それはいつものように審判を終え、パレ・メルモニアへと帰ろうとした時のことである。
歌劇場の表玄関前の階段を降りようと足を上げたのを見計らったように、物陰から飛び出してくる影があった。
手元で鈍色に輝くそれは隠しきれない悪意の塊で、気がついた周囲の人の静止を振り切りヌヴィレットへと迫っていく。
今回有罪判決を受けた人物の仲間か恋人か。
怒りに満ちた表情の相手に、一歩遅れて気が付いたヌヴィレットは神の目を起動させ抵抗しようとしーー。
歌劇場前に響き渡る悲鳴。
飛び散っていく赤。
派手に転がり落ちた音。
水元素力による反撃を受けて怯んだ犯人を、急いで駆けてきた護衛が取り押さえる。
彼は他の警備兵達へ指示を飛ばしながら、無力化した相手を兵の一人へと受け渡す。
一部始終を目撃した職員の手によって歌劇場内から持ち出された救急箱を使い、護衛の男は懸命に止血を図る。
少しでも、呼びに行かせた医者が到着するまでその命が持ち堪えるように。
包帯を巻いたそばから血の赤が滲んでいき、刺された傷の深さを感じてしまう。
ツンと鼻を刺す錆びた鉄に似た匂いに男の顔はどんどんと歪んでいく。
「(クソっ、油断した!たった一瞬でも、この人から目を離すべきじゃなかった……!)」
後悔が次から次へと生まれては消えていき、自身の不甲斐なさと力不足を実感する。
彼の…ヴォートランの懸命な応急処置によって余計な出血を免れたヌヴィレットは、遅れて到着した医療チームによる的確な処置を受けたことで一命は取り留めた。
これ以上の対応は病院でなければ、という事で彼らは決して揺らして刺激する事がないよう、最高審判官様を連れていく。
この場に留まり、今後の対応をする必要があったヴォートランはずっと、巡水船乗り場の方へと消えていく血に濡れた護衛対象を眺めていた。
ヌヴィレットが目覚めて一番最初に見たのは、潔癖過ぎるほどの真っ白な天井だった。
ここは何処だ?と記憶を辿れば、直ぐに自分が誰かに刺された事を思い出す。
背中から伝わる熱い痛みが、そんな記憶の裏付けをしてくれる。
余程強い恨みが自分にあったのだろう。
この身に深く刃を突き立て、死に追いやろうとしたのだから。
自分のこの立場が人々から恐れられ、罪を犯した者たちから憎まれることは重々承知している。
しかし、実際にその憎しみや恨みを受けたとなると…少し悲しくなった。
正しさや公平さは、如何なる時も人を救う訳でない。
そう、突きつけられた気がしたから。
……だからと言って、己が掲げる『正義』をねじ曲げる訳には行かない。
情に負け、罪に蜜を与える事は人を真に救うものでは無いし、全ての人の心を救う事が正しさに繋がらない事を知っている。
それ故に、今回のような事が起きるのは想定していた。
ただ少し、油断していただけで。
重苦しい息を吐き、ズキリと走る痛みに目を固く閉じた。
もう眠ろう。起きていては嫌な事ばかり考える。
このまま入眠しようとした瞬間、静かな病室に気配が増えた。
ゆっくりと瞼を開け、足音を隠すことなく近づく相手へ顔を向ける。
想像していた通り、黒い霧を纏った男がこちらを見下ろしている。
彼は透き通る氷色を細め、ひんやりとした指先で頬を撫ぜた。
「ヌヴィレットさん。」
ぽつりと呟かれた言葉は平坦で、彼が何を思っているのかよく分からない。
友人に害を加えられて悲しんでいるのか、怒っているのか。
もし怒っているのなら、数百年前のあの事件のような事を起こさないように説得しなくては。
口を開こうとした途端、公爵はそっと指をヌヴィレットの唇に添えた。
「大丈夫。あんたが思っているようなことはしないさ。」
こちらを安心させるような微笑みに、ホッと緊張が抜ける。
大きな掌がくしゃりと頭を撫で、心地のいい刺激に段々と意識が沈んでいく。
あからさまにうとうとし始めたのに気が付いた彼は、酷く優しい声色で「おやすみ、ヌヴィレットさん」と囁いた。
ーーすぅすぅと穏やかな寝息が聞こえる。
深く刺された傷の事もあって、体が休息を求めているのだろう。
リオセスリは近くにあった椅子に腰掛け、眠るヌヴィレットの顔をじっと見つめた。
「(命に別状がなくて良かった…。)」
本日審判を受けると聞いていた奴とは別の人間までメロピデ要塞に連れて来られた時に、水の上で何かしらトラブルがあったのは察していた。
まさか、そのトラブルが最高審判官の闇討ちだとは思わなかったが。
五月蝿く喚き散らす人間の言葉を聞いて、どれだけ肝が冷えたか分からない。
水神と一応の盟約を結ぶ流刑地の支配者としてやるべき仕事を済ませてから急いで見舞いに来たが、真っ白な世界で眠っている姿の痛ましさに僅かばかりの心が苦しくなる。
大量に血を流してたと聞いていただけあって元から白い肌は青白く、血の気を感じさせてくれない。
細く、華奢な手をそっと握る。
「(生きていて、本当に……良かった………。)」
失うかもしれないとなってから、彼がいつ死ぬかも分からない脆い命なのだと自覚した。
散々殺めてきた人間と同じ命なのだと、愚かしくも今分かったのだ。
「この人が人間だなんて、最初から分かってたのになあ。」
あまりにも細い首を眺めながら、『異形』は呆れた表情を浮かべた。
ヌヴィレットの入院が決まってから、多くの知人や部下達が見舞いに訪れた。
その中でも特に足を運んでくれたのは上司であるフリーナや、専属の護衛であるヴォートラン。そして、彼の一番の友人であるリオセスリ。
彼女達が頻繁に訪れ、気にかけてくれるお陰で一人きりの病室でもあまり寂しさを感じなかった。
それと同時に、優しい彼女達に心配をかけてしまった事への申し訳なさも込み上げてくる。
仕事にも早く復帰して、部下にかけてしまっている負担も軽減せねば。
あとどれくらいで退院できるだろうかとか、もっとしっかりせねばと考えては溜息を吐く。
……もしこの場にフリーナが居たなら、そんな辛気臭い顔をするなと怒られていたかもしれない。
手元に残された神の目を転がして遊びながら、ぼんやりと外を眺めていると不意に病室の扉が開いた。
「あ……、リオセスリ殿…。」
「やぁ、何だか暗い表情だな。嫌な事でもあったのかい?」
問いかけながら歩み寄る彼はさながら父親のようで、不思議な安心感を覚えてしまう。
同じような感覚をフリーナを相手にしている時も覚えたので、きっと人間よりも遥かに長生きである彼ら特有の『親の顔』なのかもしれない。
静かに目線を合わせてくれる彼に対して、どう答えるべきか少し考え…素直に胸の内を話すことにした。
「いつ退院出来て、仕事に復帰できるのか考えていた。」
「もう仕事の事を考えてるのか。ずっと病室に居て暇なのは分かるが、少しは気を楽にして体を休める事に集中しな。」
「……分かってはいるのだが、知人達に心配をかけ続けるのも、部下に仕事の負担をかけ続けているのも申し訳ないのだ。」
そう言って俯いたヌヴィレットの肩を、リオセスリは優しく抱き寄せた。
急な接触に驚いて跳ねる体も気にせず、彼は話し出す。
「病人で、気遣われるべきあんたがそんな事気にしなくていいんだ。」
「だが……。」
「あんたは、俺のような『怪物』じゃない。少し深く刺されただけで死にかける人間なんだ。そんな存在に一刻も早く復帰して仕事をしろなんて、誰も思わないし望まない。」
震えた、悲しそうな声。
ヌヴィレットは心優しい公爵を悲しませてしまったと、胸の奥がチクリと傷んだ。
こちらまで泣きたくなる気持ちになり、目頭が熱くなる。
まるで互いの気持ちが共鳴し合っているみたいに、病室の空気が重苦しい。
窓から差し込む光は雲に遮られ、先程までカーテンをたなびかせていた風もピタリと止んだ。
奇妙な沈黙が続き、その間もずっとリオセスリはヌヴィレットの肩を抱いていた。
ーーどれくらいこうしていただろう。
おもむろに彼は体勢を戻し、心配そうなフロスティブルーでこちらを見つめた。
「俺はヌヴィレットさんを失いたくは無い。だから、生き急ぐようなことはしないで欲しい。」
「生き急いでいるつもりは、」
「あんたはそう思ってないかもしれないが、俺にはそう見えるんだ。ほら、さっさと休んで?」
慣れた動きでベッドに寝かされ、深々と布団をかけられる。
あまりの早業に数秒ほど、寝かされたのに気がつかなかった。
ポカンとしている間にリオセスリは扉のそばまで進んでいて、こちらが引き止める間もなく帰ってしまった。
先程まで人が居た分、余計に静かで寂しく感じる病室。
もしかしたらもっと話したい事もあっただろうに、気遣わせてしまったと思ったが、それを考えるのも彼への失礼になってしまう。
言われた通り素直に休もうと、今度こそ夢の中へと意識を沈めたのだった。
「……あれ、見覚えのある姿だと思ったら公爵じゃないか。君もヌヴィレットのお見舞いに来てたんだね。」
聞き覚えのある声がして、振り返ってみれば案の定かの水神様が手土産を持って立っている。
あまり彼女とは仲がいいとは言えないし、向こうも思っていないだろうから無視してもいいと考えたが、ちょっとした気まぐれでこのまま相手することにした。
「そう言うフリーナ様もヌヴィレットさんの見舞いかい?」
「そうに決まってるだろう?僕が最高審判官に選んだ可愛い部下なんだから、見舞いに行くのは当然の事さ。」
胸を張って大袈裟に話す姿に「ふぅん」とだけ返し、その芝居がかった仕草の真意を読み取ろうとする。
きっと彼女の事だから、ヌヴィレットが悪漢に襲われた責任は自分にもあるなんて考えているのだろう。
何せ襲われた理由の一つである立場に任命したのは、先程の言葉通り彼女本人なのだから。
しかしまあ犯罪者から恨みを買った最高審判官が暴行されたり殺されたり、そんなのは当たり前にあったことだろうによく律儀に悲しめるものだ。
ヌヴィレットが傷付けられ悲しんでいる自分の事は棚に上げ、リオセスリは苦笑する。
それとも、フリーナにとっても今回の最高審判官は大切な存在なのだろうか?
人間に対し慈悲深い水神サマの事だから、毎回悲しんでいてもおかしくは無いが…そんな真偽を問うほど興味もない。
『盟友』との会話もそこそこに公爵は己の領地へと帰ろうと歩き出す。
「今から見舞いに行くなら静かにするのを勧めるよ。さっき寝かしつけたばかりだからな。」
相手からの返答は聞かず、そのまま影の中に溶けるように公爵は病院から姿を消した。
次にヌヴィレットに会いに行く時は、彼の元気な姿が見られればいいなと考えながら。
「ヌヴィレット退院おめでとう!」
「本当におめでとうございます、ヌヴィレット様。」
「あ、ああ……ありがとう、皆。」
最高審判官襲撃事件から暫くして、すっかり全快したヌヴィレットは晴れて本日退院することになった。
予め退院予定日を聞いていたフリーナは大変な目に遭った部下を労うべく、ホテル・ドゥボールを貸し切って退院祝いのパーティを開こうと計画していた。
退院日の数日前にこのパーティの事を聞かされたヌヴィレットは当初、「気持ちは嬉しいが、そんなに大袈裟なことはしなくていい」と断ったのだが、どうしてもというフリーナの圧に負けてしまいこの日を迎えている。
参加者は思っていたよりも多く、皆一様にヌヴィレットの回復を喜んでいるようだ。
護衛として隣を陣取るヴォートランも顔には出していないが、ヌヴィレットの元気な姿に安心と喜びを覚えているようで、いつもより酒の進みが早いように思える。
「ヌヴィレット様。ヴォートラン隊長がいつもよりはしゃいでいても許して欲しい。あの人はずっとヌヴィレット様を守りきれなかったことを悔やんでいてな…こうして無事に戻ってきてくれたことが何よりも嬉しいんだ。」
「おい、余計なことを言うな!それに、俺はもうお前の隊長じゃない。」
現特巡隊の隊長である少女に暴露され、ヴォートランはむすりと表情を歪めた。
確かに普段よりも感情的になっているようで、彼が照れ隠しとして怒っているのが丸わかりだ。
「そうやって怒るのは図星である証拠だと思うが?」
「っ……、もういい。お前はあっちで揚げ物でも食べていてくれ。」
「言われなくてもそうするつもりだった。では失礼する、ヌヴィレット様。」
見事な敬礼を見せた後、彼女は離れたテーブルに置かれた料理の元へと向かっていく。
その場に残ったヴォートランと言えば、気恥ずかしそうに頭を抱えてはヤケ酒を煽っている。
「ふふ……。」
「何、笑っているんですか。」
「いや、失礼。君がそんな風に酒を煽る姿は新鮮で……可愛らしいな、と。」
「……はぁ。こっちはかなり貴方の事を心配して、護衛としての役割を果たせなかった事を悔やんでいたと言うのに…。」
「失礼、と謝っているだろう?」
少しだけ拗ねたような声を出せば、じろりと刺すような視線が返ってきた。
病室で定期的に会っていたとはいえ、ここまで気さくなやり取りはしていなかった。それ故に、今こうしたやり取りが懐かしくも楽しく感じる。
それは相手も同じようで、直ぐに柔らかな笑みを浮かべてくれた。
「おかえりなさい、ヌヴィレット様。」
「ああ。……ただいま、ヴォートラン。」
暖かな雰囲気が広がり、ぬっと割って入ってきた人物によって霧散した。
「なぁに二人だけの空間を作ってるんだ〜?」
「……公爵様。」
「リオセスリ殿も来ていたのだな。」
やれやれと言いたげな公爵の態度に二人は別々の反応を見せる。
これが信頼度の差か…とリオセスリは笑い、わざとらしく間に立ってヌヴィレット達の距離を離す。
分かりやすすぎる動きにヴォートランは苦虫を噛み潰したような顔を強めたが、結局は何も言わずに相手の足を踏んづけた。
思わぬ反撃を受けた公爵は驚きのあまり普段はしまい込んでいる尾を露わに、素知らぬ顔で酒を飲む人間を横目に睨んだ。
一触即発のようにも思われる状況だが、めでたい席だからかそれとも公爵が丸くなったのか、子供の喧嘩のような空気になった程度で済んだようだ。
傍からその様子を見ていたフリーナも胸を撫で下ろし、このまま公爵がトラブルを起こさないことを願った。
「わざわざ水の下から回復祝いに来てくれて感謝する、リオセスリ殿。」
しっかりとお辞儀し感謝を示す今日の主役へ、リオセスリは頭をあげるように言った。
「あんたの親愛なる友人として、祝いの席に参加するのは当然のことさ。」
「そ、そうか。」
『親愛なる友人』と呼称された事にヌヴィレットはぽっと頬を染め、モジモジとしながらも頭を上げる。
改めて友人関係である事を口にされると、交友関係が極めて狭かった彼はどうも嬉しさと恥ずかしさが込み上げてくるようだ。
初心で愛らしい人間を慈愛の目で見つめ、すっかり調子を取り戻して明るい顔を見せてくれるのを目に焼きつけた。
彼と長くは無いが、決して短くも無い時間を過ごしてきた中で、この麗人に一番似合うのは笑顔なんだと確信している。
だから、ヌヴィレットがころころとプラスの表情を見せてくれるのがとても嬉しいし、喜ばしい事だとこちらも胸が温まる。
そして、この表情が二度と…愚かな人間の手で曇ってしまわぬよう守らなければと、密かに心に誓う。
今回の件で余計に、人間は儚く散りかねない存在なのだと自覚した。
…この『友人』が、己にとって遥かに大切な相手になっていることも。
もしも、またこの人が傷付けられてしまった時は。
問答無用で絶対に安全だと思える巣に連れて帰ってしまってもいいかもしれないな、と人ならざる公爵は影のような尾を揺らした。