夏の一日。暑い日差しを感じながら下校したいた1人の少女は、ヒンヤリとした空気に足を止める。裏路地に影が差し、僅かに涼しそうだ。汗だくな少女はふらりと寄り道をした。狭い路地をゆっくり歩いて汗を引かせる。まだ先は薄暗い。いい道を見つけたと微笑んだ先で、どこか視界が歪んだように一瞬空間が切り替わる。ふと違和感を感じたところで、機関車のような音が遠くから聞こえてきた。
灰色のコンクリートの踏み心地が変わる。整備された地下鉄のホームに、立っている。言葉を放つ前に、黒い列車が彼女の目に映る。目のような丸が幾つも付いた、黒い列車。異界のそれに足が地面にくっついたが、着地音と共に開かれた扉が少女の背を無理矢理押す。
「あっ」
ようやく声が出た頃には、列車の中に足を踏み入れ、乗車した瞬間だった。振り返った途端扉は閉まり、無情にも車輪が回り出す。
ぐらりと揺れて、座席の上へと倒れ込む。どくんどくん、まるで列車が生きているような鼓動を感じた。
「どこに、向かっているの…?」
不安で押しつぶされそうになった少女は、小さく呟いた。無機物から返事が返されることはない。ぎゅ、と背負っている白いリュックの取っ手を握りしめた。
「嗚呼、愛しき我が運命よ」
脳内に、直接語りかける何かの声。どこか落ち着いた男性の声。
座席から立ち上がり、辺りを見渡す。しかし暗闇を通る列車の中に少女以外の人は誰もいない。
「だれ? ここは、どこ…?」
「嗚呼、嗚呼。なんて心地よい声だろうか。もっと、もっと聞かせてくれ…」
「……貴方は、まさかこの電車?」
無機物が生きているわけが無い。しかしこの胎動のような生物の温もりを感じる車内はまるで生きているように思えた。故に少女はそう問いかけてみる。
「逢いたい…はやく、君に逢いたい…」
しかし望んだ返事は返されなかった。ただ何かを望む言葉を、狂ったように繰り返し始めた。まるで呪詛を吐くように、逢いたいとばかり願う声が頭の中に響き続ける。
なんだか気分が悪くなって、ゆっくりと座席に腰掛けた。機械のように連呼される言葉に恐怖を覚え、少女は膝を抱えて蹲る。しかしどこから話しかける声は体で覆う少女の頭を貫通し、脳に何度も願う。
「誰なの、誰が私に語りかけているの……?」
耳を塞いでも聞こえてくる。ぐちゃぐちゃと心がかき乱されて、思わず叫ぶが、誰かの声はそれすら嬉しそうに喜んだ声色で逢えることを望み続けた。
「早く……嗚呼、早く。この手に触れておくれ……愛しき琴の葉よ」
列車の汽笛が鳴る。ようやく暗闇から抜け出した窓の外は、青空広がる空と生い茂る緑の木々たちが見えた。ここは知らない土地だと、少女は理解する。声が彼女の名を呼んだ瞬間、少女はその声に導かれるように別の世界へと誘われたのだと。
「……貴方は、誰…? 私の、会いたい貴方なの…?」
視界が晴れると、声も止んだ。不安が少しだけ薄れ、改めて窓の外を見る。何も無い、ただの雑木林の中。
こんな所に、望んだ彼がいるとは思えないけれど。誘われた以上、少女はただ列車が停車するのを待つ。男性の声は、一体どんな姿をしているのだろう。不安と恐怖に混ざる、好奇心。
独りの少女が独りの彼と出逢うまでの、短い列車旅という名の前日譚。こうして彼女は、デジタルワールドに、一人の天使によって迎え入れられたのだ。