立つ鳥跡を濁さず 上「仕事の関係で暫く留守にさせて頂きます。ゴメンなさい!」
そう言って美鶴が出かけて行ってから二週間が経った。
美鶴が鍜冶屋敷に住むようになって約三月が過ぎ、季節は秋真っ只中。この里の秋は短く、夏が終わったと思えば瞬く間に、深夜早朝は一桁の気温になる日々がやってくる。つかの間の天国に、虫の音や紅葉、秋の味覚を楽しむのがこの里の暮らしだ。
鍜冶屋敷のある山も秋には豊富な食材に恵まれ、鷹山達の食卓もここ最近は彩り豊かだった。いつもは日の沈む頃には床に就く鷹山だったが、この時期だけは月を肴に縁側で晩酌するのが日課になっていた。麓で買ってきた地酒を飲むのも良かったが、美鶴が夏から仕込んでいた梅酒がこれまた絶品で、酒好きの鷹山は密かにかなり気に入っていた。その梅酒と美鶴が作った茗荷の浅漬けをつまみながら眺める月はひときわ美しく思えた。最初の頃は一人で盃を傾けていた鷹山だったが、最近は美鶴を誘って二人で晩酌することが多くなっていた。とはいえ美鶴は恐ろしく酒に弱く、鷹山の酒好きに付き合おうと無理に飲んで、目を離せばすぐに出来上がってしまうので、美鶴が潰れる度に鷹山は介抱するのが大変だった。弱いのに無理に付き合わせるのも悪いかと鷹山は思ったが、晩酌に誘われて嬉しそうににこにこしながら縁側に正座する美鶴の姿を見ていると、今日も介抱してやるかと絆されるのだった。
美鶴がやってくる以前の四年間、鍛冶屋敷で一人で暮らすことは、元々人付き合いの下手な鷹山にとって至って平穏な日々だった。多少退屈を感じることがなかったわけではないが、それ以上に人と関わることの方が遥かに煩わしかった。しかし美鶴がやってきてからの生活は、コミュニケーションに問題を感じることもなく、生活も以前より豊かになり、美鶴のいる暮らしが日常となっていった。そしていつしか鷹山の中で、美鶴の本当の目的は頭の片隅に消えかかっていたのだった。
その日も鷹山はいつものように鍛冶場にいた。知り合いの宮大工から依頼を受けて、寺院の修復に使う和釘を打っていた。いくら刀工と言えど、刀のある生活が日常ではない現代社会においては余程の巨匠でなければ刀づくりだけで生活していくのは難しく、包丁や鋏、釘などのその他鉄製品を多く扱うことが一般的だ。鷹山にとって刀の他に作るのが難しい鉄製品は特に無く、和釘づくりも至って簡単な作業だった。
しかし、どうにも気が散って仕事に身が入らず、鷹山は刀工になってから初めて、昼間に手を止めて鍛冶場を出てきた。この二週間、いつも当たり前のように聞こえてきた(と言っても鷹山は大体集中し過ぎていてほとんど何も聞こえていない)布団を叩く音や洗濯の水音が聞こえない。美鶴は絶対に鷹山の邪魔はしないし、全く騒がしい男ではないが、いないとこんなにも鍜冶屋敷は静かな場所だったかと鷹山は思った。
美鶴はたまに里に出かけることがあったがいつもは必ずその日のうちに帰ってきていた。放っておいても美鶴のことだからそのうち帰ってくるだろうと思っていた鷹山だったが、三日を過ぎた辺りから気になり始め、二週間黙って連絡を待ってみたが美鶴からはなんの音沙汰も無かった。
仕事の関係と言っていたし迷惑かと思っていたが、連絡してみるかと鷹山は屋敷の居間にある置き電話の受話器を手に取った。
そしてふと気付いた。鷹山は美鶴の連絡先を一切知らなかった。それどころか、仕事のどんな用事でどこに出かけて行ったのかも知らない。家具メーカーと言っていたが、何の部署でどんな仕事をしているのか。どうやって日本に滞在しているのか。考えれば考えるほど、知らないことだらけだった。鷹山が美鶴のことで知っていることといえばせいぜい、実家がフィンランドで、会社勤めで、鷹山に大袈裟に惚れ込んでいるということだけだった。何故美鶴は何も話さなかったのか、考えれば明らかだった。それはひとえに鷹山の要求を忠実に守っていたからだ。喋りすぎてはいけない。鷹山に追い出されないように、嫌われないように。
(あいつは俺の味の好みまで知ってるっていうのに、俺はあいつのことを何も知らないんじゃないか…?)
鷹山がそれを自覚した瞬間、胸中で滞っていた何かが一気に押し寄せてきた。鷹山は数秒の間呼吸を忘れ、額を一筋の汗が伝っていくのを感じた。不安、後悔、今まで生きてきて感じたことのない感情だった。美鶴と過ごすようになってから、知らない感情が次々と湧き出るようになって、自分が分からなくなって来ていることを鷹山自身も薄々感じていた。
美鶴は今まで出会ってきた人間とは何か違う。鷹山はそう思わずにはいられなかった。
「………あいつに会わないと」
気付いた時には鷹山は既に鍜冶屋敷を後にしていた。
鍜冶屋敷と里はそんなに距離はない。里へ降りるには二つのルートがあり、おおよそ人が歩く道とは思えないような道と、おおよそ車が通れるとは思えないような道がある。鷹山が里へ降りるときは大体屋敷の裏に停めてある軽トラを使って、一応車道を通っていた。美鶴が屋敷へ初めてやってきた時は歩いて登ってきたらしいが、蓮橋とは違って美鶴は汗ひとつかいておらず息も上がっていなかった。
里に降りると鷹山はある商店の脇に車を停め、中に入った。中では鷹山と同じくらいの歳の小太りの男が椅子に寄りかかって紙タバコを吸い、新聞を読みながら店番をしていた。男は鷹山の顔を見るなりかけている太い黒縁の眼鏡と同じくらい目を丸くした。
「まんずたまげだ!正月でもねえのに仙人サマが山から降りてきてら!なじょした?(どうした?)人界が恋しくなったが?」
鷹山の二十年来の幼なじみであるその男・及川寬久(おいかわ ひろひさ)は新聞をおいてカウンターに頬杖をついた。鷹山は久々にやってきた店内を見渡しながら寛久に尋ねた。
「寬久、俺の目線ぐらいの背の、細身の外人みたいなやつを見でないか?」
すると寛久は驚いてカウンターから身を乗り出した。
「えっ!ヨウあの人のごど知ってんの?山がら降りで来ねえのに?」
「鍜冶屋敷で一緒に住んでる。」
寛久は鷹山の言葉にさらに驚いて詰め寄った。
「えええ!?!?いづがら!?」
「三ヶ月くらい前。」
「呼んでけでや〜!あんなべっぴんさん独り占めしでだってか!え、え、どーゆー関係よ?」
寛久に言われて、鷹山は言葉に詰まった。鷹山と美鶴の関係。「知り合い」というには共に時間を過ごしすぎている。しかし「友人」ではない。美鶴は鷹山を恋愛対象として見ているし、鷹山も正直友達というものがなんなのかよく分からずにいる。「婚約者」この言葉にも鷹山は違和感を覚えた。美鶴にとってはそうかもしれないが、鷹山は美鶴と婚約した記憶が全く無い。そんな状態で「婚約者」を語っていいとは思えない。
「……知らん。」
鷹山はそう答えるしかなかった。案の定寛久は首を傾げた。
「はあ?」
何か言いたげな寛久を無視して鷹山は問い掛けた。
「…で、そいつどごさいる?」
「ん?なんだら、一緒に住んでらのに知らねのが?」
「いいがら早ぐ言え。」
「俺だって知らねぇよぉ。うちもご贔屓にしで貰ってたんだけんど、最近来ねぐなってしまってさぁ。」
「……」
「でも俺らと同い年であの大企業の本社の企画チームリーダーだべ?相当忙しんでねか?」
「…何て会社だ。」
「あ?」
「…何て名前だ。会社。」
「は…おめ、そんなごども知らねってか!?三ヶ月ひとつ屋根の下で?!」
「…今はどうでもいいべ。早ぐ言え。」
「なんだらやぁ……ほら、EKIA!フィンランドに本社がある家具メーカー!どうせお前のこどだから、聞ぐの忘れでたんだべ?」
「……」
図星である。
「んで、どした?あの人まさか家にも帰っでねえのが?」
「ああ…」
「連絡は?」
「番号知らん。」
「LINEも?」
「俺携帯持っでないの知ってるべ。」
寛久は、同居人としても現代人としても明らかにズレている鷹山の現状に絶句し、まるで深夜に路上で寝そべる酔っ払いを見るかのような目で鷹山を見た。
「ありえねぇ…!!!お前まじでありえねぇ!!!」
「せづね。(うるさい)」
同年代で唯一心を許す寛久にまでそう言われ、鷹山はますますバツが悪くなった。
「でもまんず、お前が鳶翔さん以外の人と普通に一緒に住んで、いなぐなっだらこんたに心配してんの初めてでねぇが?」
「……」
「んだば、俺もお前のために一肌脱いでやるが!あべ!(行こう)」
寛久は立ち上がると、椅子にかけていたウインドブレーカーを羽織って、ポケットから車の鍵を取り出した。
「…どさ(どこに)」
鷹山が怪訝そうに尋ねると、寛久はまん丸の頬を持ち上げてニッと笑って言った。
「隣町のEKIA!」
二人は寛久のミニバンに乗り込んで、隣町へ向けて出発した。