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    ユキカ

    おじさん受けが好きです。

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    ユキカ

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    つもる ガタン、と電車の揺れではっと目が覚めた。慌てて窓外を見れば降りる駅で、フィルは乗ってくる乗客を避けるようにして急いで電車から降りた。自分としたことが寝過ごして降り損ねるところだった。
     降りた駅のホームはがらんとしていた。朝の冷たい空気が肌を刺す。フィルは白く煙る息を吐いて、何とはなしに辺りを見回した。たった今電車が出発したばかりのこちらのホームは当然として、反対側のホームも人は少なくやはりがらんとしている。反対側のホームはいわゆる会社の多い駅とは反対方向になるので、より一層寂しい感じがした。
     人が少なくなった終末世界とはこんな感じかもしれないと、ふと思う。映画や漫画でありそうな世界観だ。疫病や戦争などが原因で人類が少なくなった世界で、それでも以前と同じような生活を続けようとする人々の物語。想像するとどこか感傷的な気分になる。
     ようやく朝日が見え始めた時間帯だからか、改札を通る人も少ない。あっという間に冷え始めた手で定期券を取り出すと、フィルはゆっくりと改札に向かった。もちろんこうして早起きしてわざわざ寄り道しているのだから、早く向かいたい気持ちはあるのだが、何となくこの朝の風景に浸かっていたい気持ちもあった。あの人の住んでいる街はこんな朝を迎えているのだと、早起きという概念がすっかり頭から抜け落ちている彼が知らないだろう事実を目に焼き付けたいとも思う。
     改札を通って駅舎から出ると、透き通った朝日が地面に積もった雪を眩いばかりに照らしていた。数駅離れたフィルが住んでいる街でもそうだったが、こちらでも昨夜から降っていた雪が積もったらしい。駅周辺の雪は当然踏まれて汚れていたが、植え込みやベンチなどは白く染まっていた。この辺りで雪が降るのはそう多くないから、少し幻想的な感じがする。その上早朝で人が少なく静かだから、非日常的でもあった。知らない街に降り立ったようで、少しわくわくもする。
     フィルは特に意味もなく深く息を吸い込もうとして、ぐう、と代わりに腹が鳴った。椿の家に行く途中で何か朝食になるものを買っていこうと思っていたから、起きてからまだ何も食べていない。ふと寄り道を思い立って急いで家を出てきたものだから、今まですっかり忘れていた。
     この駅には確かパン屋があったはず、と辺りを見れば、駅舎の隣にパン屋があるのが目に入った。ちょうど、出勤前に朝食を買ったらしいスーツ姿の男性がが店から出てくる。まだ街は眠ったように静かなのに、パン屋の明かりはやわらかながらはっきりとしていて、見た目にも暖かだった。
     店内に入ると、焼き立てのパンの匂いに包まれた。暖房が効いていて暖かいのもあって、なんだか幸せな気持ちになってくる。店内にずらりと並んだパンはどれもおいしそうで、フィルはどれにしようかしばし悩んだ。チーズが入っているものやナッツが入っているものもおいしそうだし、サンドイッチも捨てがたい。結局、食べきれなければ椿の昼食にしてもらおうと、あれこれと買うことにした。椿のために、甘いパンよりも総菜系のパンを多めにしたからきっと大丈夫だろう。
     店を出て、通い慣れた道を歩く。こうやって椿の家に行くようになってどれくらいになったっけ、なんて考えながら、でもこんな風に特に用もなくただ会いたくなったから早朝出向くなんてことは初めてだからきっと驚くだろうと思うと、寝ているであろう椿には悪いがうきうきした。早く会いたいし、一緒に朝ご飯食べたいな、と呑気に思う。椿はきっと寝ているだろうから少しばかり起きてもらうことにはなるけれども、たまにはそんな早起きも悪くない、はずだ。
     椿の家へ向かう道はまだ雪が綺麗だった。駅の方へ向かう足跡がぽつぽつとあるものの、駅前に比べると圧倒的に少ない。周囲の家もまだ眠っているようで、まるで世界にフィル一人だけになったかのようにしんとしていた。新雪を踏むフィルの足音がはっきりと聞こえる。
     マフラーの隙間から冷たい風が入り込んできて体を冷やす。手袋をしていない手はじんじんと冷たくなってきていた。寒くて目が覚めて、久々に見た雪景色にちょっと嬉しくなって、せっかく早起きしたんだし椿の顔を見てから学校へ行こうと急に思い立って家を出てきたため、手袋を忘れてきたのだ。電車の中で気が付いて、戻ろうと思えば戻ることはできた。早く出てきたのだから、忘れ物を取りに帰るなど余裕だった。だが、椿に会いたかったからそのまま電車に乗ってここまで来た。顔が見たくなって、会いたくなったものはしょうがない。寝起き特有の、あの少し掠れた声で名前を呼ばれたりもしたい。学校に行くのを見送ってもらえるなんてことがあったら最高にいい。妄想と願望を膨らませながらフィルは歩いた。
     椿の住んでいるフラットが近づいてきて、フィルはリュックから鍵を取り出した。通い慣れた安普請を、フィルはもうほとんど第二の自分の家のように勝手に思っている。鍵はいつぞやの仕事の時に椿から借りたものをそのまま拝借し続けている。どうやら椿はそのことを忘れているらしく何も言わないので、フィルも何も言わずに鍵を大事に自分の懐にしまい込んで使い続けていた。
     建物の外に取り付けられた階段を上がり、二階へ上がる。築年数がそこそこ経過していて全体的に古びている建物であり、共同の廊下は土埃やらなにやらで決して綺麗ではない。今日にいたっては雪が吹き込んでいたらしく、泥まじりの溶けかけた雪で汚れていた。部屋の設備も整っているとは言い難いが、だからこそ融通が利くらしく、椿のように訳ありの入居者が多いらしい。衣食住のあらゆる物事において興味のなさそうな、というより実際にほとんど明らかに興味のない椿だが、住居だけは絶対に土足厳禁の部屋がいいということでこだわったのだと聞いた。金もないのに床板の張替えも検討したというからとんだこだわりぶりである。曰く、「落ち着かないだろ」とのことだ。フィルには全然ぴんとこない。
     椿の部屋の前まで行き、そうっと鍵穴に鍵を差し込む。できるだけ音を立てないようにゆっくりと鍵を回し、開錠した。冷たいドアノブを静かに回して、必要以上にドアを開け放たないように注意をしつつ、室内に体を滑り込ませる。
     部屋の中はひんやりしていた。後ろ手に鍵をかけ、フィルはそっと靴を脱ぐ。床もまたひんやりとしていて、靴下越しにあっというまに足が冷えていく。足音を立てないように短い廊下を静かに進んだところで、あれ、と声が出た。「起きてる」
     居室を覗き込むと、椿が背中を丸めるようにしてこたつに潜り込んでいた。てっきりまだ布団の中にいると思ったので意外だ。こたつで寝てそのまま朝を迎えた可能性は否定できないが、とりあえず起きてはいる。フィルの顔を見て驚いた顔をしていた。
     どんな表情であれ朝から椿の顔を見ることができて、フィルは単純に嬉しくなった。リュックを置き、「寒いねえ」とコートを脱いで自分もこたつに潜り込む。こたつの中は暖かく、足先からじんわりと伝わってくる熱が心地よかった。これから学校に行かないといけないなんて信じられないと思う。
    「え、何だ急に」
     何度か瞬きをしてから椿が問いかけてくる。早起きしたから椿に会いたくなったのだと素直に理由を答えようとして、「そうだ」とパンの存在を思い出した。ビニール袋をこたつの上に乗せ、ぞろぞろとパンを取り出す。取り出したパンは改めて見るとやはり数が多く、買いすぎたかもしれないと思わないでもなかったが、どうせ椿のことだから面倒くさがって何も食べなかった可能性もあるし、自分がこうやって多めに買ってきたことで椿が今日のご飯を調達する必要がなくなったのだとフィルは思うことにした。
    「寒くて早く起きちゃったから、せっかくだし椿のところに寄ってから学校行こうかと思って」
     ついでに朝ご飯も買ってきたと椿に言いながら、フィルは袋から取り出したパンを示してみせた。椿のことだから好みなど特にないかもしれないと思いながら、「どれがいい?」などと訊ねてみたりもする。普段とは違うやり取りが楽しい。
    「焼きたてだからまだ温かいよ」
     自分の分を選びながら笑う。駅前の店で買ったのだと言いながら、一つ適当に椿の方へと押し付けた。あまり食欲はないように見えるが、言えば食べることが多いのでとりあえず押し付ける。一日くらい食べなくても死なないのかもしれないけれど、そうやって二日三日と経っていつか自分の前から消えてしまうのではないかと思わせる危うさが椿にはあった。好きな人にはいつだって元気でいてほしいと願うのは当たり前だ。
     椿はどこかぼんやりしている。心ここにあらずというか、何か考えているかのようにも見えた。フィルが買ってきたパンが嫌だったのかとも思ったが、椿はあまり食にこだわる方ではないのでそれは違うだろう。では何か。考えてみたところで何も思い浮かばず、フィルは素直に「どうしたの?」と問いかけた。
     名前を呼び顔を覗き込んで、そこで初めて椿の目が暗く翳っていることに気が付く。ああまた、と胸の奥がちくりと痛む。自分にはわからない椿の一部分を見せつけられたようで、もやもやする。
     だが、わからないものはわからないのだ。誰にだって触れられたくない部分はあるもので、椿が嫌がることをわざわざ掘り返したいとも思わない。胸に渦巻くもやもやを押し隠し、フィルは椿の頬に手を伸ばした。
    「早起きしたからまだ眠たいんだ?」
     椿の陰に気が付かなった振りをして、からかうように笑って椿の頬を撫でる。外の冷気が未だ残る指先で頬を撫で、顎をくすぐっては無精髭を撫でると、椿が「冷たい」と顔をしかめた。それでも、顔をしかめるだけで手が払い除けられることはない。普段ならば「離せ」だの「やめろ」だのと言われ手が払い落とされるだろうことを思えば、珍しい状況ではあった。その理由はわからないけれども、せっかくなのでフィルはぺたぺたと椿に触れておくことにした。
    「そりゃあ雪が降るくらい寒かったし」
     冷えた指先を椿の肌で温めるように触れる。体温が馴染んでいくのが心地よくて、同時に、体温を共有している事実に愛おしさが募る。
     椿がされるがままなのをいいことに、頬を撫でるように左耳も触ってみる。やんわりと耳朶を撫で、愛撫めいた手つきで揉む。そうやってやわやわと指で挟むようにしながら揉んでいると、椿の肩が小さく揺れた。そのささやかな反応に、胸がきゅっと苦しくなった。大したことはないであろう触れ合いにもちゃんと返ってくる反応がどうしようもなく愛おしい。自分を意識してくれていることがこんなにも嬉しくてたまらない。そして、純粋な愛おしさで胸がいっぱいになると同時に下半身がそわっともした。
     愛おしさのやり場に困る。今すぐ押し倒してぐちゃぐちゃになるまで犯してやりたくなったが、平日の朝からそんなことができるわけもなく、フィルはとりあえずと椿に口づけた。唇をくっつけてすぐに離す。本当は舌も唾液も絡めて深いキスがしたい。逆に欲求不満になるような気がしないでもないが、感情のやり場に困ったのだからどうしようもなかった。
     これ以上触れていたら本当に押し倒してしまいそうで、フィルは椿の耳から手を離した。ああ、困る。好きで、大好きで、愛おしくて困る。椿にはフィルの持つ能力が効かないからこそ、こうやって何気なくされるがままになんてされるととても困る。
    「早く食べよ。俺、学校行かないといけないし」
     へらっと笑えば、椿が名残惜しそうな顔をしたような気がした。少し残念そうな、フィルの都合のいいように解釈するならば、もう少し触られていたかったとか、もうちょっとキスしたかったとか、そういう表情に見えた。フィルの気のせいでなければ。むしろ、逆に今の状況では気のせいだった方がよかったのかもしれない。きゅう、と下半身がそれはもう素直に苦しくなる。
     こういうときに限って、やりたいのにやれないとか、本当に困る。フィルは椿から顔を背けた。休みだったら今すぐやってたのに。思わず恨みがましい声が口を衝いて出た。
    「学校行くんだろ」
     椿が小さく笑う。その言い方は、学校がなかったら今すぐやってもよかったのに、と言いたげにも聞こえ、フィルは思わず顔をしかめた。さぼってもいいかな、なんて考えてしまう。本当になんで学校なんかあるんだろう。しかしそんな理由で休むわけにもいかない。フィルは気持ちを切り替えるべく長く息を吐いた。
    「じゃあ、帰りにまた寄ってもいい?」
     今まで椿の家に行くのに許可など大してもらったことはない。いつもフィルが行きたいときに押しかけている。だからこそ同意がほしくなって、フィルはじっと椿の顔を見ながら訊ねた。
     椿がきょとんとした。その顔には「駄目だって言っても来るんだろ、おまえ」と書いてあったが、フィルはそこには気が付かなったことにした。たまには「いいよ」とか「おいで」って言われたい。そして、手で触れて体温を分け合うだけでなく、お互いの体温がわからなくなるくらい深いところで繋がって、ぐちゃぐちゃに混ざり合いたい。
     フィルの下心に気が付いているであろう椿は、わずかに逡巡する素振りを見せた。間違いなく、フィルのこの問いかけに頷けば後々自分がどういう目に遭わされるのかわかっている。それなりに付き合ってきて、わかっていないはずがない。フィルは椿の返事を辛抱強く待つつもりだった。
     椿が何気ない動作で手近なパンを手に取る。そのパンの味を外から確認するように矯めつ眇めつしながら、「まあ、いいけど」とぼそりとつぶやいた。
    「え、やった、早く帰ってくるね」
     思いがけない返事に声が上擦った。色よい返事をもらえるまでごねる覚悟まで決めていたフィルとしては、あまりにあっさりともらえた返事に内心「夢かな」と疑わずにはいられなかった。そんなことを口にしたら「じゃあいい」と撤回されそうなので絶対に口にはしなかったが。椿がどういう心境なのか正直なところ計りかねたが、とりあえず、嬉しくてふわっと体が軽くなる。
    「ちゃんと授業受けてこい」
     椿がぶっきらぼうに言う。視線はパンに注がれたままだ。椿なりに恥ずかしがっているのかもしれない。椿もまた、もう少し一緒にいたいとか、もっと触れたいとか、そう思ってくれたのかもしれない。是非そうであってほしい。
    「うん。だから待ってて」
     へらっとだらしなく笑って、フィルもパンを手に取った。



     冷え切った窓越しに外を見ると、昨夜から降り続いた雪が街を白く染め上げていた。道も植え込みもどこもかしこも真っ白になっていて、朝日に照らされてわずかに輝いている。ぽつぽつと道に残っている足跡が、普段は意識しない他人の存在が露わにしていた。この地に住んでいるのは自分だけではないのだと明確に示すその痕跡に、心の奥底がざらつく。
     椿はふっと息を吐いた。冷えた窓枠に触れ、空気を入れ換えるべく窓を開ける。せっかく布団の中で温まっていたというのに、指先は瞬く間に冷えていく。剥き出しの足はとっくに布団のぬくもりを失っていた。
     窓はしばらく開けっ放しにしておくことにして、いそいそとこたつに潜り込む。布団で二度寝することも考えたが、なんとなくそんな気分にならなかった。こたつの電源を入れ、背中を丸めるようにして温まる。
     一応、と設置されている壁掛けの時計は朝のまだ早い時間を示していた。ちょうど日が昇り始めたくらいの時刻だろう。こんなに早く起きることなど滅多にないものだから、一体どうしていいかわからない。何か食べようにも、冷蔵庫には何も入っていない。第一、何も食べる気にならなかった。
     こたつで体がじんわりと温まってくると同時に、じっとりと嫌な記憶が蘇ってくる。
     昔から雪は嫌いだった。雪が降り続くばかりで辺りが静寂に包まれているあの景色は、椿の心に暗い影を落とす。音もなければ色彩もない、自分以外には誰もおらず、獣すらも存在しない空虚な景色には、嫌な思い出ばかり残っている。
     自分だけが切り捨てられた故に自分以外には誰もいない風景を、この歳になっても忘れることができない己の愚かさにもほとほと嫌気が差した。普段から思い出さないようにしているというのに、ふとした瞬間に蘇ってくるから本当に嫌になる。
     嫌なことばかり次々浮かんできて、椿は意味もなく呻いた。こんなことばかり考えるくらいなら、空気の入れ換えなど諦めて窓はさっさと閉めて、カーテンも引いてしまおうか。そう思ってこたつから這い出たところで、がちゃりと扉が開く重い音がした。
    「あれ、起きてる」
     軽やかな声とともに顔を覗かせたフィルが、不思議そうな顔をした。寒さのせいか白い頬は赤くなっており、金色の髪がよく映えていた。首元にはマフラーをぐるぐると巻き、見るからに厚手のコートを着ている。勝手知ったるとばかりにずんずんと部屋に入ってきては、背負っていたリュックをこたつの傍に下ろした。椿が呆気にとられて何も言えずにいるのにも構わず、「寒いねえ」とコートを脱いでこたつに入り、勝手に暖を取り始める図々しさは恐ろしいほどだ。
     時々椿が外出している間にフィルが家にやってきていることがあるが、なるほど彼はこういう風に堂々と上がってきていたのだと判明して、もはやちょっとした発見のようでもあった。鍵を渡したかどうかは記憶が定かではないのだが、仕事の際に必要だからと渡したのかもしれない。きっとそうだろう。
    「え、何だ急に」
     何度か瞬きをしてようやっと問いかけると、フィルは「そうだ」と持っていたらしいビニール袋をこたつの上に置いた。どうせ何も食べてないんでしょ、と何もかも全てお見通しだと言わんばかりの態度で袋からパンを取り出す。そうやって袋から出てくるパンの数は、おまえは朝から一体いくつ食べるつもりだと訊きたくなるほど多かった。
    「寒くて早く起きちゃったから、せっかくだし椿のところに寄ってから学校行こうかと思って」
     ついでに朝ご飯も買ってきたのだとフィルは言う。パンをずらりとこたつに並べ、どれがいい? と問いかけてくる顔はあまりに無邪気だった。寝ている椿を起こしたら悪いかな、なんて全く考えていない顔だった。むしろ、起こして一緒にパンでも食べようと思っていたに違いない。
     フィルが「焼きたてだからまだ温かいよ」と笑う。学生や通勤客向けに早くから開いている駅前の店で買ってきたのだと言う。屈託のない笑顔でそう言われ、食欲はないと答える気持ちにはならなかった。雪景色で思い出された嫌な記憶は溶けてなくなっていくようで、むしろ、そう言うのならば食べようかとすら思えてくる。
    「椿、どうしたの?」
     食べないの、と不思議そうにフィルが顔を覗き込んでくる。早起きしたからまだ眠たいんだ? と、からかうように笑っては頬に触れてきた。触れる手の冷たさに、外がいかに寒いのかを知る。
    「冷たい」
     面白がって頬に触れ、顎をくすぐり、無精髭を撫でるフィルの手に顔をしかめる。だが、先程までの鬱屈した気持ちが薄れていくのは確かで、彼の手を払い除けようとは思わなかった。現金なもので、もう少し触れていたいとすら思ってしまう。
    「そりゃあ雪が降るくらい寒かったし」
     フィルがやわらかく笑いながら椿の顎を撫でる。そうやっている内にフィルの手に椿の体温が移って、段々と馴染んでいく。その手がするすると左耳へ移動して、やんわりと耳朶を撫でた。指で挟んでゆっくりと揉む様はいつかの愛撫を思い起こさせて、不覚にもぞわっと肌が粟立つ。いつもなら撥ねつけているであろう手つきが心地よく思えて、自分は人恋しかったのだとまざまざと思い知らされた。言葉を交わして、肌で触れ合って、ここにいるのは自分ただ一人ではないのだと実感したいと感情が騒ぐ。
     やはり雪は嫌いだ。一人でいい、一人でいるのが楽だと思う気持ちが揺らぐから。
     ふいに、フィルが顔を近付けてきた。一瞬のうちに唇が触れて離れる。早業に瞬きをしていると、フィルが困ったようにはにかんだ。耳朶に触れていた手も、いつの間にか離れていた。
    「早く食べよ。俺、学校行かないといけないし」
     離れたぬくもりを珍しく名残惜しく思っていると、フィルが束の間驚いたような顔をした。それから、「こういうときに限って、やりたいのにやれないとか」と椿から視線を逸らしつつごにょごにょと呟く。椿が珍しくおとなしく撫でられていたから、何か訴えるものがあったらしい。「休みだったら今すぐやってたのに」と未練がましく追加で呟いている。
     ああ悔しい悔しい悔しいと、朝からわかりやすく欲求不満をぶつけられて、椿は思わず笑った。雪景色のせいか、フィルからぶつけられる性欲がいっそ心地いい。普段だったらすげなく撥ねつけるのに、もう少し体温を感じていたかったと素直に思えた。
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