初恋エンゲージ ピンポン。来客を告げる呼び鈴の音に、ファウストは宿題から顔を上げた。時間は午後5時。もうそんな時間になるのか、と玄関のドアを開けると、そこには黒髪の少年が立っていた。
「晶、今日も来たのか」
「えへへ、お邪魔します」
にこにこと笑う少年……晶を、ファウストは中へと招き入れる。晶も、リラックスした様子で玄関に足を踏み入れた。
「ファウスト、今日の夕飯は決まっていますか」
「ああ。パスタにする予定だよ」
晶を居間のソファに座らせ、ファウストはキッチンでお茶を淹れる。
「じゃあ、お掃除とかお手伝いすることはありませんか?」
「ないよ」
晶が手伝いを申し出て、ファウストに断られる。これも毎日繰り返すやりとりだ。それだけ断られればめげそうなものを、晶は辛抱強くファウストの元へとやってくる。
晶は、隣の家に住む少年だ。晶が生まれた時からの知り合いでもある。高校生ながら家の都合で一人暮らしをしているファウストのことを、晶の父母がよく気にかけているのもあるが、彼がこうも足しげく通ってくるのには、本人なりの理由があるようだ。
「お手伝いできることがあれば言ってくださいね、俺はファウストのお嫁さんですから」
「まったく……」
ファウストにじろりと横目で見られても、晶はにこにこと朗らかな表情を崩さない。
『ファウストのお嫁さんになる』 これは晶が今よりもっと幼い頃からの口癖だ。物心ついたころにはそんなことを言ってファウストの後ろをついて回っていた。その思いは今でも変わっていないようで、こうして毎日夕方になるとファウストの手伝いをしようと隣の家からやってくるのだ。しかし、ファウストは一人暮らしをする前から家事をしていたこともあって晶が手伝うことはほとんどない。だから、こうしてお茶を淹れてのんびりと過ごすのが夕食前の習慣になっていた。
「今日は誰かと遊んだのか」
「カインとアーサーと、クロエとルチルたちと、公園で鬼ごっこをしました」
本来なら自分がお茶を淹れてファウストを気遣わないといけないと晶は思っているが、ファウストの淹れてくれるお茶はおいしいし、何より手伝うことはないと門前払いされていた頃と比べるとファウストが自分に心を開いてくれているようで嬉しい。本当は学校から帰ってすぐにでもファウストのところに行きたいのだけれど、『友達と過ごす時間は大切にしなさい』とたしなめられてしまったし、何より晶だって遊びたい盛りだ。そのため、こうして夕方にファウストの元へ行き、お茶を飲みながら今日あったことを話すのが大切な日課になっていた。
「そうか」
ファウストが優しく微笑んでくれるのを見る度、晶の小さな胸はドキドキと高鳴る。頬が熱を持って、なんだか居心地が悪いような、むずむずするような気持ちになる。これが、ひとを好きになるということなのかな。お茶の入ったマグカップ(これは晶専用のカップだ)を両手で包み、晶は身を縮めた。
「どうした、具合でも悪いのか?」
そんな晶の様子を知ってか知らずか、ファウストが自分のティーカップを置いた。テーブル越しに身を乗り出し、晶の額に手を伸ばした。
「わわっ」
驚いて身を竦める晶の額に、少しひんやりとした手が触れる。その心地よさと、ファウストに触れられていることから来る胸の高鳴りで思考が乱れていく。
「少し熱いようだが」
眼鏡越しの自分を心配するような視線に当てられ、晶はさらに赤くなる。ついにはマグカップを置いて、ファウストの視線から逃れるようにソファに丸くなってしまった。
「ず、ずるいです、ファウスト……」
「……元気そうだな」
おかしそうに笑うファウストをじとりと見ながらも、またマグカップに手を伸ばし、顔を隠すようにしてふうふうと息を吹きかける。だが、お茶はもう晶の猫舌に優しい温度にまで冷めていた。
お茶を飲み終えた晶を隣の家に送り届けてから夕飯や風呂、明日の学校の用意を終えてファウストは眠りに就く。
夢の中で、ファウストは小学校に入る前後の小さな子供だった。たぶん、今の晶より幼い。夢特有のふわふわとした訳のわからない空間の中で、小さなベビーベッドだけが鮮明だった。思わず歩み寄り、誰が寝かされているのかと覗き込む。
「わあ、かわいい!」
ベビーベッドにいたのは、服の色からすると男の子だろうか。小さな手足に、柔らかそうなほっぺ。思わず手を伸ばしてつつくと、男の子がむにゅむにゅと口を動かした。ゆるく握られた手に指を沿わせると、温かい手がきゅっと握り返す。
「ふぁ……」
「今、僕の名前を呼んだ?」
もちろん、ベビーベッドの中の子どもは何も答えない。それでも、ファウストはにっこりと笑みを浮かべた。
「大きくなったら、この子と結婚したい!」
目覚ましが朝を告げる。ベッドの中から手を伸ばしてやかましいそれを止めると、ファウストは起き上がった。カーテンを開けると、眩しい朝日が入り込んでくる。目が光に慣れると、隣の家が窓から見えた。カーテンの閉まった晶の部屋がちらりと視界に入った瞬間、ファウストは昨夜の夢を思い出した。
あれは、まごうことなき過去だ。妹とはまた違う、隣の家に生まれた男の子にファウストは確かに恋をした。そう、今でも。あの子はまだ幼いから心変わりをすることだってあるだろう。だから、口には出せないけれど。
まだまだあの子は夢の中にいるだろう。もう少ししたら目覚めて、日が暮れたら僕のところへやってくる。それが待ち遠しくて仕方がない。