好きだ「お前の愛の形は、私のものとよく似ている」
月明かりのない新月の夜、隣で眠る男は不意に呟いた。
「そうですか……」
「ああ、そうだ」
情緒もへったくれもない、獣同士の交合のあとだった。月島は、隣の男の体を手拭で十分に清め、彼の衾に潜り込んでいた。欲の発散だけのつもりが、もう数えきれぬほど事後の共寝をしている。それが“普通”となってしまった。今更それを変えるのは、その行為に意味を見出しているようで出来なかった。
「なあ、月島……」
鯉登の掌が、月島の頬に触れた。そこから、目尻、耳、輪郭を順番になぞっていく。
「つきしま……」
軍人とは思えぬ柔い音色だった。
親指が月島の下唇に触れた。はっとして鯉登の瞳を覗き込む。
新月の夜、明かりなどないはずなのに、彼の双眸はきらきらと反射していた。中心には、みっともない顔をした男がいた。月島は心の中で、自らを嘲笑った。
それを読み取ったのか、目の前の青年は、表情をほんの少し変えた。困ったような、苦しいような、怒ったような。
唇は触れられたままだった。相手の僅かな動作さえ見逃さないよう、息を潜める。
彼らは、最前線に立っていた。
夜を共にするたびに、その境界は少しずつ薄れていく。手を伸ばすのは、いつも彼からだ。
鯉登は親指に力を込めた。月島の下唇が押し込まれ、その隙間から歯が覗く。
「どうする……?」
衣擦れの音をさせながら、鯉登が月島の方へ一層距離を詰めてくる。触れるような、触れないような、その境界にある距離だった。
彼の首元には、赤い斑点がいくつも見えた。少しはだけた浴衣の内側には、噛み跡があった。
唇に押し当てられている彼の指は、まだ動かぬままだ。
月島の手がぴくりと僅かに動いたのは、無意識だった。
(だめだ。だめだ、考え直せ。この人には将来がある。)
それでも慾の根源は、月島の理性などおかまいなく自ら焔の中に入っていく。
青年の眸に映る自分は、苦悶に顔を歪ませ、酸素を求める。
「…………っ」
唇に、一層力が込められた。同時に指がほんの少し、唇の内側に入り込む。隙間からは空気が流れ込んだが、呼吸が楽になることはなかった。
しかし、その刹那、そこに味を感じる器官などないというのに、甘さが身体中に広がった。
——あと、ほんのすこし。彼から踏み込んでくれるなら。
唾液がじゅわりと口の中に広がる。気づけば舌が、彼の指に届くすんでのところまできていた。
だが、それ以上はできなかった。
その先の行為は、いままでの関係性、そしてこれからの関係性を変えてしまう。そんな意味のあるものに思えた。月島は、それがとても恐ろしかった。
溜まった唾液を飲み干し、鯉登の視線から目を逸らす。しかし、彼の指を拒否することはできなかった。
「……意気地なしめ」
小さな声音には、怒りや落胆ではなく、代わりに悲しさと慈愛に満ちていた。
唇から、鯉登の指が離れていった。
規則正しい寝息が隣から聞こえる。
月島は、こちらに背を向けて眠る鯉登をぼんやりと見つめた。
あと少し、彼から求めてくれれば——しかし、聡明な彼のことだ。月島の思いには、とっくに気づいており、こちらからの行動を伺っているのだろう。つまりはこちらの出方次第。
しかし、月島にはどうしたって覚悟することができなかった。彼はどんどん出世し、いつしか所帯を持つだろう。自分が彼の妨げになることが許せなかった。
最初から抱かなければよかった。事が終わり、後悔しなかった試しはない。しかし、一度彼の体を知ってしまえば、知らなかったあの頃には戻れなかった。
己の欲など、制御できると思っていた。
いっそ、彼の方から「やめた」と言ってくれるのならば、諦められるだろうか。
そこまで考えて、月島の頭には、ある一つの疑問が浮かんだ。
——鯉登少尉殿は、この行為に意味を見出したいのだろうか。
後腐れのない関係であった方が、都合がいいはずだ。しかし、彼は情人のような行動をとり、月島は応えることができずにいる。
——なぜ、そんなことをするんだ。
答えは分かりきっていた。
彼には、「そうなってもいい」という覚悟があるのだ。
今許される限界に彼はひとり近づき、ひとりそこに残されている。
月島を試しているのではなく、「踏み込む心構えはある」といった鯉登の意思表示なのだろう。
心は一直線に求めているのに、それを表出すことはできない痛み。
(もし、もし手を伸ばすことが許されるとしたら、俺は……)
「……月島」
「……起きていらしたのですか」
「ああ……なんていう顔をしているんだ」
いつの間にやら、鯉登は月島へ向き合っていた。普段凛とした瞳は緩められ、薄膜は潤んでいるように感じた。
「……しょうがないなあ」
鯉登は、月島の背に手を回した。先ほどの官能的な艶やかさは無く、ただ慈愛に満ちていた。
鯉登に強く抱きしめられ、彼の胸の中にすっぽりと顔が収まった。鯉登の匂いを強く感じる。
無性に泣きたくなった。
行為をするとき、ただ抱き合うとき、いつもこの体温を感じていた。
いつしかこの温度も遠くなってしまうのだろうか。
(それは、いやだな)
「……言いたいことがあるなら言ってみろ」
こちらの心を読んだかのように、鯉登が言う。よく使う「いえ」という否定の一言は、咄嗟に出なかった。
「少尉殿……」
その代わり、しゃがれ声でなんとか出た言葉は、彼を形容するものだった。
「こいと、少尉殿……」
繰り返し名を呼ぶ。暗闇のなか、必死に縋るように、何度も何度もその名を言葉にする。
「月島基、大丈夫だ。私はここにいる」
暗闇の中、凛然たるその声は、一筋の光であった。
鯉登は、眠りに着いた月島の寝顔をそっと盗み見た。
眉間にある薄い皺、特徴的な鼻、分厚い唇、逞しさを感じさせる顎髭。
そのどれもが愛おしかった。
「なあ、知ってるか?」
鯉登は、先ほど触れた月島の唇に、再び指で愛撫した。
「月島は、私より先に覚悟を示しているぞ」
果てる瞬間、肉体的開放とともに、何のしがらみもない純粋な欲だけを、月島は鯉登に打ち明ける——無意識のうちに。
「お前、私のことを本当は……」
その一瞬だけ、鯉登の耳元で呟く言葉がある。
甘ったるく、感極まったような。
喜びと、怒りと、苦しみと哀しみを含んだ声で、たった三文字のそれを呻く。
鯉登は僅かに口角を上げた。
「理性の伴った状態でも、覚悟してもらわないと困るからな」
鯉登は月島の頬に手を移した。
あたたかい。この男の体温が好きだ。
静かに寝息を立てて眠っていた視線の先の男が、鯉登の温もりに気づいたのかぴくりと反応した。
そして、頬に置かれた鯉登の手に自分の手を重ねた。
いつしか互いの熱は交換され、同じ温度となるだろう。