今は明星 ノーマンズランドの砂漠の夜は遅い。
生きる者全てを灼くような、日光降り注ぐ昼間とは打って変わり、煌々とした月と星の下、寒いほどの強風が砂を巻き上げる。
それでも突き刺さる太陽の光よりはマシだ、と、日が暮れてからしばらく、ランプと月明かりを頼りに、人々はしばしの間行動する。
ある者は夜行性の砂に棲む虫を捕らえ、非常食を作る。ある者は期限の悪いエンジンの診察をする。
ヴァッシュ・ザ・スタンピードは、ルーティンとなっている銃の手入れを停まったバス車内で終えた。慣れた作業とはいえ、壊れた義手と残された利き腕だけで銃を分解し、組み立て直すのは骨が折れる。凝り固まった肩を鳴らすついでに、首を伸ばして後ろの席を見ると、メリルとミリイがお互いの肩を貸し合って安らかな寝息を立てていた。バスを激しく揺らす悪路と容赦ない昼間の暑さは彼女達の体力を奪っていたらしく、すっかり深い眠りに落ちている。
そのあどけない表情に、昼間の印象よりまだずっと若いのかもしれない、そんなことを思いながら、ヴァッシュはバスの車内をぐるりと見回した。
主に運転手休憩のために設けられた深夜の停車時間。座席で眠る者もいれば、窓の外で焚き火をして保存肉を焼き、軽い酒盛りをしているグループの姿もある。けれど、バスの中にも窓の外にも、ヴァッシュの隣に座っていたウルフウッドがいない。
今日の昼間、砂漠で行き倒れていた所を発見された男だ。まさか外に涼みに行って、またぶっ倒れでもしてるんじゃないだろうな。そう思うと途端に気掛かりになり、お節介かと考えながらも、ヴァッシュはバスのステップを踏んで砂漠に降り立った。
珍しく、月が青い夜だった。この星から見える月は大抵の場合赤い。しかし、月の周回軌道の関係か、時折青白い月を拝むことができた。おまけに殆ど満月だ。その珍しい現象に、冷たい空気が余計に冷たく感じられ、毛布の一つでも羽織ってくればよかったなと後悔した。それでも、こんな夜に月を見上げながら酒を飲みたくなる気持ちは分かる。そう思いながら、一杯どうだいと盃を掲げる酒盛りグループの隣を、用事があるからと通り過ぎながら、ヴァッシュは黒いスーツの男を捜した。
「おおい、おどれ、何ウロウロしとんや?」
すると、予想外に向こうから声を掛けてきた。しかし、名前を呼びながらあたりを見渡しても、件の人影は見当たらない。すると、砂地に落ちるバスの影の上に、更に手を振る影が乗っかっていることに気が付いた。
「こっちや、上や、上!」
「キミ、なんでバスの上なんかにいるんだよ!」
「ええからお前も上がってこいや。ええもんもろたで。昼間の飯の礼させてくれ」
バスの上からニコラス・D・ウルフウッドが胡座をかいて手招きする。その手元に何か、月光を受けて銀色に輝く小さな棒状のものがあった。
金属らしいものを見ると、ついナイフが頭に過ぎっていけない。携えた銃に意識を向けながら、ヴァッシュはバスのタイヤや窓枠に足を引っ掛け、古い砂埃のせいで煤けたように汚れたグレーの大きな車体の上によじ登る。足りない片腕の分を、ウルフウッドが手を差し出してくれた。その手にあったのは刃物の類ではなく細い長方形の棒を交差させたような、簡素な十字架だった。
ああ、そうだ、彼は牧師だった。十字架を武器になんかするわけないよな。ウルフウッドは十字架から伸びたチェーンを手首に巻き付かせると、つい息を詰めていたヴァッシュの左肩を掴んで引き上げる。
「ありがとう……こんなところでお祈り?」
「おう。旅の安全祈願ってところや。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ恐れてはならない、ってな」
「へえ……ほんとに信心深いんだな」
「なんや、ワイのことエセ牧師とでも思っとったか?トンガリ頭」
「トンガリ頭!?なんだよそれ!」
ウルフウッドが十字架を首に吊り下げ、襟元からシャツの中に仕舞い、代わりと言わんばかりに懐から煙草の箱とライターを取り出す。一本咥えながら器用に喋った。
「オドレ、身分隠したいんやろ?やったらなんちうか、コードネームがセオリーやんか。鶏冠頭のほうが良かったか?」
「いや、いいやウルフウッド。鶏冠頭よりはトンガリ頭のほうがまだマシだね」
「鶏冠頭やと鳥頭みたいやからなあ!」
煙草を旨そうに吸いながら、カラカラと笑う男はやはり正統派の牧師には見えず、そのことをウルフウッドに指摘すると、聖書のどこにも煙草を吸うなとは書かれとらん、という一言で片付けられた。
なんというか、食えない男だ。
「……それよりさあ、いいものってのは何なワケ?」
思わずむすっとしながらも、ヴァッシュもウルフウッドの隣に胡座になる。そっと地上を見下ろしてみると、酒盛りに運転手が加わっていて、どうやらこの停車時間は暫く続くように思えた。ウルフウッドもそれを見たらしく、二人顔を合わせて肩を竦める。
「こりゃ、ジュネオラロックに到着するのは明日の夜か明後日になりそうだな」
「せめて明日の昼間にでも着いてくれへんと困るわあ」
大して困ってなさそうな口調で言いながら、ウルフウッドは背後から一本の瓶を取り出した。
「そんでこれが、あそこの酒盛りしとるおっちゃんらがくれたお酒になります~いうこっちゃ」
「しっかりキミもあやかってんじゃんか!!」
「しゃあないやん、いらへん言うても押し付けられたんや。こういう時、折角の厚意を無下にするなって主も言うとる」
「聖書の曲解が過ぎるんじゃないの?牧師さんがお酒なんていいのかなあ」
「何言うとる、聖書にも酒ぐらい出てくる。神の御子の血ィや葡萄酒なんやで?第一、旅人はもてなされるもんや」
上機嫌で酒の入った瓶の栓を開けていたウルフウッドの目がふと眇められる。既に開封済みらしく、コルクは浅く押し込まれているだけで、素手でもぽんとコルクが取れる音がした。
透明に近い酒を瓶ごと月明かりに透かし、揺らしながらウルフウッドはゆっくりと言った。
「なんちうかな、ワイ、この旅が正に旅立ちやねん。新たな門出っちうか……」
「なんだ、昇進でもしたのか?ん?牧師って昇進とかするの?」
「いや……まあ、昇進みたいなもんか。ちょい偉なったねん。念願叶ってな……。けどあれやろ?立場に応じて、責任っちうもんは重うなる。気ぃ付いたら矢鱈、重いもん背負うてしもたで。そないななんとも言えへんブルーな気分になっとる所に通りかかったんがオドレや。そりゃ誘うやろ」
言いながら、煙草を口から遠ざけ、瓶の中身を煽った。風に流れて酒と煙草の匂いが漂ってくる。こんな青白い月夜にぴったりの匂いだった。本来煩雑な匂いのはずなのに、脳を揺さぶるアルコールの匂いと煙草の苦みある匂いが冷えた風で混ぜられて、直接喉の奥に届くような。
そして、更にその中に隠しきれない香りがあるのをヴァッシュは嗅ぎ取った。
きんと寒い冴えた夜だからこそ確信する。硝煙の匂い。どうやってもこびり付いて落とせない、争いの匂い。
ウルフウッドの背中を盗み見る。タイトなスーツの下にうまく隠しているが、ガンホルスターの線が僅かに見える。凶器を装備することを前提に仕立てられた服だ。ウルフウッドは、ナイフは使わない。彼は銃を使う。それも相当手練れだと、気軽に瓶を手渡す右手が物語っている。
きっと彼は、ここでヴァッシュが唐突に銃を構えても、動揺することなくこちらに銃口を向けるだろう。引き金を引くだろう。昼間、道暮らしらしい子供達に硬貨を渡したあと言った、言いたくない仕事とはきっと銃を使う仕事だ。
けれども、それはこの星では普通のことだった。硝煙の匂いがこびり付いている。だからどうした。ヴァッシュだって同じだ。きっとウルフウッド以上に、しつこく火薬の匂いが染み付いている。
この星での共通言語、それは銃弾のことだ。人は、撃てば死ぬ。だから人は銃口を向け合う。ヴァッシュもウルフウッドも、きっと生きるためと生かすために銃に鉛玉を込める。
そうであってくれと、願っている。
「……まあ、念願叶ったならいいじゃんか。いろいろ大変だけどさ、この星で生きてくのって」
「せやなあ」
「じゃあ、この酒はお前への祝い酒ってことで。遠慮なく……」
酒瓶を手渡され、考え事も水に流すように一気に喉へと酒を流し込む。視界の端で、ウルフウッドがおい、と片手を上げるのが見えた。
「その酒ごつい度数やぞ!!」
そういうことは早く言え!!
飲み下すまでもなく口腔内にアルコールが充満し、ヴァッシュは咽び咳き込む。あーあーと呆れたようにウルフウッドがその背を擦った。
「っ……うの遅…って!!ごほっげほっ!!」
「阿呆ぅ、匂い嗅いだら分かるやろ。ストレートで一気飲みする奴があるかいな」
「…………!!」
確かにこの星の共通言語は銃弾だ。ヴァッシュは本気でそう思っている。
しかし、言葉がある以上、伝えるべきことは言葉で伝えるべきだろ!?
「なんや、オドレと旅でもしたらえらい大変な目に遭いそうやなあ、トンガリ頭」
「ごほごほっがはっ……うるせー……ッ!」
それはこっちのセリフだっての!いっそ悪態をついてやりたい気持ちだったが、それから暫くの間、ヴァッシュは身体を折り畳んで咳き込むことで精一杯だった。
二年後、ウルフウッドの言葉が現実として彼の身に降りかかることになるとは、このときの二人には知る由もなかった。
見下ろす月に大穴が穿たれる前の最後の夜の出来事である。