Sugar, Spice and everything nice「君の羽根が一枚欲しいんだけど」
「は?」
「私の羽根もあげるから、お互い交換して持っているのはどうかな」
さも名案だというように微笑む天使をクロウリーは信じられない思いで見た。
「……一応聞くけど、なんのために?」
「お守りにしようと思って」
知ってる。100年くらい前に流行ったやつだ。恋する相手の髪の毛を一筋もらって、戦地に持って行ったり、一方で無事を祈ったり、そんなに深刻なやつでなくても、遠く離れる悲しみを紛らわすために愛しい者の一部をいつでもそばに置いて懐かしんだり思いを馳せたりする、要は恋人同士のする、そういうやつだ。え? そういうやつか? そういう……? え!? どういう!?
「その、だめかな?」
「…………だめじゃない」
「よかった!」
クロウリーはもうかなり混乱していたし、なんならまだ上手く事態が飲み込めていなかったが、それを気取られるわけにいかなかった。なので、古書店の奥の間、羽を広げるには少し狭かったが、パチンと一つ指を鳴らすと、アジラフェルのために夜空の色の翼を控えめに現してやった。
「どれでも好きなのを」
「えっ」
「いらないのか?」
自分から言ったくせに、えらくおどおどとした手つきでアジラフェルは悪魔の羽に手を伸ばす。
「取っていいの?」
「いい」
「痛くない?」
「1回もう全部焦げてる」
地の底の硫黄の臭いが羽に染みついていやしないか、クロウリーは一瞬気にしたが、そっと触れてくる天使の指の感触にすぐどうでもよくなった。
アジラフェルはクロウリーの右肩の付け根のところのやや小さく、でもふわふわとした羽に手をかけた。
「それか?」
「……ああ」
「隣のまで毟るなよ。1枚だけだ」と念押しするクロウリーに注意深く頷いて、アジラフェルは羽をつまむ指に力を込めた。ぱつ、と僅かな手応えの後にふわふわとした羽が爪先をくすぐった。やわらかく、軽い感触だった。つかまえておかないとすぐ逃げ出してしまいそうで、眺めるのもそこそこに用意しておいた箱に閉じ込める。
「……ありがとう」
「ああ」
アジラフェルが羽根をしまった箱を宝物のようにじっと抱えているので、クロウリーは次の展開が待ちきれずむずむずと膝を揺らして、もう一度パチンと指を鳴らして黒い翼をひっこめた。この狭い部屋で二人分の羽をわさわさとはためかすのは無理がある。
「…………それで」
「うん?」
「俺の分は!」
思わず苛立った声が出る。これではまるで自分が天使のお守り(語感だけで絶対に悪魔が欲してはいけないものだとわかる)を要求しているみたいだとクロウリーは歯噛みしたが、実際その通りだったので精一杯偉そうに強請ってみせるくらいしか誤魔化す手立てはなかった。
「ああ! もちろん、君にも私のを持っていてもらわないと」
眩しい白い羽が目の前に広げられると思ったクロウリーは慌てて外していたサングラスを手に取ったが、必要なかった。アジラフェルは翼を出さないまま、つるりとしたジャケットの背中をこちらに向けると、てくてくと奥の小さな金庫に歩いていく。
「さあ、君にはこれを」
差し出されたガラスケースの中に、まるでこのために誂られたようなぴったりの大きさ、ぴったりの美しい白い羽根が収められている。
「なんだこれ、わざわざ作ったのかこんな……」
「気に入らないかな?」
「……そんなことはないけど」
「ああ、よかった」
天使はそう言うと満足気にテーブルの上のワイングラスを手に取った。悪魔はまだかなり動揺していたが、やはりそれを気取られるのは面白くなかったので、向かいの彼に倣って羽根の入ったガラスケースをそっと膝に置いて飲みかけのワインに手を伸ばした。
なんてことない夜だった。澄んだ空気に金色の月がくっきりと輝いていた。大昔面倒を見てやった星々も踊るように瞬いて、地上では人々がはしゃいでいた。クロウリーは渋甘い赤ワインを舌に滲ませながらなんともいえないいい気分だった。向かいで座っている天使も同じように満ち足りた感じで、それもよかった。
クロウリーはそれからたっぷり天使の古書店でワインを飲んで、翌日の昼にランチを一緒にとってから自宅に戻った。ふわふわした気持ちだったが、ガラスケースはしっかり腕に抱えたまま帰ってきた。
天使の羽根はクロウリーの家の最奥の金庫の中、もしもの時の保険にと貰い受けた聖水の隣に置かれた。
悪魔はたまに金庫を開けてはそれをちょっと眺めたり、ケースをちょっとなでてみたりした。白い羽根はいつでもガラスの向こうできらきらと神聖に輝いていた。
異変が起こったのはハルマゲドンを未然に防いで、心穏やかな日々が訪れようとしていた、よりによってそんな時だった。
ガラスケースの中の羽根が崩れている。
クロウリーはさっと全身の血の気が引くのがわかった。震える手でケースを抱えて、上から下から眺める。何度見ても羽根の端っこの方が崩れて、ケースの底に粉々に落ちている。
なんだこれは。まさかあいつに、あの天使になにかあったのでは……
100年ずっと閉め切っていたガラスの蓋を開けて恐る恐る彼の羽根を手に取る。指を触れた先から繊細な感触はほろほろと砂のように崩れてしまい、クロウリーは「ひっ……」と息を飲んだ。
「あ、ア、アジラフェルに電話……っ」震える声でスマートフォンに命じると、何コールか聞きなれた音の後、「はい?」と呑気な声が電話に出た。
「は……アジ、アジラフェル」
「はい? クロウリーか? どうした? 何かまずいことでもあった?」
「なんともないのか」
「は?」
は? ではないのだが、なにごともなさそうな声にほっとした。
「どういうことだ? あー、今日はちょっと店の飾り付けで忙しくて……」
「ああ……そうか、いや、なにもないならいいんだ」
「あっ、暇ならちょっと手伝いに来てくれないか? おやつもあるし、ちょうどこれから休憩にしようと思ってた」
……ほっとしてから、なんだか腹が立ってきた。
絶対におかしなことが起こっているのにこの天使と来たら、なんだってよりによって今日はいつもより忙しぶっているんだ。こっちはお前から貰い受けた加護の一部が粉砂糖みたいに崩れて気が気じゃないっていうのに…………
砂糖みたいに?
クロウリーはガラスケースを手元に引き寄せて、もう一度まじまじと中の羽根を観察した。
「…………おい」
「うん?」
「今からお前の店に行く」
「ああ、ほんとに? ありが」
「手伝いに行くんじゃない! ダンスの準備をして待ってろ!!」
液晶を叩き割る勢いでタップする。電話を切って、ガラスケースを腕に抱えたままベントレーに乗り込む。めちゃめちゃに腹が立っているのにケースをシートに叩きつけてやろうとは思えなかった。そっと助手席に崩れかけた羽根を置いてエンジンを吹かす。10数えるまでもなかった。なぜならどう考えてもクロウリーは悪くないからだ。怒っていい。
怒りに任せてアクセルを踏むとベントレーは主人の望み通りに天使の古書店への道を急発進した。
「驚いた! 君それまだ持ってたのか!?」
「…………お前、天使だからってなんでもかんでも許されると思ったら大間違いだぞ」
アジラフェルは店に飾る予定らしいオレンジと紫のぴかぴかのモールを腕に抱えてクロウリーを出迎えた。なんだそのふざけたガーランドは。
「何百年前のイタズラだろ? これまで気づかなかったなんて思わないよ! むしろなんのリアクションもないからつまらなかったかもってちょっと落ち込んだのに……」
「天使がイタズラなんてするな!」
「するさ! ハロウィンだもの!」
「ハ!?」
クロウリーははっとしていつになく浮かれた書店の内装をぐるりと見回した。……そういえば、この羽根をやりとりしたのも今みたいな秋の時季だった気がする。
「………………ハロウィンのいたずら?」
「そう」
かくんと足の力が抜けてへたり込む。いまだ腹の底に怒りは燻っていたが、店内の間抜けな飾り付けの中で膝をついてみっともなくキレる自分は想像するだけで許せなかった。
「……お前になにかあったんじゃないかと」
「ごめん」
顔を上げたらアジラフェルが謝罪のダンスの角度に腕を上げて革靴がステップを踏む準備をしているところだったので、思わず吹き出す。
「いいよ、ダンスは」
「でも……」
「おまえが無事ならいいんだ」
書店の埃っぽい窓に、くすくす笑うような穏やかな昼の光が揺れた。ああ、そうだ。別に、プレゼントをもらわなくたってあの日もたしかに楽しかった。この店で、天使と二人ではしゃいで、楽しかったのだ。
「……いや、俺にイタズラをしかけるだけなら羽根を交換する必要なかったんじゃないか?」
「必要あるよ」
「お前、俺の羽根どうした? あの時の」
「必要ある。言ったろ? お守りに、してる」
天使が笑って小さく肩をすくめる。しらを切る時の仕草だ。見飽きるくらい見た。
「あの羽根、お前がイタズラで俺にくれたやつ、よくできてたな? 見ただけじゃ砂糖菓子だなんて気づかない。匂ったり舐めてみたりしないと」
「そうだろうね」
「お前……俺がお前の羽根をキャンディみたいに舐めてみるだろうと思ってあれを渡したのか?」
「…………いいや?」
天使は今度は明らかにクロウリーから目を逸らした。誤魔化すのが下手すぎる。
「……お前俺の羽根、舐め」
「してない」
「まだなにも言ってない」
「なにもしてない」
目が合わない。いや、この状態の天使と見つめ合いたいかと言われると全然そんなことはないからどちらかといえば助かるが。
「それよりクロウリー、そんなわけで私はまだ君の羽を大事に持ってる。どうだろう? だいぶ遅くなったけど、お返しに私の羽も一枚君に持っていてもらうというのは?」
「……ああ。ぜひほしいね。やっぱりダンスもつけてもらおうか」
天使に羽を広げさせたら、一番立派で一番きれいなやつを引っこ抜いてやろうと悪魔は決めた。
そして今度こそ、それを100年大事にするのだ。