お別れが近いファンシーラット👂殿と、猫の👀殿。 その日はよく覚えている。
野良猫のサダムネはうちで飼うようになってから一日たりとも室内パトロールを欠かさなかったのに、その日はスケフサの傍を最後まで離れなかった。窓際に敷かれた座布団の上で日向ぼっこをしながら、ほとんど眠っているようなスケフサを抱き込んで、時折話しかけるように鳴いてはスケフサの毛繕いをしていた。
自由にうちの中を行き来できるショウカンも、その日はサダムネとスケフサがいるリビングには近付かず、私の寝室で静かにしていた。
動物は不思議だ。彼らは人間に感じ取れない何かを本能的に理解しているように思えるときがある。
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ガラス越しに日光を浴びると、貞宗殿の目玉がビー玉のように透けて見える。光の加減によって色の濃淡が変わる貞宗殿の大きな目が、俺は一等好きだ。吸い込まれそうなその眼球に底知れぬ恐怖を感じて、より美しさを際立たせる。俺の目が色を識別できていれば、本当に吸い込まれてしまったかもしれない。
我々の飼い主を除いて、年長者の貞宗殿はこの家の家長のような立場にある。各部屋に貞宗殿専用の座布団が置いてあって、部屋にしばらく居座っては別の部屋に移動するを繰り返し、部屋の様子を見て回っているのだ。真面目なお方だと褒め称せば、「縄張りを巡回する猫の性分なだけだ」と貞宗殿は笑った。
そんなお方だが、何故だか今日は朝からこの窓際を離れない。在宅している飼い主が俺を巣箱から出して窓際に寝かせたときから、貞宗殿はずっと俺のそばにいた。
猫の柔らかな毛並みと体温がいつでも俺の体のどこかに触れていて、俺の耳にきちんと拾える大きさで吐息と心音がずっと聞こえている。目を無理くりこじ開ければ、あの美しい目が俺を見る。
時折、貞宗殿が俺の体を櫛のような舌で舐めて毛を梳かす。少々乱暴な力加減だが、夢と現実の境目にいるような今の俺が目覚めるにはちょうど良い。それなのに体の感覚がぼんやりとしているのは、まだ夢の中にいるからなのか。
贅沢な時間だ。俺の眠気さえなければ。先程から俺の意識は浮いたり沈んだりしていて、どれだけの時が経ったのかさえよくわからない。嗚呼、勿体ない。今日は俺が貞宗殿を独り占めしているのに。いけ好かない蛇の兄弟や、煩わしいデカブツの犬でもなく、俺のそばにいるのに。眠くて眠くて、目を開けるのも指先を動かすのも億劫だ。
「市河殿」
貞宗殿の声がする。低くてよく響くこの声も俺は好きだ。
はい。なんでしょうか、貞宗殿。
「今日は天気が良くて良かったな」
まぶたで遮られていても日光の明るさや温度はわかる。
暖かくて心地よいですね。今日はきっと、雲ひとつない晴天なのでしょう。
「…心地よいな」
ええ。ここに貞宗殿がいらっしゃるので尚更ですよ。
俺、ちゃんと返事できてるかな? 呂律が回らないんじゃあ格好が付かない。
貞宗殿は言葉を返す代わりに俺の背を舐めた。あっ、ちょっ、逆毛にしないでってば、うふ、くすぐったいよ!
お返しに貞宗殿の毛並みも整えて差し上げたいのだが、生憎と眠くて体のどこにも力が入らない。せめてお礼は言わなくては。
貞宗殿。
「うん」
ありがとうございます。
「ああ。儂も、そちには感謝している」
本当に? 嬉しい! まあ、俺だって毛繕いは上手いですから。上手いから、蛇の兄弟にもデカブツ犬にもやってやらんのです。ふふん。貞宗殿にだけ特別ですよ。
……ああ、でも、もう起きていられないな。眠気に抗えなくなってきた。さすがに欠伸も出ようというものだ。こうなっては仕方がない、少し眠ってしまおう。
起きたら毛繕いして差し上げますからね。
「…よく休まれよ、市河殿」
おやすみなさい、貞宗殿。
◆
チャ、チャ、と爪が床板に当たる音がする。瘴奸が居間に入ってきたようだ。今日はずっと飼い主殿の寝室にいた。普段より極力足音を立てないようにと気を使っているのがわかる。耳だけをそちらに向けていると、足音は儂のすぐ背中側で止まった。
「大殿、市河殿は」
「眠った。つい先程な」
寝そべる儂の腹の毛に埋もれるようにして市河殿が横たわっている。眠ってはいるが、寝息は聞こえない。
死のにおい、というものは一度経験すれば覚えてしまうものだ。この家に来る前、野良猫だった儂には、死は身近なものだった。保健所から引き取られたという瘴奸の詳しい過去は知らないが、身体中に残る傷跡から察するものは少なくない。
嗅ぎ分けてしまったにおいはもう拭えない。
市河殿は鼠だ。愛玩用に増やされた種であり、安全な人間の飼育下にいるとはいえ、寿命は数年。猫の儂や大型犬の瘴奸、蛇の赤沢兄弟とは比べ物にならないほど短い。儂より後にこの家に迎えられたはずの市河殿がいの一番に家を離れることは誰にでも予想できたはずだった。
平穏な日々の中にいて忘れかけていたにおいは、爪も牙も研がずに腑抜けた儂をすっかり打ちのめしてしまったらしい。徐々に冷たくなる小さな体からどうしても離れられない。未練がましく、老化で荒れた毛をもう一度舐める。舌先に触れる温かい体温が既に懐かしかった。
我らには爪も牙も要らぬと小さな体で儂に教えたのは他ならぬそちだったろうに、今では立ち上がるための強い爪が、笑い飛ばせる鋭い牙がこんなにも恋しい。
近付いて来た瘴奸が、労うように儂の体に大きな顔を擦り付けた。そのまま市河殿の体を鼻先でそっとつつく。揺り動かされても市河殿は目覚めない。
「飼い主殿を呼んで参りましょうか」
「そうしてくれ」
いつまでもここに寝そべっているわけにもいかん。沈みかけた日はもうこの部屋を温めてはくれぬのだ。
「大殿」
「なんだ?」
「ご立派でした」
「…そうだな」
旅立つそちの傍に、立派に取り繕えた儂がいる。そうであったなら格好がついたものよ、市河殿。