眩い胎海の星へ 陽光が差し込んで柔らかな温もりに包まれている執務室に戻ると、水神であるフリーナがソワソワした様子で待っていた。
彼女はヌヴィレットの姿を捉えると、興奮したように大股で近付く。
「無事だったんだねヌヴィレット!!」
身体中あちこちをジロジロと確認して何一つ変化がないことを確認したフリーナは胸を撫で下ろし、心の底から安心した大声を上げる。
その声に少々顔を顰めつつも、目の前の自国の神へ出かかった文句を飲み込んだ。
「何を心配していたのかは分からないが、この通り無事だ。」
「そうかそうか!もしかしたら僕が付けさせたお守りが功を奏したのかもね!」
「お守り?」
覚えがないと言いたそうなヌヴィレットに向けて、水神はトントンと首元を示した。
「僕が着けるように口をすーっぱくして言った神の目だよ。普段は僕が何度言おうと目立たない所に着けるんだから困ったものだよね!」
ぷりぷりと可愛らしく怒るフリーナだが、それでもヌヴィレットはいまいち分かっていない様子で彼女を見る。
挙句にこてんと小さく首を傾げている始末だ。
「……私が神の目の力を借りて戦えると示したところで、相手はかなりの数を有していた団体を一晩で壊滅させられる相手だ。何の威嚇にもならないのでは?」
その言葉を聞いた途端、少女は深い深い溜息を吐いた。
「分かってないなあ、君は〜」と言いたげなジェスチャーを付け加えながら。
その仕草に若干小馬鹿にされたような気持ちになったが、その文句もやはり喉の奥に飲み込んだ。
「ま、僕が目に掛けた人間が無事だったからこれ以上とやかく言うのは止めておいてあげよう。」
「感謝する。一刻も早く仕事に戻りたいのでね。」
つかつかと横を通り過ぎ、執務机へと座り込んだ最高審判官へフリーナはくるりと振り返った。
「あ〜…そうそう。何か欲しいものはあるかい?」
唐突な申し出にヌヴィレットは胡乱げな目を彼女に浴びせかける。
この破天荒な大スターが突拍子も無いことを言うのは今に始まったことでは無いが、大抵彼女がこういった発言をするのはろくでもない時だと、これまでの経験で知っていた。
一体何なんだと無言で訴えかければ、コホン!と大袈裟な咳払いが響く。
「その、多分…君が公爵に呼び出されのは僕、のせいだし……。労いの品とかある方がいいかもな〜?って…。」
「はぁ。」
「はぁ、ってなんだよぉ!」
「すまない、つい。何か贈って頂けると言うのなら、パレ・メルモニアの職員を増やしたいのだが。」
大したことではなかったのに一安心し、漸く溜まっている書類に手を付け始めた。
さらさらとペンが走る音がし、紙の山が切り崩されていく。
予想していたかった答えに目を白黒させてしまうが、水神は「理由を聞こう」と作業中のヌヴィレットに問いかける。
「例年より職員が負担する仕事量が増えている。この量を捌こうとなると、各部署に二、三人は人員を増やすべきだろう。」
「そういえばそんな事話してる職員が増えてきたよね。海面の上昇も観測されてるし……はぁ……。」
「…増えた分の仕事を私が引き受けられれば良かったのだが、如何せん人の身故、請け負える仕事の量には限界がある。」
「か、過労死は許さないからな!」
「分かっている。だから、上司である貴方に人員増加の提案をしているのだ。」
資料が必要になったのだろうか。ヌヴィレットは席から立ち上がり、様々な資料が置かれている棚へと近寄った。
迷いなくひとつのファイルを取り出せば、それをフリーナへと手渡す。
硬質的な表紙を捲れば、性別年齢問わず多種多様な人材の履歴書が丁寧にファイリングされている。
「もう当たりはつけてるってことだね。いいよ、人員不足で仕事が回らなくなるなんてこと、僕も避けたいからね。大まかな許可は出しておくから、細かいところはやっておいてくれるかい?」
「無論だ。水神殿の寛大な処置に感謝しよう。」
なら決定だ!と早速ファイルを手に許可手続きを出しに行く水神の背中を見送った後、最高審判官はまだ山盛りの書類仕事に取り掛かった。
自分から公爵に「時間がある時にまた話したい」と言った以上、少しでもゆっくり話せる時間を作り出すために。
初めて公爵とお茶をしてから二ヶ月が経った。
無事に職員が増え仕事の周りが潤滑になりつつある中、ヌヴィレットは貴重な長期休みを頂いた。
人が増えるまでの異様に忙しい時に一番働いていたのが彼であり、数え切れないくらいの残業への埋め合わせという名目らしい。
「こんなには休めない」と渋る本人に対し、職員総出で休むように頼み込んだのはパレ・メルモニアの新しい笑い話だ。
そうして幕を開けた長期休みなのだが、若い頃は勉学、今は仕事に明け暮れているせいで非常に落ち着かない。
何をしていいかも分からず手持ち無沙汰の中、一つのひらめきが降りた。
ーー今こそ、公爵殿とゆっくりお茶をする時では!と。
善は急げと筆を執り、公爵宛の手紙をしたためる。
それを散歩も兼ねて自身で郵便局まで出しに行くと、受付をしてくれた局員に驚かれてしまった。
まあ、それも仕方ないのかもしれない。普段は仕事が忙しく人前に出ることがない人物が、明らかにオフと分かる格好で現れたのだから。
騒がしくしてしまった事を詫びながらそそくさと立ち去る事にし、ヌヴィレットは返事が届くのを心待ちにしながら休暇をどう過ごすかを考え込んだ。
そうして二日ほど経った頃、メロピデ要塞からの手紙が自宅に届いた。
どうやら公爵は最高審判官からの誘いを受けてくれるようだ。
明日、カフェ・リュテス前で待ち合わせする事になり、年甲斐もなく心が浮ついてきてしまう。
よく思い返してみればプライベートで誰かとお茶をするなんて初めてで、友人と呼べる存在も皆無だった。
立場上、特定人物と親密な関係を築く事は避けているのだが、自分に興味を持ってくれた相手と話すことくらい許されるだろう。きっと。
旅行前日の子供みたいにソワソワしながら夜を明かし、約束の時間の三十分前にカフェ・リュテスに到着してしまった。
自分の顔を知っている人も居るだろうから、気持ちばかりの変装をして佇んでいれば、不意に足元に伸びる影が濃くなったような気がする。
日の傾きが変わったのだろうか、と空を見上げた瞬間。
耳元で声が聞こえた。
「随分と早いご到着だな。最高審判官様?」
「っ……!?」
驚いて思い切り振り返ると、そこには愉快そうに目を細めている公爵の姿が。
いつの間に、と問おうとした口は無意味にはくはくと動くだけでなんの役目も果たさない。
そんな素直な人間の反応が面白かったのか、公爵は声を漏らして笑うのを止めない。
「大袈裟だなあ。」
「だ、誰であれ急に背後を取られれば驚くと思うが……。」
「ああ、それもそうか。あん時も……。」
そこまで言い、苦笑して区切られたのが妙に恐ろしい。
深く聞くのもやぶ蛇になるだろうし、あまり気にしないことにした。
「そう怯えないでくれよ。ほら、楽しいお茶会をしよう。」
まるで淑女にするように手を差し伸べられる。
「自分は男だ」と反論しかかったが、彼なりの気遣いかもしれないと思い素直に手を取った。
こちらの手を握る指先は驚く程冷たく、先程の唐突な登場も相まって相手が人でないことを感じさせる。
見た目はこんなにも人に近しいのに、とても不思議な感覚だ。
人よりも少々長めの爪をぼんやりと眺めていると、なんだか照れくさそうな声が降ってきた。
「そんなに見つめられたら穴が空いちまうよ。」
そんなに珍しいかい?と問われたので、偽る事なくそうだと頷く。
「この様に鋭くて長い爪は他では見たことがない故、物珍しくなってしまった。不愉快にしただろうか……?」
「……いや、そんな事ないさ。少なくとも、あんた相手ならな。」
何やら意味深に呟かれた言葉を上手く理解する事が出来ず、ヌヴィレットは思わず首を傾げた。
まあ、今からお茶をしようとする相手の機嫌を損ねていないのなら良しとしよう。
そう考え直した後、ふと思った事を口に出す。
「見つめただけで人体に穴は開かないと思うのだが……?」
その瞬間、カフェ周辺に大きな笑い声が響いた。
むすり…と恥ずかしそうにジト目で見つめてくるヌヴィレットを、公爵は大変楽しそうに眺めている。
照れ隠しなのかちびちびと紅茶を啜り、コホンと咳払いした。
「私があまりにも無知で世間知らずなのは認めるが、あんなに笑わなくてもいいのではないかね……?」
静かな抗議にもどこ吹く風で彼はにへらと笑う。
まあまあ落ち着いてと言いたいのか、小さく開かれていた口の中へゼリーを突っ込んだ。
お行儀が良いのかヌヴィレットは放り込まれた食事を飲み込むのに集中し、公爵への意識が逸れていく。
こくんと喉仏が上下し、口内のものが胃に流し込まれたのを確認してからまたゼリーを差し出す。
真面目で律儀な最高審判官はその度にしっかりと味わい、器が空になった頃にはすっかりヌヴィレットの怒りはどこかに行ってしまっていた。
やっぱりちょろいかもなあ。そう公爵が思ってしまうのも仕方がないのかもしれない。
「とても良い味だった。後でテイクアウト出来ないか店員に聞いてみなければ…。」
ほくほくと嬉しそうにしているのが本当に愛おしく、まだこちらは紅茶を二口くらいしか飲んでいないのにお腹がいっぱいになりそうだった。
「最高審判官様ってさ、水分多いもの好き?」
「え?」
今度はフルーツケーキへ手を伸ばし始めた相手へ、ちょっとした疑問を問いかける。
すると、既に一口大に切り分けていた部分をもぐもぐ咀嚼してから、ヌヴィレットはこくりと頷いた。
「料理において最も重要なものは溢れ出る汁気だと考えている。」
「ふぅん?汁気ねぇ。」
「乾燥していてパサパサしていたり、油っぽいものはあまり得意では無い。故に、ムースやゼリーといった菓子を好む。」
「なるほど?ま、確かに最高審判官様はあまりこってりしたものは好まなさそうな顔はしているな。」
そうだろうか?と自身の片頬をぺたぺたと触る所があまりにも幼子じみていて、かなりの素直さに好感度がぎゅんぎゅん高まってしまう。
「水分を好むのも、水の神の目に選ばれた事へ関係してそうだなぁ。」
そんなジョークを飛ばしてみると、思いがけない返事が返ってきた。
「流石はリオセスリ殿だ。お察しの通り、どうやら私は生まれつき水の気を感じ取りやすいらしく、他者に比べて水元素への親和性が高いようなのだ。仮に神の視線を受けるとするなら、水神のものしか有り得ないだろうとまで言われていた。」
あの時とは違い、首元では無いところできらきらと存在を主張するソレ。
贈られるべくして贈られたと言いたげな青い宝石を、白魚の指先が優しく撫ぜた。
「正直、どうして神の視線が私に注がれたのかよく分かっていない……。」
カチャリ、と台座と金具が擦れる音が聞こえてくる。
「私はただ、他にやりたいことも見つからなかったからと法律について学んでいただけで、とくに特別なことはしていないのだ。」
当惑した声。疑問に満ちた瞳。
天からの気まぐれに過ぎない事象に、真っ直ぐな理由を求めている。
神が人間に視線を降り注ぐ明確な理由が分かっているのなら、この世界には神の目を保有するもので溢れかえっているだろう。
きっと俗世の七執政すら把握していないだろう条件を、老い先短い人間が考えたところで答えなんて出るはずがない。
このままだと思考の海に潜っていきそうなヌヴィレットを引き戻すべく、まだティーポットに残っていた紅茶のおかわりをカップに注ぎ込んだ。
「小難しい事を考えるのは後にしないかい?今は楽しいお茶会、だろ?」
「……それもそうだな。すまない公…リオセスリ殿。」
以前名前で呼んで欲しい、と言ったことを律儀に守ってくれようとしているのか、つい爵位で呼ぼうとしたのを慌てて訂正した。
申し訳なさそうな目がちらりと寄越されたので、リオセスリは気にしてないと伝えるべく、瑞々しいカットフルーツを一つ摘んだ。
薄い唇に軽く先端をくっつけてじっと見つめれば、おずおずと赤い舌が覗く。
容姿こそこんなにも涼しそうで冷たそうなのに体内はやっぱり暖かそうだなんて、当たり前の事を考えながらカットされた苺を食べさせてやった。
舌先と同じくらい真っ赤なそれはあっという間に口内に消えて、やがて彼の養分になってしまうのだろう。
「美味しいかい?」
「ああ、とても。」
可愛い生き物に餌付けしたくなるという心理が、何となくわかってきたような気がする。