整え、少しばかり隈の浮かんだその顔に溜息を零しながらピアスを着けた鍾離を、一体誰が気付いてくれるのだろう。そう思いながら、革靴に足を通した鍾離は、さほど重たくもない木の扉に手を触れて、そのまま傘を手に曇天の空へと出向いた。つい昨日、深入りするなと忠告してきた男に会いに行くために。

    昨日よりも薄暗い世界は、夢と現実の区別がつかないぐらい水に濡れていた。大雨という程ではないが、鍾離の靴を少しばかり沈める水に、鍾離は思わず息を零す。昨日帰宅してから乾かした靴も、服も、外に出て数刻もしない間に水に濡れて汚れてしまった。濡れる事が嫌いなわけではないが、こうも連日濡れてしまうと気分が下がる。そう言わんばかりに足早に歩き出した鍾離は、どこかに立ち寄る事もなく、北国銀行へとその足を動かした。
    そんな鍾離の視界に映るのは、楽しそうに笑う親子ではなく、傘を手に足早に歩く人々。皆、どんよりとした空につられているのか暗い表情で、鍾離はスッと目を細める。美しい璃月の街並みは今も変わらないが、それでも活気の無さは一目瞭然。その街が、どこか鍾離の心を表しているようにも感じて、少し悲しく感じてしまうのだ。
    そんな、まるで精神でも弱っているかのような事を考えていた鍾離は、早々にこの問題を解決しようと目的の人間に会うべく、階段へと歩を進めた。コツンコツンという音とも共に濡れる地面。それさえも煩わしいと言わんばかりに顔を歪めた鍾離は、足早に歩を進める。早く、早く終われと言わんばかりに足を動かす鍾離を知ってか知らずか、鍾離の頭上にある橋から、この曇天には似合わない声が響き渡った。
    「あれ? 鍾離先生だ。こんな朝早くからどうしたんだい?」
     その声は、鍾離が探していた声で、鍾離は少しだけ傘を傾けて顔を上げる。そこには、昨日とは違って顔色の良いタルタリヤが居て、鍾離はほうっと息を吐いた。そこまで心配していたつもりはないが、それでも健康そうな姿を見れば安心もする。そう自分に言い聞かせていた鍾離の視界で、タルタリヤは橋に手をかけてそのまま飛び降りた。
     曇天の中でひらりと舞った赤いスカーフ。水に濡れるのさえ興味がないと言わんばかりのタルタリヤの行動に、鍾離は少しだけ目を丸くして思わず傘を差し出す。その傘は、昨日と同様にタルタリヤに手で押されたが、鍾離はその手を気にもせずタルタリヤを傘の中に入れた。
    「ちょっと……、先生?」
    「まだ濡れていないんだ。わざわざ濡れる必要もないだろう」
     少しばかり強めなその言葉に、タルタリヤは怪訝そうな顔をしながらも渋々傘の中に入る。そうして、はぁっと息を吐きながら鍾離を見れば、鍾離の肩と背中が、傘から落ちる雫に濡れていた。それも当たり前だ。鍾離の傘は成人男性一人分しか入らない。タルタリヤを雨から守ろうとしたら、必然的に鍾離の身体はこの雨に晒されてしまう。その事に気が付いたタルタリヤは、ガシガシと頭を掻いて、仕方ないと言わんばかりに鍾離の腕をきつく掴んだ。
    「公子殿……?」
    「それで先生が濡れたら、気分が悪いんだけど?」
     そう言いながら歩き出したタルタリヤに逆らう事なく、鍾離はタルタリヤの後ろを歩く。自分の意思とは違う速度に、傘からは雫がぽつぽつと落ちて二人を濡らしたが、そんな事など気にもならなかった。
     そうして、二人はそのまま雨宿りが出来る場所まで歩き、漸く雨を凌ぐ事が出来たのだ。鍾離は屋根の下に入った瞬間に傘を閉じて、付いていた雫を落とすように傘を振るう。そんな鍾離をじっと見つめていたタルタリヤは、スッと視線を外して空を見上げた。曇天の空は、昨日と変わらず曇天で、降りしきる雨はタルタリヤの鼓膜をも揺らしている。そんな少しだけ憂鬱になる空を見つめながら、タルタリヤはゆっくりと唇を震わせた。
    「それで? 先生は何しに来たの? 目の下に隈もあるし、寝られてないようだから、家で寝る事をお勧めするけど」
     刺々しい言葉をぶつけられたというのに、鍾離は目を丸くしてふっと息を零した。世界は曇天で、鍾離は先程まで傘を差していたというのに、横に立つ男は鍾離の不調に気付いたらしい。それがどこか嬉しくて、鍾離は目を細めた。
     鍾離が心配をすれば断ったくせに、自分は鍾離の心配をしている。自分のテリトリーを守りながらも、鍾離のテリトリーには無遠慮に侵入してくる男に、鍾離はやっぱり笑みを浮かべるしかなかった。それでも、脳裏に過るのは空虚を見つめながら泣くタルタリヤの姿。その姿を思い出しながら、鍾離は少しだけ顔を下に向けて唇を震わせた。
    「最近、夢見が悪い。多分だが、公子殿の首に巻かれている黒いもやと関係あるのだろう。公子殿は聞かれたくないと言っている感じではあったが、それが何か教えてくれないか? 俺であれば、それをどうにか出来るかも知れない」
     どういう反応をされるか分かった上で紡いだ言葉。その言葉を言い終わる前に、溜息が鍾離の鼓膜を揺らして、鍾離は少しだけ息苦しさを感じた。分かり易い拒絶の音。きっと顔をあげれば、そこには顔を歪めたタルタリヤがいるのだろう。そう思いながら顔を上げた鍾離の視界には、やはり顔を歪めたタルタリヤが居た。
    「先生。俺は、あまり深入りをしないで欲しいって態度で示したと思うけど?」
    「そうだな。俺としても、あまりファデュイと関わりを持ちたいわけではない。だが、こうも夢に出て来られると困るんだ。数週間前から毎日同じ夢を見ている。この夢は本当にお前と関係ないものか?」
     その言葉に、タルタリヤは腕組みをして鍾離をじっと見る。直ぐに否定しない所を見ると、あの首に纏わりついている黒いもやは、どうやら数週間前からあるものらしい。そう確信した鍾離は、じっと首を見つめる。その視線に暫く黙っていたタルタリヤだったが、次の瞬間、降参だと言わんばかりに両手をひらひらと振ったのだ。
    「なるほど。確かに、時期的には俺にかけられた呪いと同じだね。これじゃあ、黙っておくのも難しいか。別段、俺は困ってなかったから放置しても良いと思っていたんだけど、まさかこんな所に支障をきたすとは」
     へらりと笑って、自分の首を指差すタルタリヤ。その姿は曇天の空と相まって不穏さを醸し出していて、鍾離は思わず眉を寄せた。鍾離の視界には、今も黒い靄が手のようにタルタリヤの首に絡みついているように見えて、気持ちが悪い。そんな鍾離の心情でも悟ったのか、タルタリヤは渇いた笑みを一つ零して唇を震わせた。その唇から漏れ出した音は、曇天の空など似合わないぐらいに明るいのに、紡がれた言葉は曇天の空に似合うぐらい重たかった。
    「任務の途中だったよ。ちょっと任務の事は組織内秘密だから言えないけど、魔神が埋められたという土地に行ったんだ」
    「それだけでおおよそ、お前達が何をしようとしていたのか分かるな。禁術でも漁ろうとしたのか」
     目を細めて呆れたように音を紡いだ鍾離に、タルタリヤは困ったような笑みを浮かべて、肯定も否定もせず話を進め始めた。それが肯定だという事に、鍾離が気付いていると知っていながら。そんなタルタリヤを叱るように、ザァーっと雨が降る。
    「だけど、その遺跡には何もなかった。ただ悲しい末路を辿った魔神の話が書かれた石碑以外には何も。それでこの任務は終わりの筈だったんだけどね……。部下の一人が、自分の私利私欲のために、その遺跡の財宝に手を出したんだ。その瞬間、その物言わぬ遺跡は牙を向いたよ。魔獣が放たれ、辺り一面が霧に覆われ、そうして俺の耳に届いたのは、悲しい末路を辿った女の声だった」
     そこまでの話を聞いて、鍾離は一人の魔神を思い出した。名前までは流石に把握していなかったが、愛した人間に倒された魔神が居たという話は、モラクスの元にまで届いていた。
    その魔神は殆ど力を有してはいなかったが、幻想や夢を見せるのが得意だったと言う。
    「墓地を荒らした事により、お前はその魔神から呪われたのか?」
     そう尋ねた鍾離に、タルタリヤはへらりと笑って首を縦に振った。毒々しい黒い手。それが纏わりつく首が、意図も簡単に折れてしまいそうで、鍾離は目を細める。そこまでの呪いを発動できる魔神だとは思わなかったが、それでも数千年、積もり積もった憎悪というのは、人の命までもを脅かせるらしい。
     それほどまでに、彼女は人間を愛していたのかもしれない。信じて……信じて……、そうして裏切られたのかも知れない。

     そう思いながらも、鍾離は別段同情などしなかった。死して尚、人を呪う神に同情の余地はないからだ。人も神も、死した後は安らかに眠るべきだ。残された力が、想いが、良い方向に進む事など、そう多くはないのだから。

    「それで、お前は何を貰い受けてしまったんだ」
     その言葉に、タルタリヤは笑った。悲し気に、でも楽し気に。そうして、自分には関係ないと言わんばかりに。そんなタルタリヤに、鍾離は少しだけ心の臓が苦しくなるのを感じた。彼の笑い声は、時々どこか残酷に見える。そう思いながら耳を澄ませた鍾離の元に、タルタリヤの楽しそうな音が届いた。その音に誘われるように、曇天の世界が、雨に沈む。この世界を塗り替えるように。希望など何処にもないように。

    「一番愛する人に想いを告げたら、死ぬ呪いだよ」

     その瞬間、現実だった筈の世界が、蝕むような静寂に包まれた。
    夢と現実が入れ替わる……、そんな気がした。
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