天使たちにクッキーはいらない びり、と衣類特有の破れる音がして、ユキは歩みを止めた。
後ろを振り返ると、吸血鬼としては幼い彼が、身に纏っているフリルをたくし上げているのが見えた。踵付近のボリュームのある白いフリルが中途半端なところで分かれてしまっている。どうやら飛び出した木の枝に引っかけてしまったようだ。
彼は暗い森の中でも判別できるほど、悲しそうな顔をしてユキを見上げた。
「ご、ごめんなさい」
「どうして謝るの。ケガはない?」
「……はい」
ユキは彼に近寄って、彼の目の前で跪く。彼と揃いの長いフリルが森の湿った土を撫でた。
ユキさんの服が汚れちゃうよ、と彼は慌てたが、ユキは気にしなかった。片目で彼のくるぶしを確認するが、出血はしていなかった。彼の言葉を信用していないわけでは無いが、彼はユキに遠慮がちだった。ほ、と息をついてユキは立ち上がる。
「あやまるべきなのはわたしの方だね。先頭を歩いていたのはわたしだから。危ないよ、って伝えればよかった」
彼はもともと両目で生活していた人間だ。吸血鬼として長年生きてきたユキならまだしも、彼は片目で歩くことはまだ慣れていない。視界に木の枝が入っていなくても不自然でなかった。
「そんな、あやまらないでください。僕が後ろを歩きたいって言ったんです」
旅をして数日経つが、彼は森の中では決まってユキの後ろを歩きたがった。本人に直接聞いたわけでは無いが、ユキはその理由に心当たりがある。
彼が人間だった最後の夜、彼は森の中で血まみれの状態だった。背中に腕を回した時に、何度も切り付けられた痕の感触があった。月の明るい夜に、真後ろから奇襲を受けたのだとすぐに分かった。トラウマとして残っているのも当然だった。
ユキは少し考えてから、手を静かに差し出した。つややかな黒い爪に彼の視線が集中する。
「あの、ユキさん」
「手を繋ごう。一緒に並んで歩いたら、視界も広がるでしょう」
ね、とユキが首を小さく傾けると、彼はおずおずと手を重ねた。ひやりと同じ温度が伝わってくる。もう人間の体温ではない。
「もうすぐ街の近くを通る。そこで服を直すための準備を整えようか」
「はい」
「大丈夫。今から行く街は静かだし、住民も穏やかな人が多いから」
「いったことがあるんですか」
「随分前にね。吸血鬼だから食べ物にはあまり困らないけれど、衣類はどうしても消耗品だからね。布を買いに行くんだよ」
手をしっかりと握って歩を進めると、きゅ、と彼の握る力が強くなった。
「布? 完成した服じゃなくて? ユキさんが作ったの、この服」
「そうだよ。作っているとあっという間に時間が過ぎていく。わたしにとって、時間は無限のようなものだから。良い趣味だよ」
森の陰が薄くなってきた。そろそろ夜明けだ。太陽に触れる訳にはいかないので、ユキは彼の頭に大きなフードを被せる。
先ほどよりも落ち込んでいる様子の彼に、ユキは眉を下げた。
人でないものになってしまったのだ。途方もない時間があることを受け入れられないのだろう。
陽光を浴びさせてやることが出来ないのが申し訳なかった。
ユキがもう一度謝罪しようとすると、彼はぽつりとつぶやいた。
「大事なユキさんが作ってくれた服、破いちゃった……」
「きみ、もしかしてまだ服の事を気にしているの?」
「だって、ユキさんからの贈り物だから。大事にしたい。こんないい服着たことないもん。それに、ユキさんの手作りなら、もっと大事にしたかった」
ひとつひとつ丁寧に言葉を紡ぐ彼を見て、ユキは何故か抱きしめたくなった。これ以上彼の悲しい顔を見たくなかったからかもしれないし、人間が抱擁によって安心を得る、と文献で得た知識を確かめてみたかったからかもしれない。
ただ、ユキの願いは叶わなかった。繋がったユキの手を彼が両手で包んだからだ。
願うように握り締めて、彼はユキを見る。
「ユキさん。僕にもできることないかな? お洋服、直したい、です」
「きみは、ほんとうに……」
出会った初日に血を化け物に差し出すような青年だった。物も困っている人も捨てられない子だ。
長すぎる寿命によって、何度も別れを経験する吸血鬼にふさわしくない性格だった。
でも、それが、吸血鬼として生きてきたユキにとって、眩しい。
眩しさによって笑うことを思い出したユキは、最近少しだけ上達した笑顔を彼に向けた。
「ありがとう。そうしたら、わたしにできなくてきみにできることがあるよ」
「どんなこと?」
「布を買ってきて。わたしが街に言ったのは数十年前だけれど、その頃と今のわたしの容姿は一切変わっていないんだ」
「なるほど。昔のユキさんを知っている人が居たら、パニックになっちゃいますね」
「そういうこと。おつかい、できる?」
ユキが問いかけると、彼は少し自信を取り戻したのか、縦に頷いた。
「うん。行きたいです」
閉店間際。陽がすっかり落ちた夕方十八時。私は店内でひとり、掃除をしていました。閉店時間より少し早いですが、今日は平日なのでこれから忙しくなることはないでしょう。
ここは私の小さなお城です。街の商店街から一本はずれた小道に入って、数えて三番目。小さいですが、赤い扉が可愛らしい自慢の店です。亡き妻が作ってくれた店名入りのプレートは、今も扉の中心を彩っています。
ある程度片付いた店内を見渡して、私は曲がった腰を叩きました。この瞬間が好きです。整頓された、重厚感のある布たちを一斉に眺めることが出来るからです。
大繁盛という訳ではないですが、街で少し良い布が欲しくなったら、私の店の名前が挙がるようになりました。有難いことでした。
今日は春色の布をお求めのお客様が多かったです。春真っ只中なので、これから涼しい色の布を増やす必要があります。
そんなことを考えていると、店の扉が遠慮がちに開きました。私は布に触れるのが大好きですので、閉店間際でも嬉しかったです。笑顔で入り口に向かうと、そこには分厚いフードを被った青年が立っていました。
「こ、こんにちは」
「はい、いらっしゃいませ」
私が微笑みかけると、青年はほっとしたように会釈を返してくれました。おそらく、布を買いに来るのは初めてなのでしょう。緊張が伝わってきました。それにしては、纏っている服に使用されている布にはこだわりを感じました。
フードの影に隠れてよく見えませんでしたが、青年の瞳は美しいピンク色でした。片目はバラのような眼帯で隠されていました。
この街には裕福な家が多く、洒落た小物を見つける方もたくさんいらっしゃるので、特に気にはなりませんでした。ただ、そのバラも美しかったのです。
誰が布を買いに来ても自由ですが、私はそんな青年が来てくれたことが嬉しかったです。
「今日はどんな布を探しているのですか」
「えっと、黒色と白色の布です」
珍しいな、と思いました。今日は黒も白も一枚も売れなかったからです。不人気というわけではなく、太陽の光が柔らかい春の日にはパステルカラーが好まれます。
でも、私のモットーは自由でした。どんな布を買いに来るのかも自由なのです。
私はすぐに青年をモノトーンの布が置かれたスペースに案内しました。
青年はきらきらした瞳でそれらを眺めていました。
「なんでも触ってみてください。手触りも布によって違いますから」
そう提案して青年に布を手渡すと、少しだけ青年の手に私の指が当たってしまいました。
驚くほど、冷たかったです。
でも、そんな体温とは思えないほど、青年はわくわくした様子で布を握っていました。
しばらくして、青年はこれにします、と選んだ布を指差しました。
その頃には緊張もだいぶとけたのか、青年から話しかけてくれました。店内に、私と青年だけでしたので、喋りやすかったのかもしれません。
「僕、はじめてお買い物しました」
「そうなのですか。それはとても緊張したでしょう」
「はい。でも、ここは素敵な店ですね。あの人がお勧めしてくれたの、分かる気がします」
「ありがとうございます。老人になっても、店を開く甲斐がありますねぇ」
雰囲気が柔らかい青年がさらに穏やかになった気がしました。あの人、はきっと青年にとって大事な人なのだろう、とすぐに思いました。
「僕が選んだ布で、お洋服を作ってくれるんです」
「素敵ですね。それでしたら、長さはこれくらいがいいでしょう」
私が布を断ち切るための大きなハサミを取り出すと、ぴくり、と青年の肩が張りました。鋭い刃を怖がる方は多いです。もしかしたら、この青年も嫌な思い出があるのかもしれません。
私は店の隅にあるソファを指差しました。
「もしよければ、あちらでお待ちください。この老体ゆえ、時間がかかってしまうのです。お待たせして申し訳ないですが……」
青年はこくりと頷いて、ソファの端にちょこんと座りました。座った時の洋服のシルエットも美しかったので、話に出てきたあの人という方は相当な腕前だと思いました。
しばらくして、準備の出来た品物を持っていくと、ソファで青年は瞼を閉じていました。
疲れていたのでしょう。話の途中で旅をしている、と言っていました。起こすのも可哀想だと思ったので、私はカウンターでのんびりと紅茶を飲んでいました。
もう他にお客様は来ないでしょう。亡き妻がいたら、あなたまたお客様の前でお紅茶飲んでるの、と笑われたことでしょう。そして、亡き妻が作ったクッキーを一緒に食べるのです。
私は自由に生きるのが好きでした。もうすぐ天国で妻と自由に過ごすと思います。
からん、と扉が開きました。
青年の寝息と紅茶の湯気と大好きな布で満たされた空間が壊された気がしました。
もう出迎える気がなかったので、私は首だけ動かしました。
私の息が止まった気がしました。はっとして空気を吸い込みました。妻が隣にいないので、なんとか天国に行かず、現世に留まれたことがわかりました。
そんな力があると錯覚できるほど、美しい男が立っていました。
美しい男の顔に似合わない焦った表情で、男は私に歩み寄ってきました。靡く白髪とフリルが優雅でした。
「失礼、ここにわたしと似た服を着た男の子が来ませんでしたか」
「ええ、あちらで眠っていますよ」
「ああ……、良かった」
速足で青年の方へ向かう男を、私は瞬きをして見つめていました。
どこかの貴族でしょうか。そんな男を焦らせる青年の謎が深まるばかりでした。でも、お客様の深いところまで聞くつもりはありませんでしたので、私はまた紅茶を口に含みました。
男に何度か肩を揺すられた青年はぽやり、と目を覚ましました。
「……ユキさん」
「きみの帰りが遅くて心配したよ」
「心配? ……誰かに心配されたことなんてなかった。ごめんなさい」
「……いいよ。今度、眷属と対話する方法を教えようね。そうしたら、遠くにいても安心できるから」
彼らの話は彼らのものですので、私はカウンターの奥に引っ込んでカップを片付けていました。何も聞こえませんでしたが、彼らが帰る支度をしているのが分かりました。片付け終わって腰を叩きながら戻ると、彼らは手を繋いで私を待っていました。
「お待たせしてすみませんねぇ。こちらがお品物です」
「ありがとうございます。良い布ですね」
「この方がとても真剣に選んでくださったのですよ」
私が楽しそうに話すと、青年はすこしだけ誇らしげに頷きました。男が来てから、青年の感情が豊かになりました。男は青年をたくさん褒めていました。
「それでは、わたしたちはこれで。また、きます」
「ありがとうございます。お待ちしております」
きっと、次はないだろうな、と思いました。
彼らが来ている洋服は丁重に扱われていることがよくわかりました。それでいて、かなり年数がたっていることも分かりました。貴族ならもっとたくさんの服を持っているはずでした。頻繁に布を買いに来るような人ではないのでしょう。今日が偶然で、奇跡の一日だったのです。
なにより、あの男に私は見覚えがありました。呼吸を忘れた瞬間は今日が初めてではありません。数十年前に黒いリボンを買いに来た男によく似ていました。他人とは片付けられないほど、唯一無二の美しさでした。彼は歳をとっていませんでした。
「次あの方たちが来るときは、私は天国にいるでしょうねぇ」
私は赤い扉についているプレートをひっくり返して、照明を消しました。
もし、この店を誰かに引き継ぐのなら、遺言を残しておきましょう。
黒い布と白い布を用意して。閉店間際に美しい天使たちが買いに来るかもしれないから。
「ユキさん、僕が言うのもおかしいけれど、街に来てもよかったの?」
「まあ、あの店主には、ばれていたかもしれないね。でも、迎えにいきたかったんだ」
「ありがとう」
「うん。きみの目が開くのを確認できるまで、不安なんだ。おかしいよね。きみは不安を吹き飛ばすくらい明るい子なのに、わたしはきみに出会って不安を知ったよ」
「僕は、安心を知ったよ」
そこまで言うと、吸血鬼たちは吹き出した。寝床に戻り、隣り合って横になる。
二人の首筋にある赤い二つの点が月明かりによく映えていた。