刃ちゃんの異世界冒険記 草木も微睡む深夜零時、刃は異世界に居た。
いや、正確にはここは惑星地球にある刃の家の近くの薬局であるのだが。刃にとっては未知の世界が目の前に広がっている。近くで足音が聞こえる度にぴくりと身体を跳ねさせている刃の姿を同僚が見たらどう思うのだろう。それでも、果たすべき使命のためを刃はじっとその場で、───生理用品コーナーの前で、何を買えばいいのかを真剣に悩んでいた。
そもそもの話は数十分前に遡る。眠っていたはずの刃はぐい、と身体を引かれる感覚で目を覚ます。何事かと、その大きな身体をのっそりと起こすのと同時に下敷きになっていたシーツが抜けて、横からどたん、と大きな音が聞こえた。
「……何をしている」
刃が音の原因を探せば、意識があるまで腕の中に閉じ込めていたはずの丹恒が床で尻もちを付いている。その腕の中にある白い布が証拠だ。わざわざ恋人のために用意した柔らかなベッドではなく、なぜそんな床にいるのか。何気ない疑問を簡略化して問うのは刃にとっては当たり前のことであるのだが、今日に限ってはその当たり前が悪い方向に働いてしまった。
ぼろり、と翡翠から水が零れる。いきなりのことに唖然とする刃の前で、丹恒の瞳からはぽろぽろと大粒の涙が零れていく。
「どうした」
刃は急いでベッドから下りると、身体を小さくする丹恒と視線を合わせるように床に膝を付く。普段から色の白い丹恒ではあるが、今はやけに血色が悪い、それになんだか寒そうにかたかたと身体が震えている。あやすようにその背中を撫でれば、ぽろぽろと泣くだけであった丹恒はしばらくして、消えそうな声で呟いた。
「ごめん。シーツ、汚して……」
よく見れば、丹恒が握り締めたシーツに赤黒い染みが付いている。広範囲に広がるそれは、普段から生傷の絶えない職場にいる刃には見慣れたものだ。同時に、怪我をしていないはずの丹恒が刃に見つかる前にこれを処理したかった理由も何となく察することが出来た。
「少し待て」
とにかくまず身を綺麗にさせるのが先決だろうと刃は立ち上がる。湯を張った湯舟で冷たい身体を温めさせ、汚れた衣服とシーツは水に浸けておく。布の染みは薬品で落とせば大丈夫だが、一番の問題は丹恒自身にこれらの準備があるかどうか、である。
「必要なものはあるのか?」
「……ない。急に来た、から」
浴室の扉一枚挟んだ声に覇気がない。普段の凛とした姿からは想像も出来ないほど沈む丹恒の様子に胸が痛む。それほどまでにショックだったのだろう。こんな時気の利いた言葉の一つや二つかけてやれればいいのだが、それが出来れば丹恒と恋人にまるまでの期間をあと一年ほどショートカット出来ているはずなのである。
「しばらく浸かっていろ」
一番近い薬局までは走れば五分もかからない。必要な物を揃えて帰ってくる頃には丹恒も落ち着いているだろう。そんな事を考えながら刃は財布を手に取った。
自分でも気が付いていなかったが、この時の刃は初めての事態に軽くパニックを起こしていた。なので、必要な物を買いに行くはずなのに何を買えばいいのか分からぬまま部屋を飛び出したのだった。
という訳で現在、初めて見る商品を前に刃は完全にお手上げ状態である。まずどれも似たようなパッケージにも関わらず記載が微妙に違うのは何故なのか、昼と夜で使い分けるのか、羽が付いているのといないのとでは何か違うのか。
唯一分かることと言えば、このコーナーに男がいるのが不味いということである。先ほどから品出しのフリをしてこちらの様子を伺う店員の目線が鋭利な刃物のように突き刺さる。
一人ではどうしようもない刃は携帯を手に取る。最初に頭に浮かんだのは職場の上司であるカフカの顔。女の身体のことは女に聞くのが一番だろうと、メッセージアプリを開く。しかし、現在午前零時を少し過ぎた時間帯、こんな真夜中に女上司に生理用品の質問をぶつけるのは果たしてコンプライアンス的にどうなのか、という疑問にぶち当たり諦めた。刃は意外と対面を気にする男なのであった。そうなるとあと頼れそうなのは、この時間帯に起きていそうで尚且つ丹恒のことを質問出来そうな相手と言えば……。
刃は携帯に登録された数少ない番号に電話をかける。
「っるせぇな、今何時だと思ってんだ! 今日は閉店だ阿呆!」
電話口から不機嫌そうな男の声が聞こえる。そんな男の様子など無視して刃は尋ねた。
「姉の方はいるか」
「あ? なんだよ刃か。丹楓に用事なんて珍しい?」
電話口の男、刃の兄である応星は先ほどの怒気を少し抑えて尋ねる。
「いるなら代われ、今すぐ」
「つっても、熟睡してるし多分起きないぞこれ。さっきまで無茶させてたからなぁ」
「知らん、叩き起こせ」
ふふん、と自慢気な声が無性に腹が立つ。隙を見せた刃が悪いのだがこの男の隙あらば惚気る悪癖はどうにかならないものだろうか。
「随分と余裕がないな。何かあったのか?」
「貴様では話にならない」
「そりゃあ聞かないと分からないだろうが」
言わなければ話が進まない状況に思わず舌打ちをする。非常に癪ではあるが、一人ではどうしようもない事もまた事実。刃は重たい口を開く。
「……生理用品はどれを買えばいい」
「は?」
数秒間電話口が無言になる。暫くしてあー、と納得したような声が聞こえて来た。
「なるほどな。丹恒か」
「うるさい、黙れ。分かったならさっさと代われ」
「まぁ待てって。……てか、二種類あるならどっちも買えばよくないか?」
「その二種類も色々ある」
「とりあえず真ん中買っとけって、多分間違いないだろ」
「羽が付いてるのと付いていないのがある」
「え、それは羽付きにしとけよ」
「何故」
「餃子は羽付きのが美味い」
「殺すぞ」
思わず純粋な殺意をぶつける。こちらは今そんなふざけている場合ではないのだ。
「悪かったって。でも、予備パーツある分とない分だったら予備パーツ付いてる方が安心だろ。無いものは付けられないし」
確かに、と思う。一々腹の立つ言い方をしてはいるが応星の考えは一応参考にはなっている。条件にあいそうな商品を籠に入れて刃はレジへと向かう。
「あ、あとカイロとかあっためられそうなもの買えよ。腹が冷えると痛いらしいぞ」
「分かった。……礼を言う」
「え~、なんかお前が素直だと気持ち悪いな」
これまでの会話なんてしていなかったように電話を切り、いくつか必要そうな物を見繕いレジに向かう。こちらとは一切目を合わせず素早い動きでレジを通す店員を見ながら、もうこの薬局は使えないな、と考えつつ刃は家路を急いだ。
「戻った」
予定よりも遅れたものの、刃が覗いたときには丹恒はまだ浴室にいた。買い物袋ごと浴室に置いてリビングに腰を落ち着かせていると、ぺたぺたと、廊下を歩く足音が聞こえた。
ほこほこと湯気の上がる丹恒はまだ少し血色が悪いものの、先ほどと比べて落ち着いているようだった。
「すまない、迷惑をかけた」
「構わん。具合は?」
「さっきよりは幾分か楽になった。……あとこれ、色々とありがとう。その、買い辛かっただろう」
レジ袋の中身を見て、恥ずかしそうに丹恒が言う。お前の体調に比べれば近所の薬局に永遠に立ち入れなくなったことなど些細な話である、などということは口には出さず、刃はただ、ふん、と返すに留めた。
「落ち着いたのなら寝ろ、身体を冷やすな」
同じベッドで眠るのは気になるだろうと、ソファーに横になろうとする刃の服の袖が遠慮がちに引かれる。
「あ、の」
「なんだ」
丹恒はうろうろと視線をさ迷わせながら、何か言いかけては口を閉じる。それを何度か繰り返し、ようやく、丹恒は意を決したように口を開いた。
「心配なら、お前が温めてくれ」
一人だと寒い、と小さく呟く。湯上りのせいではない、真っ赤に染まる顔を見て刃は思わず大きく溜息を吐いた。
「嫌ならいい、また汚すかもしれないし」
「うるさい、来い」
そのまま丹恒の手を引いてベッドに横になる。二人分の体重を受けたスプリングがぎゅう、と音を立て、それに負けないぐらい強く丹恒を抱きしめてやる。
「刃、痛い」
「我慢しろ」
そう呟く丹恒だったが、腕の中から覗く表情は穏やかだ。くすくすと耳に心地よい笑い声を聞きながら刃はようやく安心して目を閉じるのだった。