ひとつ、ふたつ、 みつ。 コンコン、と軽めのノックを二回。どうぞ、と返ってきた声が聞きなじみのあるもので、少しだけ口元が緩んだ。
「おはようございまーす。あ、マユミくんだ」
「百々人か、おはよう。今日はオフだろう、何かあったのか」
「ん-……ちょっと、暇だったから。ぴぃちゃんと山村さんは?」
「届いたプレゼントの仕分けをしている」
「そっか。マユミくんは打ち合わせだったよね」
「ああ。予定時間まで電話番と留守番を任された」
「そうなんだ、お疲れ様。……あったかいもの飲んだら、ぴぃちゃんのお手伝いに行こうかな」
「……まあ、お前のオフだから自由にすればいいと思うが。プロデューサーは体を休めてほしいと言うんじゃないか」
のんびりと会話をしながらマフラーとコートをハンガーにかける。事務所の中は暖かい。けど、いつもよりちょっと温度が低い気もする。マユミくんが暑がりなのか、自分一人しかいないからと気を使ってエアコンの設定温度を下げたのか、それとも僕の体温が少し上がってるからか。どれなんだろう。わかんないや。
「ついでだからマユミくんも何か飲む? お湯、ちょうど二人分だけ残ってるみたい」
「そうか。……そうだな、頼んでもいいか」
「まかせて。コーヒーかココア……あ、コーヒー切れちゃってるや。ココアでもいい?」
「ああ、構わない。ありがとう」
「どういたしまして」
小さく鼻歌を歌いながら、僕とマユミくんのマグカップを棚から取る。ちら、と横目で窺ったマユミくんは、時々口元に手を当てながら手元の本に目を落としていた。あの集中具合は、推理小説か何かを読んでるのかな。次のお仕事に関係あるのかもしれない。そのまま集中しててほしいな、と思いつつ、「こういう粉系ってどんだけかき回しても絶対最後底に残ってるよね」「……先にお湯を少し注いだらいけるか、と思って試しても駄目だったな」「あはは、マユミくんもそういうことやるんだ」なんて取り留めもない会話を投げかけてしまうのは、癖みたいなものだ。スプーンでカップをかき混ぜる。カチャカチャ、と少し大きめの音。この会話と音に紛れてくれますように、と祈りながら、パーカーのポケットに手を突っ込んだ。
今日の僕は運が良い、と思う。バレンタインだからとぴぃちゃんが気を使って、どうしても外せないお仕事や打ち合わせがあるアイドル以外はオフにしてくれた。ここは居心地がいいから、今日の僕みたいに、用事がなくても放課後に立ち寄る子が多い。だけど今はマユミくんと僕しかいない。
それから、マユミくんが「飲みたくなったら自分でやるから大丈夫だ」と遠慮しないでくれたこと。いつも事務所でマユミくんが飲んでいるインスタントコーヒーの入れ物が、ちょうど彼が今いる位置からは死角に置いてあったこと。お湯が二人分以上残っててくれたこと。そんなラッキーをいくつか積み重ねて、今この瞬間に繋がっている。
(……ああ、まるで)
こんな恋は溶かして消してしまえと、そう後押しをされている気分だ。運命とか、神様とかに。別にどちらも信じてないけど。
そんなことを思いながら、ぽちゃん、と一粒のミルクチョコレートをマユミくんのマグカップに入れた。
ハートの形はあっという間に崩れて、少し薄めに淹れたココアに溶けて消えていく。くるくるくる、茶色い渦をスプーンで何回か攫って、跡形もなくなったのを確認してから引き抜く。
「おまたせ、マユミくん。濃さは適当だけど」
「ありがとう、百々人。…………ん……美味いな」
マグカップを受け取ったマユミくんが、こくりとひとくちココアを飲むまでの一瞬が、まるでスローモーションのように見えた。マユミくんは飲み物を飲むとき目を閉じるタイプなんだな、とか。甘い物飲むとそんな顔するんだな、とか。そんなことをぼんやり考えながら、マユミくんのより濃いめに淹れたココアをちびちびと啜った。甘い匂いはチョコレートに似てる。これならきっと気づかれないだろう。溶かしたチョコレートにも、そこに込めた余計な気持ちも。それでいい。用意したチョコレートだって市販の安物だ。一週間くらい前に買って、勉強する時ちまちま摘んでた大入り袋の残りもの。僕なんかの恋心を表すにはちょうどいい、そう思い込みたかった。重くもなんともない、簡単に溶けて消化できる程度の思いであってほしい。……とか考えてる時点で、ちょっと手遅れな気もするけど。
「……あったまるね、ココア」
「ああ、そうだな。……ごちそうさまでした」
「ん……はぁ、僕も飲み終わったし、ぴぃちゃんとこ行こっと。マグカップついでに洗い場に浸けとくね。帰る前に洗うのお願いしていい?」
「わかった」
ふたつのマグカップを水につける。やっぱり底の方にはダマになってたココアがついてて、少し微妙な気持ちになった。このシンクは僕達にはちょっと低い。マユミくんは打ち合わせが終わった後、猫背になりながらこのカップを洗うんだろう。それとも、先に戻ってきた山村さんがさっと済ませてしまうんだろうか。どっちでもいっか。
「仕分けで使ってるのって階段向かいの倉庫かな。……じゃあまた明日、マユミくん」
「待て、百々人」
「なぁに?」
温まったからマフラーはいいかな、とコートだけ引っかけたところで、声をかけられた。振り向くと、マユミくんはごそごそと自分の鞄を漁っている。なんだろう。ぼんやり眺めている間に目的のものを見つけたらしいマユミくんがこちらに近寄ってきた。その手に、あったのは。
「これを渡そうと思っていた。良かったら受け取ってくれ」
「…………これ、……」
「最近寒さのせいかよく眠れないと言っていただろう。寝る前にホットミルクに入れて飲むといい。洋酒の風味が苦手ならココアで試してみてくれ」
差し出された薄い箱には、「冬季限定 ベリーショコラ」の文字がきらきらと踊っている。紫とピンクの中間色の背景、切られたチョコレートと断面からとろりと零れるジュレ、それからブランデーの注がれたグラスの写真。アルコール度数は2.4%、お子様はご遠慮くださいと売り場に注意書きはしてあるけど、別に食べても買っても法律違反にはならないお菓子だ。
「……わぁ、ありがとう。うれしいな」
……深い意味は、ないんだろう。今日が何の日か知らないなんてことはマユミくんに限ってない。なんならぴぃちゃんと山村さんが何の仕分けをしてるかだって知ってるはずだ。だけど口ぶりからして、今日僕が事務所に来なければ渡す日はずれてただろうし。本当にたまたま、偶然、今日になっただけ。理由だってただの親切心だ。……そう、わかっているのに。マユミくんが僕のために、って思うだけで、どうしようもなく浮かれてしまう。そこに無駄な期待が付随するのが嫌で、受け取った箱を軽く揺らしながら変におどけた明るい声を出した。
「お返し、しなきゃだね」
「お返し?」
「ふふ、マユミくんからバレンタインにチョコもらっちゃうなんて思わなかったなぁ。来月、楽しみにしててよ」
「……ああ、そういうことか。それならば、
——俺もお返しをする必要があるな」
え、と間抜けな声を上げた僕の、チョコをもっていない方の手に、じわりと伝わる高めの体温。そっと包むように握られた指先。伸ばされた人差し指が、くしりと手の甲を擦る。
「っぁ、え、マユミ、くん?」
「ココア、甘くて美味しかった」
「えっと、……それは、そうでしょ、ココアだもん」
「百々人。俺は、……そうだな。お前たちと一緒の打ち合わせの時は、コーヒーしか飲んだことがない。だが甘い物も好きだし、ここで一人になった時はココアを飲むことの方が多い」
「…………、ま、まって」
「言っただろう。甘くて、美味しかった。いつもより。……だから、俺からもお返しさせてくれ」
マユミくんが言ったことの意味を理解してじわじわ首元から頭まで熱がのぼっていく。自惚れたくない、と思うのに、マユミくんの目元も指先も、変に優しくてあまったるくて。
「…………三倍返し、じゃなくて、いいからね」
結局そんなことしか言えない僕に、マユミくんは「それは約束できないな」と小さく笑った。
……今日の僕は、運が良かったんだろうか。それとも、悪かったんだろうか。この事務所に入ったところから丸々全部夢だったりしないかな。
(ああ、こんな顔じゃぴぃちゃんのとこに行けないや)
マユミくんの手が離れると同時に、逃げるように寒い廊下に飛び出して、だけど体は火照ったままで。手袋のしてない手のひらで触れた自分の頬はひどく熱くて。
「……マユミくんの、ばーか」
結局僕は階段に座り込んで三十分近く動けないまま、ポケットに入ってたチョコのゴミを握り締めていた。
口の中にはいつまでも、甘い味がへばりついているような気がした。