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    つるはし

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    つるはし

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    ※実在の地名とか出てきますが全部ファンタジーです。想像です。

    「きみは100億万ドル」CoCシナリオの探索者、ルカ・ステラートとその婚約者、ミッシェル・ド・バシュラールの話。

    ##CoC

    ルカとミッシェル 3月下旬、14歳の春。まだ春というには寒い季節のことだった。それとも、あの日までは冬だったのかしら。

     イタリア本土とヴェネツィアとを結ぶリベルタ橋の上をゆく高級車は、一定のスピードで走り続けていた。空路を経由したフランスからの旅路も、ようやく目的地が見える頃だ。窓の外には美しい夕景が広がっているというのに、バシュラール公爵家の長女、ミッシェルは膝の上で組んだ手を睨むように凝視していた。
     相手の目を直視し続けないこと。いつもより小さな歩幅で歩くこと。声を上げて笑わないこと。相手の話にはひたすら相槌だけを返すこと。脚は組まないで揃えておくこと。父親の言いつけを頭の中で復唱する。ミッシェルにとって、それらは意識しなければ守れない約束事であった。会話するときは目を見て話すべきであり、胸を張って歩けば自ずと歩幅は大きくなる。楽しいときは声を上げて笑う方が気分がいい。自分の意見をはっきり述べて議論することは学生の本分だし、気取りたい年頃の女の子達はみんな、机の下で脚を組んでいるものだ。それを何一つ許されないミッシェルは、「私は所詮、お父様のマリオネットでしかないのね」と無表情の下で同乗する父親を罵った。
     橋を越えて車を降りる。ここから先は陸路ではなく、ゴンドラに乗って運河を抜けていくことになるとは聞いていたが、どうしてこんな不便な場所が縁談の場所に指定されたのだろう。
     そう、ミッシェルが遠路はるばるヴェネツィアまでやってきたのは、他でもない自らの縁談のためだ。相手は、イタリア語圏内の小国とはいえ一国を治めるステラート王家の第五王子、ルカ。他の追随を許さないその美貌は周知の事実である。しかし、ミッシェルは彼について美しい見目をしているということ以外には自分より4つ歳上の18歳であることしか知らなかった。単にミッシェルが箱入りで世間の噂に疎いからではない。ルカはメディアへの露出をどういうわけか嫌っているらしく、ミッシェルはルカの人柄を知らないまま縁談をまとめるべくフランスから異国の地へ送られてきたのだ。ルカがミッシェルについてどんな印象を抱いているかはともかく、ミッシェルはこの仕事を完遂しなければならない。バシュラール公爵家の娘として、家の繁栄に貢献するためにはこれしかないのだから。
     そう、結婚について何も期待していない風に装ってはいたが、ミッシェルとて年頃の少女である。片方だけのガラスの靴を持って、王子様が私を訪ねて来やしないかと夢を見ることだって少なくはない。奇しくも相手は本物の王子様で、美しいときた。どうせ嫁ぐなら見目の良い男性がいいと思うのは幼稚すぎるだろうか。大事なのは中身だと人は言うけれど、政略結婚なら顔で十分だ、と思わなくもない。サンドリヨンだって、太陽の下で見た王子様が実はとんでもない不細工だったら逃げ出していたかもしれないし。
     「ようこそヴェネツィアへ」耳慣れたフランス語で私達を出迎えたルカの執事に連れられて乗り込んだゴンドラは、運河を最小限の揺れで進む。夕闇の空を映し出す底のない水面は、故郷の鮮やかな海とは似ても似つかないのにどこかノスタルジックだ。他のゴンドラはミッシェル達の乗る豪奢なゴンドラを見ると道を譲っていく。快適な船旅は緩やかに速度を落とし、美しいアーチを描く一本の橋で本島と繋がった小さな島に接岸した。
     まだ彩りのない庭園に囲まれた屋敷がその島の全てらしい。宗教色を感じない近代的な建物は、おそらくステラート王家の所有物なのだろう。橋と反対側に着けられた船を降りると、ミッシェル達は執事に先導され裏門から敷地に踏み入った。
     生垣で入り組んだ迷路のような庭を、執事は迷いなく歩いていく。途中で視界の端に見えたガゼボでは、きっと美しいかの王子様が、春になれば花の香を甘菓子の代わりにティータイムを楽しんでいるに違いない。もしかしたら、実をつけたブルーベリーを木から捥いで直接食べるお茶目な一面もあるかもしれない。この美しく手入れされた庭を、王子様と並んで歩く日が来ることを夢想していると、正面に開けた小さな噴水のある広場と、屋敷の玄関扉が見えた。父はネクタイを締め直したり、落ち着きなく身なりを気にしている。
     すっかり日は落ちていて、気温も下がり寒さを覚え始めていた頃だ。本格的な縁談の話は明日と聞いているが、今夜の親睦を深めるディナーで展開が決まると言ってもいい。完璧なテーブルマナーに、父親の言いつけ通り大人しくしていれば悪くは思われないだろう。
     ここまで先導していた執事が扉を開けると向き直り、「ようこそ、おいでくださいました」と恭しく一礼する。内装は白で統一されていて、暗い道を執事が提げていたカンテラを頼りにやってきたミッシェルは目が眩んだ。控えめな装飾のシャンデリアや、シンプルな家具を見るに、王族にしては飾り気がないのだな、と思った。悪趣味なバロック様式でなくてよかった、とも。
     執事以外にはメイド達が控えているものの、見回してもここの主たるルカの姿は見えない。初対面はディナーの席になるだろうか。今夜はこの屋敷に宿泊する手筈になっていて、使用人達がミッシェル達をそれぞれ客室へ案内する。「ディナーの準備が出来次第、お呼びいたします」とメイドが部屋を辞して、ミッシェルは一人になった。
     備え付けの姿見で、軽く前髪を整える。自らを象徴する髪を縦に巻いたスタイルは譲らなかった代わり、黒のドレスは父に許してもらえなかったことで少し気分は下向きだ。父曰く清楚に見えないらしい。ペール・ブルーの裾がふわりと広がるワンピースは趣味とは程遠く、身長の小ささと相まって子供に見える。縁談なのだから、相手がミッシェルのことを女性として認識してくれなければ意味がないのに。どうして父という生物は、女心を理解しないのだろう。

    「ミッシェル様、お食事の準備が整いましたのでお迎えにあがりました」

     さっきのメイドが迎えに来て、ミッシェルは荷解きも程々に部屋を出た。ダイニング・ルームまで父やルカを見かけなかったから、おそらくミッシェルが最後なのだろう。扉の前で、ひとつ深呼吸をした。これからの人生と、バシュラール家の繁栄が、その小さな双肩に重く伸し掛かる。
     扉が開かれるのと同時に、ミッシェルも閉じていた瞼を持ち上げる。

    「お待たせいたし……」

     カーテシーをして、テーブルについた王子と父に待たせたことの謝罪を形式的に述べる、ほとんど正確にできていたのにミッシェルは王子の顔を見た瞬間に言葉を失ってしまった。
     食前酒に供されたシャンパーニュのグラスを傾け、薄く開かれる唇。伏せられた、髪と同じ銀色の睫毛は長く、グラスを置いた後でゆっくりと目が開かれる。白皙の肌に映える、マゼンタの瞳がミッシェルを射抜いた。
     なんて美しい人なのだろう。古代ギリシャの彫刻作品のような精悍さはなく、細い指先や、後ろでキャンディーヘアに結われた長い髪はどこか女性的な印象を齎す。目を合わせるなという忠告も忘れ、数秒間ではあったがミッシェルはすっかりルカの美貌に目を奪われていた。

    「ミッシェル!」
    「……! ……失礼致しました、お招きいただきありがとうございます、王子殿下」
    「……ジーナ、彼女にグラスを」
    「かしこまりました」

     父に名前を呼ばれて我に返り慌ててテーブルにやってきたミッシェルの椅子を引いたメイドに、ルカが声を掛けた。あまりの恥ずかしさに顔から火が出るようで、顔を上げることはできず俯いた。
     ルカが食前酒を嗜む姿は、かえってミッシェルに自らの幼さを思い出させた。たった4つの年齢差は、ルカとミッシェルの間に超えられない線を引く。どれだけ夢に見た王子様に焦がれても、求められなければ応えられないのがプリンセスの定めだ。憧れていた存在を目の当たりにした高揚と混乱で、取り留めもなく色々なことを考えてしまう。そんな思考も、グラスに注がれた透明な液体が、飲んでみれば炭酸水であったことに驚いて泡のように弾けてしまった。
     食事会は恙なく進んだ。ミッシェルは図らずも父親の言いつけを守ることとなり、粛々と食事を口に運ぶ動作を繰り返す。ルカも父の言葉に短く返答を返すのみで、落ち着きを取り戻す頃にようやく、ルカが父にはフランス語、使用人にはイタリア語を使い分けていることに気づいた。父の言葉を正確に理解しているのかどうかは態度からはわからなかったものの、未だフランス語以外は英語しかまともに話せないミッシェルには驚くべきことだった。
     本来なら最高級のフルコースも、全く味わう余裕がない。食後の紅茶の熱さだけが舌に残って、未成年であるミッシェルは父に追い払われるように、客室へ戻るよう指示された。


     身の回りの世話のため、ミッシェルは代々館に仕える使用人一家の娘として共に育ったメイドのクラリスを伴っていた。ルーティンの入浴後のケアを受けながら、他愛もない会話を交わす。

    「お嬢様、どうでしたか。ルカ様は絶世の美男子と聞きましたが」
    「どうもこうも、魔法の鏡だって彼が世界で一番美しいと言うに違いないわ」
    「まあ、そんなに」

     クラリスと一緒に通っている学校でも、生徒達の間で持ちきりになるほどにはミッシェルに舞い込んだ縁談は周囲の関心を引いている。ここで弱気になっていてはいけない。破談になったら、皆の笑いものにされることはわかっているのだから。

    「この縁談、成功させてみせるわ」
    「お嬢様なら大丈夫です。……そろそろお休みになられますか?」
    「……そうね、もう下がってもいいわ」
    「ではお休みなさい。……ミッシェル」

     クラリスが一礼をして部屋を出ると、ミッシェルは長い寝着の裾を少し持ち上げて窓辺へ寄った。庭園を見下ろす2階の、ミッシェルに宛てがわれた部屋はちょうどあのガゼボが見下ろせる位置だ。バルコニーがなく窓が開けられないのは残念だったが、きっと春には色とりどりの花が咲いてこの大きな窓を一枚の絵画に仕立て上げるのだろう。その中にルカがいれば、と、庭園を歩いた時のようにガゼボの中でティーカップを傾ける姿を想像すれば、ミッシェルの想像そのまま、ルカがそこにいた。
     執事が側に控えていて、何やら言葉を交わしているらしい。暗くて表情も何もわからないが、闇に浮かび上がるような銀色の髪と真っ白な外套は、まるで天上の神々の一柱のよう。こんなに美しい人の前で咲く花があるのだろうか。
     しばらくミッシェルはその姿を眺めていたが、欠伸が一つ溢れて現在の時刻を思い出し、名残惜しくも窓際を離れた。そのままベッドに入って、目を閉じる。長旅で疲労が溜まった体は、眠りに落ちるまでそう長くはなかった。



     縁談の席は、公務で忙しい国王の代役としてやってきたルカの母である王妃と、ミッシェルの父の主導で話が進む。相変わらずルカの顔を直視できないミッシェルと、終始無表情でいるルカの間には、最初の挨拶以外会話が交わされる機会はなかった。相変わらず古臭い価値観のままの父はミッシェルに発言を許さないつもりらしい。

    「申し訳ないが、僕はこの縁談を受け入れられない。この春から僕はイギリスに留学で、今は勉学に集中したい時期なんだ」
    「4年後、ルカ様が大学を卒業なさる頃には娘も18です。娘に貴方様の邪魔はさせません。今縁談をお受けになることで、かえって学業に集中できるのも事実ではないですかな」
    「……」

     ルカは頑なに拒否する態度を取り続けた。どうしてそこまで、と紙で指を切るように自尊心を知らず知らずのうちに傷つけられて、ミッシェルは今すぐにでも自国に帰りたいと願った。昨日クラリスに見せた強気な姿勢は何処へやら、だ。

    「まあまあ。ルカは、教養があって芯の強い人が良いでしょう? 旧時代の遺産のような、奥ゆかしいひととは上手くやっていけるかしら……」

     ルカの母親である王妃は、物腰は柔らかくも5人の王子を育て上げた母らしく毅然としている。自分の息子に未熟で半端な女を娶らせることはしないと言外に仄めかして、少し挑発的な笑みを浮かべた。旧時代の遺産とは的を得ている。父親の教育方針が間違っていたと証明されたようで、ミッシェルは少し胸がすく思いがした。破談に向かっているなら、何を言ってももういいだろう。顔を上げて、ミッシェルは王妃に向き直る。

    「……私は、旧時代の遺産として朽ちるつもりはありません。ルカ様にだってもったいないくらいの立派な女になってみせますわ!」
    「あら、いい目をしているじゃない。なら、ルカが留学する大学に、あなたが首席で合格したら婚約を認めるというのはどう?」
    「無理でしょう、そんな……」
    「やってみせますわ! ルカ様、無理だと思われるなら、何も失うものはないのですから約束してくださいまし」

     王妃からの提案を好機とばかりに、ミッシェルはルカの目をじっと見つめた。王妃は彼の隣で心底面白いといったふうにからからと笑う。置いてけぼりの父と、完全に王妃とミッシェルのペースに飲まれるルカ。母には頭が上がらないのか、ルカは返答に窮している。押しには弱いタイプなのかもしれない、とミッシェルはさらに言葉を重ねた。

    「私は、ルカ様をどこまででも追いかけますわ。隣を歩くに相応しいと認めてくださるまで、何年でも何十年でも!」
    「初対面の人間にどうしてそこまで……僕にはわからないな」
    「きっと私、やり遂げますわ。否定なさらないなら肯定と捉えてよろしくて?」
    「僕は誰とも婚約するつもりはないと……」
    「ルカ。結婚は恋愛感情がなければいけないものではないのよ。賢いあなたと同じくらい賢い子なら、あなたもきっと気が合うわ」

     王妃に言い包められ続けることを悟ったのか、ルカは口を噤む。不服そうな表情ではあるが、彼も彼なりに思うところがあるのかもしれない。「さっきの条件が果たされなかった時は、この話はなかったことにすると約束するか?」と聞かれ、ミッシェルは強く頷き返した。


     帰りの車の中、ミッシェルは父の叱責を聞き流しながらこれからのことを思っていた。ルカはミッシェルのことを婚約者として認めようとはしなかったが、そんなことは些細な問題だ。彼の留学する大学の入学試験に首席で合格する、至ってシンプルな目標を4年で達成することができるか否か。それでミッシェルの人生は決まる。必ず振り向かせてみせる、とミッシェルは強く決意を固めた。




     それからの日々は、過酷なものだった。足りない学力や語学力を高めるための勉強を1日たりとも欠かすわけにはいかず、必死で勉強を続けた。年頃の乙女らしい趣味や、学友との青春には見向きもせず、ひたすら教養を身につける毎日。次第に友人も減り、陰でミッシェルのことを悪く言う者もいた。それでもクラリスの献身的な支えがあり、ミッシェルは4年間を戦い抜いた。
     首席で合格、ミッシェルはその約束を果たした。これで婚約を認めてもらえる! と意気込んでルカに返答を迫るが、ルカは信じられないといった顔で「卒業まで首席でいられたら」とさらに条件を上乗せしてきた。素直なミッシェルは、ルカのためならとさらに4年を勉学に捧げた。ミッシェルから逃げるように、大学院に進んだルカは世界のあちこちへ留学を繰り返す。それを追ってミッシェルも留学するうち、自然と首席をキープし続けることになった。卒業のその日、ミッシェルはルカに約束を果たしたことを報告しに行くために一人彼の母国へ飛んだ。この8年で、ミッシェルは父親や付き人を必要としないほど精神的に成長し、一人で生きていける、強い女になっていた。
     ルカの父、国王はミッシェルの努力を確かに認めた。ルカは海外留学中でミッシェルの前に姿を現さなかったが、国王はミッシェルとルカの婚約を約束してくれた。もうミッシェルを阻むものはなくなったのだ。
     24歳になったクラリスは、同じ大学の学友とめでたく結ばれ、ミッシェルの側を離れることになった。姉のように慕い、一つ屋根の下共に育ったクラリスの結婚をミッシェルは心から祝福し、その後も良き友人として交友が続いている。一方大学を卒業したミッシェルは、経済的な問題を抱え学校に通えない少女たちを救済する事業を始めた。その中で出会ったソフィーという少女をクラリスの後継に据え、メイドとして教養を身につけさせ、あちこちを飛び回る多忙なミッシェルの身の回りの世話を任せている。

     更に2年の月日が流れた。1年前に日本へ渡ったきりルカから祖国への便りはなく、彼の両親も相当心配していると聞く。半年ほど前に日本へ訪れた時には、ルカは王子らしからぬ昼夜逆転の生活を送っていると、彼の執事であるレナートから聞いた。彼にとって必要のない労働に従事しているとも。ルカと話をしても、「婚約は認めない」の一点張りで終いには喧嘩に発展してしまい、ルカとはそれっきりだ。

     今度こそとミッシェルは、頑なに婚約を認めないルカを問いただすべく家を飛び出した。驚くべきことに、ルカは数時間前日本からモナコ公国へ飛行機で飛んだという。イタリアの隣、ルカの祖国のすぐ近くではないか。フランス語が公用語なら、言葉が通じない日本ほど躊躇は必要ない。ミッシェルは急いでモナコ行きのフライトに飛び乗った。
     道行く先々で、ルカの目撃情報が上がった。どうやら、富豪の男性5人と共にカジノに行ったらしい。その類の娯楽には一切興味がなかったはずだが、一体どういう風の吹き回しだろう。まさか、誰かに誑かされて? いや、ミッシェルから逃げ回る間、大学院におけるルカの成績が良いことは誰でも知っていた。彼もミッシェル同様、遊ぶ暇などなかったはずだ。交友関係が狭い彼が、一体どこでそんな富豪たちと知り合い、行動を共にしているのか。日本で暮らすうちに世俗に染まってしまったとか?
     カジノの中に突入してしまいたかったがソフィーに止められてしまい、仕方なく周辺で時間を潰すことになった。オペラグラスでカジノの周りを眺めながら、通りのカフェで紅茶を飲む。そこそこの味だった。


     そして、数時間が経った。日も傾き始めようという時刻、ミッシェルは複数で連れ立って歩く中にルカの姿を見つける。後姿ですら、神々が跪くほどの美しさだ、見間違えるはずがない。ドレスの裾を引っ掴み、ミッシェルはソフィーを置いて駆け出した。

    「ルカ様〜〜! 探しましたわ!」
    「ミッシェル……!? どうしてここに!」

     ミッシェルの声に気づいたルカは、一目散に走って逃げていく。女相手に容赦もなく、だ。ヒールを履いた足で追いつけるわけもなかったが、ミッシェルに諦める選択肢はない。10年の月日を思い返す。辛苦や逆境はミッシェルを強くした。自分のため、そしてルカのために走り続けた日々は、ミッシェルにとって充実したものであった。後悔はしたくない。せめて振り向いて欲しい、その一心でルカの名前を叫んだ。
     そうしてどれくらい走ったか、ミッシェルは体力が底をついたのと同時に躓いて転んでしまった。息苦しさからか、涙が滲む。お気に入りの黒いドレスの裾が汚れるのも、通行人が奇異なものを見る目で通り過ぎていくのも構わず、ミッシェルはそこで座り込んでいた。

    「そんな靴で走るから、……いや、僕のせいか。僕が逃げるからだな。とにかく怪我は? 診せてみろ」

     不自然な人型の影が落ちて顔を上げると、ルカがその美しい顔を曇らせてミッシェルを覗き込んでいるではないか。転んだのを見兼ねて戻ってきたというならミッシェルにとって彼を繋ぎ止める千載一遇のチャンスだ。ルカはミッシェルに対して、戸惑いながら幾許かの気遣いを見せている。

    「これくらい、どうってこと……」

     涙を見せまいと口籠もるミッシェルの返答を聞かず、ルカはドレスの裾をたくし上げてミッシェルの足首や膝までも露わにした。擦り剥いて出血している膝にハンカチを当てられ、踝のあたりを捻っていないか確かめるように触れられたところでミッシェルは声にならない悲鳴を上げた。みっともなく叫ぶことを避けたのは、バシュラール公爵家の娘としてのせめてものプライドだった。

    「ど、どこ触って、人前ですのに!」
    「人前で僕の名前を大声で呼んで追いかけてきたのは誰だったか。……君、いつものメイドは? 僕の手当じゃ痕が残る」
    「クラリスは結婚してやめたの。それにこんな傷……」

     そこまで言いかけて、ミッシェルは自分の脚に視線を向けるルカの姿をやっと冷静に見ることができた。元は真っ白だったはずのスーツは所々赤黒く汚れ、絹糸のような髪は一度解かれた後で一つにまとめ直されたようだ。うねる髪には櫛を通された様子はない。よく見ると、右脚は服ごと鋭利な刃物らしきもので切り裂かれていて、服の下に簡易的な包帯が巻かれるのみだ。

    「貴方の方が重傷じゃない! どうしてこんなぼろぼろなの? 気遣ってる場合じゃないわ!」
    「いいんだ。……大切な人を助けるためなら、どうってことない」
    「……大切な人?」
    「ああ。僕のものには、きっとならない」

     聡いミッシェルは、ルカの諦めたような微笑に全てを察した。彼は誰かを愛してしまったのだ。永遠の美をものにする女神さえ虜にするルカが、手に入れられない人がいるなんて。

    「君の気持ちが分かったよ。なかなか、君は僕に執着しているらしい」
    「今更ですわ……あの日から10年ですのよ」
    「そうだな……。もう、諦めて君のものになってもいいかもしれないな」

     止血に使った真っ白だったハンカチを畳んで、ルカは体を起こし手を差し出した。またとない申し出に、ミッシェルの心はその手を取れと騒めく。

    「……っ、そんな理由で私と結婚するなんて許さないわ! 私の気持ちが分かったなんて、10年は時期尚早ですのよ」
    「はは……手厳しいな」

    しかしミッシェルは、その手を取らず自力で立ち上がった。裾を払い、痛めた足で凛とルカを見上げる。自分の恋が報われなかったから婚約を受け入れるなんて、ミッシェルからすれば代替品にされたようなものだ。恋は盲目と言うが、10年も経てばそうはいかない。

    「貴方にとって都合のいい女だと思われるのは嫌ですわ。貴方の心が私に向くまでは、諦めるなんて考えないで」
    「言っていることがめちゃくちゃだ。話は落ち着いてからにしよう。逃げないから、着いてきてくれるか?」

     逃げないと言ったルカは、真っ直ぐにミッシェルを見ていた。今まで何度も約束を蹴ったルカだが、こうも、自分の言葉に偽りはないと証すように目を合わせられると何もかも許してしまいそうになる。面と向かってルカと話す機会は、この10年でも数えるほどだった。向き合うことを避けてきたルカの真意を知りたい。ミッシェルはこくん、と頷いた。


     大慌てでミッシェルを追いかけてきたソフィーを加えた3人は、ルカの執事を務めるレナートの計らいでルカの祖国へ、プライベート用のクルーザーを回してもらえることになった。ミッシェルはソフィーに過ぎるほど丁寧な手当を受けながら、ルカの話に耳を傾け、ぽつぽつと言葉を交わす。驚くほど、穏やかなひとときだった。

    「……というわけで、僕は日本からモナコにやってきたんだよ」
    「無茶をなさるほど、そのひとを愛しているのね。愛がお金で買えるなら、私も貴方の愛を得られたかしら」
    「それは……」
    「いいえ、冗談ですわ。貴方が生きていてくれてよかった」

     ルカは目を伏せて、それから僅かに視線を彷徨わせた。見つめられて居心地が悪いということは分かっていたが、ミッシェルはルカの美しい顔が、悩みや苦しみに歪むところだって知りたい。信仰心にも似たミッシェルの愛は、例えルカが天使であったとして、犯した罪にその羽根を捥がれたとしても失われることはないのだ。薄く開かれた唇をそのままに、何をミッシェルに告白しようとして逡巡しているのか。数十秒の沈黙が、やけに長い。

    「ミッシェル、僕が君との婚約を頑なに拒んできたのは、決して君に非があるからではないんだ」
    「……続けてくださいませ」
    「僕は……女性のことを愛せないんだ。上辺だけは幾らでも尽くせるけれど、それはきっと、君が欲しいものではないだろう」
    「……そうですわね。少なくとも、10年前の私なら。薄々気づいてはいましたのよ」
    「そうか……。いや、それなら何故諦めなかった?」

     ミッシェルに諦めるという選択肢はない。たとえその愛が、自分に向けられなくとも。

    「私たちのような人間にとって、結婚に必ずしも恋愛感情は必要ではないし、恋愛感情があれば結婚できるというものでもないでしょう。……単純ですわ、私は貴方と並び立てる女になりたい。その先に、結婚という形があるのだと思うのです」
    「随分割り切った考え方をするな……。僕が君を愛せないことは些事だと?」
    「貴方の苦悩ごと、私が愛してみせますもの」

     想定外の返答だったのか、ルカは瞠目した。彼が生まれてはじめてひとに与えたいと思ったばかりのそれを、ミッシェルはとうに知っていたのだ。衒いのない、あたたかく、純白で、まことの愛を。

    「……本当に、僕には勿体無いよ。ここまで想われてなお、君に惹かれもしないのが苦しいくらいだ」
    「ずっと私の片想いなのですから、今更ですわ」
    「それもそうか……。君に想われ続けるのも、悪くはない気がするよ」
    「もちろん、貴方が地の果てまで逃げようとも追いかけ続けますわ」
    「君が怪我しない程度にするよ……」

     波に揺られながら、緩やかに時は過ぎていく。
     再び降りた沈黙も、きっと二人を隔てはしない。
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    つるはし

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    「きみは100億万ドル」CoCシナリオの探索者、ルカ・ステラートとその婚約者、ミッシェル・ド・バシュラールの話。
    ルカとミッシェル 3月下旬、14歳の春。まだ春というには寒い季節のことだった。それとも、あの日までは冬だったのかしら。

     イタリア本土とヴェネツィアとを結ぶリベルタ橋の上をゆく高級車は、一定のスピードで走り続けていた。空路を経由したフランスからの旅路も、ようやく目的地が見える頃だ。窓の外には美しい夕景が広がっているというのに、バシュラール公爵家の長女、ミッシェルは膝の上で組んだ手を睨むように凝視していた。
     相手の目を直視し続けないこと。いつもより小さな歩幅で歩くこと。声を上げて笑わないこと。相手の話にはひたすら相槌だけを返すこと。脚は組まないで揃えておくこと。父親の言いつけを頭の中で復唱する。ミッシェルにとって、それらは意識しなければ守れない約束事であった。会話するときは目を見て話すべきであり、胸を張って歩けば自ずと歩幅は大きくなる。楽しいときは声を上げて笑う方が気分がいい。自分の意見をはっきり述べて議論することは学生の本分だし、気取りたい年頃の女の子達はみんな、机の下で脚を組んでいるものだ。それを何一つ許されないミッシェルは、「私は所詮、お父様のマリオネットでしかないのね」と無表情の下で同乗する父親を罵った。
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