ボートの上で、天使は焼きたてのフォカッチオをちぎった。
「やっぱりワインじゃなくてコーヒーを持ってくるべきだったかな」
ほら、イタリアだったらこういうときにはカプチーノでしょ? と天使が重ねて問うたので、悪魔はオールを曳きながら応えてやる。
「奇跡で中身を替えたらいいだろ」
「そういうわけにはいかないよ、こういう支度も含めてアナログさを楽しんでいるわけだから」
それに、近ごろ奇跡を濫用し過ぎだと言われてしまったからね。そう口にしながらあっと言う間にフォカッチオは天使の口の中に消えた。そうそれはまさに『消えた』に近い、と悪魔は思った。
近況報告の定例会をしよう、と声を掛けたのは悪魔からだった。なら良い湖畔があると教えてやったのは天使で、そこにボートを浮かべたのは悪魔だった。結局二人ともそれを望んでいて、建前さえあればいくらでも言い訳を重ねてボートデートをたのしめるのだった。
その湖は山間にぽつんとできた水溜りのようだった。ふちは剥き出しで、野草が自由気ままに生え伸びている。大小問わず石が転がっていて、ほとりにカフェの一つも無かった。けれど人気の無いこの水溜りを天使は気に入っていて、ならば悪魔もきっと気に入るだろうと思ったのだ。
周りの目が無いのなら情報交換にうってつけだろうと悪魔は言った。それは半分本音で、もう半分も、情報交換と言う名のお喋りを気兼ねなくしたいと言う本音だった。悪魔はいつだって天使と楽しく喋りたいし、それは悪魔から見れば恐らく、しかし実際に天使もそうだった。
湖面は凪いでいて、空に掛かった紅葉を映していた。モザイクがかったそれは、悪魔がオールを行き来させる度に起きる波紋を受け、一定のリズムでその輪郭を揺らがせた。天使は傍に置いておいた水筒からホットワインを蓋に注ぎ、一口飲んでから悪魔へ差し出した。
「魔法瓶っていうのはすごいね。奇跡みたいだ」
「人間もなかなかやるな」
悪魔はオールを漕ぐ手を止め、受け取った蓋からゆっくりと酒を飲んだ。スパイスの香りのする赤ワインは、秋風に晒された悪魔の指先を温めた。
一方天使は紙袋からもう一つのフォカッチオを取り出して、今度は備え付けのオリーブオイルの小袋を開けようと四苦八苦している。『こちら側のどちらからでも開けられます』とは良い発明だと、地獄で誉めそやされていた同僚を悪魔は思い出した。
「貸せ」
「あっ……ありがとう」
奪うやいなや袋の端を軽く噛みちぎって開けた悪魔を見て天使は目を瞠り、それから微笑んで礼を言う。こうした流れが六千年近くも繰り返されていて、しかし当人たちは飽きることも無い。
「これはデタラメだ、どこからでも開くなんて……おい、狙われてるぞ」
「え?」
サングラスの向こうの悪魔の目線を辿って、天使は自らの右脇を見た。気付けば一つの群れのように水鳥が集まり、天使の手元のフォカッチオを見詰めている。
「わっ……ああ……」
天使は心底困ったように手中のフォカッチオと水鳥たちを見比べる。だってこのフォッカチオは焼きたてなのだ! しかもそこのピザ屋は水曜日にしかフォカッチオを焼かない。それも焼きたてを買うには、君たちには理解も及ばないほどの労力が掛かるんだぞ……そこまで胸中で逡巡を繰り返し、天使は溜息を吐いた。
「わかった、分け合おう。……しかしここまでだ。ここからは譲れないぞ」
何やら水鳥たちに話し掛け、天使は心の底から悲しそうにフォカッチオを半分に割った。そして片方を細かく崩し、それを水鳥たちに撒いてやった。
「……ああ、なぜ分け合えと仰るのですか……」
「……それは神に尋ねているのか?」
悪魔は呆れたようにそう問い掛けながら、飲み干した後の蓋にホットワインを注いでやった。それを萎れた顔で受け取って、天使は悪魔が驚くほどぐびぐびと勢いよく飲み干した。
「そうじゃない。神に訊くことなどしない」
「はあ、そうかい」
悪魔はしおしおの天使を放っておいて、再びゆっくりとオールを漕ぎ始める。夏の湿った日々が終わった土壌はふくよかで、秋口の乾いた風が土の匂いをさらってゆく。
日差しはもう激しくはない。暴力的な輝きではなく、まろみのある、糖蜜のような柔らかな陽の光に天使はふっくらと息を吐いた。それはシナモンやクローブの香りを纏った呼気であり、それの混じった秋の空気を悪魔は愛した。
すっかり満足しきった悪魔がオールを引きながら辺りを見ると、こんな山間には珍しく少女が水辺を駆けていた。麦わら帽子に秋の夕陽が反射している。身振りから恐らくこの辺りの人間なのだろうと予想は付いた。一人きりで来ているらしいのも、慣れているのだろう、よほど天使より水鳥の扱いに慣れているなと悪魔は思う。
家から持ってきたのであろうパンくずを分け与える少女を眺めながら、悪魔は僅かに早く強い風に気づいた。しかしそれが少女の帽子をさらってしまうとまでは思わなかった。それを少女が追い掛けようとすることも。
「あっ」
悪魔が身を乗り出すより早く、天使がその手を軽く振った。帽子は強い向かい風を受けて少女の元へ戻った。
「あ……ごめん、クロウリー。手一杯で」
「いいさ、気にしてない」
ボートをよじ登った悪魔はそのまま湖に転落し、天使の起こした強風によって吹き飛ばされた紅葉に塗れていた。ぼんやりと湖面に浮かんだ悪魔の高い鼻を、赤や黄色の葉が彩っている。
悪魔はなんとなく空を見上げる。すかんと晴れ渡った秋空は瑞々しく、雲一つない中に飛行機雲が切り取り線を伸ばしている。
「ええと、なんだっけ」
「何が?」
「あの、絵……有名な」
「……オフィーリア?」
「そう! それみたいだね」
人間の子どものように天使ははしゃいでいる。それを横目に見て、悪魔はつくづく思った。
「お前を残しておちおちいなくなれないさ」
「そう? それなら良いんだけど」
天使はいつの間にか買ってきた新しいフォッカチオに嬉しそうにオリーブオイルを垂らしている。悪魔はレザージャケット越しに伝わる水の冷たさに、水鳥の苦悩を想った。