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    奥原氏物語 2

    月と小鳥 鶺鴒が領主邸にやってきてから四度目の春。十四になった月の君は元服し、奥原月衡おくわらのかつひらの名を授かり、正式に四代目領主となった。
    鶺鴒も侍女としての生活がすっかり板についた。基本的に全ての仕事は、他の侍女達と分担しあって行っていたが、ただ一人、どの侍女も寄り付きたがらない人物がいた。そのため、その人物の身の回りの世話が鶺鴒の主な仕事になっていた。鶺鴒はその日も、いつものようにその人物の部屋へ洗濯物を届けに行った。
    宵衡よいひらさま。洗濯物をお持ち致しました。」
    部屋の前で鶺鴒が言うと、中で衣擦れの音がして、その人物は軽く咳き込みながら言った。
    「……鶺鴒か。入れ。」
    鶺鴒は頭を低くしながら襖を開けて中に入った。その人物、領主の長子で月衡の腹違いの兄である宵衡よいひらは、薄暗い部屋の隅にある褥の中で書を読んでいた。月衡より九つ年上の宵衡は生まれつき身体が弱く、いつも部屋に篭もりきりだった。領主邸の中で宵衡は忌み者として遠ざけられていたため、その身の回りの世話をする鶺鴒も鶯姫おうひめに気に入られてはいるものの、近頃は少しばかり遠巻きにされることが多かった。
    宵衡は艶のある長い黒髪を耳にかけながら鶺鴒に尋ねた。
    吟千代ぎんちよはどうしている。」
    「ご息災にございます。ただ、同じ年頃の方々とは反りが合わぬご様子で、月衡さまと共にいらっしゃることが多いようにございます。」
    「そうか…」
    宵衡は心做しか表情に影を落とした。吟千代は宵衡の一人息子で今年で七つになる。しかし、宵衡の病気が移ってはいけないと、生まれた時から宵衡とは離れて生活しており、二人は親子であるにも関わらず、一度も相見えたことがなかった。
    「直接お会いになってみては?」
    鶺鴒がそう言うと、宵衡はフッと小さく鼻で笑った。
    「私のような忌み者が会うことは許されぬ。ただでさえ私のせいで他の者たちと上手くいっておらぬのであろう?…鶺鴒、お前もだ。私にかように近付けば、お前も忌み者になってしまうぞ。時雨しぐれかたのように。」
    宵衡は皮肉るように、それでいてどこか寂しげにそう言った。時雨の方は、宵衡の妻で吟千代の母である人物だった。皆が宵衡を忌み者と避ける中、時雨の方だけは宵衡に対して分け隔てなく接していた。宵衡の元服と共に二人は半ば強引に婚姻を結ばされたが、夫婦はとても仲が良かった。宵衡は、女好きで遊び人の父・吟衡うたひらをよく思っていなかったこともあり、一生時雨の方一人を大切にしようと思っていた。しかし時雨の方は、鶺鴒が領主邸にやってくる少し前に流行病で亡くなってしまった。それを宵衡は忌み者である自分と共にいたせいだと責任を感じていたのだった。再び書に目を落とす宵衡に鶺鴒は淡々と述べた。
    「私が仮に忌み者となり病に事切れたとしても、何も問題ございませぬ。」
    鶺鴒のその言葉は皮肉でもなんでもない純粋な気持ちだった。鶺鴒は分をわきまえて発言を慎みつつも、口にすることに偽りや表裏は無い。宵衡は鶺鴒といると、張り詰めた心が少しだけ楽になるのだった。宵衡は困ったように微笑んで言った。
    「かようなことを申すな。お前が往ねば私はつらい。それに誰より、月衡様が酷くお心を傷められよう。」
    「あのお方が?」
    宵衡の言葉に鶺鴒は些か驚いたように、伏せていた顔を上げた。
    「あの方も何度止めてもよく私の部屋にいらっしゃる。そしてよくお前の話をなさるのだ。大層気に入られているらしいな。」
    宵衡に言われて鶺鴒は困ったように顔を顰めた。
    「確かに月衡様にはたまに仕事の邪……ちょっとしたイタズラをされますが、あのお方は誰にでもあのようにされているでしょう?」
    宵衡はフッと笑って首を横に振った。
    「いいや。あのお方は誰に対してもああやって振る舞われているように見えて、相手はしっかりと選んでおられる。イタズラされるというのは、あのお方が心を許しておられる証だ。」
    「そう…ですか……」
    鶺鴒は呆れた顔をしつつも、その胸の内ではぱっと一輪花が開いていた。


    母屋とは別棟にある宵衡の局を後にして、鶺鴒が侍所へ戻ると、侍女達が何やら忙しなく動き回っていた。何かあったのかと鶺鴒が周りを見回していると上女房かみにょうぼうの一人が通りかかって早口で言った。
    「月衡様がお帰りになられたのよ。お疲れでしょうからすぐ湯浴みとお食事の用意を。」

    鶺鴒は渡り廊下に出て屋敷の門前に目をやった。そこでは長旅の疲れが滲む一行が、出迎えの人々から労いの言葉をかけられているところだった。月衡は元服と領主に即位したことに際し、隣国の領主へ挨拶に出かけていたのだった。月衡は父の吟衡と言葉を交わしながら、ここまで運んでくれた馬を労るように背をさすってやっていた。ふと、鶺鴒はその隣に見かけない人物がいることに気付いた。背丈は月衡の頭が胸の前にくるほどで、見たこともない明るい茅色の髪を緩く結い上げている。柔和な印象を受ける表情で、吟衡に声をかけられるとその人物は、着物の両袖を顔の前で合わせて深々と礼をした。外見や所作からして少なくともこの辺りの人間ではない。見慣れぬ容姿のせいで年齢が想像しにくいが、恐らく二十八、九か三十路といったところだろう。
    鶺鴒があれこれ考えを巡らせていると、上女房がやってきて、怠けていないで湯を沸かせと軽く叱責された。


    騒がしい一日の終わり。鶺鴒は部屋の外の縁側に腰を下ろして素足をぶらぶらと揺らしながら、月を見上げていた。春の夜は、仄かな花の香りを纏ったそよ風がなめらかに肌を滑る感触が心地好いが、一方でどこか胸がそわそわとして落ち着かないものだ。それに鶺鴒は夜になると、どうしても四年前のあの出来事が頭をよぎるのだった。あの異形のものは一体なんだったのか。事件のあと、屋敷に仕える武士達によって裏山の捜索が行われたが、その足跡一つすら見つかることはなかった。幻だったのではないかと言いたいところだが、鶺鴒の顔の左側に残ったおぞましい爪痕が、その存在が確かであることを物語っていた。
    赤銅色の瞳に映った月が突如として真っ暗な闇に覆い尽くされた。鶺鴒の両肩が小さくはねた。しかしすぐに、よく知るその気配を察すると、鶺鴒は呆れたようにため息をついて言った。
    「月衡さま…驚かせないで下さい…」
    闇が消えると赤銅に二つの月が映りこんだ。
    「驚いたか?そいつは良かった」
    鶺鴒の隣に腰を下ろした月衡は、白い歯を見せて嬉しそうに笑みを浮かべていた。
    「出羽国はいかがでございましたか?」
    「実にいい所だった。作物は豊富で海も美しい。山を隔てるだけであれほどまで違うものかと驚いたぞ。」
    月衡は楽しそうに出羽での出来事を語った。そんな月衡を鶺鴒は横目で見つめながら、たまにくすりと笑ったりして話を聞いていた。
    「…ところで、お帰りになられた際に初見の男を見かけましたが…」
    鶺鴒が尋ねると月衡は思い出したように瞬きをして言った。
    「おお、あやつか。あやつは忠蘭ちゅうらんといってな、出羽国で海岸に行った際に浜辺に打ち上げられて気を失っておったのだ。おそらく西方の地からやってきたのだろう。出羽の領主が処分に困っておられた故、私が引き取ったのだ。言葉は拙いがよくものを知っていて、なんと仙術が使えるのだ!」
    にこにこしながらそう言う月衡に、鶺鴒は眉間に皺を寄せて呆れ顔で言った。
    「…奥方様といい貴方様といい、そのように軽率に人を拾われるのはあまりよろしくないかと存じます。」
    しかし月衡はカラカラと笑って言った。
    「堅いこと申すな!やつにも身寄りがないのだ。程々に仲良くしてやってくれ。」
    「承知致しました。」
    鶺鴒はやれやれというふうにため息をついて言った。
    「お前はどうだった?」
    突然月衡が鶺鴒に顔をぐいと近付けてその瞳を覗き込んできた。鶺鴒は些か後ろに引きつつ尋ねた。
    「…どう、と仰られると?」
    「私がいない間、どう過ごしていた?」
    「どうって…別段変わったことはありませぬ。いつも通りでございます。」
    「私がいなくて寂しかったか?」
    月衡は口元に笑みを浮かべたまま首を傾げた。
    もう十四になるというのにこの御方は…未だにこうやって甘えようとしてくるのは何なのか。まさか他でもこんな仕草をしているのではなかろうか。それは成人男性としてどうなのだ。自分にされる分には構わないが……
    「……」
    「おい、何とか申せ。」
    鶺鴒はハッと我に返ると、首を激しく横に振って先程までの雑念を振り払った。月衡はそんな鶺鴒を見て、今度は本当に分からないといった表情で首を傾げた。鶺鴒はぼさぼさになった髪を整えながら息を吐いて言った。
    「いつもうる…賑やかな方がいらっしゃらなかったので、屋敷が少々寂しかったかもしれませぬ。」
    「私はお前に会いたかったぞ。」
    ご冗談を、喉まで出かかったその言葉は、鶺鴒の予想に反して真剣な月衡の眼差しに遮られた。柔らかい表情なのにどこか熱をはらんだその力強い眼差し。四年前のあの夜から向けられるこの表情に、鶺鴒は最初こそただ動揺していたものの、近頃はその熱が移ったように目の下と耳のあたりが熱くなって、自分の胸の鼓動が聞こえるほど周囲が静まり返ったような感覚になって、言葉が出てこなくなるのだった。しかし鶺鴒は己の気持ちに気付かないほど鈍感な人間ではない。鶺鴒は縁側に放り出していた足をしまって、月衡から距離を取りながら正座すると、深々と頭を下げて言った。
    「……もう夜も更けてまいりました。私は休ませて頂きます。」
    「…そうか。風邪を引かぬようにな。」
    月衡は柔らかく微笑んで言った。鶺鴒は再び心の臓を握り潰されるような感覚を押し殺して、自室へ戻っていった。自室の御簾を勢いよく下ろすと鶺鴒は、徐々に力が抜けるようにその場に座り込んだ。四年前も今も変わらず、天と地ほどもある身分の差が、それにもかかわらず月衡がかけてくる言葉の一つ一つが、身の程をわきまえずそれを求めてしまう自分自身が、絶えず鶺鴒を苦しめ続けるのだった。
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