冬彰
どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。(萩原朔太郎『月に吠える』)
序章
燦々と煌めくスポット。
それが俺たちの肌を焼き尽くして、血液を沸騰させようとする。汗と酸欠で潤んだ目がぐらぐら霞む。吸っても吸っても上手く入らない息が、喉元を掠れて音楽に。低いベースが頭を殴って、エレキギターは胸ぐらを掴む。ストリングスとシンセサイザは、きりきり鼓膜を締め付けた。
「Vivid BAD SQUAD、まだいけるよ!」
拳を突き上げると、青い毛先から美しい水が散る。割れそうな程に歓声が上がって、杏の表情がぎゅっと堪えるように歪む。真っ赤な血潮を指先まではらませて、また爪の食いこんだ拳を突き上げる。
生まれ育った街、隣で歌う仲間。一度握りこんでしまって、二度と離せなくなった夢のぜんぶを、潤みきってしまった声で歌う。彼女の相棒の突き刺すような高音が、その切実な歌に寄り添った。
さよなら、さよならなんて、口が裂けても言えない。
愛してる、愛しているよ、どんな顔をして言ったらいいんだ、そんなの。
だからこうして、最後に歌っている。
声帯がぐうぐうと震えて、ばかみたいに哀しくて、淋しくて。心は骨が軋むほど物理的に痛んだ。声に赤黒い色と、脈動するような粘度が爆発するように混じった。彰人の声が攻撃的に掠れる度、冬弥の声がそれを掬いあげるようにして、彼らは丁寧に青春との別れを惜しんだ。
終わらなければいいのに、と思う。この血の沸騰が終わらなければ、ずうっと続けば、どれほど幸せなのだろう。
けれど、終わりだからこそ、さよならだからこそ、嵐は吹き荒れるものなのだ。その場にいた全員が、腹を突きぬけた足元の地面まで、痛いくらいに理解していた。
夢は叶った。俺たちは目が覚めた。
あとはただ、地面を歩くだけだ。
△△△
Vivid BAD SQUADは、新しい伝説になった。
RADWEEKEND、あの解散ライブの異様な熱狂を凌駕するほどの凄み。この街全体を再び巻き上げ、高く高く持ち上げうるような、螺旋の代謝の一番先。この街をまたあたらしい熱狂が包み込んで、ビビッドストリートは今まで以上に活気づいた。
彰人たちは、解散はしなかった。まだまだ、四人でやりたいことが沢山あったし、やれることも沢山あると思っていた。
けれど、Vivid BAD SQUADを名乗ることはやめた。やっぱり、伝説というのは、一区切りなのだ。次の世代へのエールと、この街と仲間と青春への惜別。餞を音楽と汗だけ流して伝えること。それが、伝説と呼ばれる所以なのだろう。内臓全てを抜かれるような寂寥感は、臓腑のひとつひとつにまで彼らの青春が染み込んでいたことの証だった。
ひかりかがやくような子供の時代。そこにいつまでもぐずぐず居座っていたら、きっと後がつかえてしまうから。
幼く拙い相棒たちは、ゆっくり大人になっていく。
△△△
一章
WEEKENDGARAGEにて
「……と言うわけで、冬弥コンクール優勝&レーベル契約おめでとう会!乾杯っ!」
杏がグイッとジョッキを掲げる。乾杯、とみんなで唱えて、思い思いに酒のグラスをぶつけ合う。子気味良い音が鳴り、Vivid BAD SQUADの四人は各々の一杯目を喉を鳴らして呑んだ。
「杏お前いいのかよ、そんなデカいの頼んで」
「いーのいいの、今日はこはねと冬弥のお祝いなんだから!」
「もしも杏ちゃんが酔っちゃったら、私に任せてね!」
「うんうん、よろしくねっ、こはね!」
杏は嬉しそうに頷くと、手にジョッキを持ったままこはねの方へ寄りかかる。こはねは「こぼれちゃうよぉ、杏ちゃん」とか言いながらもどこか嬉しそうだ。
「主役に酔っ払いの面倒見さす気かよ」
「だが、小豆沢も満更では無さそうだ」
「うおっ」
突然後ろから話しかけられて、
「いやあしかし、早いな。大学生組も卒業か」
「あ、はい!就職、というか、レコード会社と契約する形になったんですけど……」
夢のようで、夢を超えた夜からは、もう五年が経っていた。
△△△
「おら冬弥、鍵出せ、鍵」
彰人が催促するように背中の男を揺らすと、酔っ払いは「う……」と唸った。どうやらまた寝たらしい。彰人はため息をついて、「ポケットか?」とか言いながら冬弥の上着に無遠慮に手を突っ込む。カチャリ、と指先に金属が触れ、持ち主の体温が移ったそれを掴む。手を出す時に、冬弥の服の生地が随分と良いものになっていたことに気がついた。
(……そりゃ、そうだ)
いまや、有名レーベルお抱えの有望若手株なのだ。身なりだって変わるだろう。学生時代に「初めに目に付いた店で全身買った」とか言っていた、ペラペラで、石油のにおいがして、やけに雨を弾く素材のジャンパー。それを冬弥はまだ持っているのだろうか。
彰人は鍵を開けて、手を使わずに自分の履き古したスニーカーを脱ぐ。先に廊下に上がって、力の抜けて重たい冬弥の体を引きずりあげる。
「靴くらい脱げって、ほら」
「ん……」
冬弥はぼうっとしたまま言われるがままに屈んで、もたもたと靴紐をひっぱる。彰人はそれを大人しく待ってやり、ようやく脱げたら肩を貸して、ベッドまで連れて行く。
「ったく、冬弥のやつ、なんでこんなに」
酒の飲み方だって覚えてきた歳だ。冬弥は多分、こはねほどではなくとも彰人よりはずっと強いし、こんなにぐでぐでになってしまうなんて珍しい。
肩を傾けるようにしてベッドに座らせてやり、そのまま腕を引き抜こうとする。すると、思いのほか強い力でそれを抱えられ、彰人はよろけた。
△△△
カーテンを通した朝日は、涼やかなラムネ瓶の色をしていた。
冬弥はガンガンとする頭を抑えながら、むくりと起き上がった。まだぼやけた視界できょろきょろと辺りを見渡す。
(確か、昨日は彰人が送ってくれて……)
珍しく飲みすぎてしまったが、記憶はきちんと残っていた。
二章
最終公演1つ前 異国のホールにて
冬弥はタキシード姿でうろうろと、人の波が立つ客席を小走りに歩いていた。身をかがめながら、できる限り目立たないように息を潜める。
(……まいったな。どうやら、裏に出る入り口を間違えたようだ)
初めて来た異国のホールは造りが変わっていて、てっきり舞台に出ると思っていた通路から客席に出てしまったのだ。演奏こそ終わったが、ホールから客が出ていく前にむやみに演者がうろつくものではない。
若干焦りながら、徐々に席を立つ観客たちの群れを泳ぐ。
その時だった。
冬弥の視界の端を、見覚えのある色が過ったのは。
冬弥は思わず、
彰人!
△△△
彰人は果たして、一年前のあの祝いの夜以来、ふっつり姿を消していた。正確にあの日かどうかは分からない。けれど冬弥が最後に彰人を見た記憶は、酒に霞んだその夜だった。二日後、連絡が返らないのを不審に思った絵名さんがアパートを訪ねて行ったら、もうもぬけの殻だった。机には家賃が数ヶ月分置かれていて、その脇に「事件では無いから心配するな」との旨の置き書きがあった。大家にはきちんと鍵が預けられていて、高校時代からずっと続けていた服屋のバイトもあらかじめ辞めていたらしい。
「ほーんと、迷惑。『悪い』とか書き置いておいたって、家賃が置いてあったって、契約がどうとか敷金がどうとか。色々後始末はかかるんだから」
WEEKENDGARAGEでは無いカフェで、絵名さんは甘そうな飲み物のクリームをストローでいじくりながら言った。冬弥は向かいでコーヒーを飲みながら、彰人の好きそうな飲み物だな、と思っていた。
「……いつも、そうなんだから。アイツきっと、自分のこと『しっかりしてる』と思ってるのよ。いつも、アイツが自分で思ってるよりはずっと、彰人は世間知らずな子どものくせに。世の中に自分だけで始末をつけられることなんてそんなに無いって、知らないのよ」
生意気だと呟いて、絵名さんはそのままクリームを混ぜたラテを飲んだ。彰人の姉は、とろりとした甘ったるさで喉を潤して、その後にぽつりと「結局、誰にも言わない」とこぼした。冬弥はもう一口苦く冷たいコーヒーを啜り、その後ため息を吐くように「そうですね」とだけ返した。
その後すぐに、冬弥はレーベルの企画した凱旋公演のために街を出た。丸一年、他の若いアーティストたちと一纏めにされながらだが、世界各地で演奏をするのだ。
こはねも、それからさほど置かずにあちこち飛び回り始めたらしい。たまにメールをすると、いつも違う所に居る。今はどうやらビビッドストリートへ帰ってきているらしいが、またしばらくしたらツアーで旅暮らしの日々だろう。
冬弥とこはねは、杏とも変わらずに連絡をとっていた。
彰人はまだ、帰っていないそうだ。
△△△
冬弥の申し出に、マネージャーは渋い顔をした。今回のメインキャストの一人である冬弥が、最終公演に備えるべき準備期間に休暇を申請してきたのだから、仕方がない。
しかも、何をするかと聞けば、ここら一帯を回って歩くのだと言う。大切な最終公演前にそんなことをして、怪我でもしたらどうするのだろうか。
「……青柳さんは音楽が長いから、僕から言うことでもないとは思うんですけれど。だけど、公演前の休暇は休暇であって、休暇ではないんですよ」
「はい、理解しています」
「すました顔するねえ……」
「それってあんたの音楽に関係あるんだな?」
「……あります。俺が音楽をしていられる力は、そこから来るから」
種火だ、と冬弥は思う。自分がしんしんと青く燃えられているのは、昔に火を受け渡して貰えたからだ。燻り始めていた湿気た冬弥に、彰人はもう一度しっかりと火をつけてくれた。大人になった今から見たら、ぽつっと小さくて拙い、幼い炎だったと思う。けれど、どんなに大きな炎だって、それが無ければ始まることができなかったのだ。
「わかりました。それなら、存分に探してきてください」
「ありがとうございます」
冬弥は頭を下げた。
マネージャーは、どこか彰人に似たところのある男だった。少し垂れた目の形や、見た目が少し派手なところから、そう思う訳では無いと思う。冬弥にも、客にも、演奏にも地に足をつけて真摯に向き合うところが、とても似ていた。それと、話し方も少し。しっかりした人間は、みんなああいう話し方になるのだろうか。
(……だけど、彰人とはやっぱり違うんだ)
違う人なのだから、違うのは当たり前だ。彼は自分よりずっと年上だし、そもそも仕事仲間で、その相手に勝手にかつての相棒の影を見るなんて勝手な話だ。
(彰人は俺のことを、『あんた』とは呼ばない)
二週間の休暇
△△△
席の話!
「えーっ、冬弥、彰人を見かけたの!?」
「ああ。たぶん、聴きに来てくれていたのだと思う」
「よく見つけたね。後ろの方の席だったのに」
「ああ。本当に偶然だった」
「それで。だから、探そうと」
電話口で杏は「そっか……」と返し、その後に少し溜めて「えっ……今!?!?」と言った。それはそうだ。杏だって、冬弥の最終公演の日程くらいは知っている。あまりに素直な反応に、冬弥も電話口でつい笑ってしまった。
「ああ。色んな人に迷惑をかけてしまうだろうか、と思ったし、実際そうなんだが。だけど、黙ってもいられなくて……」
「うん、まあ、そうなんだろうけど。……なーんか、冬弥ってどんどんアクティブになってくね」
そうじゃないと、気持ちが折れてしまいそうで、と
三章
相棒捜索! 異国の街にて
冬弥は、まず靴を新調した。
別にそんな必要もないかな、と思わないこともなかったのだが、これからたくさん歩いて、彰人のことを絶対に探し出すのだ、と思ったら何となく歩きやすい靴にしておきたい気持ちになったのだ。
もしかしたら、少しだけ浮かれていたのかもしれない。ようやく、一年間ちっとも音沙汰のなかった彰人の手がかりが掴めたのだ。
店員に声をかけて、目に付いたスニーカーの履き心地を確かめる。一番しっくり来たものを選んで、箱を渡す。
「黄色の方にします」
「オーケー、ありがとう」
固すぎるくらい丁寧な英語の冬弥に、少し訛りのある店員は気さくに接客してくれた。
お金を払って「履いていくので」と言い、その場で履き替える。踵をとんとんと叩きながら、冬弥は私服から浮いている黄色にオレンジのスニーカーを満足して見つめた。
(これから夏でもあるし)
理由にもなっていないような理由をつけて、逸る気持ちを誤魔化す。冬弥は明るい色の足でしっかり地面を踏んだ。
△△△
そうはいえども異国は広い。たったの二週間で、彰人の居場所にアテをつけて、
どんなにストリートで歌っても、冬弥にはどうやったって剥がれない、独特な雰囲気があった。言ってみるなら、上流階級らしさというか、下世話に言えば金持ちっぽい。それが下町の奴らから見たら鼻持ちならない、気取ったやつに感じられるのだ。それか、生半可で幼い世間知らずにも。
「おいおい坊ちゃん、道でも間違えたか?音楽堂ならあっちだぜ」
ぎゃはははは、と酒に酔った笑い声が上がる。冬弥は少し嫌悪感を覚えた。あの街では、どんなに下卑ていようが、酒を飲んで歌うやつは居なかった。
「……アキトを知っているか。シノノメ、アキト」
冬弥は表情を動かさないまま、わかりやすい発音で尋ねる。大柄な男は冬弥の銀の目を一瞥した後、鼻を鳴らした。
「なんでお前に教えてやんなきゃなんねえ。迷子探してんなら警察に行きな」
男は「相手してらんねえ」と呟いた。冬弥には理解できない、恐らく汚いスラングであろう異国語のつぶやきを吐き捨てる。そのまま冬弥へくるりと背を向けて、向こうのDJの女へ声をかけた。
「おい、もういい。そろそろ始めようぜ」
その一声で、わっとクラブが湧く。発声を模した息を吐いたり、リップロールをしながら、何人かの若者がステージの脇に控え始める。冬弥は人の流れに押されながら、近くの男に「これは?」と尋ねる。男は面倒そうに「バトル」とだけ返す。ほう、バトル。冬弥はステージの脇へと、ずんずんと進み出した。
「待て」
冬弥は、さっきまで話していた大柄な男に声をかける。男は振り向き、またお前かと眉をしかめてすごんでみせる。
「あ゙?まだなんか」
「俺も歌う」
「……ほお。勝負すんのか?アンタが?」
無愛想なDJの女が「音源は?」と聞いてくる。冬弥は「繋げるだろうか」と言って、スマホの音楽アプリを立ち上げた。女は黙ってそれを受け取ると、手早く機材に繋ぐ。端の方から、客が冬弥に古びたマイクを手渡した。
ギュイン、と派手なスクラッチが雰囲気を切り替える。
冬弥の一声で、ビリッと場が引き締まる。穏やかに喋っている時からは想像もつかない、攻撃的で艶のある歌声。圧倒的な声量に、キレの良いエッジが豊かな抑揚をつけていく。低く這いながらも爆発的に膨らんでいくばかりの冬弥の歌の圧力に、一同は呑まれていた。どこまでも芯のある、正確無比だからこそ生まれる絶妙な響きが、その存在感をもって押しつぶすように場を制していた。
(なんで、煽られてんのにそんな真っ直ぐド真面目に歌うんだよ)
彰人には、よくそう呆れられていた。二人をよく吠える犬だと侮り、喧嘩を売りに来る相手は大抵、遊びと手抜きが紙一重の挑発を混じえながら歌う。そういう時、彰人は受けて立つとばかりに、あれこれ工夫を凝らして挑発し返した。でも、冬弥はそういうアドリブというか、切り返し合う喧嘩のやり口がまだ苦手だった。せめて大きな声で、少しでも音の重たさが出るようにひとつひとつ拾って歌うしかない。
「……は、そう……。わーったよ」
男は半笑いで、手に構えていたマイクを下ろした。骨ばった額には、いつの間にか大粒の脂汗がいくつも浮かんでいた。
「おいお前ら!コイツが人を探してるんだと」
頬にそばかすの散った若者は「アキトなら、ここや、よそのクラブでも何回か話したよ」と言った。同じように「顔見知りだ」という奴も、いくらか申し出てくる。どうやら彰人は、本当にこの辺りに暮らしているらしかった。
「そんなに頻繁に遊んだりしてるわけじゃ無いみたいだが、たまに来ている。バトルには参加しないけど」
冬弥は「歌ったりはしていないのか」と思わず聞いた。そばかすの若者は頷いて「人になにか音楽のことを尋ねられたら指摘してくれて、その時に歌ったりはする。でも、ステージには絶対上がらない」と言う。
「上手いから周りに誘われることもあるんだけど、全部断るんだ」
「……そうなのか」
「ああ。なんでも、もう資格がないんだと」
資格って、何の資格なんだか、アジアではステージで歌うのに免許でもいるのかい?と男が笑う。冬弥はどうにも、笑えなかった。
△△△
「へ!?あ、えーっと……」
「ごめんね、こはね」
杏が彰人の曲を聴いている
△△△
(む……)
それから数日。
冬弥は、オープンカフェのデッキで、冷たいコーヒーを飲みながら手帳を広げていた。濃い筆圧でボコボコと波だった罫線には、カラーコピーして貼り付けられたこの街の地図が貼ってある。冬弥はその脇に、聞き込んで来た情報を書き込んでいた。この前赴いたクラブや、そこで聞いた彰人の居たらしい店名に全て印をつけて、脇にはメモも取っている。
(やはり、なかなか難航するか)
あの後、冬弥は教えてもらった店を順番に回って話を聞いたが、どこも同じような情報しか出てこず、芳しい情報は得られなかった。
しかし、彰人が居たというクラブを地図に書き込んでみると、それらは全て同じメトロの路線に沿っていた。そこで冬弥は、その路線沿いに狙いを定めて、服屋やカフェ、CDショップにまで聞き込みをしている。しかしながら、なかなか成果は上がらない。
朝から夕方までは知らない土地を歩き、聞きまわり、帰ったら夜に練習をする。冬弥はもう人並み以上に体力のついた男だったが、さすがに少し過酷だった。
「……すまないっ!」
「わあっ」
急に大声で話しかけられて、子供たちがぴゃーっと散っていく。
△△△
彰人のアカウント
(……!環境音のサンプリングがされている)
既存の音を調べる機械に通して独自のものだと確認する
△△△
「すごいね、突き止めちゃうなんて!」
まるで漫画の探偵みたい、と杏が言う。俺も少し、小説の主人公にでもなった気持ちがした、と冬弥も笑う。
「だが、期日までに見つけきれるかどうかは……まだわからないな」
メトロの最寄りと思しき駅と、あの信号機の音が使われている地区まではわかった。だいぶ絞り込めたと思う。しかし、それでも冬弥ひとりで探すには、充分広すぎるだけの街だった。本番は、三日後に迫っている。
△△△
「杏ちゃん」
「ひゃっ!?……なぁんだ、こはねかあ」
携帯を覗き込んでいた杏は、大袈裟なくらい肩を跳ねさせて驚いた。こはねは「そんなにびっくりしないでよぉ」と苦笑いしながら、いつもの一人席に座る。彰人が居なくなって、冬弥がこの街から出ていって、杏はカウンターの中に立つようになった。昔よく四人で使っていたボックス席にはもうしばらく座っておらず、ここからは背中になっていて見えなかった。
「……えへへ。店番サボりバレちゃったね、お客さん。ご注文は?」
「えっと、つめたいラテで」
「はいはい。トッピングは?」
「……今日はいいかな」
「……杏ちゃん、私ね。杏ちゃんが何か、知ってるんじゃないかなって……」
「前に……青柳くんが、初めて東雲くんを見つけたって電話をくれたでしょ?」
「あの時、青柳くんはどこで見かけたかなんて言ってなかったのに、杏ちゃんは『後ろの席』って言ってたから」
「杏ちゃん、東雲くんのアカウント、知ってたんじゃない?あの時は、その曲を聴いてたんじゃないかな」
「だって……杏ちゃんが聴いてる音楽、私に教えてくれないなんて、おかしい」
そんなこと、一度もなかった。
杏はしばらく逡巡するように目を泳がせ、袖口を指先でぱかぱかと弄ったあと「……こはねは聡いね」と上目遣いでこちらを見上げた。
△△△
「白石が?」
電話口で、冬弥の声がする。こはねはぎゅっと、自分のスマホを握りしめた。
「……うん、私知ってた。彰人が、冬弥のコンサートに行くってこと。それと、彰人のアカウントと、連絡先も」
「〜〜っ、なら、どうして……」
「教えない方がいいと思ったから」
信じられない、とこはねは愕然として杏を見た。青柳くんは、あんなにあちこち歩き回って、聞き回って、必死で探していたのに。
「……杏ちゃん。杏ちゃんには、何か考えがあったんだよね?だから、言わなかったんでしょ?」
そうだ、きっとそうに違いない、と繰り返し頭の中で思いながら、こはねは杏に尋ねた。
「……こはねは、私のこと相棒だと思ってるでしょ」
「あッ……、あたりまえだよ!」
こはねは鋭く息を吸い込んだ。そんなの、当たり前すぎて、わざわざもう一回声に出さなければいけないことだなんて思いもしなかったから、舌が躓くようにもつれた。息せき切ったこはねを見て、杏は目尻を少し上げる。随分大人っぽい、少し擦れた仕草だった。
「じゃあ、私にいま、こはねと同じくらいの歌が歌える?」
「……ッ!」
「私っ、ほんとだよ!相棒だって思ってるよ、杏ちゃんのこと。心の底から!」
こはねは必死で叫んだ。本心だった。こはねが歌い続けられるのは、杏が見つけてくれて、教えてくれて、期待してくれているおかげだった。
「疑ってないよ」
杏は眉を下げて笑った。その後、落ちてきた長い髪を耳にかけて、こはねの方をしっかりと見据える。
「私は、こはねが信じてくれてるから歌える」
「でも、それがね。嘘だとは思わないんだけど、きっと本当なんだろうけど……。でも、ちょっとだけ重たくて。それで、きっと力不足だと思ってしまうこと自体が……重ねて申し訳なくなるんだ」
不甲斐ない、に似てるというか……と杏は俯く。歯がゆい、と杏が言う。その声が震えているのに気がついて、こはねはぎゅっと胸の前で手を握りしめた。
「もう、私はこはねと肩を並べられるほどには歌えないのかもしれない。……事実としてだよ?」
「……ッ」
「だけど」
「だけど私は、こはねと肩を並べて歌っていたい」
こはねが私のことを許してくれているうちは、こはねと一緒に歌っていたい
「たとえ、私がこはねに及ばなくなったとしても、私にはこはねしか居ないから。こはねを誘ったのは私だから。尊敬されるような相棒じゃなくなっても、対等に歌えなくなっても、もう離れられないから。私にはどんなに苦しくても、申し訳なくても、ここを選び続ける責任がある」
杏は一息に言い終わって、ふううと長く息を吐いた。切り詰めるように早口の言葉に、こはねは何も言えなかった。ただ、深く切実な覚悟のようなものを、杏が杏自身に言い聞かせているように感じた。
「私はこはねに対してそう思ったけど、彰人が冬弥に対してどう思って、どうしたいかは、彰人が決めるしかない」
無理に言って、それで連れ戻して解決はできない、と杏は言った。
「私はね、ちょっとだけ大人になったみたい」
青春の頃に結びあった糸が、長く育った指にぐるぐるに巻きついたままで、鬱血しているのだ。けれど、赤紫と青紫が交互に斑に混じるような溜まった血の色は、たしかにあの頃背負うと決めたふたりのイメージカラーだ。その重たく腫れた指の中にはどくどく、大きな心臓の音が鳴り響いていた。
「……そんなことが」
「……うん。それで、杏ちゃんは言わないって決めてたみたいなんだけど、私は……」
この電話をかけてきていること自体が、こはねの答えだった。
「だけど私は、青柳くんに連絡するよ。
「……そう。ま、それはこはねの自由だよ。ばれちゃったんだから」
杏が、こはねの相棒で居たいと言う限り、そうであろうとする限り、こはねはこの大好きな、大好きな友達を守ってやることが出来ない。自分の存在が、こはねと相棒でいることが杏のことを苦しめ、そして支えていた。その苦しさは、こはねにはどうやったって、肩代わりすることの出来ないものだ。杏を尊重する限り、手出しのできない場所だ。
せめて、一緒にいるしかできない。
たとえこはねが一緒にいることで、苦しさが大きくなったとしても、それは一緒にいるための苦しさだから。隣にいたいのなら、隣にいるしかないのだから。
「杏ちゃんは、どんなふうになっても、どんなところへ行っても、私の相棒だよ……!」
最後は涙声になった。こはねは、堪らなくなって杏の方へ走る。勢いのまま抱きつくと、杏は困ったように眉を下げて、その背に手を回し返した。
「こはね。……嘘ついてて、ごめんね」
「私は、青柳くんに言った方がいいと思ったから、言ったの」
△△△
△△△
「彰人……」
「……ちゃんと食べていたのか。ことばは、大丈夫だったか」
仕事は、生活は。彰人は、理不尽に辛い思いをせずに、この一年、暮らしていられたのだろうか。いざ顔を合わせると、そんなことばかりが本当に心配だった。今更過去のことを心配しても、どうすることも出来ないのに。その時、冬弥は彰人と一緒にいなかったのに。
「はは、同い年のやつに急に、母親みてえな事言うなよ」
彰人は薄く笑った。剃刀で入れた薄い切れ込みのように、口の端だけがぱかっと吊り上がる。真っ赤な口内は、傷口のように見えた。かつて、彰人と仲違いしかけた時のことを思い出した。もう七年近く前なことだ、と想起を通して初めて自覚した。冬弥の中で大きく確かだったはずの記憶の色が、途端に薄くなったような錯覚を覚える。それが恐ろしいような、情けないような気持ちがした。
「……まあ、とりあえず入れよ」
彰人はへらりと、不思議なくらい穏やかな声色で誘ってくる。どこにも手応えのない声で、弁明しようだとか、よく思われようだとか、そういう自分の正しさを保証しようとする気配が全くない。覇気のない声だった。
(今の彰人の本当の思いは、どうなんだろう)
あの時のように、煽ってもくれないな、と思った途端に鼻の奥が急に熱く込み上げて、冬弥は泣き出しそうな気持ちになった。
がちゃりと鍵を差し込んで回す背中は無防備で、屈むように丸まった背筋は少し痩せている。ジャンパーの襟首から覗く白い首筋は、艶めかしさより先に貧相な雰囲気がする。それを大人しく眺めながら、冬弥はなんにも言わずにただ待ち、開いたドアから彰人の家へと入った。
△△△
彰人の部屋は、意外なほど荒れていなかった。
センスの良い毛足の短いラグが敷いてあり、こじんまりとしたソファとテーブルが一組揃っている。あとは小ぶりな本棚とテレビだけがあり、その全部が静かに煤けた感じがした。雰囲気から、家主が誰も招かないまま久しいであろうことがわかった。動くことの無い空気は細かな埃を積もらせ、ものの輪郭をぼやかしている。
彰人はするりと奥へと入って、どうやらキッチンと思しき狭いスペースへ入る。冷蔵庫の中の青白い光が、微かに彰人の髪の毛を照らす。
「冬弥お前、まだ酒それなりに飲めるよな?」
「ああ、飲めるが……」
出来ればまず、素面のままで話したい、と冬弥はたどたどしく言う。彰人は曖昧な笑みのまま「身体壊してねえならいいだろ」と言って、角瓶からとぷとぷ琥珀色の液体をショットグラスに注いだ。冬弥はまだ二十かそこらの自分たちだ、身体なんて、と思いかけて、その言葉は彼の得意な気回しなのか、それとも彼が酒で身体を壊す可能性があるような生活をしていたからなのか分からなくなって、ただ前者でありますようにと祈った。
居心地悪そうにちょこんとソファに座っている冬弥の向かいに、彰人がだらんと座る。だらしのない脚の仕草に視線を取られていると、彰人は「んで」と呟いた。
△△△
「杏のやつ……」
事情を聞いた彰人はわしゃわしゃ、とオレンジの髪を掻き回し、呆れたようにゆるくため息をついた。
「違う。白石は、最後まで俺には彰人のことを教えなかった」
小豆沢が問い詰めたらしい、と冬弥が言うと、彰人は面白そうな顔をして笑った。いやな感じではなく、懐かしんで噛み締めるように「そうか」と言う。
「あいつ、隠し事やっぱり苦手だな」
そんでこはねに弱すぎ、と彰人が笑う。この家に招かれて初めて、昔のような柔らかな笑い声だった。彰人は冬弥と会ってからずっと笑っているのに、ひどく酷薄な雰囲気で、それが冬弥はつらかった。
「彰人が、うますぎるだけだ」
部屋に落ちた冬弥の声は深刻に震えてしまって、それが一度緩まった緊迫感をまた壊す。
「……彰人、やっぱり彰人はすごい。彰人の歌が、俺は好きだ。彰人、また、俺と」
「……冬弥、分かってんだろ」
お前はばかじゃないんだから、と彰人は冬弥の銀の瞳を睨みつけた。冬弥の大きな背が強ばる。固くなった肩をいなしながら、冬弥は「どういうことだ、彰人」と縋るようにその目を見つめ返した。
「彰人の歌は、決して……決してそんな、粗末にしていいものでは無い」
「は、そりゃどうも」
「彰人!……真面目に取り合ってくれ……」
冬弥の美しい弧の眉が、へにゃりと下がる。彰人は思わず目をそらす様な様子を見せたが、その後にショットグラスを慣れた手つきでつまみ、辛いはずの酒をこくんと呷った。
「……オレは、別に適当言ってるわけじゃない、冬弥」
彰人は、また「もうお前とはやらない」と言った。
「もうお前とはやらないから、逃げたんだ」
「……ッ、彰人……」
どうして、と漏れ出した声は子供のように湿り気を帯びた。
冬弥は彰人の声が、もう一度真っ白なスポットを吸い込むところが見たかった。それを隣で見たかった。ウェーブのように大きく揺れる声。それが、必死で音楽を吐き出している最中の冬弥の喉すら呑もうとする。そんな身震いをまた感じたかった。また、みんなにふたりを見せびらかしたかった。まだ彰人とやりたかった。
「……言っとくけどな、オレは同じことしか言わねえぞ、冬弥」
彰人の声は硬かった。冬弥は喉に張り付いた熱い空気の塊を、張り詰めた涙が落ちないように必死で飲み下す。二人の間には沈黙が張りつめたが、冬弥にはそれを破る勇気が出なかった。
(俺はお前に手を引いてもらわないと、うまく怒ることすら出来ない)
自分の気持ちを、ちっとも言葉や表情に表せなかった頃を思い出す。腹の底や、胸の奥ではぐらぐらと沸き立つような憤りも歓喜もとぐろを巻いているのに、表へ出そうとすると鈍色の鉛が喉を塞ぎ、顔にべたりと張り付くのだ。
何度説明しても、聞いて貰えない。理解して貰えない。幼少の頃からの諦めを重ねた、意識もしない所へうっかり溶け込んだ無頓着があった。
(どうせ伝わるはずがないと、俺は彰人にさえ思ってしまったのだろうか。だから、声すら上手く出てこないのだろうか)
そう思うと無性に悲しくて、彰人に対して怒るよりやっぱり淋しくて、絶対にぐつぐつ煮える臟はお腹に詰まっているはずなのに、どうしようもなく空洞になってしまった気持ちがするのだった。
「……彰人。どうして」
二回目だ。冬弥は、全てが分からなかった。分からないことにしておきたい、とも思った。そうじゃないと、決定的に目の前の男を傷つけてしまう気配を敏感に嗅ぎとっていた。
しばらく、冬弥の情けないような顔を眺めていた彰人は、コトリとグラスをサイドテーブルへ置く。俯いていたオレンジのつむじが揺れていた。
顔を上げた彰人は、真っ直ぐ冬弥を見た。
「冬弥、今すぐ歌え」
そう言って、ぎろりと冬弥を睨みつける。冬弥はごくりと喉が鳴るのを感じた。突然、とろけるような垂れ目の中に、薄く薄く鋭利に尖った欠片を見た。それは、冬弥に向けられていた。
「へっ?……彰人、な……」
「いいから今すぐ!歌えっつっんだよ」
威圧するような、大きな声だった。冬弥は心臓を掴まれたように感じて、肩を跳ねさせた。冬弥は、彰人にそんな風にがなられたことなど無かった。動揺したまま、その圧に押されて反射的にすう、と腹式呼吸の前動作に入ろうとする。するとすかさず、俺はちゃんと聴いてるからな、と視線で釘を刺された。
(……見透かされている)
癖になったようなその呼吸を一度見送って、今度は初めからきっかり、深く息を吐く。そして、もう一度吸い込んだ。
△△△
冬弥は、RAD DOGSを歌った。二人用の曲なので息が続かないところもあったが、無理をしてひとりで乗り切った。
彰人はそれを、目を閉じたまま黙って聴いた。ぴくりともせず、前屈みに椅子に座って、膝の間に組んだ腕を置いて、ただ聴いていた。
冬弥は彰人のパートを歌う度、どうして目の前に彰人がいるのに、自分は一人で歌を歌っているのだろう、と何度も思った。この一年間、何回も何回も抱いたように、ただただ寂しかった。
(俺か本気で歌っていたら、もしかしたら彰人が入ってきてくれはしないだろうか?)
淡い浮つきを抱く心を握り潰しながら、冬弥は最後までひとりで、それを歌いきった。
△△△
歌い終わった冬弥は息を弾ませながら、座ったままの彰人を見た。彰人はわざとらしくなく、変に卑屈でもない、ただほかの人に向けるような単純な視線を冬弥に向けた。
「分かってんだろ。お前は、ばかじゃないんだ。その耳なら、分かるだろ」
分からないはずないだろ、と彰人は繰り返した。
冬弥はぐるぐると自分の血液が頭を巡っているのがわかった。天井からつむじを押し込まれるように、身体が潰れそうだと思った。しばらくして、それは背後に背負った巨大な後ろめたさと、傲岸さなのだと気がついた。
(……技術的には、もう彰人は俺には到底及ばない)
さっきの彰人の歌を、冬弥はよく練り上げられた歌声だと思った。声質の癖をきちんと理解した歌い方で、安定した音程の下地には鍛えられた筋肉が、気持ちの良い抑揚にはよく客観視された表現力が透ける。それは、全部が練習の結果だった。
(俺は、彰人になんと言ったら良いのだろう)
練習の結果。ただの練習の結果だけではもう、たどり着けない宇宙があった。魂の玉虫色を自在に音色に滲ませて、奇抜なのに形無しでなく、真面目なのにこわばりが無い。次に何を歌うのか、ちっとも予想がつかない音楽。自然現象のような、当たり前に生命を孕んだ暴力的で茫洋とした概念。冬弥はそういう天才的な音楽を、この一年で浴びるほど聴いた。
冬弥は、自分の身体が大きくなったことに気がついた。冬弥のために、今もせめての虚勢を張ってくれている彰人を、いつでもぷちんと殺せてしまうことに気がついた。冬弥は手のひらに彰人を載せて、震える巨大な指先でちいさな背中に触れる。滑らかでつるりとした肩甲骨は皮膚が健康に張っていて、よく鍛えられている。
それで、何にも生えていなかった。彰人に翼は無かった。
冬弥の身体が大きく影を落としている日陰に入りながら、彰人は抵抗もせず、大人しく白銀の瞳を見つめている。冬弥はぴくりとも出来なかった。そのオリーブ色の垂れ目が、臆病者めと冬弥を責めている気がした。
「……なぜ、言わせようとするんだ」
冬弥はなんとか、絞り出した声でそう言った。自分と彰人、どちらの方がずるいのかわからなかった。彰人が自嘲ともつかない浅い息をついた。冬弥は誤魔化すように、畳み掛けるように前のめって彰人の手首を掴んだ。
「とにかく、明日は絶対聴きに来てくれ」
冬弥は逃がさんとばかりに、掴んだ手にぎちっと力を込める。彰人は何も言わずに視線をさ迷わせたあと「行く」とだけ言った。
「……」
彰人は冬弥の目を見てあやす様に言ってやったのに、冬弥は満足いかない、と書いてあるような表情になる。
「……信用できない」
「はあ?いや、普通に行くって。もとから、行くつもりだったんだよ」
彰人はまさかホール以外で会うとは思わなかったけど、とぼそっと付け足す。
冬弥にじと、と子供っぽい拗ねた目で見られて、彰人はたじろいだように手元のグラスを握った。冬弥は、深刻そうに続ける。
「また、いなくなるかもしれない……」
彰人は「はあ?」と笑いながら言ったが、冬弥の表情を見て、その半笑いは引っ込んでしまった。冬弥はずいぶん思い詰めた顔をしていた。
「……あの、お前な。そりゃ、前はそうだったけど……。でも今回はそんな、お前今日急に来たんだぞ。そんな居なくなったりしないだろ」
「彰人は俺が眠るといなくなるんだ」
俺にはなんにも言ってくれないで、と拗ねた子どものように冬弥が言う。こいつさては酔ったか、と彰人は向かいのグラスを見たが、冬弥は一口だって手をつけてはいないようだった。
「お前、こんなシラフで駄々こねてんのかよ……」
「あきと」
冬弥は前に屈んで、下から彰人を見上げてやる。彰人はう、と呟いて、眉根を寄せた。彰人はまだ、こんなふうにねだられて揺れてしまうのか、と思うと、冬弥はどうにも堪らない気持ちになる。
「……明日本番なんだろ。早めに帰れよ」
「なら、もう彰人を連れていく」
「は?」
ピアノ付きのホテルの部屋につれていく
△△△
△△△
(オレが走れたのは、街までだ。伝説までだった。分かるんだよ。どう頑張っても、どう努力しても、もうこれ以上は行けない)
息をするよりも聴いた。息を吐くよりも歌った。今度こそ中途半端でなく、彰人はずっとやった。ちゃんとやった。
(それだから、よく分かった)
体が動くほうへ、体が動くほうへ。心臓が逸るほうへ。そうやって、自分自身にさえ誤魔化しながら走り尽くしてきた。
それで、夢は叶った。俺たちはずいぶん前に目が覚めた。
あとは、現実を歩くだけのはずだった。現実にあるのは、なんの意味も持たない、悪いも正しいもない、ただ存在するだけの残酷な差異だった。これはサクセスストーリーでも、悲劇でもなかった。ただ存在するだけの能力の差があった。心が迷った時に、身体任せに進める程の青さを持つには、彰人は少し歌いすぎていた。
(お前に失望されるようなオレなんて、知られたくなかったのに……)
だから彰人は、自分から走ることをやめたのだ。追いつけないことを知られて、冬弥からの憧憬を失うのが何より恐ろしかったから。それはもう既に、彰人が彰人であるためのひとつになってしまっていたから。
歌うどころか、ひとりで立つことさえできなくなりそうな気がしたから。
それなのに相棒は執念深く、卑怯で惨めな彰人を追いかけてきた。追いかけてきてくれてしまった。
△△△
ぎゅう、と手を握りしめられて目が覚めた。寝ぼけ眼に映ったのはホテルの
△△△
相棒が隣にいなくても、音楽は楽しかった。
毎日練習しては想像して、新しいことを知って、覚えて、表現する。毎日生きていく度、日増しに冬弥の世界はきらきらと大きくなった。自分の身体がじゅうじゅう、綿のように色んな体験を吸い込んで、感情が膨らんで、その発見のひとつひとつが指先や声、呼吸へと混じり音に変わった。
悲しくなるくらい音楽は広かった。冬弥はもう強かった。
彰人が隣にいなくても、冬弥は音楽が心の底から楽しかった。ひとりでも歌えた。音楽ができた。奏でる度に伝わって、繋がって、はっきりと自分の世界が広がるのを感じた。ぴきぴき、自分を覆う殻はどんどん破れた。冬弥がもうどこにでもいけるのは、はったりでも何でもなかった。
それでも、彰人の隣が恋しかった。
△△△
スピーチのステージに引っ張りあげて歌わせる
晒し者になってる気分だった 最悪だった 天下のコンクールの王者が、もう随分ライブハウスにすら立っていない自分と歌っている
でも沸き立つ
△△△
「こんなに怒られたのなんて、高校の時でもなかったんじゃないか?」
「なんでちょっと嬉しそうにしてんだ……」
冬弥はやけにニコニコとしている。彰人は激怒する大人に平謝りに何度も頭を下げながら、この迂闊な男がクビになってしまうのではと気が気でなかったというのに。
「だけど、あの人はたぶん、彰人みたいなやつのことは気に入る。大丈夫だ」
「お前な。気に入る気に入らないとか、そういう……」
△△△
会場を出て、コーラスだったのかな?上手い人だったね、などと言われている
(……ま、そうだよな)
やっぱりもう相棒では無い
「俺は、彰人がいなくても歌えるんだ。もう、ひとりでも歌える。お前がいなくても、歌えてしまう」
冬弥にはもう、自分で重ねた音の骨がある。未熟なぐずぐずの身体を支え合って、叫ぶように夢を見ていた頃はもうとうに過ぎた。冬弥は、言い逃れが出来ないほどに大人になった。
「……っ、なら……」
さすがに少し傷ついたような顔をして、その後それ自体を自嘲するように笑い、彰人は冬弥の顔を見た。それでぎょっとする。冬弥は、びっくりするほど悲痛そうな顔をしていた。泣いてこそいなかったけれど、彰人は他人がこんな顔をするところを、久しく見ていなかった。
(ふつう、ここでその顔するのはオレじゃねえのかよ)
自分で自分を諦めたくせに、と反芻しつつも、彰人は思わずそう思ってしまう。
「だけど俺は、彰人がいないと立てないんだ」
冬弥は立ち止まった。彰人が辺りを見渡すと、そこは袋小路の路地だった。通ってきた道以外は高い煉瓦の壁に囲まれていて、四角く切り取られた薄い空がぽかっと空いていた。落書きは少なかったが、どこかビビッドストリートに似ているような気もした。
……それに彰人、また歌ってくれ 俺も一緒に歌うから
すう、と一緒に息を吸い込む。目線と靴先で何を言わずともカウントを取って、血液のリズムに乗せて歌が走り出す。向かいにいるやつは自分では無いのに、自分と同じ速さで息を吸っている。そう怖いくらいに実感出来る感覚があんまり久しぶりで、彰人は
歌詞は無かった。余計なものだと思った。たとえこの音が言語になっても、ことばに紐づけられるべき情報は、本質をつかなかっただろう。ただ表しきれないこころの色を映した、美しい波形でしかなかっただろう。
音楽はいつもそうだった。言葉にしきれない感情の砂子のような、砕けて散ったきらめきを全部すくい上げて、茫洋としたままで伝えられる。互いのこころそのものの根源に触れるのを許すのは、ふたりにとってこれしか無かった。
「何が中途半端だ、彰人……!こんなに歌っても、わからないか」
冬弥の声は鋭かった。歌声を聴いたかのように、ビリビリと腕の皮膚が粟立つのを感じた。冬弥の声には何かがずんと根を張り、重たさが載っていた。
「音楽と生命はもう切り離せないんだ。切り離せるものでは無いんだ。歌に人間が出る。歌を通して人を愛する。人を愛して歌を歌う。ほんとうに、どろどろに混じりあって、もう摂理のひとつではないのか?俺たちにとって、音楽は。俺にとって、彰人は!」
冬弥の声が裏返る。彰人は、いつだったかのやり取りを思い出していた。冬弥がいつも静かな声を出すのは、
「彰人は俺と歌うことが、それとも、俺が。……好きでは無いのだろうか、もう」
「……っ、そんなことないっ」
彰人は大きな声を出しながら、冬弥はぜったいわざとだ、と憎らしく思う。冬弥は彰人が自分のことを嫌っているなんて、興味がなくなっただなんて、欠片も思っていないくせに、そういう風に純情ぶった目をするのだ。けれど、それに彰人は弱いのだ。なんとかしてやりたくなってしまう。自分はこいつに小狡さまで与えておいて、冬弥の隣から逃げ出した。耐えられない。
彰人は片手を顔に当て、表情を隠した。俯いた背中に光を背負って、長い影が冬弥の方へ伸びていく。冬弥はその影を踏みしめるように彰人の方へ近寄った。
「冬弥、もう来ないで」
「……俺は、ここまで来たんだ」
彰人はついに、しゃがみこんでしまった。悲鳴のような情けない言葉に、冬弥は噛み合わない答えを返す。
この鼓動が、肺が破けるほど走っているからなのか、音楽なのか、それとももっと醜く小狡いなにかなのか。彰人にはもうわからなかった。心の奥に沈めたへどろが、石油のような禍々しいあぶくを立てる。
冬弥はついに、彰人の目の前に立った。彰人は逃げなかったが、冬弥の方を見ることもしなかった。
「……彰人がいることで、俺がどんなに豊かに歌えるようになるか、お前の生命が俺にとってどんなに音楽たりうるのか。そんなふうなことを説いてもお前を納得させられないことも知っている」
汗をかいた手で、もううずくまってしまった彰人が自分の頭をくしゃりと鷲掴みにした。セットしたオレンジの髪の毛が崩れる。
「それでも、俺は、お前の隣で歌うことを知ってしまったんだ。彰人の隣で、彰人の声を吸って、彰人の汗を浴びて、彰人の血の音を聴くことを。彰人と真っ白いスポットを浴びて生きることを、覚えてしまった」
路地の後ろの方から、午後の濃い陽が焼け付いている。うずくまった彰人の伸ばす長い影を踏んでも、冬弥の顔には光が当たった。
二度と離したくない、と冬弥が言った。まるで声にそのまま、沸騰した血が通っているかのような声だ。やめてくれ、と思った。優しく愚直な白い指先。それであと、ほんの少しつつかれてしまえば、彰人はもう弾けてしまいそうだった。離れている間にぶくぶく膨れるように溜め込んだ、それこそ絶対に見せたくないもの。みっともないを通り越して、冬弥の美しい指先の皮膚を醜く赤紫に爛れさせる。きっと白く輝く骨の髄まで腐らせる、煮え立つような毒の膿。
「だから、今度は音楽以外のものでお前を繋いでおこうと思った」
滑り落ちるように、掻き消えるように、お前が隣からふらりと居なくなってしまうのが本当に恐ろしかった。
「なあ彰人、隣に居てくれ。どんなにお前が嫌でも、俺と居ることにお前の誇りが傷つけられても、見せたくないところまでまざまざ探られるように不快でも。それでも、俺と一緒にいてくれ」
俺はお前と一緒にいたいから。
彰人はどうなんだ
「……ッ、あ、ゔゔ……」
「彰人」
「ゔゔぅ……」
「おれ、お前が傷つくことわかってたんだ。お前が俺の事、音楽だけで見て、判断して、失望するなんて。そんなこと、本当は思ってなかったんだ」
そうだったら、ずっと楽だったのに、と彰人が呻く。冬弥は慌てたのか、彰人の肩をしきりに撫でつけていた。シャツの布越しに、冬弥のしなやかな白い指の感触が彰人にもわかった。ずいぶん久しぶりの手だ、と思って、そう思ってしまうともう涙が止まらなかった。
「それなのに、当てつけみたいにこんなことして。冬弥のこと、きっ、傷つけようと思って……」
音楽でもう、彰人は冬弥に何一つ与えてやれないなら、せめてそれ以外で一矢報おうとしたのだ。もうなんにもしてやれない彰人に価値があると思い続けて、ひたむきに慕い続けてくる疎ましい相棒に、可愛らしい忠犬に、もう何をしてやれば良いのかわからなかったのだ。彰人はどうしたら良いのか、分からなかった。自分の中で決めたけじめを、外からぐらぐら揺らしてくる冬弥のことが、殴りつけて黙らせてやりたいほど腹ただしくて、一緒に歌ってやれなくなった自分が許せなくなるほど、冬弥のことが愛おしかった。
「お、お前が焦ってたって聞いて。お前がオレ探してたって聞いて、嬉しかった。冬弥はオレの事で、まだ傷つくんだって思って」
「彰人……」
冬弥は戸惑ったように眉を下げながら、相棒の荒い呼吸と嗚咽にまみれた独白を聞いた。
失望させたくないなんて嘘だった。失望されたっていいから、とにかく爪痕を遺してやりたかった。離れられるより先に離れたかった。でも、自分がいたスペースが無くなるのも嫌だった。ずっと大きな家具を置いていた場所の畳のように、青々とした痕跡でありたかった。
「オレ、冬弥のこと好きなのか嫌いなのかもうわかんねえ」
「冬弥の歌は好きだけど、大好きだけど、冬弥のこと傷つけたい。こんなに大切な冬弥に、オレの痕を付けたい。冬弥に、してやれることが分からない。冬弥と、やりたいことがわからない」
「どうしたらいい?」
ああ、全部吐いてしまった。これでは、子どもと変わらない。ずる賢い分もっと悪い。途中から夢中になって、彰人は自分が何を言ってしまっているのかいまいち実感がなかった。
ばさ、と彰人の耳の近くで布の擦れる音がした。冬弥のジャケットが鳴ったのだとすぐにわかった。質の良い上着
「……彰人、謝る。切り離せないなんて先に言ったのは、俺の方だったな」
「やっぱり俺たちは、結局最後は、腹の底まで裏返して、洗いざらい表現するしかないみたいだ。そうしないと、生きていけないみたいだ」
彰人は、自分のことをずるいと言ったけれど、俺だってずるい。でも、俺はずるいやつだけど、音楽のことは好きだ。彰人のことも好きだ。父が、クラシックが、あの街が、Vivid BAD SQUADが。俺は、ぜんぶ。冬弥は噛み締めるように、一つ一つ呟いていく。伏せられたまつ毛は銀に長く、すっと伸びる。目元に落ちた微かな影と、額を照らすオレンジの光が全て混ざって、冬弥の顔がきらきら、胸がギシギシ痛むくらいに輝く。彰人は壊れたように涙が止まらない目を放って、その美しい貌を見上げた。
「立ってくれ、彰人」
まだ歩けるんだろう、と冬弥がしんとした声で請う。冬の透明で清廉な陽射しのように、決意の色が見える。
「どんな通りだって、一緒に歩こう。俺と一緒に歌おう」
「俺だってお前以外と組む気なんて、さらさら無いんだ……」
△△△
結局その時だけで、彰人の歌は正直冬弥の歌には劣る あれは偶然だった
それでも、もう離れない
△△△
「うわ冬弥、ずいぶんおっきいお土産持って帰ってきたね。だけどちょっと、センス悪くない?メッシュの色とか」
「お前な、開口一番……」
彰人は顔を顰めて杏を見た。
「おかえり、彰人」
「……おう」
とん、と拳を胸に置かれる。杏の手は気がついたらずいぶん小さく見えるようになっていて、白くてつるりとした、滑らかな感じがした。いつのまにか、大人の女の手になっていた。
「ああ、これ?こはね、見せたげなよ!」
「えっ?……ふふ、わざわざ見せるのはちょっと恥ずかしいなぁ」
「えーっ、見せたげなって〜!」
「ひゃっ、もう、杏ちゃんったら……」
「サムリング、て言うんだって。……信念って意味がある。まあ指は消去法で決めたんだけど、意味なんて後付けでいいよね」
こはねと顔を見合わせながら、杏は笑って続ける。お揃いの指輪が欲しかったのだけれど、薬指につけるような指輪が欲しいわけではない。けれど、小指につけるような華奢なものでは物足りない。それならいちばん太い指へ付けようと、ふたりで選んだのだという。
こはねが、光に半透明のストーンを透かすようにして眺めながら呟く。
「親指に嵌めると飾りの石がいつも見えて、すっごく気に入ってるんだ。杏ちゃんとお揃いがここにあると思うと、見る度うれしいの」
それを聞いて、杏が「えへへ〜。相棒リング」と照れ笑いする。
「彰人。俺も、あれが欲しい」
「は?」
△△△
指輪を買いに出かけて泣き出す
「お前、あんだけの大立ち回りしといてちっとも泣かなかったのに……」
はらはらと、表情も動かさずにただ涙を流す冬弥の、自分よりも背の高い顔を下から覗き込んで、彰人は呆れ半分で親指で拭ってやった。拭いても拭いても、ムーンストーンのような灰色の眼からは壊れたように涙が溢れる。両手をだらんと自然に下げたまま、少しだけうつむいて、そのままぽろぽろ、ぽろぽろと、冬弥は泣くことしか出来なくなってしまったようだった。
「お前がいるから泣けるんだ。お前がいないと、泣きたくもならない」
「なんだそりゃ」