No.928「ハロッズ行ったのか? その格好で?」
クロウリーはそう言ってしまってから、非難めいた口ぶりだったかもしれないとはっとして慌てて口を閉じた。
「エプロンは外してから行ったとも」
「ああ……でも、それで? それっていうのはつまりその……庭師の格好で?」
「そうだよ」
クロウリーほど着道楽ではないが、アジラフェルもそれなりに着るものにはこだわる質のはずだ。「いつもきちんとした身なりでいたい」ために、うっかり高貴な装いで革命真っ只中のパリにクレープを食いに行くようなやつだ。袖口を土で汚したまま街を出歩くなんて、ちょっと変だ。
「ああほら、今日はあれだろう? 我々の仕事の……本職ではない方の、つまりこの屋敷の庭師と、ナニーとしての給料日だろ?」
「そうだな」
少し前から反キリストの教育のため極秘の作戦を続けている天使と悪魔だったが、なにしろ極秘のことなので、二人は表向きはダウリング邸の庭師とナニーとして雇われていることになっている。なっているというか、実際雇われて、労働が発生している(今まさにクロウリーの方は今日の最後の仕事を終えて坊ちゃんの部屋から出てきたところだった)ので、賃金が支払われる。二人は天使と悪魔なので本来あくせく働いて生活費のために計算機を叩く必要は無い。お金の使い道といったら娯楽に費やすほかない彼らにとって屋敷勤めの給金は持て余すほどではないが、無くても別に困らないものだ。住まいは本職の福利厚生でお互いが気に入りの場所を見つけているし、食事や着るものにお金をかけることはあるが、それも趣味みたいなものだ。アジラフェルはここ以外にわずかだが本屋の収入もある。給料日を気にしたり、給料が入ったからといっていそいそと買い物に行くような真似は似合わない……というか、する必要がないのだ。
「……それで? 何を買ったんだ? くまのぬいぐるみでも集めてたんだったか?」
「まさか。……いや、欲しかった?」
「俺が? 俺はかわいいマフラーを巻いたくまなんて趣味じゃない」
「そうだろうね」
愉快そうにくすくす笑う天使にグリーンの紙袋を差し出されてクロウリーはまた首を傾げることになった。どういうことだ?
「オリバーという男を知ってる?」
「知ってる。お前の……庭師の同僚だな」
「そう。そのオリバーの細君が今週末誕生日なんだそうだ。プレゼントを用意したいと言うから」
「プレゼント選びに付き合ってやったわけか?」
相変わらずお人好しの天使だ。で、同僚と一緒だったから、庭師の格好のまま外出するほかなかったわけだ。なるほどな、とクロウリーは頷く。
「え? で? これはなんだ?」
依然自分に向かって差し出される袋の正体がわからない。アジラフェルが「これは君に」と袋の持ち手を握らせてきてやっと、天使が自分宛に買ってきたものだと理解する。いや、クロウリーは週末に記念日を控えている訳でもないし、アジラフェルの細君でもないので、なにかプレゼントをもらういわれはないのだが。
「これまであまり意識したことはなかったけどいわゆる給料日の楽しみというやつを私もやってみたくなったんだ。誰かにプレゼントを贈るなんて、天使らしい善い使い道だろう?」
贈る相手が悪魔でなければ、それはたしかにいかにも天使らしい給料の使い道かもしれなかった。クロウリーは「それはどうも…」とそいつを受け取って、またはて? と首を傾げる。酒瓶にしては軽い。というか小さい。中をあらためると底の方に人差し指くらいの大きさの小箱がかわいらしくリボンをかけられて転がっている。
「……化粧品? 口紅かなんかか?」
「そう。あと、これも君に」
紙袋を覗き込む視界に、ぱっと鮮やかな色でまとめられたブーケが割り込んできた。
「花買ったのか!? 庭に生えてるだろうお前の育てたのがたくさん!」
「あれは仕事で面倒をみてるやつだろう。用途が違う」
「……これは?」
何が違う? と問いかける悪魔にアジラフェルは目を細めて「これは、今晩レディをディナーに誘うための花だよ」と囁いた。
「坊ちゃんはもうお眠りに?」
「ああ……まあ、だから、今日はもう、どこかで紳士と食事でもして帰るだけだな。ちょっといい店に行ってもいいかも、給料日だし」
満足気な天使に「荷物を取ってくる」と言って屋敷の裏庭で待っているよう合図を送る。
花束に口紅とは、天使らしいベタなセレクトだ。しかし、誰が来るかわからない廊下のど真ん中で渡してくるのは流石にはしゃぎ過ぎではないだろうか。たかが給料日に。
さっさと手持ちのバッグの中に受け取ったものを移し替えてしまいたかったが、しまいこむ前に開けてみるくらいはしてみた方がいいかもしれないと思い直す。金色の細いリボンを解いてそっと箱を逆さにすると手の上にころんと艷めく筒が転がりでてくる。キャップを外してくるりと繰り出してみれば天使の趣味らしいベビーピンクが顔を出した。はしゃぎすぎだろ。どれだけはしゃいだら悪魔にこんなかわいいものを買い与えようと思えるんだ。
品のいい淡いピンクは唇に滑らせるとうっとりと輝いて悪魔を苛んだ。恥ずかしい。はしゃぎ過ぎだ、本当に。
「お待たせしてしまったかしら」
仕事着のままのアジラフェルに声をかけると「いいえ、レディ」と優雅に帽子をあげてみせる。庭師の風体で紳士然とした振る舞いをされると笑ってしまう。屋敷の門を出て一つ目の角を曲がったところでクロウリーがパチンと指を鳴らすと野暮ったいエプロンの庭師と古めかしいドレスのナニーはふっと姿を変え、二人の紳士が並んで路地に現れる。
「フレンチか?」
「いいね」
浮かれた気分で歩きながら、アジラフェルは隣の悪魔の唇に自分の贈ったピンク色がつやつやと光っているのを見た。
「よく似合ってる」と言うと、クロウリーは「そうだろうよ」と悪魔らしからぬちょっと照れた声で返事をした。