理想「……ジェイコブ。ジェイコブ、聞いているか?」
「ああ、すみませんマスター。少し考え事を」
「『超凡入聖』の儀式により多くの『意志の力』を一つにした。だがリリスはもう持たないだろう。そうなる前に、原始胎海を掌握する」
ナルツィッセンクロイツは手に持って眺めていた報告書の束から目を離し、ジェイコブを見上げた。
「先程から浮かない顔だ、気がかりなことでも?」
「いえ、ただ……狩人たちがどう動くだろうかと」
回りきらない頭でなんとか言葉を返す。ギヨタンを筆頭としたファントムハンターの動向を危険視しているのは嘘ではないし、少なくとも、不自然な静けさは避けられたはずだ。
「吸収したエージェントから得た記憶からも、彼らが我々への警戒を強めていることはわかっている。彼らをひきつけるためにエリナス地下に戦力を集める。ジェイコブ、行ってくれるね?」
ナルツィッセンクロイツはファントムハンターの動向をまとめた資料に目を落とし、再び顔を上げた。
「やはり、まだ何か懸念があるのだろう? 胎海を掌握するまでに、意志の力を保つことが出来るか不安なのか?」
彼は先ほどの回答では納得しなかったらしい。彼の絵具がにじんだような瞳は、こちらの全てを見透かしているようで落ち着かない。
口を開けないまま、彼から視線を逸らす。彼は私の表情をじっと観察するように見つめ、ふと口を開いた。
「ジェイコブ、おいで」
呼ばれるままに、彼に近づく。彼は全ての生命を等しく愛して、等しく微笑みかける。そのおかげか、信者たちは以前よりさらに従順になった。全ては順調に進んでいるはず、なのに。絶えず理想の水仙十字として振る舞い続ける彼に、どこか慣れないままでいる。記憶の中の彼は、私の前でだけは、そんな風に笑ったりしなかったのに。
彼は私の固く握っていた手を掬い、柔らかく包み、微笑みながら顔をあげた。
そういえば、ルネも不安がる私を安心させるために手を握ってくれていたっけ。ルネは袖を引く私に気が付くと、すぐに手を握り返して、困ったように、でもどこか嬉しそうに微笑んでいたことをよく覚えている。ぎゅうっとお互いに手を離さないように握りあって、ぬくもりを共有して、いつものように柔らかい声で名前を呼ばれるのが好きだったから。
記憶から意識が引き戻される。気づかぬうちに彼の手は私の手首を掴んでいた。彼の意志に抗う気力もなく、導かれるままに彼の心臓の上に掌が触れる。いや、心臓があったはずの場所、なのだが。掌にひやりとした感覚が伝わる。そこには鼓動も、じわりとにじむような温もりもなかった。当然のように存在しているその違和感から目をそらしたかった。それでも、彼の凪いだ湖面のような瞳に見つめられたまま、暴力的なまでの慈愛と博愛に捕らえられている。
とぷん、と間延びした小さな音が聞こえたあと、彼の胸腔に自分の手が沈み込んでいるのが見えた。
冷たい水温に指先の熱が奪われていく。それか、血の気が引いたのかもしれない。今の私の体が一般的な人間とどこまで同じで、血の気が引くという反応がまだ存在しているのかは、もうわからないことだが。
「言っただろう? ジェイコブ。私は肉体を捨て、水を通して自己を再認識した」
「私は災禍の到来から、全ての魂を救おう」
彼は静かに目を閉じ、微笑みながら言葉を紡ぐ。燭台の火に照らされた睫毛の影が揺らいでいる。
私に語りかけるときのルネは、こんなに威厳と慈悲に満ちた声ではなかったのに。泡のように湧く小さな失望が思考をぼやけさせる。私の手はとっくに彼の冷たい水に熱を奪われ切って、混ざりあった熱に感覚を奪われていた。もうどこからが彼で、どこからが私なのかの境界線も曖昧にわからない。
「だから、そんな顔をしてはいけないよ、ジェイコブ」
彼の慈愛に満ちた柔らかな視線が注がれる。喉元に何かが貼り付いているような気がする。
「は、い……」
息が詰まる。なんとか引きつり続ける喉を動かして短く拙い返答をする。こみ上げてくる強烈な違和感を、呼吸を深くすることでやり過ごす。長らく使った覚えのない消化器官に意識を向けたな、とどこか他人ごとのように思考が宙に浮いていた。
思い出と同じ声で、同じ顔で。私の知らない、完璧に作り上げられた救世主がそこに存在していた。
記憶との差異を認識させられるたびに生まれる違和感は、彼には悟られてはいけない。彼は世界と等しい価値を持つものとして在らなければならない。未来を創造するために、あの二度の失敗の記憶は必要はないのだから。
視界に映る全てが理想を再現していた。塔の構造から床の模様に至るまで、全てが。無論、目の前にある彼の慈愛に満ちた表情も、人の平熱より少し冷たい水温すらも、私の設計通りに存在している。全てを私とルネの理想通りに作り上げた。そのはずだ。しかし、私たちの理想が実現した空間の中で、彼がいるべき場所だけが何度も絵具を塗り重ねたように厚みを増して浮き上がっている。
私たちが思い描いた理想は間違っていない。だからきっと、間違っているのは、私の中の稚拙な寂しさなのだろう。