「善き人を十人見付けなさい」そう仰って神が帰ってしまわれたので、天使は街に残る羽目になった。もう一方の天使は、神が「共に帰りましょう」と仰ったので、本当に共に帰ってしまった。そのため、この街に天使はアジラフェルだけになった。
果物の饐えた匂いが天使の鼻先を掠めていった。胡乱で甘ったるい、怪しげな酸っぱさを纏った腐乱臭。天使は香りの良いものが好きだったので、眉を顰めて足早に通りを抜けようとする。
私だって帰りたい。そんなことを思っても口には出せない。そもそも、思うだけでもいけないことだ。神の思し召し、神の計画、神の言うことには……それは常に正しくて、正しいから間違いなど有り得ない。
天使はうらぶれ、とぼとぼと路地を歩いた。ネズミが列をなして駆けてゆくのが視界の端に映る。道ばたには飢餓や病気のために動けなくなってしまった人間が塊になっていて、この街では人間よりよほどネズミの方が活き活きと暮らしているように見える。
太陽は未だ高く、町全体を煌々と照らしていたが、あたりには嬌声と酒の臭気が立ち込めていた。堕落を絵に描いたような街のようすに天使は辟易したが、神がああ仰るからには、きっと必ず、ここにも善き人間がいる筈だと気を取り直した。
「……あっ」
「ん?」
ふと聞こえた声に覚えがあった気がして、天使は丸くて小さな耳をそばだてた。狭い路地を、更に奥まった方へ曲がった先から聞こえたようだった。天使はうんうん唸ったが、声の主はさっぱり思い出すことができなかった。しかしこんなくたびれた街を徘徊するのにも疲れたので、天使は気晴らしに声のする方へ歩いて行った。
部屋の中を覗いてみると、人間が山になって性交に耽っているようすが見えた。男どもはひどく興奮していて、天使が戸口に立っていることに気づかない。
「あ、あ」
天使の位置からは確認することが叶わなかったが、嬌声は明らかにその輪の中心から聞こえていた。やはり聞き覚えのある声だ。記憶の底にへばりついているその声を、天使は必死に思い出そうとした。鋸を弾いたときのような、小鳥が潰れたときのような、花を握ったときのような、拉げて掠れた上ずった声……ぱっと星が弾けたような瞬間の後、天使は確かに思い出した。
「クラウリー!」
「……なに?」
連なる男たちを掻き分けて悪魔は天使を垣間見た。天使の姿を一目見るやいなや、悪魔の怪訝な顔色がぱっと明るくなって、まるで旧友に対するように手を軽く振ってみせた。
「ああ、お前か!」
「クラウリー、ここで何をしてるんだい?」
天使が訝しげに首を傾いだ。悪魔はすっくと立ち上がって、大股で天使へ歩み寄る。団子のように重なった男たちは、なぜだかぴくりとも動かなくなっていた。
「奇跡?」
「悪魔の小さなそれだよ」
不自然なポーズで止まったままの男らを悪魔は嗤った。金の瞳に灯った笑みは嘲笑的で、仄暗い可笑しみを含んでいた。
一糸纏わぬその痩躯は骨張っているが均整が取れていて、まるで星座を繋いで肉を付けたように見えた。すらりと生えた両足の付け根からは精液が垂れ、今し方までの情事の色が分かってしまう。
「君……汚いな」
歩くたびに精液がぼたぼたと垂れる悪魔の足跡を天使は凝視したが、天使はただ、それで万が一にでも自分の肉体が穢れることを畏れただけだった。
「ああ。まあ、仕方ない」
「……」
悪魔が片方の口角だけを吊り上げて揶揄うように笑ってみせると、天使は眉根を寄せ、ふと思いついたように手を振った。次の瞬間、悪魔の肌からいっさいの体液が消えていた。天使は悪びれもせず(実際に悪いなどと思ってはいないが)「戻した」と表情も変えずにそう告げた。
「奇跡?」
「ああ。正真正銘、天使のそれだ」
どこか得意げに頷くと、天使は再度手を軽く下へ落としてみせる。
「……なんだ、必要ない」
「そんなこと言わずに。この程度、施しにもならない」
何も無い空間から降ってきた真っ白な布を、悪魔は心底迷惑そうに抱えた。天使に突き返そうとするも強かに断られ、やむなく受け取り、乱雑に腰に巻きつけた。
「しかしまあ解せないな。どうして君がこんなことを?」
部屋中をぐるりと見回しながら天使が問い掛ける。悪魔は肩を竦めると、寝具の隣に並べられていた酒の瓶を一つ手に取った。
「どうして、って。悪魔が悪いことをするのに理由が要るのか?」
動かない人間からグラスを奪って悪魔は酒をなみなみと注いだ。血と葡萄の間のような赤黒い液体が杯を満たす。
「いいや。けれど君は、こんなことをして喜ぶ悪魔ではないだろう?」
「さあな。喜ぶ喜ばざるに関わらず……俺は悪魔だ。悪魔がすべきことをする」
悪魔は一息に酒を呷った。喉が生き物のように波打って、それはひどく扇情的ではあったが、そんなことは天使にはみじんも思いつかなかった。
悪魔はあっと言う間に杯を乾かすと、口の端から溢れた葡萄酒を長い舌先でぺろりと舐めた。掬いきれずに溢れた一筋が顎を過ぎて首まで流れたが、悪魔はそんなことなど気にもせず喋り続ける。
「先の洪水をお前も見ただろ? どうせ悪魔が見逃したって、神がそれを無に帰すんだ」
「……神のすることを非難してはならない」
「はは!」
悪魔は空になったグラスを床に落とした。砕けたガラスが散り散りになって、天使の背後から差す陽を反射している。星屑のように煌めくそれを、悪魔は力強く踏み締めてゆっくりと天使の方へ近づいた。
「クラウリー、血が」
「お前はいつもそればかりだな、天使よ。……いや、だからこそお前は天使のままなのか?」
悪魔は血塗れの足で天使の前に立ちはだかった。金の双眸がすう、と細まって、天使の頭から爪先までを眺めた。蛇が身体を這うような視線の動きに、天使は居心地が悪くなって身を捩る。それを追い掛けるように、悪魔の細い棒切れのような指が無遠慮に天使の下顎を掴み、そのまま唇に噛み付こうと喰らいつく。
「……退かないのか」
「……私は君を畏れない。私は君を許そう」
天使のまつ毛は僅かに震えていたが、それでも毅然としたふりで悪魔を見詰めた。悪魔は一瞬目を瞠り、それからその目には強請るような色が灯る。しばらくの間、そうして互いに見つめ合っていたが、一向に靡かない天使の眼差しに飽きたのか、悪魔は両手を軽く挙げ、天井を仰いで深く息を吐いた。
「……お前ほど誘惑し甲斐の無いやつもいないな」
これを相手にするなんて、湿気った薪に火を焚べ続けるようなものだと悪魔は思った。いやそれよりたちが悪い。焚き付けるものがそもそも無い。
「まず、天使は誘惑されない」
「……はは」
満足げに微笑んでそう宣った天使にすっかり毒気を抜かれてしまって、悪魔はなんだか笑いが込み上げてきた。身体の内側が可笑しさに震え、それから悪魔は、本当に、随分と久しぶりにからから笑った。
「くくっ……くく、あははは!」
「……何がそんなに面白い?」
細い体躯を大袈裟に折り曲げて笑う悪魔を、天使は怪訝な顔で覗き込む。理由もわからず相手に笑われ続けるのは、いくら天使と言えども気持ちの良いものではない。
「いや悪い……はは、お前はやっぱり愉快だな」
「……そうかい?」
これには天使は悪い気はしなかった。天国のユーモアは天使の肌に合わず、常に周りとずれているような気がして居心地が悪かった。それに比べて、こんな風にあっけらかんと面白がられることは、天使にとっては気分の良いものだった。
「ああ。はは、最高だよ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
「ふふ……そう言えば、お前こそどうしてこんなところに?」
悪魔は我に返ったように金色の瞳を瞬かせた。それを見て天使も思い出したようにあたりを見回した。
「ああ、そうだ。人を探していて……」
「人を?」
「うん。善き人を十人探してこいと、神が」
「善き人、ねえ……」
悪魔は片眉のみを器用に動かしてさまざまな顔をつくった。しかしそのほとんどが渋い顔色をしていて、天使の問いに答え難いことを表していた。
「やはり難しいかな?」
「んん……お前も少しはこの街を見ただろ?」
悪魔はきまり悪そうに乱雑に頭を掻いた。燃えるような赤髪が方々へ散って、まるで火の粉が舞っているように天使の目には映った。
まるで古くなって軋んだドアのように悪魔は非常にゆっくりと口を動かした。これが蝶番なら油をさしてあげるのに、と天使は思ったが言わなかった。
「その……あー、俺は今回、だいぶ良い仕事をした」
「ああ、それはいい」
「いや、違う。そうじゃない。悪魔の言う『良い』ってのは、要するに……悪いってことだ」
「と言うと?」
「つまり……善き人なんてこの街にはほとんど残っちゃいないってことだ」
悪魔はできる限り天使を落胆させないよう努めたが、結局、事実は一つ限りなので、どちらにせよ口から出るのは同じせりふだった。
「そうか……」
「……いや、もしかしたら隅の方に隠れていたりだとかするかもしれない。お前が探すなら……」
手伝うよ、と言いあぐねているさまが天使には手に取るようにわかった。この悪魔は優しい。そして明らかに責任の所在を自分に求めている。蛇の目が罪悪感で揺れている。決して丁寧ではないが、誠実さと温もりを湛えた悪魔の口ぶりに、天使は愛に似たいじらしさを覚えた。
「ありがとう。どちらにせよ行かなきゃならないところがあって」
「案内する。俺の知っているところならどこへでも」
「ああ、うん。……ロトっていう人間に会いたいんだ」
悪魔は一瞬首を傾げたあと、目を伏せ、記憶を探るようにこめかみに指をついてぐるぐる回した。やがてどこかに引っかかったようにそれは唐突に止まり、悪魔は指を離して天使を見た。
「あった。行こう」
悪魔は天使の手首を緩く掴んだ。それは振り解こうとすれば容易く外れる程度の力で、天使はなぜかそれを物足りなく感じ、次いでどうしてそう思ったのかを不思議がった。
通りは閑散としていたが、どこからともなく暴言や嬌声が聞こえてきた。目的地へできるだけ急ごうと悪魔は足早に往来を闊歩する。手を引かれている天使は、それにつんのめりながら追い掛けるのに必死だった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「どうした」
悪魔が長い脚をつっかえ棒のようにして止まったもので、天使は急ブレーキを喰らってその背に鼻面をぶつけてしまった。
「ああ、悪い」
「……君のスピードじゃ速すぎる」
天使は赤くなった鼻の頭を摩りながら悪魔の前に立った。
「今度は私が先を歩こう」
「……道、わかるのか?」
「侮ってもらっちゃ困るな。こっちだろう」
天使は自信満々に歩き出す。悪魔は黙ってあとをついて行ったが、割とすぐに天使が止まってしまったので「そこを左だ」と教えてやった。
「やあ、ありがとう」
天使はにっこり笑ってまたリズミカルに歩き出す。なんら迷いも無いその後ろ姿に、悪魔は少し呆れて、それからこっそり胸が踊った。
ロトは天使らを認めるとその場に跪いた。
「ああ、ああ……これは」
ロトは善き人であったので、天使らが人ではないとすぐに気付いた。彼は力の入らぬ腰をどうにか持ち直し、縺れた足で戸口へ駆け寄った。
「ああ、なんという……」
「あなたがロトですね?」
そう問い掛ける天使にロトは見惚れてしまって、一瞬呆けたのち、それから慌てて服の埃を払った。隣にいた彼の妻も騒々しく裾を叩き、夫に倣って恭しく頭を下げた。
「ええ、ええ、そうです。ぜひ、家に上がっていってはくれませんか」
ロトの露払いに天使は軽く会釈をした。天使にはそんな気などなかったが、ロトには天使が微笑みを湛えているように見えた。それにはいっさい目もくれず、悪魔は大きく脚を踏み出して敷居を跨いだ。
「クラウリー、君は」
「招かれたさ。だろ?」
悪魔はしたり顔でおそれもなく部屋へ入り込んだ。ぐるりと中を見渡すと、隅で縮こまっている若い女たちと目が合った。
「ああ、娘です」
「ふうん」
興味深そうにじっと見詰めていたかと思うと、悪魔は何かを思い付いたように彼女らを手招いた。
一方ロトはといえば、天使らを饗すために何か無いかと戸棚を片端から開けていった。瓶詰めのオリーブ、魚の塩漬け、齧りかけのチーズ、葡萄酒。一つ一つはさもない品々だったが、ありったけを捧げようという清貧さに天使は嬉しくなって微笑んだ。
人間が好きなのかもしれない、とは近頃の天使自身も思うところだった。この浅ましく、愚かで、正直な生き物のことを、どうしてか憎めない。それどころか神の罰まで憐れんでしまう。しかしそんなことはまるで天使らしくないので、ひっそりと胸のうちへしまっていることだった。
「……ああ、落ち着いて」
酒瓶を握るロトの手がぶるぶる震えて葡萄酒をあらかた溢してしまった。グラスには僅かな液だまりしか残らなかったが、天使はその数滴を愛した。
「ああ、ああ……お許しください」
「許そう」
天使は小刻みに揺れるロトのひび割れた手を握った。潤んだ瞳に映った自分の姿を見詰めて、天使は幼子に語り掛けるように優しく説いた。
「どうか畏れないで。それに……天使は酒など飲まない」
「悪魔は飲むがな」
グラスをロトの手から奪い取り、悪魔は血の滴りのような葡萄酒を飲み干した。
「んん……これっぽちじゃ手向けにすらなりゃしない」
乾いた手の甲で唇に残った酒を乱雑に拭うと、空になった杯を土壁に放り投げた。自由になった左手で、悪魔はロトの頬に触れる。
「天使が連れて行くのは天国だけだ。俺なら……」
つ、と悪魔の指が頬骨を滑り下りる。それはロトの顎髭の感触を愉しむように弄んだ。そのまま乾燥して血の滲んだ彼の唇をそっと押して、浮き出た血液を指先で伸ばした。
「どこへでも連れて行ける。世界の果てや遠くの星まで」
指の腹を咥えて、悪魔は彼の血を味わった。悪魔の薄い唇が不恰好に歪むのをロトは奇妙な背徳感と共に眺めていた。蛇のような長い舌がミルク色の歯列の間を潜り抜ける。その動きの奔放さに、漏れた息の熱さに、ロトは触れてみたくて堪らなくなる。
ロトは思わず悪魔に指を伸ばす。しかしそのささくれ立った指先を握り込んで、天使は悪魔を睨み付けた。
「クラウリー!」
「おっと。あとちょっとだったのに」
悪魔は蠱惑的な歯並びを見せつけるようにニカニカ笑ってみせた。そこに先ほどまでの湿った色香は無く、顔馴染みを揶揄う軽薄さだけがあった。悪魔はただ、自分の振る舞いに反応が返ってくるのが嬉しかっただけだった。
そんなことを思いもしない天使は、指を振りほどいて悪魔に立ちはだかる。
「君ってやつは……分別というものは無いのか?」
「悪魔にそんなもん期待する方が野暮だぜ」
「なんだって?」
あまりに屈託無く悪魔が笑ってみせるもので天使は思わず声を荒げた。
「そうかい、そうかい。君は未来永劫、地べたを這いずりまわっていたらいいさ!」
激昂する天使というものを初めて見たので悪魔は目を丸くした。この天使のせりふが切っ掛けで悪魔はのちに名乗りを変えるのだが、今はそれを割愛する。
天使は鼻息荒く悪魔を押し退けた。しかし天使の肉体は思いのほかふくよかであったので、悪魔の華奢な体躯はいとも簡単に弾き飛ばされてしまう。
「いてっ」
「あっ、ごめん」
「いいよ」
許す。そうまで言われてしまうとなんだか複雑な心地で、天使は眉根を寄せ、唇を固く結びながら戸口へ向かった。
「えっ」
天使が外へ出ようとすると、それは叶わなかった。市民がロトの家へ詰め掛けて戸口を塞いでいたためだった。
「これは……」
「天使! こっちへ来い!」
悪魔には人間のその目に覚えがあった。欲に塗れたその目は、そのままこの身を喰らわせるのにちょうどよかった。悪魔の仕事とはその身を賭して不和だったり、疑念だったり、あるいは殺意を人間たちに抱かせることだ。覚えがある。幾度となく見つめ合った筈だった。
悪魔はロトの家に集った人間たちに馴染みがあった。どいつもこいつも悪魔の出涸らしのような薄い身体を喜んで貪った者ばかりだった。悪魔は急いで天使の手を引いたが、飢えたしかばねのような男どもは、天使らが見えなくなっても騒ぎ続ける。
「おい! ここに美しい男がいるだろう!」
「家に入っていくのを見たんだ、隠したって無駄だぞ!」
「そうだ! そうだ! 匿っているのか? それは市民で分け合うべきものだろう!」
戸を押し破らんばかりの人だかりに、堪らずロトは声を張り上げた。
「やめろ、やめてくれ! この方々は、だめだ。だめなんだ……」
ロトは頭を抱えた。しん、と静まり返った家の中と、窓一枚を隔てた外の喧騒が対照的だった。ロトはうんうん悩んで、やがて力尽きたように脱力した。
「……代わりに……代わりに私の娘を……」
絶望を貼り付け項垂れるロトの背後で、悪魔は軽薄な口笛を吹いた。それに彼が振り返っても、そこには娘らの姿はなかった。
「そ、そんな……いったい、どこへ」
「どうやっても表からは出られないだろうからな、裏口から逃してやったんだ」
悪魔はなんてことないように応えて酒瓶を呷る。いよいよ困惑の色を増した瞳で、縋るようにロトは尋ねる。
「裏口? そんなものは……」
ロトが悪魔の言葉を不審がって裏手を見ると、壁にあいた小さな穴からネズミが二匹出て行こうとしているところだった。
ネズミたちはロトの方を一瞥し、少しの間見つめ合うと、こうべを垂れて穴の外へと逃げていってしまった。
「……ああ、ああ……なんという……ああ」
その場に頽れたロトを振り向きもせず、悪魔は群衆の声へ耳を傾ける天使へと歩み寄った。
「そんなに熱心に聞くもんじゃないぜ」
「彼らはなんと?」
「……お前は知らなくていい」
天使は両手を耳の後ろへやり、人間たちの声を聞こうと努めていたが、いかんせん彼らの言うことは天使は聞き慣れず、その真意を測りかねていた。
「君がそうやって言うには、彼らは善き人ではないということだね?」
「はあ、まあな」
「ふむ」
天使はしばし思案し、それから人間の群れに向き直った。
「人間よ、愚かなあなたたちを許します。自身を顧み、家に帰りなさい」
静かに微笑みを湛え、天使は群衆に語り掛けた。白く柔い光の差す天使の姿に、人々は目を瞬かせ、それぞれ隣人と顔を見合わせた。
しかしそれも束の間、いきり立った男たちは目を血走らせて戸口へ押し入った。
「いいから入れろ! それを寄越せ!」
天使は自分の鼻面へ唾を飛ばす、口の端から唾液の泡を垂らした男を見て、どうやったらこれほどまでに痛ましく、哀れないきものになれるのだろうと悲しくなった。ふう、と息を吐いて、天使は静かに人間どもを眺めた。
「可哀想に……」
天使はそれらを救うことができないとわかってしまって辛くなった。それは道端で死にかけの鳥を見つけたときだとか、もう戻ることはない精神と対話しているときによく似た諦念だった。
天使はそっと指先を合わせて彼らのために祈った。小さな祈りは、ぼろの荒屋をそこだけほんの僅かに照らしたようだった。
無数の手が天使に伸びてきて、その裾を今にも掴まえようとしたとき。天使の手がふっと宙を舞い、ひときわ強い光が差した。
「あ?」
人間たちは、はじめ何が起きたのかがわからなかった。けれど眩んだその目が一向に晴れないと知るや否や、困惑と絶望で声を上げた。
「目……目が!」
「何も見えない!」
暗がりに取り残されてしまった人々は、互いに手探りで輪郭を辿り合う。そのようすを見て天使は、どこか腑に落ちるような感覚を味わった。
「意外とためらいが無いな」
いつの間にか隣に立っていた悪魔が意外そうに口に出す。ちゃっかり、どこからか手に入れたのか、黒っぽい硝子の嵌った眼鏡をかけている。天使は軽くため息を吐いて、それでもなお真っ直ぐに混乱する人間たちを見据えた。
「……ためらったところで、どうせ潰れた目ごと燃えてしまう」
「ああ」
なるほど。と得心がいったように悪魔は頷いた。そんな悪魔に背を向けて、天使は蹲ったまま動かないロトの手を取った。
「さあ行こう。じきにここも火に呑まれる」
天使と悪魔は揃って山肌に立って対岸の街を眺めていた。
「……」
「……なんだよ、お前が気にしたって仕方ないだろ」
「……神は正しいことをなされた。気になどしていない」
「してるだろ!」
悪魔は大仰な身振りで問い掛けた。天使はそれに眉根を寄せ、心底煩わしげに悪魔へ向き直る。
「君だって。そんな顔をするくらいなら、初めからそんなことしなければいいのに」
「そんな顔ってどんな顔だよ」
強がってそう応えたが、天使が教えてやるまでもなく、苦虫を頬張ったような顔で悪魔は街を睨んでいた。
「……おや」
悪魔は指を丸めて筒状にし、そこからその人物を確認した。そうして、ロトがようやく街から逃げ出したことを知ると、爪先を跳ね上げるように手を振った。
「何を?」
「ん? ああ」
覗き込む天使の訝しげな目線を、指ですっとずらしてやる。その先にはネズミから姿を変えた娘たちと、ロトが強く抱きしめ合っているようすが見えた。
「ああ」
「しまった。あいつの方をネズミに変えてやったらよかったか」
「……君は優しいな」
苦々しげに舌を出す悪魔を横目に、天使はしみじみとそう言った。
「優しい? やめてくれ、虫唾が走る」
「でも本当だ」
天使の透き通った眼差しに居た堪れなくなった悪魔は、黙ってロトたちを眺めた。
「……まずい」
「え?」
天使が悪魔の真意を理解するより先に、唸りをあげる分厚い雲から一筋の雷が地上へ落ちた。それはロトの妻を穿ち、一瞬で彼女を塩の柱へと変えてしまう。
「……だから振り返るなと言ったのに」
咎を追うような口ぶりではあったが、実際、悪魔の胸中を満たしていたのは悔恨だった。実のところ、悪魔は天使よりよほど人間に期待している。何度裏切られたとて、それでも人間を諦めきれない。
「君が思うより、人間とは脆いものだよ」
「……そうなのかもな」
悲痛な面持ちで応える悪魔の横顔に、何の根拠も無くとも、もうこんなことはしないだろうと天使は思えた。
「……こんなことになるとは思わなかったんだ」
「……ねえ、君のことをもっと知りたいな、クラウリー」
天使はその瞳に星を瞬かせて悪魔を覗き込んだ。その輝きを無碍にはできずに、悪魔は頬を引き攣らせて天使に応える。
「ああ、そうかい。また今度な」
「うん。また今度」
にこにこと笑う天使に気味の悪さを感じ、悪魔はゆっくりと後ずさる。遠くの方で雷鳴が轟き、神がそちらから御座すのだと知る。悪魔が灰を避けようと羽根を広げ、そこに天使が入る。天使と悪魔は、ただ寄り添って分厚い雲を眺めていた。