🌻コンビが仕事帰りに飲みに行く話。 とっくに日は暮れているというのに、うだるような暑さがまとわりつき、正常な思考を奪っていく。じっとりと汗ばむ肌を不快に感じて、清水は眉間に皺を寄せた。
「あっついですねぇ……」
今年の夏も猛暑になるだろうという予報通り、今日も朝から気温は高く、照りつけるような日差しがアスファルトに降り注いでいる。気休めにしかならないことはわかっているが、少しでも涼を求めて清水はぱたぱたと手で顔を扇いだ。
「そうだな」
隣を歩く日車は、短くそう答えながらハンカチで首筋に流れる汗を拭った。スーツの上着を小脇に抱え、珍しく腕まくりをしている。普段はあまり表情を変えることがない日車も、さすがにこの暑さには参っているようで、しかめ面のまま小さく溜め息をついた。
「今から事務所に戻るには微妙な時間だな。今日はこのまま飯でも食って帰るか」
腕時計を見ながら提案する日車に、清水は強く頷いた。
「日車さん、せっかくだからビールでも飲んで行きましょうよ。炎天下を彷徨ったあとの一杯は格別ですし!」
食い気味に言う清水を見て、日車は少し思案する素振りを見せたあと、こくりと小さく顎を引いた。横目で清水を見やると、スマホの地図アプリを立ち上げて、現在地を確認しながら「確かこの近くに知ってる店がある」と呟く。
特に店の希望がないならそこでいいか、という日車の問いかけに、清水はまたも大きく首を縦に振る。この暑さから逃れられるのならばどこだって構わなかった。とにかく今は、一刻も早く冷房がきいた場所で身体を休めたい。
清水は「決まりだな」と言って歩き出した日車の背中を、慌てて小走りに追いかけた。
◇
大通りを抜け、少し歩いたところにその店はあった。三階建てのビルで、二階部分がイタリアンバルになっているらしい。日車が木製の扉を押し開けると、カランカランとドアベルが鳴り、賑やかに来客を告げる。カウンター席とテーブル席がいくつかあるだけのこじんまりとした造りだったが、照明の抑えられた薄暗い店内には静かなジャズミュージックが流れていて、中々雰囲気が良い。既に満席に近いフロアにはカップルと女性客が多く見受けらる。
案内された奥のテーブル席に腰掛けると、日車は近くにいた店員を呼び止めて手早く注文をすませた。
「ビールで良かったよな?ついでにいくつかつまみも頼んでおいたが、他になにか食べたかったら遠慮なく追加してくれ」
清水は差し出されたメニュー表を受け取り、大まかにざっと目を通す。生ハムやミックスナッツといった定番のものから、チーズフォンデュや旬の野菜をふんだんに使った料理まで、幅広く取り揃えられている。デザートメニューも充実していて、可愛らしい盛り付けはいわゆるインスタ映えを意識されたものだろう。
「私、ちょっと驚きました」
「なにがだ?」
日車は清水の言葉の意図するところを掴みかねているのか、首を傾げて続きを促した。
「まさか、こんなにお洒落なお店に連れてきてもらえるとは思わなかったので」
メニュー表の写真を眺めながら正直な感想を口にすると、日車は納得したように「ああ」と呟いて口元に手を当てた。
清水は、今までにも何度か日車と仕事終わりに飲みに行ったことはあったが、大抵の場合はチェーンの居酒屋や焼き鳥屋のような、もっと庶民的な店であることがほとんどだった。だから今日も、てっきりいつものようなお店に連れて行かれるのかと思っていたのだが。
「普段は事務所から近い店ばかり選んでいるからな。せっかく外に出たんだ、たまにはこういう店もいいだろう」
日車は運ばれてきたビールグラスを手に取ると、清水の方に差し出した。清水が慌てて自分のグラスを持ち上げ、軽く打ち合わせると、チンと澄んだ音が小さく響く。そのまま一気に中身を半分ほど飲み干すと、ようやくひと心地ついたような気がした。喉の奥を流れていく炭酸の刺激と共に心地よい苦味が広がり、渇いた身体を潤していく。
「このお店にはよく来るんですか?」
小皿に取り分けたシーザーサラダをしゃくしゃくと頬張りながら清水が尋ねると、日車はゆっくりと首を横に振る。
「いや、ここに来るのは数年ぶりだな。この店は、当時付き合っていた相手に連れて来てもらったんだ」
さらりと放たれた言葉に、清水は思わずフォークを動かす手を止めた。日車にも恋人がいたという事実に、少なからず衝撃を受ける。
「……日車さんも、彼女とデートとかするんですね」
清水が、口の中に残っていたレタスを飲み込んでからぽつりと漏らすと、日車は心外だと言わんばかりに眉を寄せた。
「お前は俺をなんだと思ってるんだ」
渋い顔をしてビールを飲む日車を見て、「しまった」と清水は己の迂闊な発言に内心冷や汗をかく。三十代の男性にこの言いぐさは、失礼にもほどがある。
「あ、いえ、すみません!そういう意味じゃなくてですね、なんというかその、あまり日車さんの恋愛事情について考えたことがなかったもので……」
必死に弁解する清水に、日車は呆れとも諦めともつかないような表情を浮かべると「別に怒っているわけじゃない」と言ってビールを煽った。
ごくりと上下する喉仏を見ながら、清水は「日車さんも普通に恋愛とかするんだな」なんて当たり前のことを今更ながらぼんやりと思う。別に日車が女性にモテないと思っているわけではないし、恋愛経験だって当然人並みにはあるだろう。自分では想像ができなかっただけで、そんなことはわかりきっている。だが、清水にとっての日車はあくまで「上司」でしかなく、異性として意識する機会などこれまで一度もなかったのだ。
日車とて人間なのだから、恋をすることもあるだろうし、休日に恋人と出掛けることもあるだろう。しかし、普段事務所で黙々と仕事をしている日車の姿と、恋人に見せるであろう姿が全く重ならない。清水は、頭の中でそういう日車を想像してみると、なんだか不思議な感じがした。
二杯目のビールを煽る日車をまじまじと見ていると、清水の視線に気づいた彼は怪訝そうにこちらに目を向ける。清水が誤魔化すように曖昧に笑ってみせると、日車は一瞬なにか言いたげに口を開いたが、結局なにも言わずに、目線を逸らしてナッツの盛られた皿に手を伸ばした。
清水は、今まで日車を異性として意識したことはなかったが、こうして改めて見ると日車は案外整った顔をしていることに気がついた。
特別清水の好みというわけではなかったが、世間一般的に見てもそれなりに格好良い部類に入るであろう。身長も、ヒールを履いた清水が隣に並んでも見上げるほどの高さがあり、スーツ姿も様になっている。愛想がいいとは言いがたいが、決して冷たいわけでもなく、おまけに弁護士という条件を並べてみると、中々の優良物件だ。
日車さんの浮いた話は全く聞いたことがなかったけど、もしかしたら案外、この人は女性にモテるのかもしれないな。
そんなことを考えているうちに、勝手に値踏みのようなことをしてしまった自分に気恥ずかしさを覚え、清水は目の前に置かれたカプレーゼを勢いよく口に押し込んだ。
「ハムスターみたいだな」
もごもごと頬を膨らませながら咀噛する清水を見て、日車はおかしそうに小さく笑った。いつものような口の端を吊り上げる笑い方ではなく、ふわりと目元が緩む、柔らかい笑顔だった。 清水は、初めて見る日車の表情に、一瞬心臓がどきりと跳ね上がった。
──日車さんって、こんな風に笑うこともできたんだ。
清水は、動揺した心を落ち着かせるように、手元のグラスを掴んでぐっと中身を流し込む。こっそり日車の方を盗み見ると、彼はもうすでにいつもの仏頂面に戻っていた。清水はほっとしたような残念なような気持ちを抱えながら、小さく息を吐いた。
その後も他愛のない会話をしながら料理を食べ進め、三杯目に頼んだワインを最後に、二人は店を後にすることにした。会計の際に財布を出そうとするとやんわりと制止され、清水は少し悩んだあと、大人しく日車の好意に甘えることにした。
支払いをすませて、店の外に向かう日車のあとを追いかける。外に出ると生ぬるい風が頬をなでた。幅の狭い階段をふらつく足取りで下りていると、不意に手を差し出された。驚いて顔を上げると、日車は一段下からじっと清水を見上げている。
「転んで怪我でもされたら困る」
日車は感情の読めない声でそう言うと、ほら、と促すように差し出した手をひらりと振った。狭い階段では横並びに肩を支えることもできないからだろう。確かにその判断は合理的だ。清水はその手を取るか一瞬躊躇したあと、遠慮がちにそっと手のひらを重ねた。なんだか肩をかりるよりも気恥ずかしい気がする。日車の手は大きくて骨張っていて、アルコールのせいなのか元々体温が高いのか、触れた部分がじんわりと熱を帯びた。考えてみると、こうして直接日車に触れる機会は初めてな気がする、と今更ながら清水は思った。
「……ありがとうございます」
「ああ」
日車はそっけなく答えると、そのまま清水の手を引いて歩き出す。すっかり酔いは覚めてしまったはずなのに、足元がふわふわとおぼつかない。清水は思わず繋いだ手に力を込めそうになったが、すんでのところで思いとどまる。下手なことをして勘違いされるのは嫌だった。日車とて、ただ酔っ払いを介抱しているだけでその行動に深い意味はないはずだ。なにを話したらいいのかわからず、清水は前を歩く日車の大きな背中を黙って見つめた。
階段を下りると、日車は繋いだ手をあっさりと離した。先ほどまで感じていた温もりがあっという間に消えていく。清水はそれが少しだけ寂しいような気もしたが、きっと気のせいに違いないと自分に言い聞かせるように首を横に振った。
◇
大通りに出ると、日車は手を上げてタクシーを停めた。
「今日はありがとうございました」
清水がぺこりと頭を下げると、日車は「こちらこそ」と言って軽く会釈を返した。タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げる。清水が窓越しに「おやすみなさい」と声を掛けると、日車はそれに片手を上げて応えた。
車が動きだし、バックミラーに映る日車の姿が小さくなっていく。なんだかどっと疲れが押し寄せてきて、清水は深く息を吐くとシートに背を預けた。心地良い振動に身を任せていると、途端に抗い難い眠気に襲われて瞼が重くなる。自宅まではまだ距離がある。多少眠っても問題ないだろう。そう判断して清水は静かに目を閉じる。
ラジオからは少し流行遅れのラブソングが流れていた。