手紙の話 紙にインクで口づけをするように丁寧に、しかし少しも澱みなく、アジラフェルのペンはいつでもするするとスマートに動く。彼は文章を読むのと同じくらい、書くのも好きなのだ。報告書を作るのも苦にならないし、日記もつけている。手紙をしたためるのも好きだ。趣味に合ったレターセットを出す当てもなく買い集めて眺めたり、小さなかわいい切手を並べては枚数を数えたりする少女じみた楽しみもあった。たまに、しまいこんでいるばかりでは勿体ないからと用もないのに友だちに便りを書いたりもする。
ふだんは滞ることなく進む筆がふと止まってしまうのは決まってこの時だ。友だちの悪魔に手紙を書く時。
それは大抵、重要でもなんでもないことを書く時に起こった。たとえば、「今年の冬は特別寒いみたいだ。寒がりの君が外に出られるか心配だよ」とか「むかし君とクレープを食べに行った店の前を通りがかったら新しいお菓子を売っていてついつい足を止めそうになったけど、仕事中だから我慢しないといけなかった」とか書いている時に、次の言葉を繋ぎかけて、手が止まる。
そうして書き損じた便箋が机の抽斗に溜まっていっている。
別に上司に宛てた畏まった文書でもない。一字くらい書き損じてもちょっとインクを擦って誤魔化してしまえばいい。もともと大した用事の手紙でもないのだから捨ててしまってかまわないのだ。しかしそうしなかった。なんとなく、自分で持ったままでいようと思ったのだ。
「いい加減おまえのとこも電話を引けよ、不便だろ」
クロウリーからそう指摘を受けたのはずいぶん長引いた喧嘩の後で、仲直りの嬉しさも相まってアジラフェルは咄嗟に誤魔化すことができなかった。つい、ぽろっと「店の電話ならある」と言ってしまったのだ。
「は? なんで……」と言いかけてクロウリーが黙る。なんで俺に教えない? と言いたいのだろう。わかる。しかし最近までわれわれは喧嘩をしていたし、そりゃあそうかと思い直したらしい。アジラフェルがクロウリーにお店の番号をおしえ渋るのは別に喧嘩があとを引いているからではなかったが、悪魔は気まずそうに「あー」と呻いてから静かな声で弁明を始めた。
「なあ、手紙だって嫌なわけじゃないんだ。ただ俺はあんまり得意じゃないから……その、返事を書いたりするのが」
「え?」
「だから、悪かったよ……そういうのも電話の方がまだ……つまり、お前ばっかりに喋らせて返事もしないっていうのをやめられると思った」
グラスに口をつけてこちらを見る悪魔の目が妙に哀れっぽくて、アジラフェルは焦った。 クロウリーから手紙の返事が来ないのを特段気にしたことはなかったが、こうまで言わせてしまってはもはや自分の懸念はどうでもよかった。「教えるとも!」と言葉尻を奪うようにして悪魔に電話番号を明け渡してしまったのだ。
果たして書店に電話のベルが鳴ったのはそれから二週間ほど経った夜のことだった。思ったより早い。いや、あれから毎日毎晩彼からの電話を待っていたから、実際どうだかわからない。焦らされてる気もした。
「…………アジラフェル?」
なぜか少し自信なさげに呼びかける声が耳元すぐ近くで聴こえた。「ああ……そう、わたしだよクロウリー」そう言ってやると受話器の向こうで悪魔がらしくなくほっとした気配がする。
「今、ちょっと早いけど店の看板を下ろして、ちょうど待ってたとこだったんだ」
「待ってた? 何を?」
「君からの電話を」
クロウリーが「ああ……そう、そうか」と他人事のように言うのがおかしくてアジラフェルは笑った。
「そういえば、俺もパリに出向くとあの店を気にするようになった。クレープの」
「ああ! 本当に美味しい店だから、長く続いて嬉しいよ」
「あれ飲んだか? 林檎酒の美味いのを出すだろ」
他愛ない話だった。他愛ない手紙の返事なのだから、当然と言えば当然だった。
アジラフェルはクロウリーの話に相づちをうちながら、書き損じの手紙の束が抽斗の中にしまってあるのをぼんやりと思い出していた。
「…………君に会いたい」
幾度となく書き出して、しまい込んできた言葉だった。
危惧していたのはこれだった。手紙ならば書いても消してしまえばなかったことにできるが、電話ではそうはいかない。ひっこめられない。
アジラフェルは、とうとう言ってしまったとどぎまぎしながら耳をすました。酩酊した時のように感覚が馬鹿になっている。握りしめた手が汗で熱い。ごうごうと耳の中ですごい音がする。すまない、忘れてくれと無い抽斗に手をかけようとした所で「ああ、いいけど」と返事があった。
「……いいのか」
「どこで会う?」
「え? いいの?」
「何か問題があるか? 今日はもう店じまいしたんだろ?」
いいのか? えっ? いや、いいのか……
「おい、エンジェル?」クロウリーが訝しげに声を潜める。
「あ、いや、なんでもない。ありがとう」
「……とりあえずそっちに向かう。ディナーはどこにするか考えておいてくれ」
何百年も躊躇ったのが馬鹿みたいだった。なんだ、言ってもよかったのか……
アジラフェルはまだ抽斗に眠っているいくつかの言葉に思いを巡らせた。いつか言っても構わないと思うかもしれないそれらに。
「じゃあ、待ってるとしよう」
「ああ……じゃあ」
「そうだね……ああ!」
「なんだ!? 急にでかい声を出すな!」
「一度電話を切らなくちゃいけないのか! 残念だ……移動しながらも話せたらいいのに」
「そんなもの発明されるなんて俺がもう一度だれかに知恵の実を授けない限り無理だろうよ」
軽口を叩きながらクロウリーも受話器を置くタイミングを計っているのがわかる。
「……ありがとう、クロウリー。待っているよ、優しいわたしの悪魔」
ついでにもう一つくらい……と抽斗から引っ張りだした言葉は悪魔のお気に召さなかったらしい。勢いよく電話は切られて、ふと目をやった窓の外に雨の気配が過ぎった。にわか雨に追われて駆け込んでくるかもしれない友だちを迎えるためにアジラフェルは店の扉を開けようと立ち上がった。