練習て「暑い」
そう呟いた桃吾の息は白かった。
「さすがにないやろ」
冬至も過ぎ、少しは日没が遅くなったとはいえ外はもう暗い。
桃吾はグラウンドコート()も着ずに片手に持ち、熱を逃したいのか手櫛でわさわさと髪を梳かしながら歩いていた。
「ただいまー。円もおるわ」
「おかえり。円、いらっしゃい!」
桃吾の家の玄関を開けると、桃吾のオカンが返事をしながら忙しげに横切って行った。
桃吾によると、今日は淳吾が熱を出したため彼女が病院へ付き添って行ったはずだし、町内会の用事もあったそうだ。父親は休日出勤。
淳吾にお粥でも食べさせたのか、キッチンカウンターには小ぶりな丼が載っていた。
夕飯はカレーにすると聞いていたから、円を家に誘った。
チーム練習の日の晩がカレーの時はいつもそうだ。母も心得ていて、連絡せずとも腹ペコの一人分、余分に作ってくれている。
円の入院中もそうしていたが、円が消えてから3回目の「練習日のカレー」で桃吾がブチ切れたため、しばらくその習慣は途絶えていた。
「円ごめんなぁ、もう少し時間掛かるわ」
円の指や目に桃吾の母も胸を痛めたが、なによりまたこうして元気に我が家へ来てくれる事が嬉しくて、声が弾む。
「ええて、すんません、ちゅうか今日は来たらあかんかったのォ。手伝うわ」
「構わんし。休んどいて、もう少しやから」
「おォ、ほたら、ありがとー」
時季的にも今日は服が汚れるほど練習していないが、足だけいつも通り風呂場で洗って桃吾の部屋へ向かった。
円のでかい声に飛び出して来なかったから、淳吾は眠っているのだろう。円は寂しがった。
春から遠く離れて住む事が確定してからも、こういう時間の過ごし方は変わらなかった。
二人で並んでベッドにもたれて座り、桃吾はスマホでメッセージを確認し、円は漫画読みはじめた。
そや、と円はカバンからチューブ容器を取り出した。
「何やそれ」
二人は澄子が「値段の割りに効くねん」と薬局でまとめて買ってきてくれる揃いのハンドクリームを使っているが、それとは違うずいぶん小さな容器。
「リップクリームやで」
「は? あー……」
筒状のものが普通だと思うが、そういえばクラスの女子に、これパケ可愛いでしょ、色も良くてね、などと言ってこんな形のを見せられたことがあった。もっとコテコテとした装飾が描かれていた気もする。知らんわ。
「むっちゃ種類あって、ちょうど店員さんおってな。これが確実やで、安物買いの銭失いはあかん、言うて」
「そうけ」
知らん。そういえば先日、唇が深くひび割れたと痛がっていた。
「あかん塗りすぎた」
「お前っ、テカテカやんけ!」
屋外で中身が固くなったのに、ほぐしもせず容器を強く押したせいだろう。
桃吾は大笑いしたが、円はとぼけた顔でチューブを揉んだ。
「手のクリームと違おて、桃吾に移せへん」
円は再び漫画を広げ、桃吾もスマホの画面をスクロールし始めた。
「お前ええかげんに力加減覚えろて」
「お前もたまにあるやんけ。ん、待て桃吾、いけるで、目ぇつぶれ」
「おん? え」
「ええから」
「え、なん?」
円はどう見てもイタズラを企てている笑みを浮かべている。
「は、引く、何、……最悪や!」
「ものの試しや」
「うーわ引く引く!」
「何事も練習が大事やろ」
円は右手で球を投げるふりをすると、漫画を閉じた。桃吾もつられてスマホを置いた。
(ん? そや、コイツ円やな、円。円ならノーカンけ)
大したことではない気がしてきた。
それにさすがに唇と唇ではないかもしれない。前振りが怪しいが、手にねじつけられるだとかもあり得る。
桃吾は呆れた気分でしぶしぶ目を閉じた。
(練習て、コイツ一生一回もせんかもしれんのにアホけ)
一瞬の間。
「いや、せんのかい」と言おうと思った瞬間、気配を感じて、それから、柔らかい感触。
温かくて柔らかくてーーけれど、これは?
気持ちが良いとか友愛だとか、そんな甘い心地ではない。
鳥肌が立ち、むしろ畏怖に近いーー大きな何かに覆い潰されるような感覚。
(え、なん……ッ)
次の瞬間、円は子犬が戯れつくみたいにグリグリと唇を押し付けてきた。
「いたた! 汚なっ、最ッ悪や!」
「ええ感じに分けられたな」
確かに円の唇はほどよくツヤが落ちている。
「桃吾の方が唇ガサガサやんけ、わしの方が痛かったて!」
「キショお前、こんなんホンマの相手にやったら泣かれんで!」
これが恋人同士なら、こんな変な気分にはならなかったのだろうか。
目を逸らすと机の上に開いたままの野球雑誌が見えた。難しくて読み進められないでいる野球理論の本や、昔から繰り返し読んでいる入門書の背表紙も。
やはり自分は恋愛だとか、そういう事をしている場合ではない。
「桃吾だからやん」
円の方に視線を戻すと、円はにこーっと笑っていた。
「うざ」
「ハッハッハッ!」
「ええわもう、そろそろメシできたやろ、行くど」
「煮えとらんでも食べれるのにのォ」
「あかん、俺は待つ。うまいタイミングで食うねん」
それからいつも通り食事をして、淳吾の寝顔を覗き見て、円はいつもより少し早い時刻に帰っていった。
桃吾は湯船につかりながら今日の練習の振り返っていた。
あたたかい湯の中で手をグー、パー、と繰り返すと痛気持ちいい。今はしみるほど肉刺だらけでないから助かる。
円が、ここ引っかかるねんな、と言いながら見せてきたガサガサの手の平を思い出した。
左手の二本の指を失った円に、夢を諦めさせてやらなかったーー。
(ちゃう、なんやそれ!)
無意識に突然湧いたその考えを、頭から追い出す。
(円は、円のためにやるんや)
絶対に俺は、俺たちはーーその意志は揺らがない。
けれど、一つの面からしか物事を見続けられるほど子供ではない。それでも夢を大切にしたい。
円は今、受験勉強も、そのために野球に掛ける時間が制限されるのもしんどいだろう。
けれど円の笑顔は変わらない。何があっても円は円だと、何度でも思い知る。
円はガサツなようで器用なところがあった。チームメイトの何倍もの練習によって得た投球技術で1番を勝ち取ったし、U12でも良い球を投げた。二人にとって、それはじゅうぶん良い球だったのだ。
綾瀬川を、花房を知り、円はもっと成長した。
(ずっと一緒におんのに、あいつ俺の知らん内に急に上手くなるときある)
天井の水滴が揺れている。
(……円、するんかな)
ひと雫がこぼれ落ち、水面に円を描いた。
(うわ、俺なに考えた? キショ過ぎや、何やこれ)
円はいずれできる恋人にも優しく接し、心も身体も傷つけるようなことは絶対にしないだろう。
なんだか虫の居所が悪い。
(練習すんなら俺だけにした方がええ)
ザブンと立ち上がってタオルを掴む。
(俺やから笑って済んだんやからな。普通ドン引きやで)
ガシガシと髪や体を拭く。
(てか練習てほんまなんやねん)
脱衣所の鏡の自分を見ると、真っ先に唇が目に入った。
かなり腹が立ってきた。
円の体温、薄く届く呼吸、唇の柔らかさと温かさ。
ぴたりとくっついて、一つの面を共有する感覚。
あの瞬間よりも鮮明に思い出された。
なぜだか今さら甘美に感じる。
(円に、俺……)
大変なことをした気がしてきた。
(ちゃうわ俺が被害者やんけ!)
洗濯機にタオルを叩き込む。
(……なんで?)
鏡の中で水滴が、襟足から垂れ、鎖骨に沿って流れ落ちていった。
了