ぽくぽくぽくぽく。
ぽくぽく。
ぽくぽくぽく……ちーん……
11月下旬のヴェルニース。寒空の下、どこからか聴こえてくる不思議な音色に人々は困惑している。
「……ファリスさん、それは?」
「木魚です。主に狐族の間に伝わる打楽器です」
オルヴィナの唄い手・ファリスは先日エーテル病を発症し、手から毒が滴るようになった。
リラを奏で歌うことが日課だった彼女にとって、弦を弾けないことはこの上ない苦痛だった。しかし現状まともにモノへ触れない。今だって通気性の悪い手袋を二重三重に着けている。
生活に支障はあるもののひとまずそれでやり過ごしている……が、やはり楽器。楽器に触れたい、奏でたい。そんな思いでたどり着いた唯一の答え、それが木魚だった。
魚を模した丸い置物を小さなバチで叩くと、まろみを帯びた打音が響く。木製らしい暖かみのある、それでいて特徴的な音だ。
彼女はその楽器を気に入り、思いのままに叩き、演奏欲を満たしていた。
「ちなみにこちらの音は、雪プチが頑張って鈴を鳴らしています」
時折聴こえる「ちーん」という音は雪プチのサポートによるものらしい。音の出処を探してみれば、テーブルの上に乗った雪プチが棒を咥えて――雪プチの口がどこにあるのかという問題はひとまず忘れて――ファリスの奏でるリズムに合わせ、金属製のボウルを叩いている。
「いつの間にそんな芸を仕込んだんだ……」
「こうなると暇で暇で仕方がないんです、自分でもおかしくなっているのが分かります……」
「ああ、それは十分伝わってくる」
本人の言うとおり、ファリスはだいぶ参っているようだった。一見すると会話のテンションや喋り方は変わりないのだが、中身がおかしい。視線も普段よりふわふわしている。
いつも彼女はじっと相手の目を見つめて話すのに、今は猫みたいに部屋の隅の方に視線を注いだりしている。違和感がある。何よりもこの会話中、ずっと木魚を叩いている。シュールすぎるこの状況にロイテルは突っ込むことさえできない。
「……冒険者が抗体を探しに行った」
ややわざとらしい咳払いのあと、ロイテルはそう告げた。
「あの子だって罹患した身なのに、任せっきりで申し訳ないです」
冒険者――ファリスに同行し、彼女と共にエーテル病に罹った若者だ。彼女(彼かもしれない。実は正確な性別を誰も知らない)は首が太くなったようだが、マントで隠せば目立たないと気にしていない様子だった。ただ、首の詰まる服が着れなくなったとかで、首飾りをするのも苦しいと零していた。
「まあ、本人は案外ケロッとしていたし……」
「だとしてもです。元はと言えば私がナイミールへ行きたがったせいなのに……」
実害が出てしまったせいなのか、ファリスは珍しく引きずっている様子だった。聡明だが同時に感受性も高いゆえ、責任を感じているのだろう。
「あなたのせいではない。それにもし冒険者がいなかったら、更に最悪なことになっていた可能性もある……」
ふと、ロイテルが手を伸ばす。そのままファリスの腕を軽く掴んで木魚を叩く手を止めた。
当然ファリスは驚く。傍から見ても分かるくらい大袈裟に肩を震わせて、視線をぐっと上へ向ける。
その日、初めてまともに二人の視線が交わった瞬間だった。
「危険です、触れるのは」
「毒が回っているのは手だけだろう」
「たまたま手だっただけ、です。いつ新しく発症するとも限りません」
「少し黙ってくれ」
言うと、ロイテルは手を引いた。小さな悲鳴と共にファリスがよろける。背中側から肩を支える形で、ロイテルは自分よりも一回り以上小さな身体を受け止めた。
「な……何をするんですか」
「私もどうにかなっているんだ、その――しばらくあなたに、まともに触れていないから」
言うや否や、蒼灰色の頭髪へ控えめに顔を埋める。
相手の予想外の行動にファリスはしばし固まった。その拍子に両手に持っていた木魚とバチが手から滑り落ちる。
床へ直撃するよりも早く雪プチが動き、それらを身体で受け止めた。賢い子だ。ファリスは雪プチを見つめたまま、小さく抗議した。
「だからって髪は――ではなく、さすがに切り離して考えるべきですよロイテル様。ミシリアの開拓監査官ともあろうお方が、このような軽はずみな――」
「……ああもう!」
痺れを切らしたようにロイテルが呻く。彼の両手が肩から胸元へ回った。後ろから抱きすくめたファリスの身体は華奢で、そのまま力を込めれば簡単に折れてしまいそうだった。
「ロイテル様!?は、離してくださいっ、本当に危険ですからっ」
ファリスは暴れそうで暴れない。正確には暴れられない。相手のことを考えているからこそ、その手に触れて引き剥がすことができなかった。
ロイテルがそのことを理解した上で自分を抱いているという事実に対して、彼女の中で不満が募る。だから先程よりも大きな声を上げた。
だが、ロイテルが怯むことはなかった。彼は抱きしめる腕に力を込めながら、ファリスだけに聞こえる声で呟いた。
「何故いつも私は、あなたに何もしてやれないのか……」
彼が己の境遇を嘆く声も、自棄になって喚く声も、ファリスは沢山聞いてきた。そんな彼を慰めたり諌めたりもした。何度もした。
けれど、こんなにも無力さを悔いる声は初めてだった。しかもその言葉は自分に向けられている。
確かな愛情に触れた気がして、ファリスは瞳を閉じた。
「お気持ちだけで十分嬉しいですよ、私は」
恋人ではないが互いに情がある。彼女の吐き出した言葉が本心であるということを、勿論ロイテルも理解できた。ファリスが大人しくなったのをいいことに頬を寄せると、控えめに頬擦りをする。ほどなくして顔を離し、腕も解いた。
「何かないのか、治したあとにしたい事とか……」
名残惜しげな表情のまま、足元でじっとしていた雪プチを抱き上げる。そのままファリスに向けて差し出した。
「したいこと……うーん……」
雪プチの毛に埋もれた木魚を拾い上げ、唄い手はしばし思案した。沈黙を埋めるように、再び木魚を叩く。
ぽく……ぽく……ぽく……
「あ」
りんの音の代わりに小さな声を上げる。
「笑わないで聞いてくださいね」
そっと声をひそめる。反射的にロイテルは軽く背中を屈ませた。二人で内緒話をする時、いつもそうしているように。
ファリスは顎を反らせるようにして顔を寄せ、照れたように声を震わせた。
「ロイテル様と手を繋ぎたいです……」
その瞬間――耳から脳へ、一直線に雷の視線を受けたような衝撃がロイテルを襲った。
「かっ……」
「か?」
「……いや、随分と可愛い事を言うんだな……と」
顔を覆いながら声を絞り出す。雪プチは飽きたようにロイテルの腕をすり抜け、ぽんぽん跳ねてどこかへ行ってしまった。
「失礼ですね、私は大真面目ですよ」
照れ隠しで拗ねた風を装うファリスだが、耳まで真っ赤である。
「すまない……だがしかし、そうだな」
誤魔化すように苦笑するロイテルだが、次の瞬間開き直ったように微笑した。いつも付き纏っている眉間の皺がふっと消え、瞳が優しげに細められる。
「確かにそうだ。私も手を繋ぎたい」
こんな笑顔を向けられたら、世の婦女子は一発で心を射止められてしまうだろう。まして今はそれが自分一人に注がれていることを自覚してしまったら、ファリスはおどけることも茶化すこともできない。胸の内に咲いた花を押し込むことができない。
ファリスは真っ赤になったまま頷くと、そのまま雪プチを追うように部屋を出ていった。
愛らしいその背中が消えるまで、ロイテルは黙って見つめていた。
数週間前、夕暮れ時の絶望感が嘘のように晴れやかな気分だ。まだ彼女の手が治ると決まったわけでもないのに、都合のいい頭だった。
ひとまず言えることは――本当に症状が消えたら、手を繋ぐだけでは済まないだろうということだ。きっとファリスも確信している。
「……仕事、するか」
数多の雑念を払うべく頭を振り、開拓監査官は己の戦場へと向かった。