2023.11.23 桃円無配小説「そやな、キスしてくれたら、頑張れるかもしれへんな」
円はいつも冗談を言う時のように笑ってみせたが、いつものような本心も見えないぐらいに眩しい笑顔ではなかった。
声も瞳も、不安そうに揺れていた。
◇
円の一般入試の日が迫っている。
今日も桃吾と円は放課後図書室で勉強していた。
受験シーズンではあるがこの中学校の図書室は古くて寒く、また、近隣の学習塾の自習室が充実していることもありいつも人がまばらだった。
今日にいたっては閉館間際まで残っていたのは二人だけ。
桃吾は野球部の練習やトレーニング(引退したが参加している)がない日は、極力円と放課後を過ごしていた。
円は、「風邪引くとあかんし家帰って少しでもようけ筋トレせい」と言うが、そういう円だって暖かい自宅で勉強すればいい。
どちらかの家に行ってもいいのだが、この場所がよかった。
同じ校舎で、少しでも一緒にいたいのは二人とも同じだった。
「そろそろ帰る支度せな」
「やっとけぇ〜」
円が気の抜けた表情でシャープペンシルを置いて顔を上げた。
「今日もう終わりか、て焦らなあかんとこやろ」
「わしほんま勉強向いとらんわ~」
つられて桃吾も頬を緩めた。
「うおっ」
円の消しゴムが机から落ちた。向かいに座っている桃吾の足元まで転がり、二人同時に手を伸ばした。
円の手の甲に桃吾の手が触れた。
(左……!)
桃吾の指先が強張った。
円は義指をつけた手で、難なく消しゴムを拾い上げた。
円は左手の指を二本も切断していた。そのおかげで円は今も生きている。
悲観する事はないと思っていても、桃吾は無意識に円の手の話題を避け、視線も向けないようにしていた。
(あかん、俺、変な反応した……)
円は何があってもいつも茶化して流してくれる。
けれど今日は円からもピリッとした緊張を感じた。
「あ、どや、つらいんちゃうん?」
桃吾は座り直すと、意を決して切り出した。円が話しやすいようにわざとぼやけた質問にした。
こんな風にお悩み相談をするのは二人のタマじゃないと思うけれど、直感で今日は素直に言葉にした方がいいと思った。
吹奏楽部だけはまだ練習しているようだ。遠くで音がする。低い管楽器の音がいくつか聞こえてくる。
間を置いて円が口を開いた。
「まぁ、しんどいのぉ」
そう言って視線を自分の左手に落とした。
円は言葉を続けなかったが、受験の話だけではないことぐらい分かる。
「そやろな。やし、初めてやろ、試験ってもんを一人で受けんの」
当然のように同じ道を歩んできた。
「そやな」
「なにびびっとるん。しゃーないな、試験の日の朝ぁ、見送りに行ったろか。受からな怒るで」
初めて離れ離れになる。その寂しさも怖い。
「……円。お前、頑張れそうか?」
「そやなぁ」
そう言って円はしばらく黙り込むと、キスしてれたら頑張れるかもな、と言った。
桃吾が唖然として円を見つめたのは一瞬だったはずだが、円の瞳が不安そうに揺れているのを、たまらない気持ちで見つめていた。
「な……、なに言うとんねん!」
思わず大声が出て、桃吾は慌てて目を逸らし、早口で続けた。
「何でやねん意味分からんわ! 話の流れもおかしいし、誰もおらん所でそんなん、何の笑いも取れへんし! お前芸人だけは目指したらあかん、野球だけしとればええねん!」
「ほっぺにチューやで、そんぐらい減らんやろ」
明るい声色に円の方を見ると、いつものとぼけた顔をしていて桃吾は安堵した。
「司書さんに聞こえてへんか?」
「桃吾の大声はバッチリやろな」
「んん゙っ、ん゙っ! なんや声出したら喉ぉ変な感じする。飲み物買うてくる!」
「もう閉館やで」
「今すぐ直ちに水分欲しいねん、帰る支度して待っとれ!」
財布を掴んで飛び出して行った。
廊下を走るように歩く。
(今の円なんか、円やない!)
怒りなのか焦りなのか、胸がぐつぐつと沸いているみたいで身体が熱い。
(弱気になんな!)
支えてやりたいのに、円には強気でいて欲しい。
(俺の気持ち押し付けたらあかんのに。そんでも、それが円やし、俺やし)
おかしな関係だとは思う。それでもこんなにぴったりとはまる感覚は、他の誰とも得られない。
(あいつ、あんなんよう言えたな)
今度は急激に顔が熱くなってきた。
幼馴染みの唇が、キスの二文字を形作り、いつもの快活な声を微かに震わせて、絞り出すように言ったその様を鮮明に思い返す。
(したいに決まっとんやろ! ……たぶんこれが恋やって、もう分かっとる)
長年の好きの気持ちは、いつの間にか恋になってしまっていた。
(俺が好きやて言うたら、円も好きって言うやろ。そしたら付き合おかとかなって、そんでキスでもなんでもしたらええ)
自販機の前で立ち止まった。
(でも今やない。今や……ないやろ……)
日も暮れた薄暗く冷たい空気の中、相変わらず眩しく光って立っている自販機を睨む。殴りつけたい気分だ。
(円の病気も恋ってやつも、ぜんぶぜんぶ今やない! 今やないやろ!)
本当は桃吾も日に日に気持ちが強くなり、円に触れたいと思うようになってきていた。
けれどそういうことは約束を果たすまで大切に取っておきたかった。
それにもしも二人の気持ちの足並みが揃わなければ、関係が壊れてしまうかもしれない。それだけは絶対に嫌だった。
また、万事順調に進展したって今その感触を知ってしまえば、その先、東京と大阪の距離が余計に大きくなってしまうだろう。
今だって近づいた時にちょっと肩先が触れ合った事だとか、頬に触れた毛先だとか、いつもの制汗剤や石鹸の混ざった匂いだとか、ふと思い出して切なくなるのに。
(神様ゆうんがおるんなら、願い事はたくさんある。円の病気、無かったことにしてくれとか、それとか……)
冷たい風が桃吾の周りを駆けていった。
(でも、いっちゃん叶えて欲しいんは、絶対、絶対、円を日本一にしてください……!)
飲みたい物がある訳でもない。喉だってなんともない。
いちごオレのボタンを押した。
(円、こういう時はこれやもんな)
理由はなんとなく知っている。
それが自分以外の人の影響であることに不甲斐なさと多少の嫉妬心もあるが、今はただ円に元気を出して欲しい。
(あー。ほんま俺。どんな顔で戻んねん)
あの時のいちごオレとは違うメーカーのものだ。
ガコンと落ちてきた紙パックを取り出し、「ええわ、円はなんでも美味いやろ」と気持ちを無理やり切り替えた。
つい力がこもりそうになるが、パックを潰さない程度に握りしめて図書室へ向かった。
「土産や」
円へ紙パックを放った。
「お♥ なんでパック歪んどるん?」
「俺の筋肉が黙っとらんかったんや」
「おォ、知らんけどありがと」
「倍返しな」
「待て、わし買うてくれ言うとらん。そういう詐欺あるらしいな」
「ああ?」
「頼んでない通販が代引きで届くんやて」
「なんの話やねん」
「ありがとな、受験生への思いやり」
円は笑ってくれた。
「おん!」
◇
翌朝、目が腫れていたのは桃吾だけだった。
昨日の自分を思い返すと後悔ばかりだ。
円の力になりたいのに、これでは逆ではないか。腹立たしくて悔しくて眠れなかった。
それなのに円はいつもより元気なぐらいだった。
その気丈さがむかつくし、大好きだ。
いつも通り、家族の事や今日の授業の予定など取り留めもない話をして歩く。
(あんなん言い出して。円も俺とのこと、同じように悩んどってんろ)
どうせ同じ気持ちなのに不安で。
(うじうじ悩んでアホらしい。キスするだのせんだの、俺らこんなもんで気まずくなる程度の仲やないやろ?)
本当は、今日こそ円に完璧に接したかったけれど、頭の中の声が止まらない。
(だいたい円なんかガチで死にかけたんに今ピンピンしとんねんぞ? 俺かてよそ行くのまあまあ不安やけど、めっちゃ野球やる気みなぎっとるわ!)
自分の気持ちをぶちまけなければ気が済みそうにない。
(俺も円も変な遠慮しとんのが悪い。変なもんたまっとるんや)
よく知った通学路。
「円ぁ!」
物陰に円を引っ張りこむと、胸ぐらを掴んで塀に押し付けた。
桃吾は円の唇の真横ギリギリに、乱雑に自分の唇をぶつけた。
(言っとる意味わからんけど、でも、ちょっとでも円の、俺の励みになれば)
一秒、二秒、もう限界だ。
飛び退くように離れた。
「ほれ、こんで頑張れるんやろ?」
腰を抜かしてずり下がっていく円を見下ろして言ってやった。
円は呆れたようにぽかんと半口を開けていたが、すぐ立ち上がって力強く笑った。
「ハッハッハッ!」
いつもの大きな声に安堵したのは二人ともだった。
「あかん、誰にも見られてへんかな? 桃吾がしばいとったって噂んなんで」
なんやこれロマンの欠片も無い、ほんまにどついたろか、と桃吾は思った。
「ほれ、はよ行くど」
円の背中についた汚れを叩き払う。
(まあ俺らはそんなんに浸っとる場合やないし、こんなんでええんや)
「こら頑張らなあかんな」
後ろからぼそっと聞こえた声に、走り出したくなるほど嬉しさが込み上げた。
「遅れんで」
円の手首を掴んで引っ張って歩き出す。
多くはないが人通りはある。手を離さなければと思ったが、今だけは、と教室に入るまでそのままにした。
本当は昔みたいに手を繋ぎたかったのに、我慢したのだ。でも、どうしてもと、離す直前に一瞬だけギュッと手を握った。
「おし!」
「おォ?」
円の左手。
(やっぱ指、無うなってもうたんやな)
――触れてしまった。
(変わらんわ。円の手ぇや)
一線を超えたといっても過言ではないのに、桃吾はなぜか、ああ、こいつはほんまに大事な友達やな、と思った。
◇
入学して最初の夏が来た。
強豪・金煌においてさすがに今年はベンチ入りも叶わなかったが、その中でも円は頭角を現してきていた。
学生生活も上手くいっていた。
「ほんま、ごめん」
円がそう言うと、ううん、ありがとうと女生徒は踵を返して去っていった。
放課後、部室に向かって歩いていると、友人達に包囲された。
「円、あれ、告られとったやろ?」
「美人やったやん! で?」
「断ったんだろ、もったいねえな」
「ハッハッハッ、もったいないのぉ。でも夏て特に部活エグいやん」
「何言ってんだよ、高一の夏は一回きりだろ?」
「時間足りひんわ。付き合うとるなら、大事にしてやりたいやろ」
「さすがや!」
「あかん、わしモテ期来よったかもしれん」
「いや、高校入って最初の夏いうバブルやろ。休み前は増えるんちゃう、こういうん」
「お前はそういう話ないけどな」
「うっさいわ。俺もそろそろビッグウェーブ来んねん」
「おォ、言っとけー」
円はンッハッハッと笑い飛ばした。
「やけどわしの指、これ、ええんか? 手ぇ繋がれへんし、わしこのハンデある分めっちゃ頑張らなあかんねんけど。野球すんのに指ないて、えらい事やで」
「円、その話突っ込みにくいねん」
「突っ込んでくれたらええんやけど。ん? しまった、職員室で倉庫ん鍵借りてくるん忘れた。今日わし備品や」
「ああ、円、当番け」
「先、行っといてやー」
鍵を受け取り、渡り廊下を歩くと少し風があった。立ち止まって思い返す。
先ほど告白してきたのは隣のクラスの女子だった。
(行事で同じ係になってからやな、何回か喋ったことあったわ。悪いことしてもたな)
緊張でいつもより硬い表情をしていた彼女に、改めて胸が痛む。
桃吾みたいに目元が涼やかな顔立ちで、桃吾みたいにさっぱりした性格で。
そういえば柔らかそうな唇をしていた気がする。
(なんか塗っとるんやろな、つるっとしとって、桃吾と違っていつもにこにこ笑っとる)
自分の口角の辺りに触れてみる。
(……あれ、唇やなかったからセーフやな。あいつ何回目ぇとか気にしそうや)
外したのはわざとだろう。桃吾が一瞬躊躇うのを感じた。
それでもあの瞬間、桃吾は自分のことが間違いなく好きだし、自分を、自分との関係を大事にしてくれていると感じた。
それでも、キスしなかった事も恋人にならなかった事も正解だったように思える。
(桃吾、今ぁ何しとるかな。あいつ変なヤツやからな)
言動が荒々しいばかりに誤解されやすいから心配だ。
ずっと綾瀬川のことで頭がいっぱいだったのに、今は桃吾のことを考えていればいい。
(桃吾追いかけて、綾瀬川はそっから。まず金煌で1番取るて、むっちゃごっついで)
手の平を見ると、もともとマメだらけだったが、今は特にひどい。
――キスしてくれたら、頑張れるかもしれへんな。
(なんやねんそれ! わし、ほんま弱っとったんやな)
病気が判明してからは、平静を装うのに必死だった。
何が決め手だった訳でもない。
蛇口から落ちる雫がその下に置かれたコップに一滴ずつ溜まっていき、いつの間にか溢れそうになって表面張力ギリギリで保っているのに似た状態だった。
円にとって、桃吾は顔を見れば何を考えているかぜんぶ分かる――と思っている。あの時、桃吾の顔を見た瞬間、ぜんぶ壊れてもいいから手に入れたいと思ってしまった。
あんな言葉、もともと準備していた訳なんかない。
それもまた、いつの間にか円の中に蓄積していたものが突然表出したのだろう。
二人なら気まずくなっても冗談で済ませられる自信もあったから口から出てしまったのだと思うけれど、それは慢心だった。
桃吾が出ていかなければ自分が出ていっただろう。
戻って図書室の扉を開く瞬間を想像すると冷や汗が出そうだ。
桃吾に心配を掛けたくない。
本当は縋りつきたいぐらいの気持ちなのに、桃吾にだけは弱みをみせたくない。
心配されるだけの関係にはなりたくなかった。
(あん後、ある意味ほんまに死んだかと思ったのォ)
あの夜、帰宅した円は不思議なほど冷静だった。
何も考えまいと、最も苦手な教科の模擬問題集を開き、実践さながらに時間を測って取り組んだ。
全然眠れる気がしなかったが布団に入ると、あっという間に眠りに落ちた。
こんなのはいつぶりだろうか。
幼い頃の夢を見た。
本当に怖いものなんか、まだなかった日々。
(いっつも桃吾がおって、いっつも野球しとって。楽しくて、どんどん強なってって)
タイミングが良すぎて、神様が思い出させてくれたのかと思った。
(桃吾、寂しいな。ありがとな。これからも。まだ、これからやな――)
翌朝の桃吾には驚かされた。
――ほれ、こんで頑張れるんやろ?
(やっぱりわしの見込んだ男や。意味わからん。アホやで。ん? 言い出したのはわしか)
思い出すと笑いが込み上げる。
大好きだ。恋とか友情とか分からない。ただただ好きだと思った。
それからは少し心が軽くなった。
不安や苦しみが無くなった訳ではないが、今では、心配していたより呑気に楽しくやっている。
桃吾は綾瀬川の様子を尋ねるとすぐに電話を切ってしまうが、連絡も取っている。
(今の桃吾の事はよぉ分からんけど、でもわしは、約束、守る)
電話以外にも桃吾は夜やら休日やらメッセージを送ってくるが、お互い特に意味のない一言二言をやりとりするぐらいだった。
円がほとんどスマホを使わないタイプなのが理由でもあるが。
(暇なんか? 友達できたみたいなのにな。まあ、どうせ桃吾も彼女はおらんのやろな)
もし桃吾に親友や恋人ができたとしても、それでも自分とは野球で強く繋がっていると信じているから、受け入れられるといい。
(――いや、わしには無理かもな。綾瀬川に勝つの諦められんわしには、桃吾のいちばん、誰にも譲ったれへんかもしれん)
自分の唇に触れてみる。
(うーん? ガサガサで硬くてしょうもないわ)
あの寒い日に比べればマシな気がする。
円も桃吾も急に大声を出して唇の皮が裂けてしまうことがよくあった。
あの日の桃吾の唇はどうだったか。
(桃吾としたかった? したい……? よォ分からんな)
今日はカラッとした暑さだが、立っているだけで汗ばんでくる。
見上げた空は青く、白い雲とのコントラストが美しい。
(今日も野球日和やな!)
早足で部室に向かって歩いて行った。
了