金の斧銀の斧 砂埃に目を覆って一歩後ずさる。緩慢な動きは、彼女が戸惑っている事をわかりやすく示していた。
天使の襲撃はいつものこと。ゲヘナの街が完全な姿でないのもまたいつものこと。
ただ、いくら周囲を見渡せど悪魔たちの頼もしい背中が見えないというのはソロモンの子孫にとって初めての経験だった。
サタンとシトリー、おまけに肩の上にいたピョンとまで爆発の混乱ではぐれてしまったらしい。狭い路地はすっかり煙に覆われて敵も味方もわからない、まさに五里霧中。
彼女はサタンがするように歯を食いしばった。ぎりりと不吉な音が鳴る。こういうとき、ただの人間である自分が心底恨めしい。
「サタン、どこにいる?ピョン、返事して……!」
大丈夫。できることがなくなったわけじゃない。そう自分に言い聞かせて彼女は駆け出した。知った悪魔の名を懸命に呼びながら、未だぼやけた街並みに目を凝らす。たとえ見えなくたって烟る視界の向こうには必ず手をとるべき、守るべき悪魔がいるはずだった。
そんなときだった。
「xxx」
聞こえたのだ。一番安心する声が、日常と最も遠くにある名前を呼ぶのが。
「……」
――返事をしてはならない。声のほうを見てはならない。
理性は頭がぐらつく錯覚を起こすほどの警鐘を鳴らしていたが、本能は言うことを聞かず体を動かして……ついに、それと目が合ってしまう。
彼女にとっては星より眩しいルベライトの瞳。砂埃の中でも美しい、澄み渡る空とおなじ色の髪。
ああ、だから見ては駄目だったのに。
「よかった、ここにいたんだね。サタン殿下が向こうの通りで待っている。私と一緒に行こう、xxx」
そこには、シトリーが立っていた。安堵に口元を緩ませる仕草、手の動き。どれをとっても疑いようもなく彼なのに、たったの一言が目の前の存在への感情を恐怖と寂しさに染め上げる。
「本物のシトリーもそんなふうに呼んでくれたらよかったのに」
彼女は半ば無意識に唇が言葉を紡ぐのを感じた。緊張に渇いた声は、思っていたよりもずっと冷たくて硬かった。
彼女はまるで幼子のように覚束ない仕草で後ずさる。シトリー、のような何かから視線を外すことがどうしても出来ない。
しかし、そうした時間は長く続かなかった。シトリーの形をしたものが一歩踏み出した次の瞬間、跡形もなく弾け飛んだことで、彼女の顔がさっと青ざめる。
「ソロモン!」
慣れた呼称と、空色の髪を振り乱して駆け寄る悪魔。今度こそ本当にシトリーだった。
「ソロモン。よかった、怪我はない?」
「シ、シトリー……」
僅かに残った血溜まりとシトリーを交互に見比べて、声が震える。不自然に伸ばした手が彷徨い、最早どちらの彼に呼びかけたのかわからなかった。
「大丈夫、ありがとう」
彼女はなんとか微笑んでみせたが、一方のシトリーは心配そうに眉を寄せる。彼は耳がいいから、きっとさっきのが聞こえていたんだろう。そんな考えに至ってしまえば、とたんに彼女の胸中は先ほどにも増して泥のように重くなった。
助けに来てくれた安心感より、ほんとはずっと呼んでほしかったのだったという残酷な実感が勝ってしまう。彼女は薄情な自身が心底恨めしかった。
思い浮かんだ言葉はどれも不協和音にしかならない気がして、ただ口をつぐむしかできない。軽い調子で、今何考えてる?なんてて聞けたらどんなによかっただろう。彼女だってシトリーと同じように顔をしかめたい気分だったが、なけなしのプライドが邪魔して出来の悪い笑顔を崩せずにいるのだった。
「………ソロモン。鼓動が速いし手が震えてる。おいで」
シトリーは彼女が何か言う前に歩み寄って、小さな体を腕の中に閉じ込める。
「怖かっただろう。少し落ち着いてからサタン殿下のところに向かおうか」
彼は何も追求しなかった。その代わり、しなやかな指がそっと彼女の背を撫でている。
相変わらず砂埃に覆われた路地裏で、伝わる体温と鼓動だけが確かだった。