月鯉なんちゃって芸能パロ 月島には、幼い頃から「前世」の記憶があった。
「今世」で、月島が鯉登のことを探して、探して、探して——そして、諦めたとき、漸く薄い液晶画面越しに出会って、絶望した。
鯉登音之進。21歳モデル、兼都内大学生。今や俳優業までこなし、日曜朝の戦隊モノのドラマに抜擢された。ネットによれば、「恋人なし」。
鯉登はヌードモデルもこなしていた。筋肉が程よくついたその体は、〝以前〟とは全く異なるものだった。月島は、書店で、ネットで、街中で鯉登を見かけるたび、鯉登の情報を手に入れるたびに、心が死んでいった。
月島基。34歳会社員。商社の営業部、係長。芸能関係の仕事とは全く縁がない。同僚、部下、上司からは、「社畜」と呼ばれている。恋人は5年以上いない。
鯉登との接点を見つけようとすればするほど、自分がいかに遠い存在か突きつけられる気がした。
さらに、前世では、鯉登とは身も心も愛し合っていた、という事実が月島を苦しめた。
現世では他人であるのに、前世での関係を求めてしまう。現世の彼から見れば、まるでストーカーだろう。そんな自分が嫌になり、鯉登の情報を全く仕入れないようになった——が、もって2日。気づいた時には、まるで中毒症状のように、「鯉登音之進」とスマートフォンで検索していた。そして、夜な夜な「オカズ」——ならぬ「メインディッシュ」として食していた。
月島が観念したのは、現世で鯉登を見つけて半年たった頃だった。もういい加減、我慢ならなかった。自分の欲を素直に認めることにした。ただし、弁える。以前の鯉登と月島の関係は、今はもうないのだから。
——もし、音之進さんが、俺と同じように前世の記憶があったとしたら。
そんな淡い期待を抱いたことも少なくない。しかし、それは捨て去った。くまなく調べたネットの情報には、全くそのような節がなかったからだ。
これからは、鯉登の幸せをちゃんと願って、34歳独身の金力を使って影から支える。その代わり、彼の出るイベントには参加するし、握手会があれば行く。新作グッズも必ず購入する。
夜の主食には——これだけは、許してくれ。脳内には、「前世」のあなたの姿しか、描かないから。
*
「鯉登クン、恋人とかいないの〜!?」
芸能界に入ってから、鯉登はカメラ前でそのようなことばかり聞かれてきた。
深夜一時のスタジオは、昼間の太陽の光量を発している。気を抜くと目が眩みそうになった。
「はは、いませんよ」
"世間ウケする笑み"を意識して表情を作り、鯉登は答えた。それだけで、観覧席から黄色い声が上がる。
鯉登は、戦隊ドラマで注目されてからバラエティーに出演することが多くなっていた。
もともとあまり表情豊かな方ではない。だが、それが逆に「謎に包まれたモデル」と話題になり、司会者らは躍起になって"鯉登音之進"を掘り下げようとする。どこも数字を取ろうと必死だ。
「じゃあ、恋バナとか聞かせて!」
「え! 鯉登くんの恋のお話、聞きたい!」
これは、事前に楽屋でとったアンケートの項目にあった。
「過去に恋愛経験はありますか。エピソードをお願いします」——そこにはたしか、「特になし」と書いた筈だ。きっと司会者も分かっている。おそらく、ここは引き延ばす場面ではない。鯉登の過去の恋愛経験のなさに焦点を当て、スキャンダルを起こさない堅実な人物像を作っておくのが得策だ。
だが、鯉登の頭には一つの恐ろしいアイデアが浮かんだ。それが成功するかどうかは、運次第だが——。
「過去の恋愛、ですか」
鯉登は、司会者の言葉を繰り返す。
強運と、それから度胸。
根拠は無いが、自分なら成し遂げることができると思った。そして、成し遂げられないのならば、自分がここにいる意味さえ無いと。
「ありますよ」
「え!?」
番組のスタッフも、司会者も、皆ざわめく。華々しいスタジオに、瞬間的な静寂が訪れる。
鯉登は、にやり、と目を細めた。マイクに聞こえない程度に肺いっぱいに酸素を吸い込んだ。
これは勝負だ、私の運と度量をかけた。
さあ、月島基。
私を見つけろ。
「私には、物心ついたときから好きな人がいました——」
※
○月△日土曜日、午前3時半。
月島基は、自宅の薄い液晶画面越しに、失恋した。
あっけないものだと思った。
最後に、鯉登で抜こうと思った。
今まで見たこともないようなうっとりとした表情を浮かべ、初恋の人を想う彼を、己の欲で上書きしてやりたかった。
彼が好きになった人なのだから、きっと素敵な人なんだろうな。いやはやそれにしても、物心ついたときって何歳だ。当時から21歳の今まで、ずっと好きであり続けたのか。信じられない。勝ち目がない。良いファンでいるために、あなたのファンをやめよう。集めたグッズは、同僚にあげよう。たしか、その子どもが鯉登演じるヒーロー役が好きだったはずだ。
一息に脳内で捲し立てる。声に出したわけでも無いが、酸欠しそうだった。
すかさずボトムスのベルトを引き抜き、ジッパーを下ろした。
(さあ、どんな子だ。あなたが片想いし続けたのに、振り向かなかった高尚な人は)
月島は画面を睨む。鯉登の言葉に神経を集中させる。
『私の好きな人は、朴念仁なんです』
(なんでそんな奴に恋したんだよ)
『兄と同い年ぐらいだと知って、親近感を覚えたのが最初です』
(俺だって、あなたのお兄さんと同い年だったけどな——今世は知らないが。)
『一緒にいるうちに、私のことをよく見ていてくれることが分かりました。まだ経験の浅い私に、色々と教えてくれて、時には命懸けで守ってくれたり』
(俺だって、あなたのことをずっと見ていた! この身命を賭する覚悟をしていたし、今だって——)
『その人は、今世になったのに、私がどうしても……手放してやれんやったもんじゃ』
「今世……?」
『恋というには、重すぎるかもしれません。なァ、……」
つ、き、し、ま。
鯉登の唇は、無音で月島基を呼んだ。
意味ありげに、挑発するような笑みで、画面の中の鯉登音之進は、月島基を見ていた。
それで、月島の全身の細胞が歓喜した。重く速く拍動し、血は一気に全身を駆け巡った。
「鯉登、音之進殿……」
生温いものが頬を濡らした。それは涙だった。鯉登の顔を、表情を1秒たりとも見逃したく無いのに、視界がぼやける。
衣服の袖で涙を拭いながら、ボトムスのジッパーを上げ、抜かないでよかったな、と頭の隅で思った。
『だから、早く会いに来い……ええっと、TKさん』
「……わかりました」
『……こ、鯉登くん、どういうこと!?』
司会者が慌てる。スタジオが騒めく。
これは、鯉登音之進の賭けだろう。ただ一人、月島基に対しての。
この世に月島が生を受けているかも分からない、生まれていたとて、記憶があるかどうかも分からない。
月島は、徐に立ち上がる。持っている中で一番質の良いバッグ、スーツ、靴を準備した。
ーーあなたに会いに行こう。
*
「で、来たわけか。月島」
「…………あなたがいるとは思いませんでしたけどね、鶴見中尉殿」
「はは、鶴見でいいぞ。オンエアされてから、まだ2時間ちょっとしか経ってないぞ。なのに見てみろ、我こそが『TK』だ、と言って、事務所の外には多くの人間が押しかけている」
窓の外に視線をやれば、黒マーカーで「TKです!」と書かれたA3の画用紙を高々と掲げている人が何人もいた。
「ま、月島が一番乗りだったが。困ったことになったなァ、鯉登?」
「キェ……すいもはん……」
放送後に、月島は二度目の風呂に入り髪と髭を剃り(鯉登閣下に会うのに汚い格好はできないと思った)、急いで支度をし、鯉登の所属する事務所にタクシーで来た。
事務所に到着してから、今が朝5時だと知った。完全にやらかしたと思った。こんな時間にスーツをしっかりと着込んだ人間が、事務所前を徘徊する。職質されるかもしれない。そもそも、あれは俺に向けて……で、合ってるよな? まさか、同じような人物がいるわけないよな? 月島は、一気に現実へと引き戻された。
帰るべきか。最初のアポイントメントは、番組へのお便りで「俺がTKです」とメッセージを送った方がよかったか。いや、それも不審者か。
月島が悶々としているとき、背後から「来たな、月島」と、鶴見に呼びかけられた。そのまま鶴見に着いていくと、事務所内にある小さな1室に案内された。四人用の白い事務机に、鯉登が座っていた。
「鯉登閣下……!」
「月島ァ!!」
ぱぁっと顔を綻ばせ、鯉登は席を立った。
鶴見は、こほんと咳払いをひとつ。鯉登はすぐに座った。月島も、鶴見に促されて着席する。それだけで、その場の支配権は、鶴見のものとなった。
「改めて久しぶりだな。月島」
「なぜあなたがいるんです……鶴見、さん」
「私は鯉登の所属事務所の社長だぞ? それは調べ上げてなかったか……あぁ、登記は本名になっているからな」
「……そうでしたか」
月島は、なんとなく鯉登と鶴見だけが先に繋がっていたことが面白くなかった。
「なぁ月島、そんな顔をするな。なぜ私と鯉登がここにいると思う。お前に会うためだぞ」
「…………」
「鯉登が言い出したんだ。必ず今日、月島が来るからと。私もお前に会いたかったしな。あと事務所を愛の巣にされてもたまらないし」
「しません! そこは流石に弁えます!」
「そうか? 放送後に後先考えず事務所まで来て、鯉登と二人きりになったら……積年の想いが溢れ出てしまうんじゃないか?」
鶴見は、人差し指で、くるくると空に円を描いた。
月島は直感的に、不祥事を起こすな、と鶴見が言っているのだと思った。握り拳に力を入れる。爪が食い込んで少し血が出た。
——覚悟を見せるときだ、心を鬼にしろ。
「……誓って、鯉登音之進さんが……い、引退するまで、手を出しません」
「な……っ! きさん、ここまで来て……!」
「おお、そこまでは言っとらんぞ、月島」
鶴見が感嘆した。そして、髭をしょり、と摩り、月島に向き直る。
「鯉登のボディーガードをしろ」
「は……?」
「鯉登は、今や人気モデル兼俳優だ。中には危険なファンもいる。この前も、家の近くまでつけられた」
月島が、さらに拳に力を込める。怒りと、自身の不甲斐なさ。それから鯉登の気持ちを推し量ろうとして、目の前が真っ赤になる。
「く、食い込んでるぞ……血が出ちょっ……」
心配そうに覗き込む鯉登とは対照的に、鶴見は気にせず続ける。
「ちょうど、ボディーガードを雇おうと思っていた。ついでにマネージャーもしてくれ。この事務所も所属人数が増えてきたから、人手が足りないんだ」
「……私も会社員ですが」
鶴見には振り回され慣れているため、その通りになる未来が一瞬予期できたが、一応断っておいた。
「第七商事だろ、そことは繋がりがある。私から話しておこう。辞めたくないのならば、出向という形を取っても構わない」
なぜ知っている。もしかして、鶴見は月島の情報を随分前からつかんでいたのでは——。それなのに接触してこなかった。月島が眉を顰めた。
「そう怖い顔をするな。今の職に拘りが強くなければ、美味しい話だと思うが。なぜなら、鯉登と四六時中一緒にいても、疑問を持たれない。そうすれば、低リスクで色々できると思うんだが。今すぐでなくてもいいから、考えておいてくれ」
「…………わかりました」
「あと、二人の時間を邪魔して悪かった。……月島、本当に私はお前に会いたいと思っていたんだ」
「私だって……あの時、あなたのことをずっと探していた」
「また今度、三人で食事でも行こう。互いに積もる話があるだろう。……またな。月島、鯉登」
ひらひらと手を振りながら、鶴見は退室した。
扉が閉まる。今世も変わらず、嵐のような人だ。鶴見の思惑に、自分が再び巻き込まれていくのを感じる——が、完全に嫌だとは思わない自分に、ため息をひとつ。
月島は鯉登に視線を向けると、すでに鯉登は月島をじっと見ていた。ようやくこちらを向いた、と、彼は瞳で語っていた。
すでに静かになった室内で、月島と鯉登は十分に見つめ合ったあと、どちらからともなく微笑んだ。
「初めまして、か? 月島」
「そうですね……というか、鶴見さんもいたなんて」
「ふふ、鶴見さんは、私をスカウトした張本人だ。しかし、月島のことを知っているのなら、教えてくれれば……。お前に会うのが遅れてしまった」
「……私はあなたのことを、ずっと見てましたよ」
「本当か? イベントには来てくれなかっただろ……」
「心の準備ができていなくて……」
「おいは、こんなに会いたかったのに」
鯉登が、両腕を横いっぱいに広げた。月島は、まるでそこに重力があるかのように、加速度を持って、鯉登の胸へ落ちていった。
「鯉登音之進殿……」
月島は、鯉登を力強く抱きしめた。自分と鯉登が触れ合っているところから、境界がぼやけ、二人溶け合っていくようだ。肺いっぱいに、鯉登の香りを吸い込む。匂いの分子は、鼻腔から脳へ直接行き届き、快感物質が分泌されていくようだった。何度か深呼吸をし、鯉登の芳香を楽しんでから、月島は鯉登を見据えた。
「ようやく、会えましたね」
「ん、月島……会いたかった」
鯉登の艶々とした唇が近づいてきた。欲望に負けそうになり——すんでのところで、鯉登の唇を手で覆った。
「キスはダメです! さっき鶴見さんにも釘を刺されたでしょう」
「ないごて! こんなの、手を出したうちに入らん!」
「あの人のことだから、監視カメラか何かで見ていますよ……。あと、一応初めましての人とキスをしたらいけません。あなた、そんなに危機感なかったんですか?」
鯉登は唇を尖らせながら、視線だけを月島から逸らした。
「私の言葉を聞いて、明け方なのにすぐに家を飛び出してきたお前に言われたくない」
「うッ……」
「でも……そうだな。お前の言うことも一理ある。それに、今世の月島のことも知りたいしな」
鯉登が、月島の背中に絡めていた腕を解いた。それに月島は少しの寂しさを覚えながら、鯉登に向き合う。
前世に初めて対峙したときとは全く違う、甘くて柔らかな空気があった。
「初めまして、月島基。私は鯉登音之進、21歳だ。大学三年生で、モデルと、あと最近は俳優業もやっている。——悪いが、月島のことだけは、今世も手放してやれそうになかった。会いたかった」
月島の胸が詰まる。ずっと欲しかったもの、求めていたものが、同じく自分を求めてくれている。心臓の奥底が、ぎゅうと切なくなる。
「——初めまして、鯉登音之進さん。月島基、34歳です。第七商事営業部に所属しています。鯉登さんを見つけたのは半年ほど前。でも、ずっと探していました——私も、会いたかった」
「本当か? 私はもっと前から目覚ましく活躍していたのに」
「すみません、あまりテレビとか観なくて……。でもあなたがいるとわかっていたら、一日中観ましたよ」
「……初対面なのに、余程私のことが好きなんだなァ。月島基」
そっと鯉登が月島の手の甲に触れた。する、と、月島は撫でられ、背中がぞくりと震えた。
「……月島、次のオフは」
「今日と、明日です」
「……じゃあ、今から私の家に来い」
「……初めましての方に、手を出さない自信がありません」
「……つまみ食い、くらいならいいんじゃないか? というか、手を出したってバレなければいいだろう」
ごくり、と月島の喉が鳴る。鯉登の頬が、仄かに朱に染まる。月島とて、己の理性を総動員させてこの状況を我慢しているのだ。やっと会えた愛する人と二人きりになって、そりゃあアレもコレとしたいに決まっている。
「つきしま……」
砂糖菓子のような声。それは、いつの日やら、行為を期待するときに発せられたそれと同じ質感だった。
月島の腰に、甘やかな痺れが生じる。
——つまみぐいだけで、済むかよ。
月島は、手の甲を撫でていた鯉登の手を掴んだ。そのまま、指と指を絡め合わせ、彼の手のひらと自身のそれを合わせる。
抱き合ったまま、月島は自身の腰を、軽く突き出した。鯉登の体が大きく跳ねる。それに気をよくした月島は、鯉登の耳元に唇を寄せた。
「タクシー、呼びますね」
去り際に、鯉登の耳に軽く唇を当てた。
——果たして数十分後、数時間後の俺たちはどうなっていることやら。そして、数年後、数十年後は、どうなっているんだろうな。
月島基の隣に鯉登音之進が共にある未来は、難なく想像できた。
絶対に離さない——そう思いながら、月島は繋がれた左手に、力を込めた。