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    まじで終わりま10流仙原稿
    妄想序列賃金ですが許して下さい

    一般人にさせてくれ


    拾って貰った立場にとやかく言う権利がある筈はないのだが、正直言って軽トラの荷台に腰掛けた瞬間、まずいな、と思った。

    『Puts it is Oh my God Rukawa, He has no hesitation 』

    ラジオ越しの粗い歓声と共に、興奮し切った実況者の声が春浅い陽射しの中に吸い込まれていく。
    後から考えてみれば、ルームミラーにバスケットボールを模したキーホルダーが掛けてあった時点で運転手が少なからずバスケファンである事は容易に想像出来たのだけれど。
    微かに緑の匂いを孕んだ春風の中、仙道は一個下の生意気な後輩の姿を瞼の裏に映し出していた。





    急に身が落ち込んで行くような眩暈に襲われた途端、仙道は軽い脳震盪を起こして倒れた、らしい。
    「らしい」というのも、仙道にその時の記憶はない。意識が覚醒した時には知らない天井の下に居た。
    オフシーズンの最中、仙道の所属するチームでは練習を兼ねて紅白戦をするのが恒例で、その日も朝から晩まで試合漬けの予定だった。
    深津の眼が、慕いよる子のように瞳の中へ飛びこんでくる。視線を絡ませて仙道の口元が緩む。
    必ず自分にパスが回ってくる、そう確信したからだ。
    「ウソだピョン」
    「、ッ贅沢な人ですね!」
    期待とは裏腹に仙道は囮だったようで針穴に糸を通す如く鋭いパスが三井の掌中に収まる。リングから6.75m。まさにそこは三井の支配領域で、ライン外で魅せる彼の凄艶なシュートモーションを恐れない者は居なかった。柔らかにボールを包み込み、両脚で地面を強く踏み込む。が、そう安易と点を獲らせて貰える筈もなく、三井の目の前には2メートルの障壁が打ち付けられた。幾ら三井でもチーム随一の守備に囲まれてしまっては十八番の3Pシュートを打つことは出来ない。仙道がすかさずスクリーンに入る。仙道の異様な動きを察知したディフェンスが腰を回転させ、右肘を勢いよく振り抜いた。
    ゴッッッッッッッッッツツツ!!!!!!!
    突然半面に衝撃が走った。ぐらりと視界が回転して、平衡感覚がおかしくなる。薄い目元の皮膚は毛細血管が切れて見る間に真赤に染まった。当たりどころが悪かったのか、足元のフローリングに一滴の血を垂らす。鼻血がどくどく口から顎を伝って胸元を汚していく。仙道が身につけるビブスは何かの虐殺の跡のように血だらけになっていた。
    まずい、と思った次の瞬間、仙道の真横に血塗れの床があった。遠くで三井の酷く動揺した声が聞こえる。波瀾の原因が自分であるのにも拘わらず、破裂しそうな体育館の中をぼんやりと騒がしさの外から見つめていた。どうして自分は地面に伏しているんだろう。ジクジクと痛む左眼が鬱陶しいばかりで、仙道は何一つ分からないまま、熱湯の中を漂うように喧騒の中で沈んでいた。 


    病院での生活は大層退屈なものだった。
    白い天井ばかりを見ている日々が数日続くと、何もかもが離れて遠くなるような思いがあった。諦めていたのかもしれなかった。怪我をした時から、これで選手としての自分は終りだという思いが、半ば認めたがらぬまますとんと自分の中に落ちていくのを感じていた。
    入院生活の中で覚えている出来事と言えば、彦一が遠路はるばる関西から自分の見舞いに来た事ぐらいで、スポーツリポーターとして活躍している彼奴の口は相変わらず達者だった。
    「コレ!仙道さんが復帰した時の為に持って来ました!」
    「……あーーしばらく触ってなかったかも」
    「エッ!?それはあきまへんで!この相田彦一、リポーターとして仙道さん達のアンベリーバブルな試合を実況するまで死ねませんッから!」
    突如ボールが眼前に現れる様な錯覚に人知れずギョッとしてしまう。左眼を負傷してからというもの物体と自分との距離感が掴みにくくなっており、彦一の軽く浮かしたボールでさえ少し、本当に少しだけ怖かった。
    「ははは、相変わらずだなー、お前はさ」
    「話逸らさんといて下さいって、その為ならワイ大阪からでも飛んで行きまっせ!はよう目治して仙道さんのプレー見して下さい!」
    「おー、また今度、な」
    なあ彦一、その「今度」ってヤツもうないかもしれないんだぜ。
    新品の匂いを纏ったボールを撫でる。一週間振りの革の感触も今ではもうどうでもよかった。
    嵐宛らの彼奴が去ってから幾度かボールを三階の病室から路地へ放り投げてやろうと思った。ところがその度に仙道はただ片手を上げるだけで抛るという動作まで辿り着かなかった。何よりも何処か気の置けない箇所がある可愛い後輩を惟うと、そんな期待を裏切る浅はかな行為は出来なかった。彦一の置き土産を胸に抱き、白一色の無機質なベッドで残された右眼を閉じる。もう十一時近くになっていたが、眠くはなかった。煩い後輩の消失がブルーな気分を加速させ、仙道にこのまま死んでやろうかという気さえ起こさせる。ただじっと深く自分の内奥を見つめていれば、心臓はやがて自然に停止してしまうんじゃないか。恐らく精神を鋭く集中し、一ゕ所にしっかり焦点を結んでいれば、レンズが陽光を集めて紙を発火させるのと同じように、心臓に致命傷を与えられるに違いないと。仙道はそうなることを心から期待していた。しかし仙道の意に反して、何日経っても心臓は停まらなかった。それほど簡単に心臓は停まらないものなのだ。

    左眼の喪失から二週間。術後の視力調整が終わり、待ち焦がれていた退院が告げられた。病院を去る前に今後の話も兼ねて担当医の元へ足を運ぶように言われていた。しかし、自分から望んで死刑判決を聞きに行く趣味はない為、そそくさと逃げる様に病室から姿を消した。左眼の死亡証明書であった眼帯もすぐさま外して公園のゴミ箱に捨てた。些細な抵抗も虚しく数時間後には、ぼんやりのまま鮮明に像を結ばない左眼は右眼の邪魔となり、塞いでいた方がマシだと理解ってしまうのだが。
    散漫な日々をダラダラと過ごし、気が向けば冬の海に足を運んで朝から晩まで趣味に耽った。プラスチック製のバケツの中で窮屈そうに泳ぐ黒鯛を眺めて自分みたいだ、と思ったりもした。
    「うおっ、仙道じゃねえか…左眼なんかあったんか?」
    背後から聞こえた声に、耳をくいと引っ張られる。顔をあげた先には、一瞬と言えど嘗て青春を共にした宮城の姿があった。アメリカで焼いて来たのだろうか、初夏の陽を弾いて健康で練り切った小麦色の肌からは漢らしさが滲んでいる。冬の海には似つかわしくない宮城の外形は灰色の情景からくっきりと浮かび上がり、彼の周りだけ夏を感じさせた。
    「……ちょっとぶつけちまって。ルアーが投げづらいから嫌なんだけどな」
    「へー、お前そういや趣味釣りだったっけ」
    冬の波が防波堤を打ち、コンクリートの護岸ブロックのあいだを縫うように引いていく。
    気まずい。この気不味さの発生源は明らか仙道彰の左眼に違いなかった。
    「……何か悩んでる?…あーわりぃ、別に言いたくないなら良い」
    言いたくない訳じゃないけど。自ら自身の不幸を他人に言いふらすような行為に気が引けるだけ。
    別にこの場合だと自分からではないよな、と一応心の中で確認し、釣竿を軽く握り直してハンドルを回す。
    「ははっ、そう見えちまう?此処で会ったのも何かの縁だしちょっと聞いて貰おっかなー、NBA選手の宮城さんに」
    「お、おぉ……ッバッチ来いやオラァ!これでも俺頼られるの好きでさ、アメリカ帰りだし色々聞いてやんよ」
    兄貴肌に燃える宮城を側に仙道は、やけになっちゃって可愛いトコもあんじゃん、と弟を見るような優しい眼差しをくれてやった。
    「左眼見えなくなってから自分の中にポッカリ穴が空いたような気がして。何やっても不完全燃焼で、それならやらない方がマシってぐらいなんだよ。俺、よく悩みなさそー、とか言われるんだけどなあ」
    重苦しい話は得意ではないので、わざと晩御飯のおかずを伝えるが如く、軽い口調で淡々と告げる。
    それ事故った時の俺じゃねえかよ、と眼を丸くする宮城に問い返すも、いや、なんでもない、と首を横に振られたのでそれ以上その話が深掘りされる事はなかった。仙道自身はその話、つまり『宮城が高校時代バイク事故を起こした話』を酔った三井から耳にタコが出来る程懺悔されているので、あたかも当事者であるかのように知っているのだけれど。
    「んー、そうだな……場所変えてみるってのは?俺も沖縄から引っ越して来た最初はコートねえし周りもクソガキばっかだし最悪って思ってたけど、案外神奈川で良い出会いもあったしな。来て良かったって思うよ」
    口は笑っているのに、目は据わっていた。真剣な表情を見る限り宮城にも色々あったのだろうな、と仙道は白波を立てる海原に視線を移す。
    「なんか真面目な話してる宮城って新鮮だな」
    「ハ?俺はいつだって真面目ですー、あんな馬鹿騒ぎしてんのは花道と居る時ぐらいっつーの」
    「そういう事にしといてやるよ。じゃ、俺は宮城の逆で東京から沖縄にでも行っちまおうかな」
    軽口を叩きながらルアーロッドを畳み、スポーツバッグの中に入れる。
    今日はもう帰ろう、良い収穫もあったし。
    「沖縄行くなら案内してやっても良いぜ。旨い店色々知ってっから」
    「考えとく。てか宮城は何で海に?見た感じだと別に釣りとかじゃねえだろ」
    釣り仲間だったら積もる話があったんだけど、と仙道が撫でるように微笑んでみせると、宮城はポカンと口を開いた。「コレが魔性の男仙道彰……」と宮城は自身のアイデンティティとも言える厚い下唇を摘み、ブツブツと独り言を呟く。後日聞いた話なのだが、以前合コンで仙道の女誑し具合に衝撃を受けた三井が湘北メンバーに仙道を魔性の男だのなんだの言い撒いていたらしい。
    「俺、アメリカから帰って来たら絶対海に行くようにしてんだ。ソーちゃん…いや、兄貴に今の俺はこんなにスゴイんだぞって伝える為に。もうとっくの昔に死んでんだろうけど、どっかの島で生きてるかもしんねえし。何だろうな、長年の習慣?ってヤツだわ」
    不意に二人揃って地平線を見つめる。ホログラムのようにきらきらと輝く水面を眺めて、今や何処か遠くの南国で暮らしているかもしれないソーちゃんに想いを馳せた。


    段ボールを広げては、必要最低限の荷物を無造作に詰めていく。普段、整理整頓を率先してやるタイプでは無かったが、一度やり始めてみると案外楽しいものだなとさえ思う。一人暮らしにそぐわないクイーンベッドは即座に解体して粗大ゴミに出した。身体が資本だと口煩く言う後輩、コイツがクイーンベッドを買わせた張本人なのだが、は生憎もう側には居ない。
    数時間後には、元々物が少なく殺風景だった部屋がただの箱と化した。残ったのは数個の段ボールと長年の相棒である釣竿だけだった。引っ越すなら早い方が良い。未練など残さず、誰も自分のような一バスケット選手を知らない場所へ行こう。出来れば海の傍。毎朝錫箔のように輝く海に釣竿を翳し、毎晩意味もなく打ち寄せては引き、引いては打ち寄せる波の声を聞いて眠るのだ。

    「仙道ッ!」
    鋭い叫び声に靄のかかった意識が晴れる。目の前には魚住が居て仙道の手にはバスケットボールが収まっていた。パスを出し、ボールが奇麗な放物線を描く。たった600gの球体はリングの真ん中を擦り抜け、ネットの掠れる音と共に地面に落ちた。左眼を遮るものは何も無い。両視界は、歓喜に響動めく体育館で陵南のユニフォームだけを捉えていた。
    目が覚めると、夢の雰囲気から自分だけ追い出された冬の朝だった。悲しくなって、半泣きで起きた。左眼に手を伸ばす。眼帯は付いたままだった。ああ、なんて人間って馬鹿馬鹿しいんだろう。別に一夜明けたからと言って眼の状態が頗る良くなるなんて事はない。仙道は布団から出たくない気持ちを堪えて、蛍光灯のスイッチを入れる。火の気のない部屋の中は急に明るくなったが、身を刺すように寒かった。折悪しくヒーターは既に段ボールの中で、淡い陽が零れる部屋に冷たい空気だけが漂っている。
    一人寂しくなってテレビを点けた。立ち上がり、彦一が焼いて持って来たDVDをデッキにセットする。色彩が躍り、熱気に満ちた試合がはじまるのを眺めている。夢の中でさえバスケをしていたのに、現実でもバスケを追い求めてしまうとは情け無い。過去対戦してきた選手達は、目を圧するほどの迫力があった筈なのに、今では、ただ液晶の奥で白のユニフォームと赤のユニフォームがもつれあって、ボールを奪い合っているようにしか見えなかった。画面の中で三井が深津のパスを受け取り、ボールを放つ。相変わらず奇麗なフォームで、ボールはリングへと吸い込まれていく。嵐のような歓声が起こった数秒後、二人に駆け寄りハイタッチをする仙道の姿が映し出された。
    態々こんなところまで撮らなくてもいいのに。
    三井と深津は今頃何をしているのだろう。自分が居ないチームでどんなプレーをしているのだろうか。バッシュとボールが擦れる響の中、部屋の片隅で自分だったらもっと良いパスを回せるのに、と女々しい考えが過ぎって仙道は頭を振った。
    東京や神奈川には想い出が多過ぎる。
    別に新しい家を見つけなくとも、全国各地の釣りの名所を巡る放浪の旅に出れば良いじゃないか。そうだ、そうしよう。善は急げ。誰かがそう言った様に行動を起こすには早ければ早い程良い、はず。
    仙道はリモコンを手に取り、テレビを消す。吸い込まれるように暗くなった硝子には、覚悟の色を滲ませた自分の顔が映っていた。何はともあれ此処を出て行く決心をしたお陰で、仙道の気分はすっかり良くなっていた。指の先にまで生気が行き渡っているように感じられた。二十歳という分水嶺を越えてこの方、そんな気分になれたのは初めての事かもしれない。別にバスケだけが人生じゃない、心からそう思えた。
    エントランスから出てみると、地面にはぱらぱらとした固い雪が小さな砂糖菓子のように一面に散らばっていた。彼らはそれぞれにしっかり身を固めて、溶け去ることを拒否しているみたいに見えた。身震いをしながら、昨夜ガムテープを貼った段ボールをレンタカーの中に押し込める。何度か階段を昇降し、最後に相棒と生活必需品の入ったスポーツバッグをそっと助手席に添えた。
    後はマンションの鍵を閉めるだけ。ステップを踏むような軽い足取りで最上階まで昇る。自宅前の共有廊下から顔を覗かせると淡い冬の光の中に雑然とばらまかれた人々の営みをくっきりと見下ろすことが出来た。こんな高い所から見下ろすと街一帯が自分のモノのように思えるから、と仙道は最上階に位置する自室を密かに気に入っていた。名残惜しいが、今日でもうこの部屋とはおさらばなのだ。少しひび割れた手に握られた小さな鍵を鍵穴に差し込む。鍵は鍵穴に不自然なくらいぴったりと馴染んでいた。鍵は仙道の手の中でくるりと回転し、かちりという気持の良い音を立てて錠が締まる。
    再びエントランスまで降り、道路傍に停めてあるレンタカーの方へ歩みを進めていく。独特なミント風味の消臭剤が染み込んだ空間に足を踏み入れようとした瞬間、冷たくなった仙道の腕にじんわりと誰かのてのひらの体温が移った。自分の左腕を持つ、食い込むような手の感触に思わず振り返る。
    「おい」
    掴まれた左腕の方を見ると流川が目と鼻の先に居た。寒さに鼻を赤らめ、吐く息がその顔を隠すように白い。どうして流川が此処に居るのか。仙道は目の前の光景に息を呑んだまま唖然とした。
    「……ッ、なんで…なんでバスケ辞めんだよ」
    握った手が小刻みに震えていた。もしかして自分を引き留めようとしに来たのだろうか。
    それは困る。一度、流川のキラキラと煌る視線に当てられてしまうと、何処で何をしていようがコートのど真ん中に引き摺り出されるような感覚に襲われるから。生気に満ちた眼は仙道に夏の光を思わせた。鋭く水中に差し込んで屈曲し輝いて散るあの夏の光。まさに流川が対抗心に瞳孔を揺らし、1on1を挑んできた日そのもの。たとえ今コートの中に一人放り出されたとしてもまともなプレーが出来る筈はないのだが。
    仙道は、考えすぎだと自嘲してその懸念を打ち消そうとしたが、突然の流川の姿に強ばった頬が震えてしまい、どうしても笑顔を作れなかった。
    「いやちょっとな左眼やっちまって、もう殆ど見えねえの」
    驚きで両目が見開かれる。
    「お前ならわかんだろ。豊玉、だったか?そこで左眼やってたし」
    「……チリョーすれば治るだろ」
    「入ったところが悪くてな、それは無理かも」
    「これ外れたら眼鏡にでもしようかね。牧さんみたいにさ、なんて……」
    不意と目の前に立ち塞がる流川に視線を寄越した。その顔は苦痛に歪んでいた。その刹那、仙道は何とも言えない感情に襲われた。泣きたいのはこっちだ、お前はまだバスケが出来るだろ、と。
    「………なんでお前が泣いてんだよ」
    今のお前誰が見ても情け無い顔をしてるぞ、という軽口は呑み込んで流川の目の縁の涙を人差し指で拭ってやった。自覚すれば歯止めが効かなくなるようで堪えていた涙が溢れて、端正な顔立ちを濡らした。他人事のように情けないと思う。自分の事でも無いのにいい歳して、何をしているんだろう。
    「あー…はは、お前もしかして結構俺の事好きだったりする訳?」
    口に出して後悔した。早く何とか言ってくれ、いつも桜木に言う様に「どあほう」と一蹴してくれ。
    静寂の中、冷たい風の音だけが悲しげに響いている。
    「……うん、」
    「あんたとのバスケが1番好きだった……いや過去形じゃねえ。今も1番。」
    「………そっか」
    昔から流川楓の敵愾心丸出しの眼が苦手だった。
    早くアメリカにでも行っちまって俺の事なんて忘れて欲しい。日本のバスケは遊びだって微笑って欲しい。そして俺の残った右眼の視界に入ってこないで欲しい。


    俺にバスケがしたいと思わせないで欲しい。


    氷の様な冷たい風が頬を切る。はらはらと降る雪を目にして仙道は本格的な冬の到来を感じる。そういえば「ぜんぶ雪のせいだ」なんて謳うcmが今朝テレビで流れていただろうか。今やそのテレビも数個しかない段ボールの何処かに押し込められている。きっと自分達に置き換えたら「雪」の部分は「バスケ」になるのだろうなんて馬鹿な事を考える。本当にそうなのだ、自分達はその大馬鹿者なのだ。
    お互いバスケットボールという唯一の共通点に毒されているだけだ。流川の奇矯な行動も恐らく一時的なものだろうとぼんやり思う。ただ、水面の中にゆらゆらと揺れる青い焔が見える。
    一般人には為り切れない二人のバスケットマンが、雪に包まれたまま静かに冬の光を浴びていた。





    ガタンッと田舎特有の凸凹路に荷台が揺れ、仙道は目を覚ます。どれくらい眠っていたのだろうか。見渡すと既に周囲は薄暗くなり始めており、春と言っても未だ冷たい潮風が仙道の頬を擽る。薄着で来たのが間違いだったな、と両手で強張った身体を摩る。そんな仙道を見兼ねてか、運転席から古着味を感じるトラックジャケットが飛んで来た。
    「ここら辺、夜になると冷えるから着ておきな。後コレやるよッと」
    「ッありがとうございます……って酒…もしかして飲酒運て、」
    「飲まねえとこんな仕事やってらんねえの!工業卒業してから毎日毎日まーいにちこの道往復してんだぜ、こっちはよお。ま、事故るコトはねえから安心しろよ」
    サイドミラー越しに手をヒラヒラと振る姿が見える。ぱっと見、20代後半ぐらいだろうか。自分とそう歳が変わらない事に無根拠ながら安堵感を憶える。絵の具で塗ったような金髪は、浜伝いの路をバックによく目立っていた。生え際は少し黒い。所謂プリン髪ってやつだ。
    「にいちゃん体格良いけど何かスポーツやってたりする?」
    「……あー、特に、ですかね。趣味は釣りなんで、今ヒッチハイクで色んな釣場まで乗せて行って貰ってるんです。お兄さんもその一人」
    エビスビールのプルタブを指先に引っ掛け、勢いよく蓋を開けた。泡の弾けるかすかな音に耳を澄ませる。そっと唇にアルミ缶を近付けて、泡の感触を味わう。温くなった琥珀色の液体はただ苦いだけで、御世辞にも美味しいとは言えなかった。サイドミラーから男が覗き込むように此方を見ている。
    男は手を口元に当てて一言、「ふーん?なるほどね……」と、呟くだけだった。

    あれから段ボールに纏めた荷物は全てリサイクルショップに持って行き、諭吉二枚のみが手元に残った。所持品の9割を断捨離したにも拘らず呆気ないものだ。最期に見たあのDVDだけは手放すことが出来ず、未練がましくスポーツバッグの底で眠っている。
    レンタカーの返却を皮切りに仙道の本格的な流浪人生活が始まった。最初のうちは金銭を気にして自らの脚でゆったりと歩みを進めていたが、三日目には徒歩の限界を感じて人生初のヒッチハイクという訳だ。バスケをしていたお陰で、幸い体力的に辛いと思う事は無かった。しかし、ただ黙々と歩き続けるのも自分の性に合わず、道先での新たな刺激に飢えていた。ただそれだけ。とは言ってもヒッチハイクなど風の噂で聞いたぐらいで、まるでやり方すら分からない。住宅街はひっそりと静まりかえり、この時刻はほとんど通行人もない。時折乗用車がなめらかに通り過ぎていくだけだ。『道路沿いで手を挙げて待つ』と誰かが言っていたような気がするので、仙道は右手だけ控え目に挙げる。そして、大通りから数歩傍道に入り込んだ場所に両足を肩幅に開いて立ってみせた。その間軽自動車が一台停まってくれたのだが、高齢者マーク付きの車に乗せて貰うのは気が引けて感謝の意を述べてからやんわりと断った。
    そこからが長かった。午後は淀んだ深い川のように静かに流れていった。が、仙道にはほんの一分の間にしても、時の歩みというものが驚くほど遅々として無限に長く感じられた。辺りはすっかりと暗くなり、霧を孕んだ冬の夜更けの冷たい空気が硬い粉のように瞼や頬に痛かった。紅葉のシーズンも終りを迎えつつ、シャンパン色の光にライトアップされた木々が街一帯を包む闇のベールの中で鮮やかだった。
    「このまま野宿かネカフェだな……」
    ヒッチハイク初日はまさかの惨敗。所詮見ず知らずの人を乗せてくれる暇人など早々いないもので、これもまたいい経験だよな、と白い息を吐く。諦めて付近のネットカフェを調べようとした、その時。冷ややかな風を巻いて、真紅のポルシェが路地裏に滑りこんできた。
    「えー、超激ヤバなんですけどぉ〜、眼帯のミステリアス男子がヒッチハイクしてんじゃん」
    「お姉さん達が拾ってあげよっか?ほら、乗りな乗りな〜」
    真冬なのにポルシェの四シーターオープン。寒さを逆手に取るなんていい趣味してる。
    「あ、寒そーとか思った?だいじょぶだいじょぶ、エンジンの熱ですぐ温まっから」
    「あはは、お見通しですか……まいったな。じゃあお言葉に甘えて乗せて行って貰おうかな、なんて」
    「うっわ、笑うとマブいとか激アツじゃんか…犯罪的だなぁ、おい!」
    「コイツ煩いけど気にすんなよ〜、あ、でも運転荒いから気をつけなね」
    ハンドルを握り締めている彼女の手指の爪には、上品な黒とベージュのフレンチネイルが施されて大粒のラインストーンが真珠のように光っている。もう一人が後部席を占めている大量のブランド名の印刷された紙袋を片側に詰めて仙道に座るよう施す。仙道は無事、コンサバフェミニンなウルフカットのダウナー系美女とホワイトブロンドでストレートロングのギャル系美女に拾われ、ポルシェ内はまさに渾沌と化した。

    「つーか、ミステリアス君、ウチらこのまま仙台まで戻るんだけどホントに乗ってくの?」
    「東京以外だったら何処でも。乗せて貰ってる身なのでお姉さん達が困らない場所で降ろして貰えれば、それで大丈夫です」
    「ほー、訳アリってわけね。いーねいーね、ますますミステリアス〜」
    ミステリアス君、それがこのポルシェ内で仙道に与えられた名前だった。『バスケット選手の仙道彰』を感じさせない安直さに仙道もこの呼び名を気に入っていた。
    都内を出たポルシェは少しずつスピードを上げる。街の灯はだいぶまばらになった。もうすぐ車は多摩川の鉄橋を渡る。そこを境に気温がぐんと下がって、フロントガラスが白く曇ってくるだろう。本格的な冬の到来だ。流れる景色の中で、不意に数日前偶然出会った流川の事を思い出す。彼の瞳の中で静かに揺れていた青い焔が仙道の脳内にこびり付き、忘れたくても忘れられなかった。
    「ちょっとは寂しがってんのかな……流川」
    あー、ヤダヤダ。センチメンタルな気持ちになって思い出すのが、元好敵手の流川だなんて。額に手をあてて、重い息を吐くもすぐに冬の闇の奥へ呑み込まれていった。
    「え?ルカワって流川?流れるに川?」
    「………ははっ、どうでしたっけ」
    ブロンド美女が勢いよく振り返った事で、先程の小言が音を成していたのに気が付いた。今や流川は日本を代表するNBA選手、その名を知らない方が珍しい。にわかであれ、バスケに一ミリでも関心がある人であれば一度は耳にした事があるだろう。
    「え、もしかしてだけどミステリアス君、キミさ………焼酎マニア!?!?」
    「ん?焼酎……ですか?」
    心の中で「NBA選手の流川楓じゃなくて?」と繋げる。
    「うーわ、出たよ。コイツ一回喋り出すと止まんないよ〜、大の焼酎愛好家だから」
    「ハア〜〜〜?!顔も良くて焼酎好きとかコレ運命じゃん?!?!結婚だよ、結婚ん〜、今すぐ入籍しないとだわ」
    「ミステリアス君、コイツ酒癖最悪だから論外だよ。断りな」
    「しかも流川って鹿児島限定だし結構知らんヤツ多いのにセンスあんじゃん、惚れたわ。てかもう惚れてるっつーの、あはははははっ!」
    その後も美女二人から繰り出されるマシンガントークに終りは見えず、三人揃って徹夜する羽目になった。アタシが飲めねえ代わりに飲めよ、と半ば脅されながら、道中で補給されたアルコール度数の高い酒類を浴びる様に飲まされた。この時ばかりはコンビニが24時間営業である事を呪った。お陰で仙道は生まれて初めて車酔いで吐いた。

    それから二ヶ月の間、仙道は何台もの車を乗り継いで其処に乗り合わせた様々な境遇の人々と親交を深めた。秋田市付近の国道7号で自分を拾ってくれたドライバーが偶々山王工業出身で、しかも彼が級友を迎えに行くという名目で寄ったコンビニから沢北が乗ってきた時には流石に笑った。
    「もー、遅いってば…ぇ、ッッ!?!?仙道?なんで仙道が居んの」
    サイドドアを何度も開閉しては狐に摘まれた様な表情をする。仙道は、そんな沢北が可笑しくて仕方がない様子で、声を出して笑いそうになるのを腰を曲げることで懸命にこらえていた。
    「心外だなー、俺がいちゃ駄目?ふふっ、日本代表以来だな、北沢」
    頬杖をついたまま目を細める。
    「沢北!あん時訂正しただろっ!」
    「ごめんごめん、お前が必死になって正してくんのが面白くてつい。でもまあ俺は、お前が俺のこと憶えてた方が驚いたけどな」
    「中学で虐められてた時に久々燃えた対戦相手だったから…、って別に好きな訳じゃないから!断じてッ!」
    むきになって言い返す沢北に、仙道はチェシャ猫宛らの微笑みを浮かべた。
    「好きじゃないの、俺のこと」
    「ハア〜〜〜〜ッ!?!?気の食えないヤツだな〜、のらりくらりしやがって」
    「沢北は忠犬みたいだけどな」
    沢北は、勢いよく顔を上げ、溢れんばかりの笑みを見せた。ぱっと音立てて朝開く花の割れ咲くような笑顔だった。
    「ッ!やっと沢北って呼んだ!」
    「そゆとこ」
    無邪気な、見ているこちらの胸に日が射すような、あどけない笑みを浮かべ、仙道の横に座る。忠犬という言葉が彼の耳には入らなかったようで、満足気な顔をしたまま意気揚々と仙道に話しかけてきた。アメリカのトイレの個室は扉の下が大きく開いていて慣れないとか、山王付近は交通の便が悪くて高校時代は一日に二本しかないコミュニティバスで移動していたとか。基本的な生活の軸は勿論バスケなのだが、常にバスケの事を考えているのかと言われたらそうではないらしい。
    「左眼、大丈夫なの」
    沢北は自分の左瞼を押さえて、今日の天気を訊ねるような、あっさりとした口調でそう言った。
    「出た出た。皆んなそればっか聞いてくるよなー。やっぱ眼帯してるからか?」
    「んーいや、テレビであってたから。アルバルク東京仙道彰、左眼負傷!ってね」
    「放送局も暇なんだな」
    「イヤイヤイヤ!今一番アツいのはバスケでしょ!なんてってたってこの俺が居るからね」
    「それならこの仙道彰だって居るでしょうが」
    「ちぇー、全然元気なくないじゃん。深津さんから仙道が元気ないって聞いてたのにぃ」
    幾つになっても不貞腐れて爪を弄る姿に中学生らしさが遺っている。もしかすると、初めて対戦した十四五の頃のようがよっぽど大人びていたかもしれない。
    「そりゃあ怪我してすぐは落ち込むさ。でも色々経験していくうちにプロに拘る必要はないって気づいただけ。吹っ切れたとでも言うのかな…そんな感じ」
    「ふーん、おっとなぁ!ホントに俺ら同世代?」
    「正真正銘23歳ですよっと」
    沢北は、ニヤリと笑ってなにもかも把握しているかのように頷く。
    「そっかそっか。へへ、俺の方が歳上だもんね」
    「二月には横這いだけど」
    「言ってろ言ってろ。どう足掻いても俺が歳上の事実は変わんないからね。でも、バスケやってる時の仙道は新しい玩具に夢中な子供みたい」
    全てを見透かしたような視線にドキッとする。
    「まじかあ、俺ってそう見えてんの」
    「うん、俺と仙道は同じタイプだと思ってた。ごちゃごちゃ考えず、目の前のバスケを全力で楽しむタイプ。純粋にバスケそのものを愛してるタイプ」
    眼は、八月の空をのぞかせたように深く澄みわたっている。その奥には、空や、山や海や、旅愁が、キラキラ水っぽく光って美しかった。一瞬にして仙道はユニフォームを着せられ、センターコートの真ん中に立たされた。日の丸を共に背負う『味方として』ではなく、山王と陵南各々のエースとして、すなわち『敵として』沢北の正面に立っていた。
    「ていうか仙道レベルが日本のストバスで満足出来るの?」
    「上を目指すのも楽しいけどな、ちっと疲れた。ストリートで調子乗ってる奴らに痛い目見せてやるのも面白いし」
    「性格悪ぅー、人畜無害そうな顔してる癖に結構言うんだ。じゃあその左眼がハンデって訳?」
    結露で埋まった窓ガラスを人差し指でなぞる。グリグリと押し込むように指先を動かして窓に付いた水滴を拭う。沢北がそっと朱くなった示指を離すと、外の世界から覆い隠された車内に丸や四角の空隙が出来た。隙間から夏の幻影が逃げていく。
    「いや……隠すつもりはないんだけどな、実は見えてる。たまに物が歪んで見える事があるくらい」
    仙道の告白に、沢北は暗闇で蛙でも踏み潰したような顔をした。
    「、じゃあ別に辞める事ないじゃん。その程度ならすぐ復帰出来ると思うよ」
    「俺は絶好の機会だと思うけど」
    「うーん、そんなもん?」
    「うん、そんなもん」
    それ以上沢北が仙道の左眼について言及する事はなかった。
    カーナビの機械音が秋田と山形の県境を越えた事を知らせる。沢北達二人はこのまま山形も通り過ぎて新潟の苗場スキー場に行く予定だと聞いていた。積雪地帯を乗り継ぎなしで通過出来るのはありがたい。ヒッチハイクをしてみて分かったのだが、時間帯によって成功率はまちまちで、三十分で乗れる時もあるし、二、三時間外で待たなければならない時もある。後者の場合が最悪で、まず車が通らない。北海道で幻の魚イトウを釣るために天塩川まで連れて行ってもらった帰りは本当に酷かった。待てど暮らせど通り掛かるのは鹿ばかりで、正直ヒグマに喰われる覚悟もした。
    「アメリカに来るなら養ってあげるけど。これでも俺、年棒億超えてますから!」
    仙道の左手を掬い上げたかと思えば、すぐに手の平を合わせて指を絡めてくる。沢北のパーソナルスペースが狭いのは知っていたが、流石にこれはないんじゃないか、と気恥ずかしくなる。
    「……そうやってハリウッド女優を口説いてるのかよ」
    「?俺はただ仙道とバスケしたいだけだけど?」
    「ぉっと…コイツは厄介だな」
    沢北は、腑に落ちないといった表情で首を傾げてみせる。自分がプロポーズ紛いの台詞を吐いた事には気付いていないようだった。それからすぐ何か閃いた様子で結んだ右拳を自分の顔の真横に寄越した。密着した指と指の隙間にじんわりと汗をかくのを感じる。
    「あっ、でも仙道のバスケ好きだよ。華があって」
    「ますますやっかい……」
    太平洋を挟んだ米国はこんなにも人を変えてしまうのか。
    瞬きをする間もなく手は解放されて話題も全く異なるベクトルに切り替わったのだから、沢北が何を意図して先方の行動を起こしたのか分からなかった。結局、目的地に辿り着くまでの間、ダラダラと他愛の無い話を重ねて得られた成果は仙道の呼び名が苗字からファーストネームに変わった事ぐらいだった。
    あと、本気で生活に困った時には沢北が養ってくれるらしい。


    その後、本州から九州、四国へと渡り、仙道は『ヒッチハイクで日本一周』という途方のない人生ゲームのボード上で着々と自分の駒を進めていった。勿論沖縄にも行った。活気のある場所だった。島全体を取り囲む海が、真昼の光を浴びて硝子の破片のように鋭く光っていた。大きくてそれでいて何処か頼りない。ソーちゃんが沖縄の海に魅入られてしまったのも何故か分かったような気がする。
    仙道は再び本州の土を踏み、釣りの名所と名高い駿河湾をゴールに設定した。人生ゲームのマスも残り僅か。ルーレットを回しては、見事的中した車に乗り込む。

    「あんたBリーグの仙道彰だろ?」

    しかし、今日、ついにハズレのマスを引いてしまったようだ。


    気が付いた時には例の派手髪が眼の前で金色の渦を捲いてきらきらと震えていた。
    なあ、知ってたか?一般人の俺に同意なしの性交渉を持ち掛けたら不同意性交等罪に引っかかるんだぜ。あー、いやバスケット選手の仙道彰でもレイプはレイプか。アルコールで頭が回らない。ただただ左眼がジクジクと痛む。寝心地の悪いベッドの上で世界一とも云えそうな、どうしようもなく馬鹿な事を考えている。
    仙道の性体験はまさに波瀾万丈そのものだった。中学二年生のある日、当時名前も知らない先輩に空き教室へ呼び出され、「仙道君は寝てていいから」の一言で童貞を卒業した。靡く黒髪の背後で蛍光灯が点滅していたのを覚えている。その後、中学、高校、大学にかけてやれ百戦錬磨だの、女泣かせだの根も葉もない噂が立っては消えるの繰り返しだった。仙道自身も面倒臭がって否定はしなかったのだが。
    そして、次の「仙道君は寝てていいから」は尻の処女喪失を伴うときた。それは避けたい。
    しかし、軽トラ内の居心地の悪さを掻き消すようために訳もなくエビスビールを流し込んでいる内に、仙道は滅多に飲まないほどの量を飲んでしまっている。身体中の血管が腫れ上がって脈打ち、何か話しかけてくる男の声が厚い膜の向こうから聞こえる。


    「ニュースで療養中だってあってたから、もしやと思って見てたんだけどな…やっぱりそうだ。仙道彰だ」

    「な?此処までの運賃としてさー、ちょっと良い思いさせてくれよ」

    「その余裕そうな面、一回でもいいからぐちゃぐちゃにしてみたかったんだよ」


    ここ数ヶ月の疲れがいっぺんに出てくるような思いがして、荒い息遣いとスプリング音の中、死んだように眠りに落ちた。





    横殴りの雨がガラス戸に叩きつける音で目が覚める。
    身体の中にまだ幾分昨夜のアルコールが残っていた。起き上がる動作にすら鈍い頭痛が伴い、仙道は這うようにしてベッドから出た。ひんやりとしたフローリングに両脚をつけた瞬間、何か生温い液体が仙道の内腿をミミズが這うような感触があった。
    「ぅわ、まじかぁ……」
    何か。それは紛れも無く性液そのものだった。
    どうやら自分は酒を呑み過ぎると記憶が抜け落ちてしまうタチらしい。幸いとは言えないが、仙道の頭には昨日の情事のメモリはサッパリで、ただ若干の気怠さと腰の痛みが残っただけだった。感想はと言われたら、遂に処女ともおさらばしちゃったかー、なんて能天気な一言しか浮かばない。それよか断然二日酔いの方が頭に響くし、視界がグルグルするし、気持ち悪い。
    かと言って、このままにしておく訳にもいかないので、仙道はバスルームに向かい、錆び付いた蛇口を捻った。暫くして温かくなったシャワーがジョボジョボと汚らしい音を鳴らして粘り気のある白濁と共に排水溝の奥へ抜けていった。
    既に終わってしまった事なので不思議と嫌悪感は湧いてこなかったのだが、徐々に深部から溢れる性液に「流石にがっつきすぎじゃないか」と気が引けた。まあもう偶然会うなんて事も無いだろうし、万一会ったとしても声を掛けられるような事は無いに違いない。無駄に広い浴槽に浸かる。此処には水道費などと口煩く咎める請求書は届かない。際ギリギリまで張った湯は片脚を入れた瞬間、溢れ出した。
    ラブホの『休憩料金』は男が勝手に払っていたようだ。仙道が覚醒した時には、既に例の男の姿は無く、くしゃくしゃになった一万円札を数枚残して流れ出す湯の様に消え去っていた。
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