鳶と鷹 某年八月。夏休みの間鍜冶屋敷で過ごした美鶴が帰って行き、美鶴と会う以前に比べ気を取り直して元気になったように見えた鷹山は、再び寂しそうにしていることが多くなった。しかし、鳶翔が寂しいかと尋ねると、鷹山は頑なに、寂しくないと言って強がっていた。
それから五年後のある日。鍛冶場で道具の手入れをしていた鳶翔に、学校から帰ってきた鷹山は傍らに腰を下ろしておもむろに口を開いた。
「…師匠、俺は本当に花雫なのか?」
鷹山の問いかけに、鳶翔は首を傾げて言った。
「何言ってんだァお前、そりゃお前の母ちゃんが花雫で、父ちゃんは婿入りしたんだから、お前は花雫だろうよ。」
「…本当にそうなのか?」
「どうした。特殊な反抗期か?」
「だって、俺には父親も母親もいない。」
「そら五年前に逝っちまったからな。」
「だから、なんなんだそれ。みんなそう言うけど、俺には最初から父親も母親もいなかった。」
鳶翔は作業の手を止めて鷹山を見た。鷹山は想像以上に深刻そうな表情で俯いていた。
「……暑さでやられちまったのか?」
「今冬だ。」
鳶翔は手に持っていた道具を置いて、鷹山に向き直って言った。
「何言ってんだ鷹山、お前にはバカな父ちゃんとバカな母ちゃんがいただろ。」
「俺は何も記憶にない。」
鷹山の言葉に鳶翔は目を見開いた。鳶翔はこの光景にどこか覚えがある気がした。
「花雫のじいさんもばあさんも、本当に俺のじいさんばあさん達なのか?」
そう言った鷹山の肩を掴んで、鳶翔は鷹山の目を見て言った。
「な、何言ってんだ。お前はそんな冗談を言うような奴じゃあねぇだろ。」
鷹山は真っ直ぐ鳶翔を見つめ返して言った。
「俺は冗談を言ってるつもりは微塵も無い。……師匠、俺は一体どこから来たんだ?」
ふとその瞬間、鳶翔の脳裏に過去の記憶が過ぎった。駅で清鳳を待ち続け、結局清鳳は現れなかった日。あの時は清鳳が来なかったことにどうしようもなく傷付いて、深く考えることができなかったが、時が経ってから薄々感じていた違和感。最後に電話をかけた時、鳶蔵を知らないと言った清鳳の、至って普通の、全く後ろめたい気持ちの無い純粋に疑問を持った声色。
鳶翔は目を見開いたまま、おもむろに口を開いた。
「本当に何も覚えてねぇのか…?鷹山」
「ああ。何も知らない。」
鷹山の言葉に嘘偽りは無かった。鳶翔は言葉を失ったままどうすることも出来なかった。三十年後再会した時、清鳳は鳶翔のことを覚えていたようだった。時が経てば思い出すのだろうか。そもそも、いきなり特定の物事だけの記憶を失うなんてことが有り得るのだろうか。何かの病気なのか、それとも別の何かなのか。首を傾げる鷹山の肩を押さえて俯いたまま、鳶翔は言葉を失っていた。鳶翔の中に、理由の分からない違和感だけが募っていった。
静かに雪の振る夜、花雫家の一室では、布団に横たわる清鳳の傍らに、神妙な顔つきの雲雀と夕依の両親、母に抱かれた幼い夕依、そして鷹山と鳶翔がいた。
「……雲雀。」
自分を呼んだ清鳳の手を握って雲雀が言った。
「はい、ここにおりますよ。あなた。」
雲雀は清鳳を見て微笑んだ。清鳳は薄らと開いた目を天井に向けたまま力無く喋った。
「皆を連れて部屋を出てくれ…鳶翔と二人で話がしたい。」
「………分かりました。」
雲雀は鳶翔以外の皆と共に部屋を出た。鳶翔は皆が出ていったのを見てから、清鳳の横に腰を下ろして言った。
「案外早かったな、お前の往生は。お前はあと十年は生きると思ってたよ。……どうせ、鷹山をよろしく頼むとか言いてんだろ。そんなことお前に頼まれなくたってそうするさ。あいつは俺の大事な弟子だからな。」
鳶翔はふんと鼻で笑った。清鳳はどこを見つめているのか分からなかったが、微かに笑った気がした。
「……鳶蔵…」
「だからその名前やめろって。」
鳶翔はムッとして清鳳に言った。そして、暫くの沈黙の後、俯いて柔らかい声で言った。
「……今更、謝罪なんて要らねえ。」
そんな鳶翔に、清鳳は心做しか困ったように笑って言った。
「銀座のパフェ、一緒に食べに行けなかったな…お前はもう行ったか…?」
「ああ行ったさ。美味かったな〜、でも俺ぁ浅草のジャンボパフェの方が好きだ。なんたってジャンボだからな。」
「…そうか……」
清鳳は少しばかり寂しそうに、しかし、パフェの話をする鳶翔を見て嬉しそうに呟いた。鳶翔は嘘をついた。本当は銀座のパフェだけは食べに行っていない。東京にいる間に何度か行こうと思ったが、結局行かなかった。
「死の間際だからだろうか、俺は今までの人生の中で初めて自由になった気がするんだ…。」
清鳳の言葉に鳶翔はハッと笑った。
「後は死ぬだけなら何も怖くねえって?」
皮肉るように言う鳶翔に、清鳳は心做しか困ったように笑みを浮かべながら言った。
「お前と、こうして話をしているからかもしれんな……初めて会った時から…俺の心が安らぐのは、お前といる時だけだった……」
清鳳の言葉に、鳶翔は下唇を噛んで滲み出る気持ちを押さえ込んだ。それは自分も同じだったなんて、今更口に出しても虚しいだけだった。黙り込む鳶翔に、清鳳は続けた。
「…鳶蔵、この家には片割れの付喪神がいる…。それは常に俺達花雫の人間を見守っていて、俺達を苦しみから守ろうとしている。」
鳶翔はハッとして清鳳を見、その言葉を繰り返すように言った。
「付喪神の、守護神…?」
「ああ…作り主の思いを受け継いで、はるか昔からこの家を縛(まも)り続けている…だが、一族の苦しみはとうに癒えた。…いや、例え癒えずとも、その苦しみを抱えて生きていかねばならないんだ。人として生きるとは、本来そういうものだ…」
清鳳の話を聞きながら、鳶翔はずっと持っていた違和感を口にせずにはいられなかった。
「…清鳳、それってもしかして、お前や鷹山の記憶が消えたことと何か関係があるのか?」
しかし、清鳳にはもう鳶翔の声は聞こえていないようだった。清鳳は消え入りそうな声で言った。
「頼む…鳶蔵、この家を…子供達を……呪いから解放してやって、く…れ………」
そう言って静かに目を閉じた清鳳の顔はただ眠っているかのように安らかだった。冷たくなった清鳳の手を握り、鳶翔はその手に自分の額を当てて言った。
「……勘弁しろよ。お前はどんだけ、俺を振り回せば気が済むんだ…」
静かに雪の降る夜だった。ストーブがしゅんしゅんとなる音だけが響くその部屋で、ひとひらの雫がその日の雪と同じように静かに落ちた。
それから鳶翔は、清鳳の言葉と自分の経験したことだけを頼りに、花雫家とそれを守る付喪神について、調べさまよい始めた。愛した男の最後の約束を果たすため。そして、たった一人の弟子であり家族である鷹山の幸せを守るため。