伊月誕生日小説『11月4日、夜だけでいいから空けれるか?』
夏も終わり、秋の夜長にかかってきた電話の終盤。途切れた話題の隙間を埋めるように、静かに切り出された。
何故、なんて野暮なことは聞かない。ガッちゃんと出会ってから17回巡ってきたその日。今年はこれまでと意味合いが違うのも、ちゃんとわかってるつもりだ。
問題ない、なんてしれっと返したものの、心臓はずっとうるさくて。通話終了後に、思わず握りしめたクッションに話しかけてしまうくらいには浮かれていた。
「…まずい、緊張してきた。」
そんなことがあったのが、かれこれ二週間くらい前。多忙な日常をこなしていたら、あっという間に当日になってしまった。
今日までに教えられたのは、食事に行くつもりだということと、その店にはドレスコードがあるってこと。それから、渡したい物があるから先に家に寄ってほしい、ということ。
すべてに承諾の旨を返し、今まさにマンションのエントランスをくぐるところ…なんだが。
「…いやいやいや、思春期でもあるまいし。」
部屋番号とインターホンを押すだけ。それだけなのに、ドキドキと気持ちが浮ついてしまって頬が緩む。ここに長居しても不審だろうと、なんとか表情筋を引き締めてボタンを押す。
機械音のあと、聞きなれた声が「どうぞ」なんて機嫌良く応対してくるから、せっかく戻した口の端がまた上がってしまった。少し俯いてそれを隠しつつ、開いた自動ドアの先でエレベーターに乗り込む。部屋が上階のため割と時間がかかるのも知ってるし、もう慣れたものだ。
ちなみにガッちゃんとそういう関係になった日、我慢できずここでキスしてしまったのは僕の方だったりする。
そんなことを考えていたせいか、いつもより早く到着した気がした。廊下を進み、ちょうど部屋の前に着いたとき。タイミングよくドアが開いて、家主が顔を出した。
やあ来たよ、と声をかけたけど、返事よりも先にガッちゃんの動きが止まる。それから、視線が下がって、ゆっくりまた上がって。
「……お前さぁ。」
「なに?」
「モニターで見て、まさかとは思ったけど。」
意味がわからなくて聞き返したら、口を押さえつつ、いや、と笑いを堪えるみたいに。
「その格好か、と思って。」
「服装規定があるって言ったの、そっちだろ。」
「…で、オレが選んだスーツ着て来たって?」
揶揄うように言われて、ぐ、と言葉に詰まる。
いよいよ笑みを隠さなくなったガッちゃんが、外気で少し冷たくなった僕の指先に触れて、室内に引き込む。
「信頼していただけてるようで何よりだ。」
「…うるさいな。」
後ろでドアが閉まったのと同時に、暖めるような仕草で指同士が絡む。そのまま額にキスまでされたら、頭がぽわっとして絆されてしまうのはもう不可抗力だ。
「ガッちゃんの…。」
「ん?」
「…それは、初めて見るやつだな。」
甘い空気が伝染したみたいに、声が少し蕩けてしまう。
ジャケットの裾を摘んで、軽く左右に揺らしてみる。ちらりと表情を伺ったら、和らいだ瞳がこちらを見ていて、また堪らなくなった。
「そ、卸したて。」
「…っっ。」
付き合いだしてからのガッちゃんは以前よりよく笑って、その顔が大好きな僕は何度だってドキドキしてしまう。
うまく反応できずに俯いていたら、するりと解かれた手が腰にまわった。それから、エスコートするみたいに抱き寄せられて。
「…で、これも悪くねぇんだけどよ。」
「わっ……。」
「脱いで、靴。」
至近距離で囁かれて、耳に吐息がかかる。
なになになに。なんか今日ガッちゃんおかしくない?最初からアクセル全開というかなんていうか。
そりゃあ二人きりだし、全然問題はないよ。ないんだけど、そんなことばかりされると本当に心臓が追いつかない。
「っ、食事は…?」
「先に渡すもんあるって言ったろ?」
ぐるぐると思考が散らかっているうちに、気付けばリビングに連れて来られていて。目の前には、壁掛けのハンガーラックに掛かっている一式のスーツ。
「…え、これ。」
「誕プレ。」
シンプルな疑問に返ってきた、シンプルな一言。
…でも、こちらの感情はシンプルとはいかないわけで。
「…僕に?」
「他に誰が誕生日なんだよ。」
当たり前のように言われて、どきりと視線を逸らしてしまう。
だって、恋人から服をもらうのは初めてだ。一緒に買い物に行って、選んでもらったことはあるけど、まあ、その。あのときはただの友達だったし。まだ。
恋仲の相手に服を贈ることの意味が頭を過ぎって、じわじわと顔に熱が集まってくる。
「…おい?」
「いや、えっと…ありがとう。」
邪な考えを振り払いつつ、素直にうれしいことを伝える。
僕にはよくわからないけど、ガッちゃんが選んだものなら世間から見ても何ら問題はないはずだ。
この色も似合うと思って、なんて言いながらこちらを覗く綺麗な双眸から目が離せなくて、僕って本当にガッちゃんのことが好きだなと改めて実感する。
「…伊月?」
「っっ…。」
ぼんやり見つめてたら不意に名前を呼ばれて、何か反応する前に距離を詰められる。どうしよう、ちょっと背伸びしたらキスできちゃう近さだ。しちゃダメかな、したいな。
僕の気持ちが可視化できるなら、今この部屋はハートで埋め尽くされてると思う。今まで抑えられていたのが不思議なくらい…というか、無理矢理蓋をしてたから、その反動かもしれない。こういうの、ガッちゃんも同じだといいけど。
「そういや、まだ言ってなかったな。」
「うん…?」
「誕生日おめでとう。」
髪を一束掬って、恭しく口付けられる。
その手付きと表情で、すぐに答えが出てしまった。ガッちゃんも僕と同じだ、って。もう隠す必要がないからなのか、隠しきれないのかはわからないけど。
伝わる愛情が嬉しくて、僕に触れる手をそっと掴んで、さっき想像したとおり少しだけ背伸びをする。重なった唇が離れるとき、すり、と鼻先が擦れて、今度はガッちゃんからキスをくれた。
「あれ、店でいちばん高いやつじゃねぇけど、いいか?」
「……いいですぅ。」
ほわほわと余韻に浸ってたのに、揶揄うようにそんなことを言うからわざと不機嫌そうに返してみる。でも声の甘ったるさだけは取り繕えなくて、自覚してなんだか悔しくなってくる。
「ちなみに、裏地お揃い。」
「…っっ。」
笑いながらちらりと上着を広げて見せられて、思わず動きが止まってしまう。裏地がお揃い、と脳内で反芻される情報と、布越しとはいえ線が浮き出ている腹筋がぐらぐらと理性を揺らす。
……つまりだ。これを仕事に着て行ったとしたら、ふとした瞬間に僕はガッちゃんのことを想ってしまう。それは、すごく。あの。
「…ガッちゃん。」
「ん?」
「…たっちゃうからやめて。」
「は?」
ジャケットの内側に腕を滑り込ませて、驚いて固まっているガッちゃんの脇腹を指でなぞる。肌に張り付いたインナーはやらしくて、ベッドで僕に跨りながら脱ぎ捨てる様が鮮明に思い起こされてしまう。
堪らなくて、そのままぎゅっとくっつくように体を寄せたら、くすぐるように耳を撫でられて。
「…オレの伊月だ、って。マーキング。」
「っ、ず、るいって…。」
「もっとわかりやすくても良かったんだけどな?」
ストレートな独占欲を見せられて、胸がきゅうっとなる。
誕生日だからって、こんなにもらっていいのかな。ガッちゃんに甘やかされて、どんどん欲張りになってる気がする。
「…どうしよう、ガッちゃん。」
「ん?」
「あとでそれ、汚したくなってきた…。」
僕ので、と吐息交じりに見上げたら、一瞬固まったあと吹き出すように笑われた。
「…そりゃ最高にわかりやすいな。」
あのあと、夜の予定を先取りするみたいに、ちょっとだけ深いキスをしてから、予約時間に間に合うよう着替えて家を出た。
促されるまま乗り込んだ車内はガッちゃんの匂いがして、またさっきまでのことを思い出してしまう。
ざらりと絡まる舌が気持ち良くて、すぐに力が抜けてしまったこと。
縋るようにもたれた僕の脚の間に太腿を差し込んでぐりぐりと刺激するから、鼻から抜けるような声が漏れたこと。
そんな僕を見て、続きはまたあとでな、なんてえっちな顔で言うガッちゃんに、こくこくと頷くことしかできなかったこと。
そんなことを思い出してしまったせいで運転席の方を見れなくて、窓の外に流れる夜景をひたすら眺めていたら、割とすぐ目的地に到着した。
「…牙頭CEOは普段からこういったお店に来られるので?」
「まさか、漆原先生じゃあるまいし。」
案内されたのは、誰の目にも明らかなお高いホテルレストラン。たぶん星が二つとか三つとか、そういうところ。
誕生日という言い訳があったとしても、ちょっと身構えてしまうような敷居の高さだ。ドレスコードがあるのも頷ける。
軽口混じりに前を歩くガッちゃんに続いて席に通されて、にこやかなサービススタッフからコース料理についての説明を受ける。
正直食にあまり詳しくはないので、調理法を意味しているであろうカタカナたちは右から左に流れて行った。
「適当に注文してあるけど、他に欲しいもんあったら。」
「ああ、ありがとう。」
渡されたメニュー表を確認するフリをして、正面に座るガッちゃんを盗み見る。
食前酒を注ぐソムリエとスマートに会話をする笑顔も、途中で脚を組み直す仕草も、視線を流しながらグラスを持つ指先も、普段より落とした声のトーンも。
そのすべてが僕の胸を射抜いて、見惚れてしまう。
「…なんだよ、伊月?」
「っ、いや…。」
それになにより、僕だけに向けられるこの甘い色気がたまらない。
こんなの、今ここで垂れ流しにしたら絶対に良くない。良くないのに、その笑顔を見たら言いたいこともぜんぶ溶けてしまう。
ろくに内容も確認していないメニュー表を返し、手元のワインを一口飲んで元に戻す。あまりに自分の動きがぎこちないから、緊張しているように見えるかもしれない。それはちょっと不本意だな、と思い至り、何か話題を振ろうと顔を上げた。
「なに…?」
「いや、なんか百面相してんなと思って。」
乾杯は?と置かれたグラスにこつりと自分のそれを当てて、また優しく微笑まれる。
もう本当に、心臓がもたないかもしれない。いざというときのために医者を同席させるべきだったと本気で考え、同時に思い出したくない顔が浮かぶ。そのおかげで少し冷静さを取り戻したところで、最初の料理がテーブル上に並べられた。
「あんまり馴染みがないな、こういうの。」
「うちでばっか飯食ってるからだ。」
「いいだろ、ガッちゃんの店が好きなんだから。」
そんな話から食事が始まり、少しずつお酒も進んで。だんだん緊張がほぐれてきたというか、普段の自分たちの雰囲気だと思えるくらいになってきたところで。
ちょうどメインの肉料理が出されたとき、ざわっと店内が湧き立った。
まわりの視線を追うように目をやると、とあるテーブルの脇で花束を持った男性が跪いていて…いわゆる、誰が見ても明らかなプロポーズの光景というやつだった。
「アラアラアラ…。」
なるほどね。
確かにここは夜景の見える最上階の高級レストラン。こういう場面に遭遇しても何ら不思議はないし、むしろ日常的なことなのかもしれない。
さすがに何を言っているか声までは聞こえないけど、ほとんど全員の意識がそちらに向いている現状に、ふと悪戯心が生まれてしまう。
「…ガッちゃんもする?」
「は?」
内緒話をするように小声で聞いてみたら、ナイフを持つ手がぴたりと止まった。見つめ合ったまま、ぱちぱちと瞬きを数回。
そのまま、数秒の沈黙の後。
「…ああ、結婚するか?」
天気の話をするような口調で、さらりと告げられた。
目線なんて、切り分けられたメインディッシュに向いている。
「…ガッちゃん、僕が女性だったらグラスの水かけられてたぞ。」
「そりゃよかった、お前にしか言わねぇから安心だ。」
またも当然のようにさらりと言われて、つい絆されそうになる。
違う違う、と自分に言い聞かせ、ぐっと表情を引き締めて。
「…今のはナシ、無効です。」
「おい。」
「僕が強制したみたいじゃないか。」
「みたいじゃなくて、完全にしてたな。」
こちらの反応を見て楽しんでいるような恋人に、恨めしげな視線を送る。
こっちが主導権を握るつもりでだったのに、結局ガッちゃんの言動に振り回されて、ペースを乱されてしまう。
「本気なんだけどな?」
「…本気の人は咀嚼中に言わないだろ。」
僕の反論をかき消すように、また周囲から一斉に歓声が上がった。女性が良い返事をしたのだと悟り、付き合い程度に祝福の拍手をしておいた。
少しして正面に視線を戻したら、無言のままじっと見つめられていたようで、たじろいでしまう。なに、と目だけで問いかけたら、ガッちゃんの表情がふっと柔らかくなって。
「…じゃあ、これもいらねぇってことか。」
「え…?」
掌からころりと現れたのは、スウェード素材の小さな箱。
それが何なのか頭が理解するより先に、ばくばくと心拍数が跳ね上がる。
喉がひくついて動かなくて、ただ口が開いては閉じる。そんな僕の反応とは裏腹に、余裕綽々なガッちゃんは。
「あーあ、残念…。」
テーブルクロスの上に置いたそれを指先で弄びながら、わざとらしく落胆して見せて。
最後に、それはそれは意地悪な顔で微笑んだ。
「オレもしたかったなぁ、プロポーズ。」
「…ガッちゃんっっ!!!」
「ふは、声でっか。」