Hold hands 妙な間柄だと、伊月はナッシュとの関係を思っていた。
二人きりで飲みに行ったり食事をしたり、あまつさえ体を重ねもしているけれど、恋人というわけではない。しいて言うならセックスフレンドだろうか。けれど体だけと言い切るには、セックス抜きでの交流のほうが多い。
――いったいこの男はどういう認識でいるのか。
伊月はアルコールの支配下にある思考で、前を歩くナッシュの背中を見つめる。十月下旬の夜風は真昼よりも格段に冷たいが、酒精にまとわりつかれた頭を平静にはしてくれなかった。
きっとこの後もナッシュの部屋で一晩を共にすることになるのだろう。そのまま同じベッドで眠りについて、目が覚めると抱き枕さながらにホールドされていて驚くことになるのだ。
伊月自身もまた、自分がナッシュとの関係を受け入れていることを奇妙に思っている。
同性愛者だという自覚はないのに、初めて抱かれたときから今に至るまで、同性とのセックスというものに嫌悪感も忌避感もおぼえなかった。
流れでキスをしたときだって――こちらのほうが性交渉より先だった――、ネガティブな感情は湧き出なかった。驚きはしたし不思議にも思ったけれどそれだけだ。
ナッシュの思惑も、自分の気持ちもまったくわからない。この曖昧な関係を続けていていいのかどうかも。
「どうした?」
ナッシュが振り向いて問いかけてくる。街灯に照らされた白皙の美顔は素面に見える。彼は四杯ほど飲んでいたがやけに酒に強いので、実質素面のようなものだ。伊月はわかりやすく酔うナッシュを見たことがない。
「別に、なんでも」
「じゃあチンタラ歩いてんなよ、置いてっちまうぞ」
ナッシュは揶揄っぽく笑う。
そんなことを言いながらこの男は、暗い夜道に伊月をほんとうに取り残すつもりはないのだ。屈強な印象を受けず、むしろおとなしそうに一見思える伊月が人気のない道を夜間独り歩きするのは危険だと知っているから。
実際、ナッシュは伊月が隣に並ぶのを待っていた。
追いついた伊月は注がれる翠色の視線を見上げ返す。街灯の白い光を受けた碧眼が満足げに細められた。
「さっさと帰るぞ、ノロマな小鳥ちゃん」
「ノロマって」
少し後ろを歩いただけでずいぶんな言い草だ、と。
一笑しようとして伊月は失敗した。
――手を、包まれた。いや、握られたと言ったほうが正確だ。夜の空気にさらされていたはずの右手が、他者の体温を受け取っている。
「……ナッシュ?」
伊月は半ば呆然と、つないだ手を引いて歩き出した金髪の名を呼んだ。
「なんだよ?」
応えたナッシュはどことなく機嫌がよさそうだ。酒を飲んだ後だからだろう。そうであろうと伊月は思っていたかった。飲酒による状態なら単純明快で納得するのも簡単なので。
と言うより、伊月にはこの状況でナッシュが上機嫌でいる理由がほかに思い浮かばない。まさか伊月と手をつないでいるから、なんて理由ではあるまい。そんな甘い感情は二人のあいだに存在していないはずなのだ。
「――、……なんでもない」
伊月は一度ためらって、けれど結局、ナッシュから目をそらすことを選んだ。
「おかしなやつだな」
ナッシュは気分を害した風もなく、むしろ穏やかな声で軽く笑った。
理由を、問おうとした。指摘もしようとした。
なのにそのどちらも伊月の言葉にならなかったのは、何かが変わってしまいそうな予感がかすかに伊月の胸に生まれたからだった。
手をつないで歩いているという今現在の状況であるのか、それとも……ふたりの関係性のどちらかなのかは判然としないけれど。
少なくとも伊月の変化はすでに始まってしまっている。絡まった指と、触れ合う手のひらの温度をなくすのが惜しいとわずかでも思ってしまった。
糖度なんてひとかけらもなかったはずの心に、ナッシュの手を通して甘い色を混入させられた。ナッシュ自身の感情は関係がない。伊月が勝手に芽生えさせてしまったのだ。
「……ナッシュは」
「ん?」
「……最低なやつだよな」
「なんだ、いまさら」
突然の侮辱にもやはりナッシュは機嫌を損ねなかった。この男は自分の行いがいかに悪辣か、いかに非道かをきちんと判断できる倫理観を持ったうえで、望んで悪逆な振る舞いをしているので、人格を悪く言われたところで鼻で笑うだけなのだが。
ナッシュに手を引かれて歩きながら、黒い空を何とはなしに見上げた。
月は細い。星も地上の光に押し負けてまばらだ。とうに見慣れた、代り映えのない異国の夜空。
すっかり日常として伊月に馴染んだ風景の中で、ただ手に感じるナッシュのぬくもりだけが異質だった。