「報告は以上だ」
「なるほどねえ。どうもありがとう、クロリンデさん」
リオセスリは息を軽く吐き、少し冷めてしまった紅茶を口に含み、鼻に抜ける香りを楽しんだ後飲み込む。
今日の茶葉は、ほのかな甘味があって後味がすっきり爽やかなものを使っている。アフタヌーンティーとして行っている情報交換の場ではどうしても重い雰囲気が流れがちなので、紅茶だけでも後味のいいものにしようとこの茶葉を選んだのだ。
クロリンデが手土産に持ってきてくれたお菓子に手を伸ばしながら、先程の報告書を手に取り思考の浅瀬に浸ろうとしていると、彼女はティーカップを置きそういえば、と話を切り出した。
彼女から世間話をすることは珍しいことなのでリオセスリも一旦書類を置き、彼女の方を向くと無表情な顔に少し困惑が浮かんでいた。
「どうやらヌヴィレット様に情人ができたらしい」
「なんだって?」
耳を疑うような内容に殆ど反射的に聞き返してしまう。
「だから、ヌヴィレット様に恋………」
「いや、聞こえてはいたが理解するのに時間がかかっただけだ」
動揺の末、無理矢理クロリンデの話を遮ってしまったことは少々失礼だったかと思い、彼女の方を見るが対して気にしてなさそうだったのでほっと息を吐く。
「それで、お相手はどういう人なんだ?」
「私も詳しくは知らないが、噂によると最近移り住んできた璃月の豪商の息子らしい」
「へぇ…」
「お相手の方が魔物に襲われそうになった時、ヌヴィレット様に助けて貰ってそれから一目惚れしたそうだ」
最初のうちはヌヴィレットも戸惑っていたが、相手の猛アタックの末絆され、ついに恋人関係になった。
これが事の顛末のようだ。
最高審判官が特別な関係の人物を作ることに対してヌヴィレットは最初フォンテーヌ国民から不平不満の声が上がることを懸念していたようだが、人目を憚らずヌヴィレットにアタックする豪商の息子に対して、元々ドラマチックな展開が大好きな国民達は徐々に街をあげて彼の恋路を応援するようになり、水の上はしばらくお祭り騒ぎだったらしい。
リオセスリはすっかりぬるくなってしまった紅茶をゆっくり飲み干し、乾いた口内を潤す。
「……それで、ヌヴィレットさんの方はどうなんだ」
リオセスリは思ったよりも低い声が出てしまった自分に驚く。
「それはヌヴィレット様も相手のことを思っているのか、という意味なら以前街でニ人を見かけた時に仲睦まじげだったため心配はいらないと思うが」
「そうか、ならいいんだ」
リオセスリは空になったティーカップと菓子皿を片付けるために立ち上がった。
「その、公爵」
視線を感じてクロリンデの方を振り返ると心配の色を浮かべている彼女と目が合った。
「なんだい、クロリンデさん」
リオセスリは笑顔で答えるとクロリンデは目線を外し荷物をまとめると立ち上がった。
「なんでもない、では私はこれで」
また来る、そういうと振り返ることなく颯爽と部屋から出ていった。
バタン、とドアが閉まるのを確認するとリオセスリは身体の力が抜けてしまったかのように椅子に深く凭れ掛かる。
クロリンデの前でうまく取り繕えていただろうか、彼女は何も言わなかったが様子を見るに動揺が読み取られたのだろう。
いつだって公平で他人と一線を引いている彼が特別な存在を、ましては恋人を作るなんて考えもしなかった。
胸の中で燻っているこの複雑な感情は何なのだろう。
長い時間をかけてそれなりに彼と他人よりも親密な関係を築いていたはずなのに、出会って間もない人が自分よりもより深い関係になっていたことに少なからずショックを受けているのだろうか。お気に入りのおもちゃを他の子に取られてしまったような悔しさや淋しさやが入り混じり靄となって心に覆い被さ、。
「あぁ、クソッ…」
ガシガシと乱暴に頭を掻くと、ままならない感情への苛立ちを忘れるため書類仕事に没頭した。
________
あの日からヌヴィレットと顔を合わせることなく数ヶ月が経った。
今までは、諸雑務の報告を口実にわざわざ陸に上がり顔を見に行っていた節があったが、今となっては部下やメリュジーヌに報告書の受け渡しをしてもらうことで事足りている。幸い大きな事件はなく、リオセスリがパレ・メルモニアの執務室に直接の行く必要もヌヴィレットがメロピデ要塞を訪れることもない。
所詮仕事の中だけの繋がりしかなかったのか、と自らヌヴィレットを避けておきながら落胆する。
少々憂鬱な気持ちになりながらスラスラと書類にペンを走らせていると、コンコンコンと扉をノックをする音が聞こえた。時計を見ると、針はクロリンデと約束していた時間を指していた。
どうぞ、と入室を促すとクロリンデが一瞬ギョッとした顔をしたのち直ぐにいつもの無表情に戻り、来客用のソファーに腰をかけた。
「こんにちはクロリンデさん、ご足労ありがとう」
「構わない。それより公爵、隈が目立つようだが体調は大丈夫なのか」
クロリンデの鋭い指摘にリオセスリは内心冷や汗をかく。
「ああ、最近少々やらなきゃいけないことが立て込んでて忙しいんだ」
「そうか、だが看護師長をあまり心配させるな」
嗜めるような声音に苦笑いし、居心地が悪くなって誤魔化すように会議の火蓋を切った。
「以上だ、何か質問はあるか?」
「いや、非常に分かりやすい報告だったよ。あとはこちらで処理おくさ」
クロリンデの端的かつ分かりやすい説明と、リオセスリの理解の速さで会議は順調に進んでいった。
話の区切りがついたところでリオセスリは紅茶で一息つく。今日の茶葉は甘くフルーティーな香りがするものだ。クロリンデも一口飲むと、ソーサーにティーカップを置き姿勢を正した。ただならぬ雰囲気にリオセスリは体を固くして構える。
「それからもう一つ、ここ最近ずっと雨が止まないんだ」
それはつまりヌヴィレットが泣いているという事ではないか。理解するのと同時に心の底から激情が湧き出し、目の前が真っ赤に染まる。
「……いつからだ」
クロリンデに対して怒鳴るのはお門違いなので、ぷつりと切れた理性の糸を紡ぎ直し静かに問う。それにまだ恋人が関係しているということは確定していない。
「ここ一ヶ月ほどだ」
「ヌヴィレットさんに何か変わったところは?」
「ある者からは、職務には全く支障はきたしていないが毎日執務室にいた彼が休みがちになっていると聞いた。セドナからは最近のヌヴィレット様は体調が芳しくなさそうで、話し掛けてもぼーっとしていることが多いと聞いている」
「…………」
自分の知らないところで彼がそんな状態になっている事にリオセスリは呆然とする。
「そこで公爵に頼みがあるのだが、ヌヴィレット様の不調の原因について調査してきてくれないか」
はっと顔を上げると、クロリンデの目は真剣だった。
「どうして俺なんだ?」
「公爵はヌヴィレット様と親しい関係にあっただろう。あなたが一番適任だろう」
周りの人から見て自分とヌヴィレットが親しいと評価されて素直に嬉しさが込み上げる。
クロリンデはふっと目尻を下げると「ではよろしく頼むぞ」と言い出て行った。
一人執務室に取り残されたリオセスリは、深くため息をつき誰も見ていないのをいいことに机に突っ伏した。
これからどうしようか、ヌヴィレットさんは大丈夫なのだろうか。色々な事が頭の中をぐるぐると駆け回る。
「杞憂であればいいんだがな」
祈るような呟きは静かな部屋を漂い午後の緩い空気に溶けていった。
________
翌日、リオセスリはパレ・メルモニアの執務室の前に立っていた。
正直久方ぶりに顔を合わせるのと、理由が理由のであるため若干の気まずさはあるがそれよりも心配の気持ちが勝り、リオセスリは居ても立っても居られなくなって早速行動に移していた。セドナからヌヴィレットは出勤しているという情報を得ていたため出鼻を挫かれずに済んだ。
以前までは、この扉を気安くノックできていたのだがヌヴィレットとリオセスリを隔てる一枚の扉が変に威圧的に感じられる。後ろを通る通行人の訝しげな目線を感じながら、ノックする手を上げては下げてを何度か繰り返したのち覚悟を決めてノックする。
三回ノックすると、中からヌヴィレットが入室を許可したためひと息ついた後ゆっくりと扉を押し開けた。
「失礼します」
「リオセスリ殿か、随分久しぶりだな。息災だったか」
窓から差し込む光を背にして、精悍な顔に若干の驚きの色を浮かべている。その姿は記憶の中のヌヴィレットよりも少し痩せていてやつれている様に見える。
それだけじゃない違和感がリオセスリの嗅覚が捉えた。ヌヴィレットの纏う雰囲気がどこか変わった気がする。
「ヌヴィレットさんお久しぶり。このところ要塞内で色々ばたついていて忙しかったんだ。仕事が片付いたから一緒にお茶なんかどうかなと思ってな、あんたも忙しいだろ。たまには休憩も必要だ、息抜きに一杯どうだい?」
そう言うとリオセスリは来客用の長椅子に我が物顔で腰をかけた。
「それもそうだな、頂こう」
ヌヴィレットは執務席から立ち上がり、リオセスリの前に腰掛けると何やらお香のような香りがふわりとリオセスリの鼻腔をくすぐった。
「ヌヴィレットさん、香膏でも付けているのか? 」
リオセスリがそう問うとヌヴィレットの動きが一瞬止まった後ふいと目を逸らされた。
「いや、私じゃなくて同居人の香りが移ったのだろう」
ド直球の答えに今度はリオセスリの方が固まる。これから時間をかけてゆっくりと聞き出すつもりだったのに。想定外の展開に脳内で早急にプラン変更し、核心に迫る。
「そうか、ヌヴィレットさんに恋人ができた噂って本当だったんだな」
「ああ、君のところにも噂が届いていたのか」
「クロリンデさんから聞いたんだ。それに加えてあんたの様子がおかしいって事もな」
ヌヴィレットの瞳とリオセスリの瞳がかち合う。
「ヌヴィレットさん、何か悩み事があるなら俺に相談してくれ」
普段の毅然とした態度とはうってかわって憂色を孕んだリオセスリの眼差しに射抜かれ、ヌヴィレットは罪悪感を胸に覚える。
答えあぐねて押し黙っていると、ティーカップに添えられていた手を掴まれ壊れ物を扱うようにそっとヌヴィレットの手がリオセスリの手に包まれた。
「俺はあんたが心配なんだよ」
温度の高い無骨な手が、ヌヴィレットの冷たい指先をじんわりと温めてくれる。
少しの沈黙が場を支配した後、ヌヴィレットが徐に口を開いた。
「私はどうやら愛というものが理解できないようだ」
「というと?」
ヌヴィレットらしくない、いまいち的を射ない発言にリオセスリは首を傾げる。ヌヴィレットは躊躇っているのか迷子の子供のように視線を彷徨かせた後、リオセスリの手中からそっと手を離し、黒い手袋を緩慢な動きで抜き去りジャケットの袖を捲った。
「何だ、これは」
剥き出しになった白魚の様な肌の上には、手首を覆う様に手の痕や縄で縛ったような痕が残されていた。
リオセスリは目を瞠るとともに、これまでに感じたことのない激しい怒りが込み上げる。
「恋人にやられたのか」
ヌヴィレットは何も答えない。
「沈黙は肯定と見做すが…」「私が、」
リオセスリが言葉を続けようとすると、ヌヴィレットがそれを遮った。
「私が何か彼の気に触ることをしてしまったのかもしれない」
そう言い放つヌヴィレットにリオセスリは唖然とする。
ヌヴィレットの人物評に『どう見てもマイナスな状況から、好意的な動機を導き出せる』とあるが、自分に向けられている明らかな悪意に対しても一度懐に入れた相手を庇う様子を見せるとは。何という博愛精神、というよりはその根底に自己肯定感の低さが現れているのだろう。四百年以上かけて少しずつ人間の感情を理解し寄り添ってきたのに、愛という純人間でも未だに釈然としない大きな感情を、答えを知らないまま暗闇で探し続けている彼に対してリオセスリは道を灯す。
「ヌヴィレットさん、それは愛じゃないよ」
人の感情に鈍感といえど聡いヌヴィレットは最初からそうではないかと悟っていたが、リオセスリの決定的な言葉に胸に突き刺さる。
「こんな身体を傷つけるような行為は愛とは言えない。相手を愛おしく思ったり、大切にしたいと思ったりするのが愛なんだ」
リオセスリはあくまで簡単に教え込むようにゆっくりと言葉を紡ぐと、腰をかけていた場所から立ち上がりヌヴィレットの座っている長椅子の後ろに回った。
ヌヴィレットは何事かと思い振り返ろうとすると、リオセスリの腕に後ろから抱き込まれた。
「リオセスリ殿…?」
予想外の行動に驚くヌヴィレットはリオセスリの顔を反射的に見るが、存外近いところにあった薄明の瞳からは表情が読み取れない。
「そんな男やめて俺にしとけよ」
悪魔が無垢な子供を唆すように甘美な言葉が耳元で囁かれる。
「……すまない」
そう呟かれた言葉は揺れる心にに対しての懺悔なのか、将又それ以外か。
少なくとも、暫くはこの体温に包まれていたいと思ったことは確かだった。
________
リオセスリが次の用事が控えている為去った後、ヌヴィレットは自身の意識が浮遊しているような何処かふわふわとした心持ちで仕事の続きをしていた。
つい数刻前の出来事は全て
夢であったのではないかと思うが、己から僅かに香るリオセスリの匂いと耳元を掠める吐息が生々しく思い起こせて、ヌヴィレットは一人頬を染める。
あのような、胸が焼かれるようなじりじりとした感情が湧き上がる感覚は初めてだった。今もリオセスリのことで頭が一杯で仕事もままならない。このまま作業を続けてもミスをしてしまいそれが最悪重大な事態に繋がりかねないので、思い切って仕事を切り上げて帰る判断をする。
帰る、といっても自分の部屋ではなく恋人の家になるのだが。今までは何の感情もなくただ言われた通りに彼の家に帰っていたのだが、帰路に着く足がまるで水の中を歩いているかのように重い。
ヌヴィレットは、ひとつ溜め息をついて荷物を纏めると執務室を後にした。
帰り際にすれ違うメリュジーヌ達に挨拶したり、軽く世間話をして帰るにことよってヌヴィレットの心の荷が少し軽くなったが、そんなこんなしていると気が付いたら"家"に到着していた。
窓を見るとカーテンの隙間から明かりが漏れ出ているため既に帰ってきてるのだろう。一呼吸おき、扉を開けると奥から駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
「お帰りなさい!」
そう言ってヌヴィレットよりも少し低い背丈の男に抱きしめられる。リオセスリには抱き込まれる感じだったが彼には抱きつかれる感じだな、とぼんやり考えていると いつものように首筋に顔を埋めた彼が動きをピシリと止めた。次の瞬間背中が壁に叩きつけられる。
注意散漫としていたヌヴィレットは急な疼痛に驚き彼を見ると、男の表情は怒気を孕んでいた。
「どうしたんだ…?」
「ヌヴィレットさんから知らない匂いがするんだけど何?誰?浮気でもしてんの?」
そう言うとぐっと襟元を掴まれる。
「………」
浮気と言われると少し違う気がするが、無知の器に感情を注ぎ込んでくれたリオセスリに対して気持ちが揺らいでしまったのは事実だ。ヌヴィレットはどう説明すれば良いか分からず言葉を選んでいると、更に強く襟元を掴まれ気道が塞がれる苦しさに呻く。
「こ……ら……もっと……して……のに…」
まるで何かに取り憑かれてしまったかのように虚な表情でぶつぶつと呟く男に、直感的に良くないものを感じ取ったヌヴィレットは逃げようと身動ぎしたが、動きを読まれ強い力で壁に押し付けられた。
「何?今逃げようとした?」
彼はヌヴィレットよりも背丈が低いといえど、ヌヴィレットの身長が普通の人間の平均よりだいぶ大きいだけであって、彼もフォンテーヌの男性の平均身長よりは幾分か高い。その為高身長成人男性の全力で掴み掛かられると容易に逃げられない。勿論人外であるヌヴィレットは本気の力を解放すると安易に逃げることができるのだが、力の加減を誤ると断罪する側が断罪される側になり最高審判官としての矜持を失うことになる恐れもある。
それにヌヴィレット自身完全に非が無いとも言い切れず、思うところがあったため何も手出しが出来なかった。
「使うつもりはなかったのにな」
そう言って男は片手をポケットに入れると注射器のようなものを取り出した。
本格的に身の危険を感じたヌヴィレットは身を捩り逃げようと踠くも、首を絞めるように抑えられ酸欠になり意識が朦朧としたところで針を打たれる。
「あァ………!ゃめッ!!!」
深く打ち込まれた針の痛さと、流し込まれる液体の熱さに全身の力が抜けてその場にへたり込むと男はヌヴィレットを引き摺るようにして地下の階段を降りた。
軋む音と共に開かれたそこはベッド一つしか置かれていない小部屋で、ベッドの四隅は鎖に繋がれた手錠が付いている。
意識が混濁したヌヴィレットは両手足に冷たい鉄の感覚を感じながら気を失った。
________
「おはようヌヴィレットさん」
ゆっくり目を開けると白い朝日に照らされて逆光になっている誰かが優しく頭を撫でてくれる。撫でられる手が心地よくて擦り寄ると彼はふふっと幸せそうに笑い声を漏らし抱きしめてくれる。
抱き寄せられた胸に温度と匂いがないことに気が付き、ああこれは夢かはたまた得体の知れない薬による幻覚だとヌヴィレットは気がついた。
幻影のリオセスリはヌヴィレットの傷だらけの身体を見ると、少し哀しげに笑い傷痕ひとつひとつに慈しむようキスを落としてくれる。
足先から膝、太腿から腹部、胸部から首筋へと。感覚は無いはずなのに擽ったくて身を捩るといつの間にかリオセスリに覆い被さられる体勢になっていた。
ゆっくりと近づいてくる顔を惚けながら見つめ重なるまであと数センチというところで。
「リオセスリ殿」
そう呟いた瞬間腹部に鈍い痛みが走った。
「いっっッ……」
咄嗟に患部を守ろうとするも手錠によって叶わない。
「おはよう、ヌヴィレットさん」
今し方ヌヴィレットを殴った男は薄気味悪い笑みを浮かべながらベッドの淵に腰をかけている。
「まさかメロピデ要塞の番犬、リオセスリ公爵が浮気相手だとは思わなかったよ」
「彼とはそういう関係ではない」
ヌヴィレットはきっぱりとした口調で否定するも、男はハッと自嘲気味に笑い早口で捲し立てた。
「は?じゃあ何で公爵の名前を呼んだんだよ。前々から元囚人がメロピデ要塞の管理人を任されて公爵という最高地位までも賜わったのは最高審判官の情人だからってあちこちで噂されてたの知ってたか?」
品がない話にヌヴィレットは眉を寄せるも男の口撃は止まらない。
「なぁ、公爵にいつもどんな風に抱かれてるんだ?見た目の通り激しく抱かれてるのかな、いや意外に優しいとか?ラブラブセックスしてるのはなんかムカつくなぁ。ねえ、身体の傷見られてどんな反応だった?」
男の下世話な言葉に若い恋情の芽を毟り取られるような苦しさを感じ、耳を塞ごうとするが金属がすれる音がするだけだ。
「やめてくれ、、、」
弱々しく呟くと、顎を思いっきり掴まれ男と強制的に目を合わさせられた。ヌヴィレットの瞳と男の濁った目が至近距離で交わる。
「いや、泣きたいのは俺の方なんだけど。なに被害者面してるの?気に入らないなァ」
そう言って男は注射器を取り出し手錠によって固定された腕に穿刺するとヌヴィレットの腹を殴る。
「ぐッ__!!」
薬によって筋肉が弛緩したヌヴィレットは抵抗する術もなく男のされるがままになる。諦めて力を抜いたヌヴィレットは早くこの時間が終わるように祈りながら意識を飛ばした。
_____
窓も時計もない部屋で過ごしている為、あれから何日経ったのか分からない。暴力を振られては気絶してを繰り返しているためそれも時間感覚が狂う原因になっている。
日中彼は自宅で仕事をしていることが多く、休憩時間が来たらこの部屋を訪れているらしい。その時機嫌が良かったら嬉々とした表情でペラペラと独り言を宣い時間が経つと戻っていくのだが、仕事で何かあるとまるでストレス解消のサンドバッグのようにヌヴィレットを扱う。
以前からやたらとヌヴィレットを縛りたがったり何かしらの痕を残しがったりしていたが、今思うと暴力的な人格が現れる兆候だったのかもしれない。
人間には様々な愛の形があるのだな、程度に思っていたがそれを否定したのはリオセスリだった。記憶の中の彼の温度を思い起こすことでヌヴィレットはなんとか自我を保っている。
もう何日も外に出られてないが仕事は大丈夫だろうか、フリーナに何か大事が起きていないか、など気掛かりなことが噴水のように湧いてくる。
そろそろ感覚的に彼の休憩時間がやってくる頃、何やらバタバタと騒がしい音が上から聞こえる。耳を劈くような断末魔が聞こえた後、複数人の足音が遠ざかった。
イレギュラーな出来事にヌヴィレットは驚き固まっていると、何者かが地下の階段を降りて来る音がした。ギシギシと音を立てながら一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと降りて来る人物に身構えていると、鍵を差し込み扉が開け放たれた。
「ヌヴィレットさん!」
扉の向こう側には喫驚した表情のリオセスリが立っていた。
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「いや、アレはないか…………」
ヌヴィレットに会いに水の上に赴いた日から数日が経った頃、リオセスリはシグウィンと息抜きにお茶を飲みながらため息と共に独り言を吐き出した。
ここ数日はずっとあの日のことを考え込んでしまって看守に挨拶をされても気が付かないほどだった。それ故に公爵の機嫌が悪いという噂が流れ部下たちを怖がらせてしまった事は反省している。
「あら、公爵。大きなため息吐いていったいどうしたの?」
ティーカップをコトリと置き、大きな目を瞬かせて看護師長は問う。リオセスリは「しまった、声に出してしまっていたか」と狼狽える。
「いやその、俺の知り合いの話なんだが……」
看護師長を前に隠し事は言い逃れが出来ないという意味で不可能なため話すしか手がないが、何せ普段しなれない話題なので照れ臭さからついリオセスリらしくない回りくどい言い方をしてしまう。まぁ大体こんな話の切り口は大抵話している本人の話だと相場は決まっているのだがせめてもの足掻きだ。
「その知り合いが恋人持ちの相手に迫ったらしいんだ」
シグウィンの驚く顔を見て、言い方を間違えたなと冷や汗をかく。普段のリオセスリならもっと上手く話せていたはずなのに緊張からか言葉が出てこない。そんなリオセスリをシグウィンはお見通しなのか急かすことなく静かに話を聞いてくれている。
「ある噂を聞きつけて様子を見にいったんだが、どうも様子がおかしくて殆ど泣き落としみたいに問い詰めたら恋人に酷いことをされてた」
すっかり湯気の出なくなったティーカップの中の紅茶に視線を落とす。
「それがどうしても許せなくて、俺なら絶対大切にするのにって思っちまったんだ」
机の上で握った拳に力が入る。そんなリオセスリを見てシグウィンは眉を下げる。
「公爵はその人のことが大好きなのね」
シグウィンの穏やかな声がじんわりと身に染み渡っていく。
「でも振られちまったんだよな」
リオセスリは自嘲気味に笑って何処か遠くを見つめ冷めた紅茶を飲み干す。
「本当にそうかしら、口下手なあの方の言葉には色んな意味が含まれてることがあるのを公爵も知ってるでしょ?謝罪されたからってそれが拒絶を意味してるとは限らないわ」
シグウィンに彼に何を言われたかを言い当てられた事に瞠目とする。
確かにヌヴィレットの言葉が本人の意図していない伝わり方をするという局面にこれまでに何度か遭遇してきたが、自分の事となるとどうにも臆病になってしまう。 リオセスリが考え込み黙りこくっていると、シグウィンが勝ち気な表情で笑った。
「欲しいものは必ず手に入れるくらいの野心を持ってて貰わないと公爵の名が廃るんじゃないかしら?」
煽るようなシグウィンの言葉に消沈してしまいそうだった心の炎が再びごうごうと燃え上がる。
「あの人に賜った称号に泥を塗る訳にもいかないしな」
リオセスリはいつもの調子に戻り、口の端を吊り上げて笑った。
紅茶を淹れ直そうとティーポットに手を伸ばしたところでドアを控えめにノックされた。
「公爵様、今お時間よろしいでしょうか」
どうぞ、と中から答えるとおずおずとした様子でメリュジーヌが入室してきた。
「あら、セドナさんじゃない!ここに来るなんて珍しいわね」
シグウィンが珍しいものを見るような目で駆け寄る。彼女は確かパレ・メルモニアの受付で勤めているメリュジーヌだったはずだ。セドナは緊張した面持ちで後ろで手を組みながら立っている。
普段ヌヴィレットの近くで働いている彼女がここに来たという事は、彼の身に何かあったという事なのだろう。不安が胸を掠めながらも話を聞くため彼女をソファへ誘導しお茶を出す。
「セドナさん、何かお困りごとでも?」
「実は、ヌヴィレット様とここ数日連絡が取れなくなっているんです。今までパレ・メルモニアを離れてお仕事をされる場合は何かしらの連絡手段でお戻りになる日を伝えてくれるのですが、今回はそれが無いので心配で…」
彼女は不安そうな面持ちで湯気立つ紅茶を見つめている。どうやら嫌な予感が的中してしまったようだ。
「それで俺のところを訪ねて来たってことか」
「はい、公爵様なら何か知ってることがあるかもしれないと思い訪問させていただきました」
「なるほど、だが残念ながら俺もヌヴィレットさんに何も聞いていないんだ」
リオセスリがそう言うと、セドナは「そうですか…」と暗い顔で俯いてしまった。
「だがヌヴィレットさんの行方に一つ心当たりがある。セドナさん、最近越してきた璃月豪商の邸宅の場所を知ってるか?」
「はい、夫妻の家と息子の家の二軒ですよね?その息子がヌヴィレット様の恋人であるということも把握しています」
「あくまで俺の予想なんだがヌヴィレットさんはそいつの家で監禁されているじゃないか」
リオセスリは自分で結論を話しておきながら背筋が冷たくなるのを感じた。シグウィンとセドナは驚きで目を見張りながらお互いの手をぎゅっと握り合っている。
「セドナさん、一つ頼みがあるんだが。今から警備隊を数人集めることはできるか?」
「はい、可能だと思いますが。まさか今から乗り込む気ですか?」
「ウチは賛成よ。善は急げって言うものね」
不安そうな顔をしているセドナをシグウィンが宥める。
「ああ。それに今この瞬間もヌヴィレットさんが辛い目にあってると思うと怒りでどうにかなっちまいそうだ」
沸々と込み上げる激情にリオセスリは拳を強く握る。
「分かりました、では早速警備隊に知らせてきます。ヌヴィレット様をどうかよろしくお願いします」
そう言うとセドナは深くお辞儀をし、執務室を急足で出ていった。
その後ろ姿を見送り、リオセスリは拘束用の手錠を懐に忍ばせグローブをはめ直し、その手に馴染ませるように二、三回掌を強く開閉した。
「悪い、看護師長。後片付けをお願いしていいか」
「勿論、任せておいて!」
「すまない。」
準備を終え、執務室の扉に手をかけたところで後ろから声が飛んできた。
「公爵、殺しちゃダメよ」
後ろを振り向くとシグウィンが複雑そうな顔をして立っていた。しかし声音は本気で止めようとはしていなかった。メリュジーヌを大切に思ってくれているヌヴィレットが傷つけられていることについて思うところがあるのだろう。
「わかってるさ」
リオセスリは薄笑いを浮かべながら執務室をでて集合場所に向かった。
殺してしまうよりメロピデ要塞にぶち込んでしまった方がいいだろう。死なせてしまうと優しいあの人に心を砕かせてしまう事になるし、何より自分の支配下に置けるのだから。