龍姫の休日 しくったな、と珍しいミスに頭を搔く。
身寄りが無く、後ろ盾も存在しないこの身ひとつで生きていくにあたって、厄介事や面倒事に首を突っ込まないのはとても重要だ。
物心ついた時から一人で生きてきたリオセスリも、自分の手に負えないものは避け、堅実に行動して己を守ってきた。
それなのに。
「あの拳闘士はどこに行った!?」
「絶対に見つけ出せー!!」
「生きて返さんぞ……、俺たちをコケにしやがって……。」
ーーどうしてこうなったやら。
「まさか、正式な拳闘で勝っただけでここまで恨まれるとはな……。」
物陰に潜み、隙をついて駆け出すことの繰り返し。
どうやら今夜の相手はかなりタチの悪い存在だったらしい。
お互い同意の上で行われた試合で、どちらが勝とうが文句なしという決まりがある筈なのにも関わらずこの有様。
こんなことになると知っていたなら、あの試合は絶対に降りていただろう。
と、文句をつらつら並べても現状が変わる訳でもなし、今はこの場から脱することだけを考えよう。
幸いなことに普段からの習慣でモラを懐に仕舞いこんで隠していたし、仮宿には必要最低限のものしかない。
着替え等はこのモラさえあれば揃えられるし、ほとぼりが冷めるまでこの国を離れるのもありだ。
これからの生活をどうするか、と冷静に考えながらこの国を守る壁から飛び降りた。
人狼の国を取り囲む王国の中でも特に広大な領地を持つ大国。それが龍の国だ。
ここに住む龍達は皆一様に美しい容姿をしており、王都の華やかさも合わさって『天上の国』とも名高い場所である。
リオセスリは、そんな美しき都に足を踏み入れていた。
追っ手を避けつつ人狼の国からここまで来るのにだいぶ苦労があったが、無事に辿り着けた上に大体の追っ手も国境を越えた辺りから居なくなってくれた。
あとは相手の興味が薄れて、安全に帰れるまでこの国で暮らす必要があるのだが…まずは宿探しからだ。
どうやら観光地にもなっているため自分のような外国人も多く、堂々とメインストリートを歩いていても怪しまれもしない。
むしろ「土産としてどうですか?」なんて店に連れ込まれそうになったくらいだ。
これだけ親しげに接してくるなら近くにおすすめの宿がないか聞いてもいいかもしれないな、と周囲を見渡している時だった。
「うぉっ。」
「うぷっ!?」
白い塊がぶつかってきた。
厳密には白いケープを身に纏った人物が。
思わず抱きとめてしまった相手は自分の胸元までしかなく、真っ白な布の端から銀鱗の尻尾が覗いている。
「君、大丈夫かい?」
この小ささと細さはきっと女性だろうと判断し、勤めて紳士的に声をかけた。
その声に反応しケープの人物が顔を上げ、リオセスリは息を飲んだ。
白銀の髪は絹糸みたいにさらさらで、長い睫毛に縁取られた大きな瞳は宝石みたいに透き通っている。
今まで生きてきた中で、こんなに美しい人は見た事がない。
龍の民は美しい者が多いと聞いていたが、彼女は別格だった。
見惚れてしまっていると、白くてまろい頬がぽぽ…と赤く染まっていく。
「だ、だいじょうぶ……。」
こんなにも綺麗な人は声まで可憐なのか、と更に驚いてしまう。
ドギマギとした空気が流れ始めたが、すぐに気を取り直した彼女が距離を置いた。
「私が不注意なばかりにぶつかってしまって申し訳ない。」
「いや…、俺の方もちゃんと前を見てなかったからな。あんただけが悪いわけじゃないさ。」
律儀に謝ってくるなんて…と不思議に思ってしまったが、だいぶ身なりのいい服装をしているし、きっと育ちのいいお嬢様なのだろう。
そんな子が一人で出歩いている。しかも身を隠すようなケープを身につけて。
……訳ありそうな空気がプンプンしている。
今までの人生経験上、こういった相手には深く関わらない方が平穏な暮らしができたりするものだ。
ここら辺は治安が良さそうだし、このまま別れても大丈夫だろう。
「次は気をつけなよ?」とその場から離れようとした、のだが。
なにかの気配に気がついたらしい彼女が「すまない!」と顔を埋める形で抱きついてきた。
急な密着に驚き、声も出せずに固まっているとすぐ側を騎士らしき集団が駆け抜けていく。
彼らは口々に「姫ー!どこですかー!?」と呼びかけており、周囲の住民達も何事かとざわつき始めている。
「は…?待て、まさか……。」
嘘だろ?と見下ろせば、彼女は小さな唇に立てた指を添えていた。
ーー面倒事というのは、連鎖的に生まれるものなのか?
そんな疑問に答えてくれる人は、ここにはいなかった。
『お姫様』はメインストリートからやや離れた路地裏の空間にリオセスリを連れてくると、今まで被っていたフードを外してその顔を光の元に晒す。
きらきらと輝く銀糸が幻想的で、彼女の美しさを際立てる。
近くにあったベンチに腰掛けた少女を見下ろし、男は困ったように溜息を吐いた。
「身なりからして良いとこのお嬢様だとは思っていたが…。まさかこの国のお姫様だとはな。」
さっきは身なりがいいな、と思っただけだったがこうしてじっくり見れば見るほど、ただのお嬢様と言うには上質すぎる服を着ている。
オーラだって只者では無い。
なんでさっき気が付かなかったのか分からないくらいだ。
「……名乗るのが遅れてしまったな。私の名はヌヴィレットという。」
「ヌヴィレット様、ね。わざわざお姫様が城を抜け出してくるなんて、何かあったとしか思えないんだが……。」
本当に申し訳ないが、この国に来たばかりの部外者なので面倒事には巻き込まれたくない。
内容が内容ならすぐにでもこの子を先程の騎士達に引き渡そう。
そう考えて、ヌヴィレットから話を聞き出そうとした。……のだが。
「…………その、ただの…お忍び観光、で。」
「えぇ?」
「一人で、自由に街を探索してみたかったのだ……。」
恥ずかしそうに顔を赤くして目を伏せる美少女の破壊力は凄まじく、なんだか直視出来なくてリオセスリは視線を逸らした。
「しかし、ここまで騒ぎになってしまうとは予想外だった。皆、私に対して過保護すぎると思うのだが…。」
りんごのような頬に手を添え、眉を下げて呟く。
「それだけ愛されるって証拠だろ?」
自分にはよく分からない感覚だが、多くの人間に気にかけられているということはつまりそういう事だろう。
周りに心配されて困るなんて、なんて贅沢な悩みだろうか。
そういう所も凄くお姫様っぽいなぁなんて思ってしまい、勝手に微笑ましくなってしまった。
「そう、かもしれない。父上や母上、爺やに使用人達……。私の周りに居るのは優しい人ばかりだ。」
へにゃりと笑った表情を見た瞬間、照れた顔を見た以上の衝撃がリオセスリを襲う。
ギュンっと体の熱が上がり、バクバクと心音が煩く鳴り響く。
もしかしたら人狼族特有の耳や尻尾だって忙しなく暴れ回っているかもしれない。
でも、仕方ないじゃないか!
そもそも好みドンピシャな絶世の美少女の、あまりにも愛らしい笑顔を見てしまったんだから!
なんて単純なんだ自分は。
あまりの情けなさに脳内反省会を相手がしているともつゆ知らず、ヌヴィレットは純粋な気持ちで話しかけた。
「もし君の都合が良ければだが、一緒に街を巡ってはくれないだろうか?」
「お、俺と?」
相手の声が上擦ってしまっているのも気にせず、彼女はこくりと頷く。
「一人で居るよりも、同行者が居る方が色々と誤魔化しが効くと思ったのだ。例えば、先程のように。」
成程、と男は納得した。
確かにこのお姫様がフラフラと一人で動いているより、親しげな誰かと行動している方が口裏も合わせられて捜索の目を欺きやすい。
しかも隣にいるのは、明らかに観光客そうな人狼となれば余計に見落としてしまうだろう。
とても合理的な判断だ。つまり……、
「恋人のフリをすればいいってことか……。」
「こっ、こいびと……!?」
脳の中で考えていたことがするりと口から滑り落ちてしまい、バッチリ目の前のお姫様に届いてしまったようだ。
そこまでの関係性を想定していなかった彼女はあわあわと目を丸くし、銀鱗の龍の尾をぎゅうぎゅうと抱きしめ始めてしまった。
そのうぶで大慌てな様子で漸く、リオセスリは自分が爆弾発言をうっかりこぼしたことに気がついた。
これは明らかにセクハラ発言だろう。
しかも、した相手がこの国のお姫様とくれば完全にアウトだ。不敬罪で投獄確定は待ったナシ。
命を守るためにこの国まで来たのに、来て早々に牢屋へぶち込まれるなんてどういうギャグなんだ。
最悪すぎる未来を回避するには、弁明をするしかない。
「わ、悪い。あんたはそこまでの関係性で考えてなかったんだな。これは単なるジョークだから、深く受け止めないでくれ。」
「わか、った。」
「うんうん、素直でよろしい。」
相手がとても素直な良い子で助かった。
簡単に謝罪と言い分が通り、リオセスリは胸を撫で下ろす。
この子と長く居すぎると自分の中の何かが緩んでしまう気がして恐ろしい。
これは変に渋るよりもさっさとお忍び観光に付き合うべきかもしれない。
しっかりしたリスク計算の出来る男は、これから自分が取るべき行動を選択した。
「……さっきのはジョークだけど、あんたの観光には付き合うよ。勿論、『友人』としてな。」
手を差し出し、紳士的に彼女をエスコートして立たせてやる。
こちらの言葉にお姫様の龍の尾は嬉しそうに振れ、青い触角もご機嫌そうな雰囲気だ。
きらりと光る瞳がリオセスリの顔を見つめ、ゆっくりと細められていく。
「ありがとう。遅くなってしまったが、君の名前を教えて欲しい。」
「そういえば教えてなかったな。俺の名前はリオセスリだよ。」
「リオセスリ殿……。うむ、良い名前だ。」
澄んだ鈴の音みたいな声が自分の名前を呼び、褒めてくれた。
たったそれだけなのに、酷くときめいてしまう己がいるのがなんだかすごく悔しかった。
「では、日が暮れてしまう前に巡ろう。」
フードから飛び出してしまった触角もきちんとしまい直してから、目深に被り直して彼女は言う。
少し埃の着いてしまったケープの端もきちんと払い、出発する準備は万端だ。
「そのフードはやっぱり被っちまうんだな。」
あの綺麗な瞳が見えにくくなるのが惜しくて、軽く摘んで捲った。
影が落ちた暗がりの中にあっても、宝石のような瞳は美しい煌めきを持っている。
「当たり前だろう?国民の大半は私の顔を知っているし、見つかるまでは騎士達も捜索を続けているはずだ。」
「まぁ、それもそうか。」
捲ったものを元通りに被せ直し、適切だと思う距離を開ける。
あんまり近くに居すぎるとちょっと、色々と変になりそうだから。
さて、そろそろメインストリートに戻ろうかと歩き出し、するりと人波に紛れて彼女が行ってみたいという場所に向かった。
思ったよりも多い人の群れではぐれないように、と手を握られた瞬間は手汗がやばかったかもしれない。
彼女が手袋をしていて助かった。ほんと。
手を引かれながら歩き続け、辿り着いたのは巨大なモニュメントが設置されている大広場。
ぐるりぐるりと巨大な鉄の輪っかが回り、この大広場の象徴として強い存在感を放っている。
「(クロックワーク…だったか?)」
龍の国で発展した科学技術は隣国である人狼の国にも普及しており、己の住まいであった下町でも時折その存在を目にしていた。
しかしこんなにも大きなものを見るのは初めてで、思わず他の観光客同様にぽかんと見上げてしまう。
「やはり近くで見ると壮観だな。」
横を向けば感嘆の声を上げ、きらきらとモニュメントを見つめている彼女の横顔があった。
「ここに来ること自体は何度かあったのだが、こんなにも間近でゆっくりと眺めるのは初めてでな。」
「そうなのか。良かったな、近くで見れて。」
「うむ。抜け出してきて良かった。」
にこりと笑ったヌヴィレットは心底楽しそうで、また胸がドキリと高鳴った。
気持ちが浮き足立って、尻尾の先が落ち着かずに動き出す。
常々思っていたがこの尻尾、暖を取る以外は自分の感情がもろに出てしまうから外したい。
絶対に今こっちを向かないでくれ…と念じ、そっと目を逸らすと視界の端にちらちらと動くものが見えた。
なんだろう?と追いかけてみれば、銀鱗の尻尾がぶんぶんと振られている様が映り込んだ。
咄嗟に手を動かし、思わず笑い声が吹き出そうになったのを抑え込む。
表情こそきらきらと楽しそうではあったが、テンションとしては落ち着いている方だと思っていた。
けれど、尾の方はこちらのものによく似てかなり素直なようだ。
「(そんなに自由に外見て回るのが楽しみだったのか…。まあ、箱入りお姫様っぽいしなあ……。)」
愛情に不足は無さそうだが、よっぽど窮屈な暮らしを強いられていたのだろうか?
龍の国レベルの大国のお姫様となればそうホイホイ外に出られないだろうことは明白。
先程の口ぶりから察するにきっと式典なんかの用事で出ることはあれど、その時は護衛が周りを固めていて自由に動けなかったのも察せられる。
うん、想像しただけでうんざりする窮屈さだ。
抜け出してくるのだって容易じゃなかっただろうし、つかの間の解放を堪能しているのかもしれない。
愛おしさと微笑ましさが胸いっぱいに押し寄せて堪らなくなって、彼女の為に思い出をなにか形に残してやりたいと強く思った。
「ちょっとここで待っててくれるかい?」
そう声をかけるや否や、リオセスリは近くに居た観光客の元に向かう。
キャッキャとはしゃぎながらモニュメントを撮影している様子の彼らに、出来るだけにこやかそうな雰囲気を纏わせて話しかけた。
「なぁ、ちょっといいか?ほんの少しだけその映影機ってやつを貸して欲しいんだが。」
観光客達は急に現れた男に一瞬驚いたものの、明らかに異国風といった格好や友好的そうな様子に気を緩める。
「この国に遊びに行くっていうのに君はカメラを忘れたの?」
「まるで私が居ない時のお兄ちゃんみたいね。」
「こら、変な事言うなよ!」
「はは、そこの坊ちゃんの言う通りでさ。まさかこんな凄いもんがあるとは思わなくてな。俺の計画性の甘さが出ちまったんだ。」
仲の良さそうな観光客ー恐らく兄妹だろうーに話を合わせつつ、どうにか貸して貰えないか交渉を試みる。
「なに、乱暴に扱ったりはしないさ。一枚だけ写真が撮りたいだけなんだ。」
「だって、お兄ちゃん。どうする?」
「うーん……。まあ、悪い人じゃなさそうだし……。ほら、どうぞ。本当に大事に扱ってね?これは僕のじゃなくて、弟から借りてるものだから。」
「ありがとう、恩に着るよ!絶対に無事に返すから。」
ペンギンのマークが付いた可愛らしい映影機を借り受け、すぐにヌヴィレットの元へ戻った。
ほんの少ししか経っていないような気もするが、それでも一人になってしまったのは心細かったのだろう。
おろおろと落ち着かなさそうに視線を彷徨わせ、ついでに尻尾も揺らしている。
「悪い、待たせたな。」
安心させるため優しくて軽やかな口調で声をかければ、彼女はほっとした顔を見せてくれた。
ちょこちょこと駆け寄ってきた相手に先程借りに来たものを見せれば、きょとんとしながら「映影機?」と呟く。
「そこに立って。素敵なのを撮ってあげるから。」
その言葉を聞いたヌヴィレットの目の輝きといったら、真昼に一等星を見た気持ちになった。
モニュメントの前、丁度良いと思える位置に立って貰ってから映影機を構える。
使ったのはだいぶ前に一度きりだが、複雑な操作はいらないはずなので大丈夫だろう。
しっかりピントを合わせて、シャッターを切ろうと指に力を込めーー、
「っ!?」
突然強い風が吹く。
ヌヴィレットはフードが外れぬように手を伸ばしたが、その動きも虚しくその尊顔が太陽の下に晒された。
ぱしゃり。
子気味いい機械音が鳴り響き、一枚の写真を吐き出す。
銀の髪が風にたなびいては煌めく、麗しい白皙の少女の姿を映し出したものを。
何を思ったのかリオセスリはその写真を懐にしまい、再び映影機を構える。
「悪い、風のせいで写りが悪くなっちまったから取り直すぞ。」
大急ぎでフードを被り直したヌヴィレットに声をかけ、佇まいを正したのを確認してから写真を取れば、今度こそモニュメント前の記念撮影は完了だ。
綺麗に撮れた写真を手に取り、彼女へと歩み寄った。
「どうだろうか……?」
「バッチリ撮れたよ。ほら、大事に持っておきな。」
自分の手から彼女の手の中へ。
写真の受け渡しをしてから、辺りをキョロキョロと見渡す。
映影機を貸してくれた兄妹は少し離れたベンチに座り、さっきまでいなかった少年と話し込んでいた。
「ヌヴィレット様、借りてきた行きたいんだが……着いてくるかい?」
リオセスリの視線を追いかけ、ベンチに集まる兄妹達を見やる。
二人の間に沈黙が流れ、それから小さく頷く。
相手が観光客だし、自分の正体云々は大丈夫だと判断したのだろう。
ちょこちょこ後を着いていき、さっと人狼の大きな背中に隠れた。
「やぁ坊ちゃん達。さっきは助かったよ。」
「あ、さっきの人。」
三人からの注目が集まり、ヌヴィレットは余計に体を小さくして気配を消そうとしている。
そんなお姫様の存在に気が付いているのかいないのか、兄妹達は話を進めていく。
「映影機を返しに来てくれたんだよね?」
「ああ。きちんと壊さず、丁寧に扱ったから心配しないでくれ。」
「それなら良かったぁ。さっき強い風が吹いたし、もしかしたら落としちゃう可能性もあったからね。」
「私もアイスクリームを落としかけたから、あの風は本当に危険。あなたも気をつけて。」
ペンギン映影機を返却すると、兄の方が軽く確認してからずっと黙りこくってしまっている少年へ渡した。
彼も念入りに映影機の様子をチェックし、不足ないと思えたのか大きなカバンにしまい込んだ。
さて、記念撮影も借りたものの返却もしたし、彼女に別に行きたいところが無いか聞いてみようか。
観光客達に別れを告げて歩き出す男女の背中を見送った兄妹達の後ろから、威厳のある女性が高いヒールを鳴らしながら歩み寄る。
「彼らは……。」
「お父様!おかえりなさい!」
「お父様は…、さっきの人達のことを知っているんですか?」
子供に問われた『お父様』は顎に指を添え、思案する素振りを見せた。
「………いや、人違いだったようだ。」
そう呟きつつも彼女の紅い十字架はヌヴィレットの背中を見つめ、遠方から聞こえてくるこの国の姫を探す捜索隊の声を聞いていた。
騎士隊と入れ違いに大広場を後にして立ち寄った先は落ち着いた雰囲気の商店街。
お洒落なカフェや可愛らしい洋服屋、アクセサリー屋が多く立ち並ぶそこは、いかにも女性が好きそうという印象を受ける。
どこもかしこも美しく作られている龍の国の中でも、特にハイカラなこの場所に立っているのは場違いな気がしてリオセスリはなんだか気後れしてしまう。
何せモラ以外は着の身着のままで飛び出してきて、この国には着いたばかりなのだ。
彼女のお忍び観光が終わったら着替えを買わないとな…と心に決め、ヌヴィレットのそわそわしだした銀鱗の尾を眺めた。
彼女も年頃の女の子だろうし、城では見ないような洋服達に興味津々なのだろう。
ふむ、とリオセスリは考える。
ずっと肌身離さず持っていた財布を取り出し、その中身を数えていく。
逃げ出した日がたんまりと賞金を貰った直後だったので、なかなかに懐は暖かい。
ここら辺の店は一般庶民向けそうで、ちょっと買い揃えたところで痛手では無いはずだ。
そうと決まれば、と先を行くヌヴィレットに声をかけた。
「ヌヴィレット様。」
「む、何かね?」
わざわざ立ち止まり、こちらに振り返ってくれる律儀さがとても好ましくて眩しい。
こてんと首を傾げている彼女の白い手をそっと取り、近くにあるアクセサリー専門の露店へ導いた。
やや奇妙な組み合わせの二人相手でも店主は営業スマイルを崩さず、「何をお求めでしょうか?」と自慢の商品を並べている。
目移りしてしまいそうになる華やかなアクセサリー群の中から、青いリボンがあしらわれた可愛らしい髪飾りを手に取った。
「これを買おう。ああ、お釣りはいい。チップとして貰っておいてくれ。」
髪飾りを包んでもらいそれだけ告げてからそそくさと店から離れ、人の目の無さそうな場所まで移動した。
「ええと、リオセスリ殿?」
「説明しないままで悪い。今から話すから、とりあえずフードを外して貰えないか?」
「……?」
言われるがままにフードが外され、豊かな白銀が現れる。
そんな美しい銀糸を、リオセスリは「失礼」とケープの中から全て出してやった
「ここに来て閃いたんだ。」
「なにを?」
「上手い変装。髪の毛、いじっても?」
「ふむ…その為の髪飾りか。どうぞ、君の好きなようにするといい。」
結びやすいように、と背中を向けてくれたのを有難く思いながらふわふわした毛束を一つ取ってから、このふよふよしている触角はどうしようかと頭を捻らせる。
「なあ、この触角?は……、」
「そこか?安心してくれ。そこは多少強く触られても平気な場所ゆえ、遠慮は不要だ。」
それならば、とリオセスリは器用にも触角を髪で包み込むように編み込みを作り上げていく。
左右の触角ごと後頭部まで編み終え、二本の三つ編みを残りの髪の毛ごと髪飾りで束ねてやれば、見事なポニーテールの完成だ。
動く度にふわりと揺れ、ちらりと項が見えるのがちょっとグッとくる。
「……我ながら完璧だな。」
手先が器用で良かったと、こんな場面で実感してしまうなんて。
選んだ髪飾りの青いリボンも大変似合っていて、自分のセンスも捨てたものでは無いなと不思議な自信がついた。
……これも、彼女の思い出の一欠片になってくれればいいのだが。
「次は服を着替えよう。その服じゃあお姫様なのが隠しきれないからさ。」
ケープに隠された自分のドレスを見下ろしたヌヴィレットはぽそりと呟く。
「たしかに……。」
「ははっ……!だろう?髪型を変えて、服装まで変えちまえば誰もあんたをお姫様って思わないだろうし、堂々と歩いていても平気って訳。」
目から鱗なお姫様からの眼差しが尊敬を含むものになり、この短時間で彼女の厚い信頼と頼り甲斐を欲しいままにしているのを感じる。
そんなに凄いことを提案したつもりは無いので、そんなにキラキラした目で見るのは勘弁して欲しい。
というか、どこの馬の骨とも分からない男に懐くな。
このお姫様の距離感とチョロさに目眩がしてきそうだが、可愛くて仕方ないのも事実で。
真にチョロいのはどちらなのか、真剣に悩んでしまいそうだ。
とりあえず、彼女に似合いそうで庶民っぽく見える服を買ってやろう。
商店街に戻り、服を着替える本人に行きたい店を選ばせることにした。
ここは多様なジャンルの服屋があるので、きっと何処かには高貴なお姫様のお眼鏡に叶う物があるはずだ。
数軒ほど展示を眺めて吟味した結果、彼女は他の店よりも可愛らしい服が多い店を選んだ。
どこもかしこもパステルカラーで彩られたいかにもファンシーな店内に、表の通りに来た以上の居心地の悪さを感じてしまう。
まあ、付き合うと決めたので大人しく後ろに控えておくが。
尻尾穴付きのコーナーへ向かいあれこれ手に取って見比べるヌヴィレットだったが、なにか閃いたのか唐突にリオセスリの手を引いて陳列棚の前に連れてきた。
「リオセスリ殿。」
きゅるんとした期待の眼差し。
目は口ほどに物を言う、というのはまさにこの事だろう。
「俺が選ぶ……のか?」
「君のセンスの良さはこの髪飾りで実感したし、選んだ本人ならば良く似合うものが分かるだろう?」
そうだろうか?……そうかもしれない。
そもそも、こんなに期待しているお姫様がちょっとやそっとの断りをしようが引き下がることは無いはずだ。
大人しく納得した体で服を選んであげようか。
彼女が最初に手に取って悩んでいたものを確認し、これじゃないなと陳列棚に戻す。
さて、何がいいかな?と他の場所へ目を向けた時。
爽やかな青が目を引く、可憐なワンピースが視界に飛び込んできた。
揺れる波を思わせる見た目のそれは彼女に付けてあげた髪飾りとの相性も良さそうで、この服を着た姿が見たいとつい思ってしまう。
迷いなくワンピースを手に取って、こちらの選択を気にしているヌヴィレットの元へと持っていった。
「これなんか良いんじゃないか?」
「ふむ、なるほど………。これは……。」
彼女はドラゴンガーネットの瞳をきゅるんと輝かせると、ぱたぱたと試着室へと急いだ。
暫く待てば、ゆっくりと白いカーテンが開かれる。
ぴょこりと頬を桃色に染めた顔を覗かせた後、そわそわしながら着替えた姿を現す。
長いもみあげで手遊びをしながら「ど、どうだろうか?」と問いかける彼女は可愛らしいの一言に尽きる。
「よく似合ってる。まるであんたの為に作られたみたいだ。」
「そ、それは言い過ぎでは無いか?」
「褒め言葉は言い過ぎなくらいが本心を表せていいんだよ。」
「なる、ほど?……ありがとう、リオセスリ殿。」
本当に心の底から思った事を素直に口にしたまでなのだが、照れ屋なお姫様には胡散臭く映ってしまったようだ。
それでも褒められた事が嬉しかったのか、ふわりと微笑む彼女に「どういたしまして」と返した。
さて、気に入って貰えたし着こなしもバッチリなのでこのまま買ってやろうとし…踏みとどまる。
『変装というなら、靴なんかも変えるべきなのでは?』と。
ーーそう。リオセスリという男は、妙なところで凝り性なのである。
「ヌヴィレット様、この靴もどうかな?」
「え?靴まで……いいのか?」
「いいよ。折角なら靴もこの服に見合ったものがいいだろ?」
そう言いながら、愛らしいレースやリボンがあしらわれたショートブーツを見せた。
「靴のサイズは大丈夫か?」
「ええと……うむ、このサイズなら丁度いいはずだ。」
「ならそれも『買い』だな。」
それも履いといてくれ、とだけ告げてリオセスリは店員へと近寄る。
ワンピースとショートブーツの合計金額に少し色を付けてモラを取り出して支払い、脱いだ服を持ち歩く用の紙袋を頂く。
それに丁寧に畳んだドレスと靴を詰め込み、店員に見送られながら店を出た。
すっかり雰囲気が様変わりしたヌヴィレットはケープを羽織っていた時よりも明るく、気が楽そうに見える。
履き替えたばかりの靴を足に馴染ませるため足取り軽やかに前を行く少女について行き、揺れるポニーテールを眩しそうに男は眺めた。
ふわりとワンピースの裾を遊ばせるその楽しそうな様は、あまりにも普通の『女の子』だ。
きっと、余程の事がない限り彼女の事をお姫様だと疑う人は居ないはず。
あったとしてもそっくりさんを疑うくらいか?
これで思惑通り、少しは気兼ねなく街の探索が出来ればいいのだが。
次はどこに行こうかとか、お腹は空いてないかとか聞くために「なあ、ヌヴィレット様」と声をかけた。
鮮やかな海色を翻しながら振り返った彼女はとてとてと近寄り、きょとんと目を瞬かせる。
「お腹は空いてないか?そろそろ食事にしてもいい時間だろうしさ。」
「言われてみれば、空いてきたかもしれない。」
お腹を摩った彼女の小さなお腹から控えめなくぅ……という音が鳴ったのを、リオセスリの立派な耳は聞き逃さなかった。
「ははっ、どこか良さげな店に寄ろうか。」
お腹の音をばっちり聞かれたのが恥ずかしかったようで、お姫様はへにゃりと笑いながら頷いた。
龍という他よりも優れた種族のお姫様なのに、あまりにも小動物じみた仕草。そんな愛らしい彼女の姿に、リオセスリはきゅうんと胸を締め付けられる。
財布の中身と相談しつつ、適当な飲食店へと向かった。
ある程度お腹を満たし店を出た頃には日はやや傾いていて、地面に落ちた影は大きく伸びながら位置を変えている。
好きな物を頼んでいいと告げた際に、スープ類しか頼まなかったのには酷く驚いた。
思わず「遠慮しなくていいのに」とメニュー表を開こうとしたのだが、どうやら彼女は水龍に属しているので水分の多いものが大好きらしくただ食べたかっただけらしい。
彼女の話によると龍というのは千差万別であり、大まかに分けられた種族によって好む味や食べ物が異なるのだそうだ。
そんな豆知識を教えて貰ったりと、店内での食事はとても居心地が良くて楽しかった。
そのため、外に出た時の太陽と影の様子で思っていたより時間が過ぎていたのについつい目を丸くしてしまう。
朝からずっと立ちっぱなし歩きっぱなしだった体の休息には良かったのかもと、そう思うことにしよう。
「まだ行きたいところはあるのか?」
「…この時間帯なら……、」
ドラゴンガーネットが近くの時計塔を眺め、少し焦った様に見開かれる。
「最後に行きたいところがある!」
「へぇ、じゃあそこ…っ、」
「…のだが、少々急がねばならない!」
新しい靴になったばかりだというのに、もうしっかりとした足取りで駆け出すお姫様。
そんな彼女にしっかりと手を掴まれた状態で、引っ張られるまま共にリオセスリも走り出す。
整えられた石畳の上、白と黒の軌跡が現れては消えていく。
全力疾走の末に辿り着いたのは船着き場のような場所で、小さな龍と思わしき存在が乗っている小型船が丁度到着していた。
ヌヴィレットはその船に迷いなく乗り込み、お供と一緒に端の席に座った。
一通り乗客が全員乗っているか確認していた小柄な龍は、ある一点…ヌヴィレット達が座っている場所に目を向けた途端驚いたように耳をぴょこん!と動かす。
その視線に気が付いていた彼女は、相手が何を考えているのか分かっているみたいに『静かにして欲しい』というジェスチャーを見せる。
言葉のないやり取りだったが、お互いに意味を汲み取りあったようにスムーズで、龍はそのまま何事も無く乗客へガイドを始めた。
「あの子が物分りいい子で助かった……。」
「なんだ、知り合いなのか?」
小声でホッと一息吐いたヌヴィレットに疑問を投げかければ、こくんと肯定が返される。
「彼女はメリュジーヌというこの国特有の種で、他の種とは違う知覚能力がある。例えば、拭き取られた血痕すらも数時間以内であれば彼女達は何処にあったのか見つけ出せる。」
「へぇ、凄いな。とんでもない名探偵だ。じゃあ、どんな隠し事もお見通しな訳か。」
「君の言う通り、彼女達はこの国の様々な事件の捜査を担当しており、その活躍は他国にも誇れる程だ。」
えへん!と胸を張ってまるで自分の事のように自慢する姿から、ヌヴィレットはメリュジーヌという種が大好きで大切に思っているのが伝わってくる。
そして、彼女があのガイドに静かにするように指示した理由も。
「変装してもあの子達にはバレバレ…なんだな。」
あまり意味の無い選択をしてしまったのだろうか。
それなら早めに言って欲しかったとついつい思ってしまい、それが顔に出ていたのかヌヴィレットは申し訳なさそうな様子になってしまった。
「すまない……その、ドレス以外の服を着られる機会に浮かれてしまい……。」
随分と気に入ったワンピース姿の自分を見下ろして呟くしょんぼりした横顔。
リオセスリの庇護欲がぎゅんぎゅん刺激されてしまい、慰めるように頭を撫でた。
勿論、綺麗に整えて上げた髪型を崩さないように気をつけて。
「ドレス、嫌?」
小声で問えば、そうだと縦に振られる首。
「私の立場上、自身の身分を示す為の衣装を身に纏わなければならないのはわかっているし、常に心掛けている。けれど……。」
「たまには気分転換したいって?」
「……実は、着ていて窮屈なものや、装飾品が多い派手な服はあまり好きではない。」
「なるほど?」
ちらりと覗いた紙袋の中に収められているドレスは、確かにかっちりと堅苦しそうな上に装飾も派手だ。
対して今着ているワンピースは裾や袖が膨らんでいてゆとりがある。
デザインだってかなりシンプルだ。
もしかすると…知らず知らずの内に彼女の好みのツボを突いていたのかもしれない。
だからあんなにも喜んでたのかもな、と買ってあげた時の表情を思い出す。
本当に愛らしいお姫様で胸がほっこりしてしまう。
「あんたが喜んでくれたんなら、それだけで買った価値はあったよ。」
フッ…と微笑みかけると、ヌヴィレットは分かりやすくほっとして頬を緩めた。
「君が買ってくれたこの洋服も髪飾りも、本当に気に入っている。このふたつは私の宝物だ。」
ぽわぽわした声色で、心の底からそう思っているのだと真摯に伝えてくる。
その真っ直ぐさに思わず照れてしまい、「そっか…」と頭を軽く搔いた。
ーーどこか甘酸っぱくてもどかしいような空気に包まれている若い二人を、周囲の乗客たちは生暖かい目で見守っていたのだった。
巡水船と呼ばれる小型船が船着き場に停泊し、リオセスリ達含む乗客全員が降りていく。
白い回廊を進んでいけば、大きな噴水を前にした豪華な建物が見えてきた。
どうやら、船に乗っていた面々の目的地はここのようだ。
「こりゃまたデカイ建物だなぁ……。」
「あそこはエピクレシス歌劇場と言って、その名の通り様々な公演を行っている。」
真正面を指さしていた手が、今度は手前の噴水へと移動する。
「あの噴水はルキナの泉と言って、この大陸の全ての水が集う場所と信じられている。どちらも龍の国の有名な観光スポットだ。」
「お上手なガイドだな。練習でもしたのかい?」
からかい混じりに褒めれば、取り繕う事無く彼女は素直に白状した。
「こうやって観光する時のために備えて、しっかりと予習したゆえ案内は任せて欲しい。」
自信満々な発言に「そうかそうか」と頷いた。そんな機会は無いかもしれないが、もしあるのならガイドは彼女に頼もう。
さてはて、あれだけ急いでいた訳は何だろうなと可愛らしいガイドさんに着いて行くと、迷いなく歌劇場の中へと入っていく。
広々としたエントランスは清潔感に溢れていて、なんだか荘厳な雰囲気だ。
ヌヴィレットはそんな雰囲気も慣れっこなようで、気にせず何かのマシナリーを触り出す。
カチカチとボタンを押す音が鳴り、こちらではよく分からない操作をしたかと思えば、金属の口から二枚のチケットが吐き出された。
厚みのあるそれを片方、リオセスリは手渡される。
表面に数字が刻まれており、手渡してきた相手のチケットと連番のようだ。
これは、いわゆる闘技場で言う観客席の座席券…だろうか?
「これは……。」
「この歌劇場の座席チケットだ。一番後ろの、端の席だから直ぐに分かるだろう。」
早く行こうと手を引かれ、これまた華美な扉をくぐってリオセスリはホールへ足を踏み入れた。
自分が良く知る闘技場よりも広い空間は人で埋め尽くされていて、最後列や最前列の一部だけはチラホラと席が空いている。
ヌヴィレットは言っていた通り最後列の端の方に座り、その隣にリオセスリが座るよう手招きした。
びっくりするほど柔らかくて快適な座席に深く腰掛けてから、開演してしまうまでの数分間を隣との歓談で過ごそうと狼は口を開く。
「この歌劇凄く人気そうだけど、よく二人分もチケットを取ってたな。元々一人で回る予定だったんだろ?」
あのマシナリーを操作している時に購入した様子は無かったし、そもそもこれだけの人が入っているならチケットだって完売しているはずだ。
男の当たり前の疑問に、ヌヴィレットはてへ……と言いたげに口元をチケットで隠した。
「……この歌劇はどうしても見てみたくて、それで…私の正体が露見しにくい状況でゆっくり見るために……。」
「……そういう事ね。だから俺も席にありつけた訳か。」
「わざわざ取ったもうひとつの席が無駄にならず、私としても良かった。さぁ、もうすぐ始まるから静かに観覧しよう。」
直後に開演を知らせるブザーが鳴り響き、耳がピクっと反応する。
照明が暗くなり、代わりに舞台上が煌々とライトアップされた。
先程まであったざわめきは消え、皆一様にこれから始まる『芸術』を見逃さないようにと身を正す。
……そうして始まった歌劇『水の乙女』は歌劇に明るくないリオセスリが見ても名作だと分かる、最高の出来のものだった。
切なくも美しい、優しき乙女の物語に静かに啜り泣く音が聞こえ始め、演者達がカーテンコールをする為に現れた瞬間は割れんばかりの拍手が起きた。
ヌヴィレット達も当然同じように拍手を送り、素晴らしい演目を見せてくれた劇団に感謝を示す。
やがて劇団員達が舞台裏に消え、落とされていた明かりが再び灯る。
熱気冷めやらぬ観客達は出口までの通路を渡りつつ、各々であの歌劇について噛み締めていく。
そんな人の波を、二人は座席に着いたまま見送った。
自分たち以外がすっかり居なくなってから、ゆっくりと外へ出ようと立ち上がる。
何となく、上りの階段でつまづいてしまわぬように彼女の手を取れば、くりんと目を丸くした後にそっと握り返してきた。
「水の乙女、凄く良かったな。」
ぽつりと独り言のように話せば、ヌヴィレットの嬉しそうな声が返ってくる。
「そうだろう?水の乙女は今まで見てきた歌劇の中でも特にお気に入りで、今日の再演は絶対にこの観光に組み込みたいと思っていたのだ。」
「龍のお姫様の折り紙付きか。あの劇団も鼻が高いだろうなぁ。」
あんなに大きな歌劇場の席が全て埋まるくらいだ。
劇団としても自分達の実力と人気を自覚しているに違いない。
暫くこの国に住むならまた見てみたいなと、リオセスリは歌劇場の扉を開けながら思った。
外は夕焼けの赤に染まり、白を基調とした建物達が一斉に紅を差している。
強い西日が眩しくて、きゅっと目を細めた。
じりじりと地平線の彼方へ隠れていきそうな太陽を見て、彼女は悲しそうに「もうこんな時間か」と呟く。
夕日の色に溶けていきそうなヌヴィレットは深紅の髪を揺らしながら歩き出し、ルキナの泉の前で立ち止まる。
大きな噴水から湧き出す水は傾き続ける陽射しを反射し、この日最後の輝きを放つ。
幻想的な赤の世界の中、彼女は隣に立つリオセスリの顔を真っ直ぐに見つめた。
「今日は本当にありがとう。お陰でとても楽しい一日になった。」
細められたドラゴンガーネットが、赤の光と混じって一層の美しさを現す。
柔らかく吹く微風が彼女の真っ赤な銀糸を靡かせ、夕焼けの世界へと馴染ませていく。
この大陸で一番美しいものは何か?と問われれば、今この瞬間であると答えたくなるくらいに、リオセスリの目の前に広がる光景は眩しくて胸に刻み込まれていくものだった。
「そろそろ、城に帰らねばならない……。これ以上は余計に大事になりかねないのでね。」
とても寂しそうで、残念そうな声。
リオセスリから元着ていた服を入れた紙袋を受け取りながらも、まだ帰りたくないとその美しいかんばせは素直に訴えている。
しかし、そうやって余計な我儘を貫き通した際の迷惑も分からないほど彼女は無責任では無い。
今なら、まだ笑い話にできる。…だから彼女は城へと帰ると決めた。
行きと同じように並んで巡水船に乗り、城前の小広場まで歩いた。
城門まで向かってしまう前にここまで連れ立ってくれた優しい狼へ、龍の姫はたった一言「いつか、また」と告げてから、本来あるべき場所へと戻って行った。
彼女が城の兵士達に心配され連れ添われながら城内に消えていくまで、リオセスリは跳ね橋の向こう側で立ち尽くしていた。日が落ち切り、夜が顔を覗かせるその時まで。ずっとーー。