黒猫のライダー 遠くから雷の音が聞こえる。
先ほどまであんなに晴れ渡っていた空は、あっという間に分厚い雲に覆われて、辺りは不気味な薄暗さに包まれている。
雨が来る…それも、とてつもなく激しい雨が。
大きな黒猫は橋の下に逃げ込んでいた。他のネコ達とのナワバリ争いで傷ついた身体を庇うように丸める。
今回も負ける気はなかった。ただ、相手が悪かった。黒猫は体格とパワーに相当の自信があったが、相手のボス猫はさらに身体が大きかった。一匹でも負けねぇ、相手が何匹だろうがぜってぇ負けねぇ、と慢心した結果がこれである。
黒猫にとってはかすり傷程度だが、傷ついた身体で雨に当たるのは少々辛い。これは、雨が止むまで動けねぇな……
少しでも身体を休めるため、ウトウトと眠りに落ちかけたその時、不意に身体をギュッと掴まれた。
しまった、油断した。逃れようと身体をひねったが、小さな手でしっかりとホールドされて逃げられない。
「よっし! 捕まえた!」
目の前に満面の笑みでニコニコしているニンゲンの顔が広がる。まだ子供なのだろう。大人よりはだいぶ小さいが、ずいぶんすばしこそうなやつだ。ランドセルとかいうカバンを背負っているので恐らく〝ショウガクセイ〟というやつだろう。
「わー! 近くで見ると目が黄緑だ! ピカピカしててカッコいい!」
(? なんだこいつは……)
キラキラした大きな目でこちらを真っ直ぐに見つめてくる子供を見て、厄介なやつに捕まったな……と直感した。
身体を捻って抵抗するも、小さな手でしっかり掴まれていて逃げられそうにない。シャーッと恐ろしい声で威嚇をしてみたものの、逆に目を輝かせて喜ばれてしまった。
「へへ、鳴き声までかっこいいね!!」
ニンゲンの少年は渾身の威嚇を気にも止めず、キラキラした瞳でこちらを見てくる。
「ねえ、さっきのバトルすごかったね! たった一匹で三匹相手に立ち向かって相手をビビらせててさ!」
……コイツ、あの負け試合を見ていたのか。何となくバツの悪さを感じて睨み付けていた目を伏せる。その間に少年は猫の体をあちこち調べて、ここちょっと怪我しているね、と的確に怪我した箇所を見つける。
少年は少しの時間、黒猫を持ったまま考え込んでいたが、閃いたとばかりに再び笑顔を輝かせた。
「そうだ! オレがお前のケガ治してあげる!」
? 余計なお世話だ、さっさと離せ、ともう一度抵抗する。
「それと、このあと凄い雨来そうだから、危ないし……うちにおいでよ!」
返事を返す間もなく黒猫は手際良くランドセルに放り込まれ、少年はそのままランドセルをしっかり抱えて走り出した。一瞬何が起きたか分からず呆気に取られる。ハッと我に返り、何をするんだと抵抗したが、頑丈なランドセルからは脱出できそうにない。
「狭くてごめんね! もう少しだけ我慢しててね〜!」
ケガを治してくれるのは正直ありがたいが、カバンの中に閉じ込められてダッシュされるのは正直キツイ。……勘弁してくれ。
外からはご機嫌な様子の少年の声が聞こえる。黒猫は半ば諦めて流れに任せることにした。
* * *
「ゴーグル、さっき橋の下でネコ拾ったんだって? え……? うわ、デカい!!」
見慣れないネコと鉢合わせて、メガネと呼ばれる少年は驚いて目を白黒させた。
今日は雨降ってるから家であーそーぼ! と電話でゴーグルに誘われて、雨が弱まった隙を狙って近所のゴーグルの家に来た。いつもの玄関で靴を脱いでいたところ、大きな黒い影がのそりと現れて驚く。
「あ、メガネくんだー! 雨大丈夫だった?」
「うん、だいぶ小雨になってたから、ボクは大丈夫だったけど……ところで、連れてきたネコってこの子??」
親友から電話をもらった時、てっきり雨の中弱った子猫を拾ったと思って。小さな子猫を想像しながら家に来たら……想像の何倍も大きな猫が現れて目を白黒させる。
「なんか……このネコ、すごく大きくない?? 思ってた以上にデカいよ?」
「うん、かっこいいっしょ!」
黒い毛並みのネコを自慢げに撫でる。しっかりとした筋肉質な体格に黒い毛並み、鋭く輝く黄緑色の目が印象的なネコだ。
「ネコ助けたって聞いたから、てっきり子猫保護したのかなって」
「うーん、たぶん子猫じゃなさそう!」
「うん、そうだね、流石に……どう見ても子猫じゃないなぁ……大きすぎる……」
想像の何倍もガッシリした体の黒猫をまじまじと見つめて、メガネは言う。
「あの、なんで……子猫じゃなくて……こんなに大きいネコ連れてきたの?」
「え、大きくて強そうな方がカッコよくない??」
「ああ、うん……確かにカッコいいけど……」
「こいつ、他のネコとのバトルもめっちゃカッコいいんだよ!」
さっき連れて来たばかりのネコなのに、もう長年の相棒のように自慢する。
「でもさ、体大きくても、ケガした身体で外で雨宿りは大変そうだから、連れてきちゃった」
「え! そいつ、ケガしてるの?」
「うん、ほらここ。ちょっと強めに引っかかれてる」
そっか、ゴーグルはネコを拾ってきた、とは一言も言ってなかったな……ネコを助けた、と言ってた気がする。助けたという言葉だけ聞いて、勝手に小さなネコだと誤解していたのかもしれない。
ナワバリ争いでものすごいバトルしてたんだよね〜とゴーグルは言う。バトルの時からずっと観察していたらしい。
「もしかしてこの子……身体もデカいし目付きも鋭いし、この街のボス猫なんじゃ?」
「うーん……」
ゴーグルは少し考えて答える
「どっちかっていうと、ボスに立ち向かうネコって感じかなぁ」
ゴーグル曰く、この辺りでずっと一匹狼で戦ってたネコだよ、とのことだった。ゴーグルは何故かこの辺りの野良猫事情に詳しい。
「このあとお父さんとお母さん帰ってきたら病院に連れてって、しばらくはうちで面倒見る予定なんだ、ね、ライダー!」
「その子、ライダーって名前なの?」
「うん、黒くて強くて、ヒーローみたいでかっこよかったから!」
勝手に命名された黒猫は迷惑そうな目をしながら、仕方ねぇな……といった顔で少年に大人しく撫でられていた。
* * *
「ゴーグルくんが拾ったネコってこの子? わぁ……本当に大きいねぇ!」
「子猫じゃなくて大猫だ〜!」
翌日、ゴーグルがネコを拾ったと聞いて、近所に住んでいる幼なじみのヘッドホンとニットキャップがやってきた。
昨日の大雨が嘘だったかのような青空の下、ライダーと名付けられた黒猫は小学生達に取り囲まれていた。縁側で代わる代わる黒猫を撫でる。
「それにしてもこいつ、昨日までノラだったのにめっちゃ堂々としてるよね……全然逃げる気配ないなぁ」
ゴーグルの膝の上にドンと収まる黒猫を見てメガネが言う。
「うーん……病院連れて行ってもらった恩を感じてるとか?」
エリザベスカラーに包まれた顔を見てヘッドホンが言った。
「病院どうだった? 大変じゃなかった?」
「うん、昨日3丁目の病院まで連れて行ってもらって。最初嫌がってちょっと暴れたけど、説得したらさ、大人しくなったよ!」
「あはは、賢い子なんだね〜」
ニットキャップがいい子いい子と撫でるのを、若干不服そうな目をしながら受け入れている。
「うん……なんていうか……チッ、仕方ねぇな……付き合ってやるか……みたいな顔してるね……」
ヘッドホンが黒猫の表情を覗き込んで言う。
先ほどから、誠に不本意だがテメェの友達なら仕方ねぇな……撫でられてやるか……といった顔で仕方なく撫でられている風情だ。
「これだけ堂々としてると、元飼い猫だったりしないかなぁ……」
「うーんと、なんかね、病院で診てもらった時、マイクロチップ? とかは見つからなかったって」
「ふうん、本当にずっとノラなんだ」
メガネがそういうと、黒猫はうるせぇ、とばかりに黄緑色の目で睨みつける。
「ねぇねぇ、それで、ゴーグルくんはこの子飼うの??」
「ゴーグルくんのおうちの人はなんて言ってるの?」
ニットキャップとヘッドホンが期待した目で次々に聞いてくる。
「うん、飼うなら自分でちゃんと責任持ちなさいって!」
だってまたノラに戻すわけにはいかないもんね!と満面の笑みで答えた。
「ね、ライダー!」
黒くて大きな猫をギュッと抱きしめる。黒猫は本気で迷惑そうに抱擁に応えた。
「なんか、本当に諦め入った目をしてるね、この子…」
エリザベスカラーに包まれた顔をまじまじと見て、ヘッドホンが苦笑いする。プライドや矜持が高いネコなのだろう。逃げはしないが不服そうな顔で腕の中に収まっている。
「そう? もうオレとライダーは完全に仲良しだけどなぁ」
「うん……ゴーグルがしっかりホールドしてるから逃げるの諦めた気がする……」
メガネが気の毒そうに黒猫に視線をやる。
「ね、この子飼うならエリザベスカラーも可愛いのつけてみない?」
「ドーナッツの形のとか可愛いよね!」
「うん、絶対可愛い!!」
「それにエリザベスカラー取れたら首輪とかも考えないとだね」
「私、リボンついてるやつがいい〜! 絶対似合うよ!」
「うーん、この子男の子だから可愛いの似合うかなぁ……」
「ライダーはカッコいいから、カッコいい首輪がいいな!」
ゴーグルはライダーをギュッと抱き寄せる。黒猫は、エリザベスカラーに囲まれた顔を少ししかめて、だが大人しく抱擁に応じた。
* * *
「へー♪ お前、飼い猫になったのマジだったんだ? ウケる!」
「うわ〜マジじゃん〜お前がノラやめるとか〜意外すぎだろ〜〜」
黒猫が窓際で日向ぼっこをしていたところ、数匹のネコがぞろぞろと庭に集まってきた。もちろん窓越しなので、直接対面することはない。先日のあのナワバリ争いで、最後までバトルしたあのデカい猫も来ている。本当に何をしに来たんだ。
「うるせぇな、こっちにも色々あるんだよ」
「おっ、その赤い首輪似合ってんじゃん!
どう♪ 飼い猫って居心地いい?」
かつてのライバルたちが窓越しに覗いてきて、次々と勝手なことを言ってくる。
……エリザベスカラーが外れた後で本当に良かった。あの情けない姿で再会していたら、コイツら間違いなく笑い転げていただろう。
「ほっとけ、世話になったからここにいるだけだ」
うるさいコンビの無遠慮なからかいを交わすために視線をそらすと、バチリとボス猫と目があってしまう。無言の時間が続いて正直気まずい。
「……お前、エサは何をもらっている」
目つきの鋭いボス猫がようやく口を開いた。
なんでライバルの、しかもこの間散々引っ掻いてくれたお前の質問になんで答える必要があるんだよ……と思いつつ、仕方なく答える。
「なんかカリカリした……こう……美味いやつだ」
名前は知らないが普通のエサだよ、と雑に答える。
「その……噂に聞く……ちゅるちゅるとかいうやつは貰えるのか」
「……あれのことか……まあ、たまに、ある」
多分、たまに貰えるあの細長いパックに入ったエサのことだろう、と想像しながら答える。
誰よりも強さにこだわるこいつのことだ。ヌクヌクと飼い猫になって情けないやつだ、と嘲られるのではないか、と身構えていたが、食いしん坊のボス猫はニンゲンから与えられるエサの方に興味津々のようだ。
「……それでお前等、一体何しに来たんだ?」
この地域の実力者のネコたちだ。雁首揃えてエサのことを聞きに来た訳ではないだろう。
「うーんと、こいつから話があってさ……ほら、ボス! お前さっさと言えよ! わざわざ要件あるから来たんだろ?」
「ボス〜 いいからさっさと要件済ませれば〜」
こんな時だけボス呼ばわりで急かすな、とボスネコは不服そうにちらりと睨んだが、やがて静かに切り出した。
「……今度、隣町とのナワバリ争いがある」
「そうか」
「……」
「なんなんだテメェ、黙ってたら分からねぇよ」
ボス猫は続けて言った。
「お前も合流して戦わないか」
「?」
「だから、俺の陣営に入って戦えと言っている」
「? なんでオレがテメェに従わないといけねぇんだよ」
要は傘下に下れということか。突然来て勝手なことを言いやがって。毛を逆立てて威嚇する。黒猫とボス猫、窓越しに一触即発の気配が漂う。
そもそもコイツには先日のケガの恨みがある。コイツに従う義理は全くない。
「おい、こないだのアレは負けたわけじゃないからな、勘違いすんなよ」
「そんなことはどうでもいい。やるのかやらないのかどっちなんだ?」
「? テメェとの再戦ならいつでも受けてやんよ」
窓ガラス越しにバチバチと視線が交差する。お互いに背中を山のように丸めて、完全に臨戦態勢だ。そこで付いてきた二匹が割って入る。
「あー! 違う違う、コイツお前が戦力になるからって、わざわざお前のこと探しに来たんだよ」
「コイツ方向オンチだからさ〜 コイツ連れてここまでたどり着くの苦労したわ」
「は? ……オレを探しに?」
「風の噂で、アイツさーもう飼い猫になったって聞いたよーって言ったんだけど、それでもアイツを探すんだっつって言って聞かなくて」
「隣町の戦力よく分からんからさ〜、こっちも強いやつ一人でも多いほうが助かるんだわ。マジで」
口下手なボス猫は、二匹にフォローされてやっと真意を伝えられたようだ。
「……頼む。今は強い奴が必要だ」
「……」
「お前の力を貸してほしい」
「……チッ、そこまで言うなら仕方ねぇな……」
不承不承頷いた黒猫だったが、その表情はほんの少しだけ嬉しそうに見えた。
* * *
「貴様、その返事で本当に良かったのか?」
賑やかな3匹が去ったあと、オレンジ色の毛並みの良いネコが一匹残って声をかけてきた。
先ほどの会話には加わらず、塀の上から様子を伺っていたネコだ。
「何がだ?」
「貴様も飼われてる身なら、分かるだろう?」
「だから何のことだよ」
「……」
オレンジのネコは軽く考えてから続ける。
「奴らのナワバリ争いに加わるということは、つまり……一時的とはいえ、この家を抜け出してノラに戻ると言うことだ」
「ああ、そうだな……」
そんなこと分かりきっている。わざわざ改まって言うことではない。
「いいのか? 貴様。この家のニンゲンに多大な心配をかけることになるぞ」
「……そんなこといっても、状況が状況なんだろ、仕方ねぇだろ」
「もしかしたらケガも先日程度では済まないかもしれない」
「? オレが負けてケガするって言いたいのか?」
「勝敗は分からん、しかしどのみち心配をかけることは同じであろう?」
オレンジ色のネコは今でこそ野良だが、かつては大きなお屋敷で飼われていたネコらしい。野良の集まりに加わった当初は、お坊ちゃんだのボンボンだの散々からかわれていたが、実力でめきめきと頭角を表し、今ではこの街の最強の4匹のうちの一匹に食い込んでいる。
「……ワガハイは逆に飼い主に去られてしまった身であるが……」
ニンゲンの世界のことは、ネコには分からない。オレンジ色の猫のかつての飼い主も、何かネコの知らない理由で遠くに行ってしまったと聞いた。
「……チッ、テメェは余計なこと心配しすぎなんだよ。関係ねぇことに口挟むな」
「そうだな、確かにワガハイには関係のない話だ」
オレンジ色の猫は、黒猫が今住んでいる家を見上げる。
「だが、貴様の飼い主の少年は……お前が再びケガして帰ってきたら心を痛めるのではないか?」
「?」
うるせぇと低い声で唸る。
「アイツは今回関係ねぇだろ」
「だからこそだ。帰れる場所があるなら無理することはない」
「ああもう、うるせぇな! なんなんだよ!」
黒猫は吠えるように言い返した。
「いいんだよ。これは俺らネコの世界の問題だ。……ニンゲンのアイツには関係ねぇ。」
隣町のヤツらがどんなやつだろうが負けるつもりはない。さっさとケリをつけて帰ってくれば何も問題ない。アイツがガキらしく、ぐーすか寝ている間に終わるはずだ。
「アイツはニンゲンだからいいんだよ……」
アイツの顔が思い浮かんだ。
「……そうか。ならワガハイから言うことはもう何もない」
貴様の好きにするがいい、とオレンジ色の猫はするりと何処かに帰っていった。
訪問者達が去り、穏やかな日差しが降り注ぐ窓辺で黒猫はひとつ伸びをする。
いつも元気で賑やかな……いや、いつもうるさい飼い主の顔が浮かぶ。
ゴーグルとかいうニンゲンのガキは、やたらオレを捕まえるのが上手く、気がつくとアイツの腕の中に収まっていることが多い。そのくせ、変に無理強いすることなく、自由にさせてくれてもいる。つまり、ネコにとっての程よい距離感を知っているのだ。それにここの家は、温かい窓辺も風通しの良い縁側もあって、悪くない。
生まれてからずっと一人、いや一匹で平気だった。ここでの穏やかな暮らしも決して嫌いじゃない。
だがオレはずっと野良として生きてきた猫だ。ナワバリ争いと聞くと、どうしても血が騒いでしまう。今回は特に、ボス猫のアイツが頭を下げてわざわざ頼みに来たのだ。一度返事してしまえば、もう後戻りはできない。
アイツだって、元ノラの猫が1日家をあけたくらいで騒ぎはしないだろう。
……多分そうだろう。きっとそうだ。
そう思うことにして、黒猫は再び伸びをした。
玄関の鍵が開く音がする。ただいまー! と元気すぎる声とランドセルのガチャガチャした音が廊下から聞こえてくる。
もうアイツが帰ってくる時間だったか、アイツには計画がバレないよう、いつも通り接すればいい……
ゴーグルが部屋に来る気配を察して、黒猫は何時ものように扉に背を向けたまま、少年が入ってくるのを待った。
* * *
夜が更けた。
まんまるい月が空高く昇っていく。
あれから数日が過ぎた。ボス猫達が言っていたナワバリバルは、満月の夜と聞いている。つまり今日の深夜のようだ。家からの脱出経路は確保してある。目星をつけていた換気のための窓からそっと抜け出す。
庭に出ると、塀の上にはあいつら4匹がもう揃っていた。
「来たか」
「……ああ」
「行くぞ」
短すぎる挨拶を交わし、尻尾をピンと立てて隊列を作って歩く。
オレンジ色の猫がチラリと見てくる。先日の話を気にしているのだろう。一瞬視線を合わせ、また前を見据えた。細かいことを気にしている暇はない。
「相手はもう集まってるらしいぞ」
「ふーん♪ 気が早いじゃん」
「場所は?」
「隣町との境目にあるあの空地だ」
「あそこなら潜伏する場所、いくつか思いつくな〜」
「……お前、はぐれずについてこいよ」
「方向オンチのテメェに言われたくない」
それぞれ短く言葉を交わしながら、隊列を組んで歩いた。
「着いたぞ……ここだ」
空き地にある大きな土管を見上げると、既に隣町の猫が一番高いところに陣取って待ちかまえていた。
「1、2、3、4、5匹……どれもデータにない奴らだな…」
「データなんて関係ないって♪ 見た感じ、オレらの方が強いし!」
「ゲェ……スタートからいい位置取られてやがる」
「先ずは奴等を高台からどかすぞ」
「どうやって?」
「決まってんだろ……力技で行くぞ」
5匹の猫たちは低く響く唸り声をあげる。戦いの火蓋が切って落とされた。
* * *
まだ朝日が完全に昇りきる前の薄暗い路地を、足を引き摺りながら黒猫が歩く。相手の数はこちらと同等だった。が、開始早々のポジション取りに負けているところから不運の連続だった。それに、やけに戦い慣れている奴が多く……要は想像以上に手強かったのだ。
ナワバリは守りきったが、全員満身創痍で、這々の体での解散になった。黒猫もボロボロだったが、他の4匹も同じかそれ以上にボロボロで……
……アイツらは無事だろうか。なんとか生き延びろよ。
ゴーグルの住む家が見えたところで、ふと立ち止まる。
癖なのか帰巣本能なのか。つい、家に向かって歩いてしまったが、このまま帰っても良いのだろうか。帰ったら、再びアイツに面倒をかけてしまうのではないか。
……それならいっそ、また元のノラに戻ったほうが気が楽かもしれない……
踵を返して去ろうとしたその時。
「ライダー!」
よく知っている声が聞こえる。
「ライダー! おいで!」
玄関前から、よく見知った顔がひょいと覗いた。起きたばかりなのか、パジャマを着たまま玄関先に出てきている。
ねぼすけのアイツが。なんでこんな早朝に。
「へへっ、ライダー、また見つけた!」
慌てて逃げ隠れようとしたところを、ひょいと抱き上げられる。
「良かった。ライダーが戻ってきてくれて」
ケガしている箇所を上手く避けて頬ずりされる。いつもは少し煩わしいコイツの手が妙に温かかった。
「……昨日はなんかめっちゃ月が明るくてさ、なんか眠れなくて」
眠れなかった? いつもぐっすり、毎朝遅刻ギリギリまで寝ているコイツが。ネコ以上に毎日よく寝ているコイツが。
「なんとなく、いつもと違うなぁ……なんか寂しいなぁって。そしたらこんな時間に起きちゃった」
黒猫を抱っこしたまま、少年は続ける。
「あ、そっか! いつもみたいにライダーが布団に居なかったから。だからあんまり眠れなかったんだ」
……何となく居心地が一番良くて。コイツの隣が一番安心して眠れる場所で。気がつくとコイツの布団の中が定位置になっていた。
腕の中でマーオと低い声で鳴く。ライダーがそうやって鳴くの珍しいね、とゴーグルがニッコリ笑った。
これ以上余計な心配をかけないよう、怪我を隠すように身体を丸める。
「大丈夫だよ」
隠さないでいいから、とゴーグルが言う。怪我した部分を着ていたパジャマの裾で包み込む。
「じゃ、おうち帰ろ!」
黒くて大きな猫は、子猫のように抱っこされて、朝日差す家の中に帰っていった。
* * *
「……ゴーグル」
「ん〜 むにゃむにゃ……」
「おい、ゴーグル。暑苦しいから離せ」
「ん〜 もう少しこのままで!」
ハイカラシティのアパートの一室、ベッドの上でライダーはゴーグルに抱きつかれていた。
ゴーグルの体が小さめとは言え、2人のイカがベッドの上に収まるのはやや狭くてきつい。
狭いと言っているのに、ゴーグルは毎回寝ている横に入ってきてライダーにしがみつく……いや、体勢的には抱きしめられると言ったほうがいいかもしれない。
お前、体温高いから暑いんだよ、と無理やり引き剥がそうとするが、ひょいと器用に逃れてまたしがみつかれてしまう。
「抱きつくにしても、なんでこの体勢なんだよ……」
自室でゴロンと寝転んだところ、すかさずゴーグルに頭を包みこまれるように抱きしめられてしまった。
ライダーのほうがだいぶ体格がいいのに、これではまるでゴーグルに抱っこされているみたいな形になっている。
ゴーグルも出会った当時よりはだいぶ大きくなったが、ライダーと比べるとまだまだ体格差がある。自分より小さい少年に抱きしめられていると思うと不思議な感じだ。
「……なんでお前はいっつもその体勢でひっついてくるんだ」
「うーん……なんでだろ」
「自分でも分かんねぇのかよ」
呆れてライダーが突っ込んだ。
へへへ、とゴーグルが笑う。
「でも、なんかさ〜 ……なんかこうやってると……」
「ずっと昔も、こうやって抱っこしてた気がするんだ。ライダーのこと。」
「……」
何か、古い古い記憶を思い起こすような目でゴーグルが言った。
「ね、ライダーも覚えてない?」
「……知らねぇよ」
遠い記憶の何処かに、何か引っかかるものがある。そんな気がしたが、あまりにもぼんやりとした記憶で、思い出せない。
「ライダーってさ、昔もっと小さくなかった?」
「……いや、お前に会った時からずっと、お前よりデカいだろ……」
「んー……」
ゴーグルは眠そうな目で少し考える。
「オレ、なんか夢の中でずっと小さくて大きいライダーのこと抱っこしてた気がする……」
「小さいのか大きいのかどっちなんだよ」
「オレより小さい生き物なのに、なんか大きくてカッコよかったんだ」
その時から、オレライダーのことずっと大好きだったんだよね、という。
「だからライダーは遠慮なく抱っこされてていいよ」
ハッ、っと少し笑って答える。
「……そういうのはな、俺より大きくなってから言えよ」
「へへ、じゃ、オレ、ライダーより大きくなるね」
「ああ、なれるもんならなってみな」
頭を撫でるゴーグルの手が柔らかく気持ちが良い。
「うん……オレ大きくなるね……うーん……3メートルくらいかなぁ……5メートルかなぁ……10メートル……」
「どこまで大きくなる気なんだよ」
おかしなことをいうやつだ、と笑う。
遠い遠い昔の日に、何処かの布団の上で、こうやって丸くなって、コイツと一緒に寝ていた気がする。
……まぁ、たぶん夢の話だ。いつか夢でも見たんだろう。
ちょっと窮屈だが、このままでも悪くない。ここが一番居心地がいい。
ライダーは、少し伸びをすると、ゴーグルの腕の中でウトウトと眠りについた。