立つ鳥跡を濁さず 下隣町に向かう車の中で寛久がおもむろに口を開いた。
「そういえばよ、あの人十年前に一回里に来だごどあったよな。」
「?…十六年前でなぐか?」
初めて聞く数字に鷹山は驚き寛久を見た。寛久は前を向いたまま話を続けた。
「んでね、十年前よ。俺ら中学ん時、学校さ来でそりゃもうすんげぇ騒ぎだったっちゃ!あの人綺麗な顔してるべ?もう女子も男子も先生達まで釘付けよ!あんな人この里だば絶対会えないべ?」
寛久に言われても、やはり鷹山は一切記憶に無かった。
「そんなごどあったが…?」
「なんだ?おめ、覚えでねのけ?あの人おめのとごさ来てなんか話してだっけじゃ。」
「そう…だったが……?」
鷹山は思い出そうと思考を巡らせたが、何の心当たりもなく、何一つ朧気にすらも思い出せなかった。鷹山は幼い頃からたまにこうやって、言われたことに対して一切記憶が無いことがあった。ずっとただ自分の物忘れが激しいだけだと思っていたが、美鶴と出会ってからは美鶴に関する記憶が皆無であることに、さすがの鷹山でも違和感を持っていた。それはまるで「記憶を切り取られた」かのようだった。
「お!着いたぞ!」
そうこうしているうちに、鷹山達を乗せたミニバンは隣町のEKIAに辿り着いた。
そこは国道沿いにある比較的大きめの新しい店舗だった。鷹山達が住む里は県内有数の観光名所ではあったが、大きな町というわけではなく、買い物をするには隣町まで行くことが多かった。県内のEKIAは隣町の他には県庁所在地にしかない。里から県庁所在地までは車で三時間といったところだ。
「住良木さんですね!よくいらしてましたよ!」
寛久が声をかけた小柄の女性店員はポニーテールを揺らしながら元気よく答えた。
「どこにいるか知りませんか?こいつスメラギさんの大家なんだけど、二週間くらい帰ってないみたいで。」
「うーん…ちょっと分がらないですね…すみません。」
「そうですか…」
「ああでも、住良木さんの電話番号教えて頂いてるので連絡してみましょうか?」
「ほんとですか!助かります!」
「……」
そう言って携帯を取り出して番号を打ち始めた女性店員を見ながら、鷹山の中で暗く重たい感情が渦巻いた。自分は会社名すら知らなかったのに、何故この女は電話番号まで知っているんだ。しかし、それはただ鷹山が美鶴に聞かなかったからで、自分は美鶴がいるのが当たり前になっていて、美鶴の恋心に甘えて、相手のことを何も知らないことに気付きもしなかったからだと分かっているから、鷹山は余計に自分が情けなく思えた。しかしその携帯越しに会話が始まることはなかった。
「…繋がらないです。」
「そうですか…。お忙しいところすいません、ありがとうございます。」
「いえいえ、こちらこそお役に立てずすみません。」
女性店員はペコペコと何回もポニーテールを振ってお辞儀をした。鷹山と寛久が店員に礼を言って帰ろうとした時、女性店員は「あ!」と思い出したように言って二人を引き止めた。
「そういえば住良木さん少し前に、そろそろフィンランドの本社に戻らなきゃいけないって仰ってたから、もしかしたらもう帰国されたのかもしれません。」
女性店員の言葉に鷹山と寛久は狐につままれたような顔になった。
「えっ」
「帰国?」
「はい。なんでも、今進行中のプロジェクトでどうしてもリモートワークじゃ進めなくて社長に呼ばれたとか…。」
「ちなみに、いづ戻ってくるとかは…」
「ん〜…特におっしゃってながったですね。」
まじかよ、と寛久は残念そうに項垂れた。その横で鷹山は驚きと失意のあまり、目を見開いたまま女性店員の足元あたりを見つめていた。
(帰国…?もう戻らないのか?…俺に何も言わずに……)
「あべ、ヨウ。」
「……」
女性店員に再び礼を言って二人は店を後にした。
及川商店に戻ってきて寛久と別れてから、鷹山は鍜冶屋敷に向けて車を走らせていた。その間も鷹山の頭の中は美鶴のことで埋め尽くされていた。美鶴が自分に何も言わずにいなくなるわけがない。そう思えば思うほど現実が鷹山を責め立てた。
(俺があいつの気持ちに応えないから愛想をつかしたのか…?)
『ようちゃん』
鷹山の脳裏に美鶴の花のような笑顔がよぎる。あの笑顔がもう自分に向けられないことを鷹山は想像できなかった。鷹山の中に次々と感じたことのない感情が湧き出る。美鶴を引き止めるためにはどうすれば良かったのか。結婚を受け入れれば良かったのか、好きでもないのに恋人になれば良かったのか。
(好きでもないのに…?)
鷹山は美鶴に対する気持ちを自分に問いかけた。しかし、二十余年の人生で他人にほとんど興味を持ったことのない鷹山には、自分の気持ちを判断することが出来なかった。ただただ感じたことのない暗く重い感情だけが鷹山を支配していた。
そうしているうちに鷹山の軽トラックは鍜冶屋敷に到着した。エンジンを切ってバックギアを入れたあと、鷹山はため息をついて窓の外を見た。すると鷹山は屋敷の横にもう一台車があることに気付いた。それは美鶴が屋敷に居候を初めてから買った車だった。鷹山は急いで車から降りて屋敷の中に向かった。玄関に入ると台所から包丁の音が響いてきた。二週間ぶりのその音に、先程まで鷹山の中に渦巻いていた暗く重い感情がすっと溶けだした。
台所に行くと期待通りの姿がそこにあった。美鶴は鷹山に気付くと目を輝かせて振り返った。
「ようちゃんおかえりなさい!今日は町に行かれてたんですね!」
美鶴は満面の笑みを咲かせて言った。台所の机に目をやると、南瓜のいとこ煮、舞茸の天ぷら、里芋の柚子味噌煮、秋刀魚の塩焼き、カツオの刺身、栗ご飯…食べ切れないほどの料理で溢れていた。
「二週間空いたので出かける前にまだ熟してなかった果物や野菜がいい感じに熟れてたんですよ!熊さんや鹿さんに食べられていなくて良かったです!あと、帰ってくる前にりんご買ってきたんです!真っ赤でとても美味しそうで、二つ買ったらおまけで三つもサービスして頂いて…あ、すみません…」
声を弾ませて話していた美鶴だったが、はっと気付いて喋りすぎたと口を噤んだ。
「久々にようちゃんに会えて、嬉しくて…」
そう言って美鶴は照れて頬に手をあてて、恥ずかしそうにはにかんだ。鷹山は胸のあたりに何か熱いものが込み上げて来るような感覚がした。
「……美鶴。」
「…えっ…ようちゃん、今僕の名前……」
鷹山は無意識に美鶴の頭の後ろに右手を添えて自分の胸に抱き寄せていた。
「……」
「えっ……あ、あの、よう…ちゃん…?」
美鶴の顔は美鶴が買ってきた熟れたりんごのように真っ赤になった。
「よ、ようちゃんっ…ぼく、今包丁持ってるので、あの、そのっ……」
驚いて離れようとしながら、あたふたと喋る美鶴をもう一度抱き寄せて鷹山は口を開いた。
「……電話番号、教えろ。」
「えっ…」
「好物とか、趣味とか、仕事のこととか、もっと色々話せ。お前なら少しくらいうるさくても気にならないから。」
鷹山がそう言うと、美鶴は急に黙り込んだ。
「………」
「…どうした……泣いてるのか?」
鷹山が美鶴の顔を覗き込むと、真っ赤になった頬に雫が伝っているのが見えた。美鶴は美しいその目を丸くして驚いた表情だった。瞬きをする度に長いまつ毛が流れ出す粒を弾いた。
「…いえ、ちょっと、びっくりして……ようちゃんが、そんなこと言ってくれるなんて…う、嬉しくて…ぼく……」
「…」
「どうしよう、僕、すごく嬉しいです……」
そう言って美鶴は俯いて、とめどなく溢れるのを拭った。こんな小さなことで泣くほど喜ぶ美鶴を、鷹山はどうしようもなく両腕で抱きしめたくなった。
「えっ、僕が出て行ったと思ってたんですか?」
「……」
先程台所に広がっていた大量の料理を食卓に並べ、二人は夕飯を食べていた。質問を否定せずに黙りこくっている鷹山を見て、美鶴はくすくすと笑った。
「僕はようちゃんに出て行けと言われない限り出て行きませんよ。」
「…そうか。」
安心した様子で栗ご飯を口に運ぶ鷹山を可愛らしいと思い、悶えそうになるのを耐えながら美鶴は続けた。
「っ………仕事のこともありましたけど、ビザの関係で一時帰国してたんです。」
「三ヶ月だけのビザだったのか?」
「はい。もしかしたらようちゃんにここに居ることを許可して貰えないかもしれないと思っていたので、あまりちゃんとしたビザ取ってなかったんです。実際ようちゃん、僕のこと忘れてたでしょう?十年前に会った時も忘れてましたし、今回もそうかな〜って思って。」
「……」
十年前。美鶴からその数字を聞いて、今日寛久から聞いたことが本当にあったことなのだと鷹山は確信した。しかし、やはり鷹山はさっぱり覚えていなかった。
「でも、ようちゃんも僕のことを邪魔だとは思っていないようだったし、もう少し居てもいいかなって!」
微笑む美鶴に鷹山は言った。
「お前に出ていかれたら困る。」
「えっ…(トゥンク)」
「飯が食えない。」
「だと思いました!!」
悔しげな表情を浮かべつつ、でも胃袋掴んだなら進歩と言って美鶴は笑った。嬉しそうな美鶴を見つめながら、鷹山は確かに早まる心臓の鼓動と、何とも言えないその熱さに、自分の気持ちをはっきりと自覚しつつあった。