先に好きだったのは「ごめん藍湛、今のやつさ……もう一回聞いてもいいか?」
テーブルの向かい側に座る藍忘機に向かって魏無羨は慎重に問いかける。冗談を言う様な相手ではないし、悪ふざけにしては質が悪い。
藍忘機は呆れたように小さく息をつき、それからもう一度、先程と同じ言葉を繰り返した。
「君と私は付き合っている。一週間前からだ」
「一週間前」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。同じ事を丁寧にもう一度言われた魏無羨は顎が外れそうなほど驚いたが、所狭しと手料理が並んだテーブルを見て、そして最近の出来事を一つ一つ思い出して───実はそうだったのかもしれない。と思わず頷いてしまったのだった。
二人は同じ大学の同級生で、学部は違うが第二外国語のクラスが同じだった。特別な出会いなどではなく、始めは週に何度か顔を合わせるだけの仲だったのだ。
グループワークで一緒に課題に取り組んだのをきっかけに、構内のカフェで顔を合わせれば魏無羨から話し掛けるようになり、次第に一緒に昼食をとるようになった。最近はキャンパスの外でもかなり親しく過ごしている。
しかし、魏無羨の知りうる限り、彼らは付き合っていなかった。
藍忘機はあらゆる賛辞に相応しい容姿と、実にからかい甲斐のある性格をしていて魏無羨が彼を好ましく思っているのは事実だ。それが付き合う、に当て嵌る感情なのかと問われても分からないのだが、一体何がどうなって藍忘機の中で付き合っていると結論付けられてしまったのだろうか。
一週間前から、と言われても魏無羨には全く心当たりがなかった。一週間前……一週間前に何かあっただろうか。さっぱり思い出せない。甲斐甲斐しく差し出された酒で満たされたグラスを受け取り、落としそうになっていた箸を持ち直す。
藍忘機の手料理は何度食べてもどれも絶品で、魏無羨好みの辛さになっているのは勿論のこと酒にもよく合った。……藍忘機の手料理を食べるようになったのは確か、一ヶ月ほど前からだっただろうか。
彼が持っていた手作り弁当を見た魏無羨が「まさか彼女が居たのか!」「藍湛の手作り」「俺も食べたい!」「家に行かせてよ! 何? 見せられない物でもあるのか? はははははははははは。みんな同じだから気にするなって!」「で、今日行ってもいい?」と騒いだのをきっかけに、藍忘機の家に入り浸るようになったのだ。
藍忘機が用意した夕食に舌鼓を打ち、帰るのが億劫になった魏無羨が家に泊まることもしばしば。二人は親しい友人で、成績を競い合うライバルで、性格は真逆だったが共に過ごす時間は不思議と心地よかった。しかし……しかしだ。付き合ってはいなかった。
山椒の効いた餡を口に運びながら目の前の藍忘機を盗み見る。言わずもがなこの男は聡明だ。人付き合いの面での経験不足は否めないが、おかしな勘違いをするような愚かさがあるとは思えない。それは短くとも濃い付き合いのある魏無羨が一番よく分かっていた。
グラスを満たすアルコールを傾け「付き合っている」と言われた魏無羨が思わず頷いてしまったここ最近の出来事についても思い巡らす。
藍忘機の家に魏無羨の着替えや歯ブラシがいつの間にか置かれるようになった。
ソファを借りて眠ると、ここ数日は起きた時に何故か一つのベッドで寝ていた。
魏無羨から掛けてばかりだった電話も藍忘機から掛かってくる機会が増えたし、そういえば今週は、授業が終わると藍忘機が教室の前で待っていて毎日一緒に帰っていた。
楽観的な魏無羨は今日までそれらについて深く考えてはいなかったが、藍忘機にとっては何かきっかけになるような出来事があった結果だったのかもしれない。
そうか。あれは付き合っているからこその特別な行動だったのか。
「藍湛って、」
言いかけた言葉を意識すると急に恥ずかしくなり魏無羨はパッと自身の口を押さえた。テーブルの向かい側にいる藍忘機がそれを見て首を傾げ、それから微かに口角を上げる。
「どうした?」
……これが、恋人にだけ見せる藍忘機の表情なのだろう。美形なのに無表情だと、人間味がないと噂される男のあたたかな笑顔。
たったそれだけで魏無羨の胸の柔らかな所を鷲掴みにするには十分だった。
あぁ、いつの間に俺は。
「……藍湛って、俺のことが好きだったの?」
恥ずかしそうに頷く藍忘機は随分と幼く見えた。だから、グラスを持つ手に指が絡んでも、整った顔が近付いてきても、魏無羨は瞼を閉じて受け入れたのだった。
*
「なぁ、今夜も泊まってっていいだろ? なぁってばぁ」
酒好きな魏無羨だが、ここまで酔った姿を見るのは初めてだった。彼を泊めることに否やを唱えるつもりはなかったが、如何せん、距離が近過ぎる。
「魏嬰、わかっ、分かったから!」
抱き着かれ、喉に前髪を擦り付けるように甘えられ、藍忘機の両手は魏無羨の肩甲骨の近くを彷徨っている。肩を掴んで引き剥がすのが正しいと頭では分かっていても心地良い髪の香りをもう少し嗅いでいたかったし、ここまで酔っていたらどさくさに紛れて抱き締めてしまいたいという邪な思いも僅かにあった。
魏無羨は藍忘機にとって友人と呼べる唯一の相手だった。なのにいつの間にか抱いてしまった恋心が今、肋骨を叩き折る勢いで胸を打っている。一生胸の奥で隠し通すつもりだった想いが藍忘機の何もかもをおかしくさせ、体温も上昇し続けていた。
この青年を力一杯抱き締めたい。だが、もしも振り払われたら。友人だと思っていた男が隠していた邪な思いを知り、彼を傷付けたら……。
「藍湛、俺のこと好きじゃないの?」
頬に頬を擦り寄せながら魏無羨が囁く。吐息混じりの声が耳朶を擽り、これ以上なくくっついている身体が更に密着する。アルコールで体温の上がった身体は熱いくらいで、首に絡んだ指先が項を優しく撫でていく。
「……俺はお前の隣で寝たいのに」
「っ、魏嬰!」
藍忘機の腕が魏無羨の肩を掴む。隙間なく触れ合っていた身体が離れ、目が合った魏無羨が傷付いたように眉を寄せる。
「ごめんっ、ごめん藍湛、俺……」
大胆に首に回していた腕が力なく落ち、大きな瞳が悲しげに歪んだ。泣き出しそうな顔の魏無羨が、血を吐くように呟く。
「俺はお前が好き。ごめん、友達なのに」
鼻先が触れ合いそうな距離で目と目が合う。
魏無羨は酷く酔っていて、これが本心なのか、記憶に残るのかも分からない。
それでも、溢れそうなほど膨らんだ想いが緊張で固くなった喉を震わせた。
「魏嬰、私も君が」
「俺男だよ。分かってる?」
藍忘機の言葉を遮った魏無羨は、悲しげに唇を噛んで自らを傷付けるために言葉を吐いている。
輝くような笑顔と同じくらい、苦しげに歪む濡れた眦が綺麗だった。
「分かっている。性別ではない。私は君が、魏嬰が好きだ。ずっと、君に出会った日から」
震える肩を抱き締めれば、おずおずと背中に回った腕が藍忘機のシャツを握り締める。柔らかな髪が頬を擽り、熱くなった体温が触れた場所から溶け合っていく。
「俺はお前の恋人になれる?」
藍忘機が力強く頷くと大きな瞳から一粒の雫が零れた。
「すき」
囁きながらゆっくりと目を閉じる魏無羨の瞼に優しく口付け、藍忘機は幸せを抱き締めた。
魏無羨にこの記憶がないと知るのは、一週間も経った後だった。
終わり