以心→→→←伝心「ハハッやられたね、恵」
家入の前に座り、押し黙る伏黒。家入の側に立った五条は愉快そうに言うと、頭に手を伸ばして四方に跳ねる黒髪をくしゃくしゃと撫でる。
ぎろりと睨みつけたところで効果があるわけもない。伏黒は大きな手を払い除けると吐息をこぼした。
一頻り師弟のやり取りを眺めていた家入が口を開く。
「この程度なら問題ないよ、すぐにでも治せる」
「待って硝子」
反転術式の使い手である家入の言葉にほっとしかけたのに、恩師兼担任教師がずいと入り込んでくる。家入と伏黒は同じような顔で五条を見た。何かまた言い始めたぞ、と。
「恵。単独任務だったとはいえ、今回の相手は格下だったはずだよ」
教師らしい、ごもっともな物言いで伏黒の精神を抉ってくる。
「完全に消え去る前に気を抜いたミスだ、理解してるよね?」
こくりと頷く。だから、と続けた五条の声に面白がる気配が混じって嫌な予感がした。
「反省して、しばらくそのままで生活しな」
何でもかんでも硝子に治して貰えるなんて思っちゃダメだよ〜、と指を振る姿が憎らしい。
しかし、己のミスが招いた事態だ。甘んじて受けるしかない。再び頷くと、補助監督の用意してくれたスケッチブックを手に取りペンを走らせる。
“家入さんありがとうございました”
「私の仕事だ、構わない。一応気を付けて過ごすことだね」
返事代わりにペコリと頭を下げた伏黒がスケッチブックを抱えて部屋を出る。気配がなくなってから家入は横の男に尋ねた。
「今度はどういう風の吹き回しだ?」
「ん? 恵は同世代との関わりが薄いし。周囲に甘えることも大事かと思ってさ」
「……案外まともな理由で驚いたよ」
「ひどいっ! こんなに生徒思いの俺を何だと思ってるの⁉︎」
そういうところだよとは言わずに、教室へ戻ったであろう一年生の悔しそうな顔を思い出す。心の中でエールを送り、まだ騒ぎ立てている五条を次の任務へと急かした。
“そういうわけで声が出ない。悪い、面倒かけるかもしれねえ”
教室に戻った伏黒が第一にしたことは、出迎えた虎杖と釘崎への説明だ。
「それは構わんけど、えっ大丈夫なん?」
「アンタ爪が甘いのよ! 心配させんな!」
間髪入れずに両側から掛けられる言葉はあたたかい。本当にいい奴らだよな。思わず口元が緩む。
そういえば、最初に出迎えそうな姿が見えない。
“宿儺は?”
短い問いかけを二人に見せた時、背後から白い制服に包まれた両腕が回された。
「戻ったぞ、伏黒恵」
肩に懐く猫っ毛がくすぐったい。
宿儺は入学当初から伏黒に好意的でスキンシップも多い。ちなみに双子の虎杖とはすこぶる仲が悪く、何故伏黒なのか分からない。いかにも一匹狼ですといった風貌の宿儺が自分にだけ態度が違うことを、特別な存在になれたようで実は嬉しく感じている。宿儺のことを思えば分け隔てなく接した方がいいに決まっているのに。
でも皆に優しく接する宿儺を想像するとモヤモヤするし、かといって虎杖に対する態度を自分に向けられたらきっと悲しい。こんな調子で最近宿儺のことを考える時間が増えた。家入さんはさっき問題ないと言っていたけれど、実はどこかおかしいのかも知れない。
お帰り、といつもの癖で言いかけて声が出ないことを思い出しペンを握ると、伏黒の正面に回った宿儺が喉元にそっと手を翳した。
「なるほど。僅かだが残穢を感じるな」
そのまま猫にするように擽られるが、声は出ないので吐息が漏れるだけだ。
「……俺以外の痕跡があるのは気に入らん、治すぞ」
そうして反転術式を発動させようとするので、慌てて呪印のある手首を掴んで頭を横に振った。
『一応、五条先生の言いつけだ。すぐに治されてはいけない』
スケッチブックに書く手間を惜しみ、口をパクパクさせる。その様子をじっと見ていた宿儺は両手を上げた。
「承知した。あの術師に従う義理はないが、他ならぬオマエが言うのなら仕方ない」
よかった、理解してもらえたようだ。……ん? 俺、今喋れてないよな? 疑問が顔に出ていたのかさらに宿儺が言う。
「ケヒッ、唇を読む程度造作もない」
目を丸くする伏黒の頬を手の甲でひと撫ですると、宣言した。
「伏黒恵の面倒は全て俺がみる。異論は認めん」
途端に周囲が賑やかになり、伏黒は宿儺しか見えてなかったことに気付いて頭を抱えた。
「ハァ〜〜? お前に任せたら伏黒の貞操が危ねえだろうが!」
「別に良いんじゃないの、満更でもなさそうよ」
「女、良いことを言うではないか」
「ちょ! 釘崎は楽したいだけじゃん!」
伏黒は一生懸命にペンを動かした。言い争う三人にスケッチブックを掲げる。
「どったの伏黒。 “宿儺がいいなら頼む”ぅ?」
「ほら本人もそう言ってるじゃない」
「小僧、諦めろ。選ばれたのは俺ということだ」
「お前は誇らしげにしてんなよ! 腹立つから!」
正面にいた宿儺を押し退けようとしながら、伏黒にも言う。
「なんかあったらすぐ玉犬出してね! いい⁉︎」
その迫力に気圧されて伏黒は頷いた。なんかって何だ、とは聞けなかった。
□ ■ □
それから、宿儺によるサポートが始まった。
何でもできる宿儺だが、望んで他人の世話をするタイプではない。上手くいかずに、もしくは飽きて放り出されるかもと伏黒は考えていた。しかし実際はというと……。
1年生4人での任務前。
「以上が本日の任務の概要です」
補助監督による説明が終わり、いざ出発と意気込む虎杖達。対して口元に手を当てている様子の伏黒にすぐさま気付いた宿儺が、皆を引き止める。
「伏黒恵から何かあるようだ、少し待て」
話を振られると思っておらず、伏黒は慌てて持ち歩いているスケッチブックを取り出そうとした。その手をやんわりと掴まれた上に溜息をつかれる。
「俺には必要ないと言ったろう。そのまま話せ」
宿儺に見られると緊張するんだよな……。躊躇いつつ開いた口の動きをじっと深紅の瞳が追った。
「『被害者の負った怪我に特徴と差がある。複数の呪霊がいると思ったほうがいい』だそうだ」
釘崎が了解と返した後、宿儺に向かってずけずけ言う。
「アンタ達のそのやり取り毎回見せられんの? イチャついてるようにしか見えないわよ」
「そうだが」
臆面もなく言い切る宿儺の制服を無言で引っ張り、抗議する。
「ん? 耳まで染めてどうした、伏黒恵」
『違うだろ、お前も否定しろ!』
宿儺は真っ赤な耳に手を添えると、耳朶をふにふにと弄った。
「否定するようなことがないのでなぁ」
猫のように目を細めて、絶句した伏黒を愛でていると、大袈裟な溜息が聞こえる。
「私が愚かだったわ、行くわよ虎杖!」
「えっ伏黒とコイツ二人にすんの?」
先を進む釘崎と戯れる二人を交互に見る虎杖。
「伏黒恵の言葉をもう忘れたか、低脳。手分けして時短だ、行け」
やれやれと言わんばかりの顔で手を振る姿を殴りたそうにしていたが、釘崎を一人にはできず虎杖も走り出す。
『宿儺、俺達も行こう』
「何だ。もう終いか」
『怒るぞ』
握った拳を伏黒が振り上げると、ケラケラと一頻り笑って手を離した。
「冗談だ、さあ行くか」
……と、いう風に会話のフォローをしたり。
任務終了後、近場のファミレスで4人が食事をとる時。
「腹減った〜!」
「五条がいれば回らない寿司だったのに、残念ね」
「センセーのこと財布だと思ってね?」
テンポよく会話を交わす級友を見ていた伏黒はふと喉の渇きを覚えた。4人掛けのテーブル席で、奥側に座っている伏黒には水の入ったピッチャーが遠い。
隣に座る宿儺を少し押しのける形になるが、自分で取れなくはないだろう。こんな些細なことで読唇させていては宿儺に迷惑がかかるし、自分の胸が波打って挙動不審になることは分かっている。できれば避けたいと思った伏黒が腰を浮かせかけた時。
「伏黒恵、グラスを寄越せ」
横からすっと手が伸ばされた。自分のグラスを差し出すと、水を注がれて戻ってくる。
気になって礼を伝える時に聞いてみると。
『何で分かったんだ?』
「見ているからな」
短く返した宿儺の表情がいつになく穏やかで、せっかく渡された水を飲むことも忘れ、呆然と深紅を見返した。
「先程の任務、慣れない状況下でうまく立ち回っていた。神経を使っただろう、きちんと水分補給しておけ」
労りの言葉が優しく胸にしみわたる。
『あ、ありがと…』
「礼を言われるまでもない。俺のしたいようにしているだけだ」
伏黒が気にしすぎないように配慮してくれる宿儺は、横暴なところが目立って敵を作りがちだけれど本当に優しい。
促されて口に含んだただの水は甘く感じられた。
「宿儺の甘ったるい声で鳥肌止まんねえわ」
「同感ね、ものすごく苦いコーヒーが今すぐ欲しいとこよ」
……とこんな具合で宿儺は飽きも放り出すこともせず、細やかに伏黒の世話を焼いた。
そんな日が数日続き、伏黒は危機感を覚える。
宿儺のフォローは痒いところに手が届きすぎるのだ。自分が何かに気付くと瞬時に察して対応してくれる。日が経過すると精度は良くなり、自分が気付かない内に…なんてことが増えた。宿儺のスキンシップにも違和感を覚えなくなって、自然と受け入れてしまっている。それどころか宿儺の低く甘やかな声で名を呼ばれ、黒く彩られた爪先に触れられると脈が速くなるのだ。
これは良くない傾向だ。宿儺が何でもできるからといって、伏黒にばかり構っている現状は要らぬ反感を買うだろう。自業自得の俺に、宿儺を付き合わせて申し訳ない気持ちもある。宿儺を前にすると身体の調子がおかしい点も気にかかる。
何より、宿儺と共に過ごす時間を、生活を、伏黒は心地よく感じてしまっていた。
(このままじゃ宿儺なしで生きられなくなっちまう!)
俺にはもう耐えきれない。五条先生の言葉なんてもう時効だ、充分に俺は反省した。
そうして伏黒は決心した、宿儺に解呪してもらおうと。
『宿儺』
「ん?どうした」
放課後、1年と2年が揃って自主練という名の組み手をしていた時だった。
休憩中の伏黒のすぐ横で甲斐甲斐しく汗を拭っていた男は、声なき呼び掛けに返事をする。
『声、治してくれ』
伏黒の願いが意外だったのだろうか、目を丸くした宿儺は、手にしたタオルを放り出した。
「言いつけなのだろう?」
どうやら数日前の伏黒の言葉を根に持っているらしい。
『もういいから』
「そうか、俺もオマエの声が恋しくなってきたところだ」
『悪いな、頼む』
伏黒が解呪しやすいように身体の向きを変え、宿儺と向かい合って目を瞑る。
「…ああ、承知した」
手が細い顎をそっと掬う。地面についていた、日に焼けない指先に宿儺のそれが絡まった。
……ん? 今、宿儺の両手……。
そう思った時には、伏黒の唇は塞がっていた。
「……!」
少し乾燥した唇が、伏黒の薄いそれを覆っている。驚いて開いた口にぬるりと何かが差し込まれた。熱い口内を生き物のように蹂躙していくそれは、宿儺の舌だ。伏黒の体温よりさらに熱く、長い。
「…、……ッ」
歯列を丁寧に辿り、硬口蓋をくすぐられて腰にぞくぞくとしたものがはしる。そのまま縮こまった舌を器用に絡め取られて、伏黒は初めて他人の唾液の味を知った。
熱い吐息が漏れて、ふ、と息が鼻に触れて至近距離に恥ずかしくなる。涙の滲んだ目を開けると、深紅とかち合った。
ゆっくりとした瞬きの、真っ直ぐな睫毛に見惚れていると、顔の角度が変わってより深く重なり合う。
「…んむ、ぅ…」
目尻から零れた涙を宿儺の指先が掬って、耳ごと顔を包み込む。これでは逃げられない。いや、逃げたいとは思わなかった。
「…んぁ……ちゅう…んっ……」
自分のものとは思えない声と、舌の絡み合う水音が耳に反響する。
絡まった手に力が入る。いつの間にか自らも舌を伸ばして宿儺を求めていた。
「んふぅ…ぬちゅ…、ジュルゥ…んンっ…」
どちらのものか分からない唾液が口の端から首筋へ流れた。息が苦しくて、気持ちよくて、気が遠のきそうだ。
「んっ…あ、ン……」
ちゅう、と吸い上げて宿儺の唇が離れていく。伏黒は大きく深呼吸をした。
「すく、な…」
いつの間にか覆い被さるような体勢で、宿儺の影が伏黒にかかっている。
深紅の瞳がギラギラと輝いていてとても綺麗だ。そのまま顔が近づいてきて……。
「あーッ!! 宿儺! お前サボって何してんの!」
大きな虎杖の声が、伏黒を現実に引き戻す。
「チッ取り込み中だ、喧しく吠えるな」
宿儺の口の端を拭う仕草で、先程の行為が夢ではないと分かる。
夢中になっていた自分を思い出し、煙が出そうなほど恥ずかしい。
「伏黒真っ赤じゃんか! ホントに何したんだよ!」
「虎杖…いいから…ほっといてくれ……」
体育座りの伏黒が蚊の鳴くような声で言うが、双子の争いはしばらく止まらなかった。
遠くから様子を見ていた真希が呟く。
「あいつら付き合ってんのか?」
「知りませんよ!」
真希に対して珍しく強い語調で答えた釘崎が、二人を指差す。
「おいお前ら、二人の空間作ってんじゃねーッ!!」
「解呪できてよかったなぁ」
「しゃけしゃけ」
のほほんとしたパンダと狗巻の声は、天高く響き渡る釘崎の怒号にかき消されていった。