ヘビとエバ サボの歯をのみこんだ日から、ずっと喉がつっかえている感じがする。
ぺらぺらの布からまばたきの音すらたてないように這いでて、山賊たちのいびきがひびく冷たい廊下をぬき足さし足すり歩くうでにすねに夜の空気がまとわりついた。
眠れない。
『エースはどうしてできないんだ?』
日向の声があたまにこびりついて離れない。
きょうもサボといっしょにいた。
サボに足をおさえてといわれたけどやりたくなくて、さわりたくもなくて、うさぎがきれいに肉になっていく様を黙ってみていた。
『やるかやらないか、だまって受けるか立ち向かうか。エースとエースをいじめるやつのちがいなんて、それだけなんじゃないのか?』
そんなわけあるか。
やっていいことと悪いことがあるだろ。殺すのも殴るのも金を盗むのも悪いことだ。おれはしようとも思わないんだ。サボは悪いやつだ。
あご先からしたたる汗をタンクトップの裾でぬぐう。はしに小さくていねいにACEと刺繍されてるのをみないようにしてまたゆっくりすり足で歩く。
ミシミシときしむ廊下。
部屋までこんなに遠かったっけと思いながら、いっしょうたどりつけなくていいとも思い、それでもとうとうダダンの部屋のドアの前まできてしまい喉がはりつく。
なんどつばをのみこんでも喉はなにかがひっかかって、ひっかかるたびに昼のサボの声とおひさまとナイフと、うさぎの目だまのグレアがはげしく胸を照りつけた。
『おれはできる。じぶんがこうなるのはいやだけど、しごとをしたりうさぎを殺して腹をさばくのはなにも思わない。でもこころが痛む痛まないじゃないよ、痛んでもできる。できるし、やるんだよ。じゃなきゃだれも食わせてくれないから』
ドアをそっと開け、すきまからダダンが寝ているのを確認する。
窓の外がうっすらと白みだしていた。
息をはき、タンクトップで鼻とくちをふさいで部屋に侵入する。
息がつまり首のまわりがぎゅーっとかたくこわばり汗がにじんで、じんじん熱くひろがるあたまの痛みをおさえながらこころのなかでくりかえす。
おれはしたくない。
できるほうがおかしいんだ。
もうほっといてくれ。
おまえができたとしても、おれはしたくないんだ。
おまえが悪いことするせいでぜんぜん眠れない。
おまえは、サボはどうしてこんなことができてしまうんだ。
『エースもできるよ。おれよりもきっとずっとじょうずにできる。なのに、どうしてやらないでいられるんだ? やりかえせる力があって、やろうと思えばいますぐにでもできるはずなのに、どうしていつもだまってるんだ? どうしていつも殴られおわるのを待ってるんだ? あいつらにできてエースにできないなんてことないだろ。できないんじゃないんだよ、どうして立ちあがって殴りかえさないんだ? どうしてあいつらのナイフをうばって刺さないんだ? どうして鉄パイプですねを打たないんだ? できるだろ? どうしてなにもしないんだ? 腹減ったならさばけばいいだろ動物でも魚でも。だまって水と米と木の実だけ食って死ぬのを待つのか? それでいいのか? どうしてなにもやらないんだ? やれなくないできるんだから。エースはおれよりつよいんだから。なあエース、ほんとうは気づいてるんだろ、エースがいつまでもそうなのは、動きだせずにいるのは、じつは親なんか関係ないんじゃないか。なにもしないのを選んでるのはエースだ。いじめられたらおれが返り討ちにするのをただ見てるだけ。エースはほんとうはなにをしたいんだ? ないわけないあるんだよ。したいと思ったら、どうしてしないんだ? エースはほんとうは……』
朝日と同時におれは走った。
ダダンの寝室から金を盗り、森をかけぬけグレイターミナルへいき、おれより小さいこどもの首を締め上げ親を全裸に剥いた。親はきのうおれを蹴りとばした男だった。両足の健をえぐったあと、わき目もふらず闇市に行きいいからぜんぶ出せぶっ殺すぞと枯れ枝のような商人をいじめて金と貴金属をふんだくった。男は三日前おれを攫おうとした奴隷商だった。顔面の皮を剥いで一目散に粗大ゴミのゴミ山にむかうと、冷蔵庫の入り口がぱかっとあき、中からサボが出てきた。
驚いた顔のサボの家に転がりこみ、盗んだ服や金品を叩きつける。
とたんにかたちがなくなったみたいに膝から崩れ落ち、地面におでことひじが吸いこまれた。
「エース」
肩をさわられはねのける。
震えが止まらない。薄暗い穴倉のなか、視界のはしにみえるうさぎの皮や鹿のあたまがしずかにおれたちを見おろしている。
「エースこれ……」
「こんなの間違ってる」
走って走って、なんどむせても喉のつっかえはとれず、しぼり出た言葉はじぶんにむかって跳ねかえる。
「間違ってるかな」
サボのブーツが顔のすぐそばにあり、さえぎるようにあたまをかかえて肘とひざをくっつけてうずくまると、あかるい声がゆっくりと耳に近づいてきた。
「間違ってるし悪いことだ」
「グレイターミナルじゃみんなしてるよ」
「おれはしたくない」
「でもしたんだろ」
「もうしない」
「でも」
「しねえっつってんだ!」
じぶんのものじゃない血とゲロがかわいた手にサボのほっぺがくっついた。
赤ん坊みたいにまるまった背中にぬくみと重さをかんじる。
目をぎゅっととじてるのにおれのこころの奥までのぞこうとするギョロ目がみえて、見透かされまいと声をしぼりだした。
「こんなことしてまで、おれはっ」
「生きてたくない?」
なぐられたように咳がでた。
ジジイと話した日のことがあたまのすみからなだれ込んできて鳥肌がたつ。
生きてみりゃわかる。
それはいったいいつなんだろう。いつまで生きたらわかるんだろう。その日がくるまであと何十年も待ち続けなきゃいけないのか? 親の名前だしただけでなぐられて、明日メシ食えるかさえわからないこんな生活をあとどれだけくりかえせば。
だったら。
「死んだほうがはやい?」
そう言ってサボはためいきをついた。
「せっかくだけど、そんな無責任な働き方じゃ困るよ。おれを誘ってけばもっと稼げたのに」
かぴついた手をにぎってひらいて、目に汗が入る。なにを言ってるのかわからず、はたらきかた、とくりかえすと、サボは犬に芸をおしえるみたいに言った。
「そこらのチンピラみたいに片手間やあそびでやってるんじゃないんだ。おれが毎日してて、エースがきょうはじめてやったこれはしごとなんだぞ。途中で死なれるんじゃ困る。やるなら責任もってとってこなきゃ」
「しごと」
「そうだよ。やりがいのあるしごとだろ」
ことばにしたとたん味気なく鼓動がおさまりはじめた。
おれがしたことは、しごと。
ダダンの部屋から金を盗ったのも、子連れから身ぐるみ剥いだのも、商人をぶちのめしたのも、やりがいのある仕事。
「だいじょうぶだよ」
かわいた手にゆびが絡まる。
「だいじょうぶだよ船のうえはおれたちだけだから。おれがぜんぶゆるすから、エースは大丈夫だよ」
しずかでちからづよい、まぶしいくらいのことばにおれは首をふった。
サボがゆるすからなんなんだ。
悪いことをかさねて買った船で海軍から逃げつづけるのか? そんな生活がサボの言う自由なのか?
「はやく船買って、いっしょにいこうね。ずっと船の上にいよう。今いるおとなが全員死ぬまでまってよう。そしたらきっと、みんながわかってくれるよ。おれたちが悪いんじゃなかったって、ここにいてもいいって、きっとみんなが」
サボはあたまがいいのに、作戦考えるのはすごく得意なのに、大事なところはもやがかかったようにあいまいだ。
本でなぞっただけの知識をそのまましゃべるような、現実味のないおとぎ話を真剣にしゃべる。
それでも。
「死にたいなんてうそだよ。エースはほんとうはなんでもしたいし、どこでも行きたいんだよ。いまは思いつかないだけ。死にたいんじゃなくて、みんな死ねって思ってるんだ。ほんとだよ。だからしごとしてきたんだろ。エースはみんな死ねって思ってるんだ。みんな死ぬころはおれたちじいさんだね、きっとたのしいよ。じいさんになったらだれもおれたちにかまわない。それまでがんばろう。ねえエース、みんなはやく死ねばいいね」
それでもおれはこのあまったるい言葉がないともう息もできない。
いやいやと首をふりながらも覆いかぶさるようにだきしめられて、震えは完全におさまってしまった。