零距離照射アスファルトの向こう、陽炎が揺らめいている。
暑さに喘ぐ人々を素知らぬ顔で見下ろしながら、太陽が勝手気儘に輝いている。
一郎は忌々しげに息を吐いた。
額辺りに両手を当て、庇代わりにしたそれの下から空を睨むが、手の甲を白い光でじりじり射られる。
付けた因縁を簡単に返され、遣る瀬無く舌打ちすると、一郎は腕をダラリと下して公園の木陰に向かった。
ドス、と長椅子に腰を下ろす。その反動でポタポタ、と額から汗が流れ落ちた。
一郎は地面に虚ろな視線を向ける。
すぐ傍の街灯下には干からびた虫達が転がっている。
「お互いしんどいな」
背後にある木々の中から聞こえてくる、今際の際にある蝉の途切れがちの叫び。それに対して一郎は自虐交じりに呟き、少し口角を上げる。
上体を持ち上げて椅子の固い背凭れに半身を預けると、不意に強い風が吹いた。
木々のざわめき、その中にサンダルが地面と擦れる音が混ざって聞こえてくる。
一郎は表情を真顔に戻した。
「一郎」
溜め息交じりに名前を呼ばれる。一郎は返事をせず、ただ顔をそちらに向けた。
一郎を見付けて足早になって近付いてくる少年は、ほとほと呆れたと言わんばかりに顔面を歪ませている。
特徴的な逆立った赤い髪が汗でしなっているな…。
そんな事をぼんやりと考えている一郎の鳩尾に、相手からいきなり投げ付けられたペットボトルがクリーンヒットした。
「いてぇ」
ずっしりとした重さがあるそれを手に取って、一郎は呻いた。
麦茶のラベルと、赤髪の――自称僧侶見習いの癖に性格破綻を起こした不良、自身の相棒兼マブダチ、という、属性が盛られに盛られた少年を交互に見遣る。
「空却…」
口が勝手に名前を紡ぐ。
「飲んどけ、顔色やべぇぞ」
空却は吐き捨てるように言って、彼自身も木陰に移ると、どさっと地面にそのまま座って胡坐をかいた。
こめかみから流れる汗を、Tシャツの袖でぐいぐいと拭って、空却は深い吐息を漏らす。
礼を言うのも似つかわしくない雰囲気の中、指示された通りに一郎はキャップを開けてゴクゴクと喉を鳴らして茶を胃に流し込む。
今は愛飲しているコーラより、甘くない飲料水の方が飲みやすいらしい。
プハッと呼吸すると、少しだけ意識が明瞭になった気がした。
「探すのしんどかったんだぞ。電話出ろ」
この残暑厳しい時期によ、と空却はぶつぶつ呟いている。
昨日起こった事を思い起こして、一郎は苦い顔になる。
紫籐から当てられた仕事が腑に落ちず、苛立っていた。
対立派閥の粛清だ。
木偶の坊が指揮する中、独活の大木に紛れながら対立し出した派閥を圧倒しなければならない。
「…こんなの、俺とこいつだけで…」
口籠る一郎を見て、紫籐は不穏に微笑んだ。窓辺で外を見ていた空却は無言でちらりと一郎を見遣る。
普段は一郎の腕を買っている紫籐だが、たまにこうして忠誠というものを試すかのような指示をする。
序列は紫籐次第だ。どんな屑でも一郎の下らない先輩に当る。
「畜生…」
結果、統率も何もあったものではなかった。
―――クソ同士で…揉め事起こしてたらワケねーな。
予想通り、ただの乱闘になる。頼れるのは隣で拳を揮う空却のみだった。
―――ゴミから生まれたご身分で…。
「ああ…笑えてきちまう」
周囲の為体を見て、一郎はこめかみの血管がぶち切れる音を聞いた気がした。
「…おま…」
空却は、一郎の感情の昂ぶりに咄嗟に気付いた。
「おい、一郎!」
一郎の怒りの矛先が破綻し、『事実上の味方』に殴りかかろうとしている。
空却は乱闘からバトルロイヤルになる気配をキャッチして、暴れる一郎を引き摺るようにしてその場から一旦離脱させ、近くの路地裏に回った。
「離せ…!」
一郎は空却を突き飛ばす。
そしてそのまま場を離れようとした…が、
「く…、……ってぇなぁ………」
壁を這う鉄パイプに肩を強かに打ち付け、苦痛に喘ぐ空却を見て、反射的に身体が硬直する。
悪寒と共に、嫌な汗が背中からゾワッと吹き出す。
「頭冷やせ…、組織としてのテメーの存在は論外だって、モズクに揚げ足取られちまうぞ」
肩を庇いながら、やはりボスの思惑に気付いていた空却が冷静に言う。
煮え切らない。一郎はぎちぎちと奥歯を噛み締めて、空却を睨む。
「テメーが選んでやってる事だろーが」
正論が中空を彷徨っている。
一郎がそれを吞み込んでいる様子はない。
本心と乖離した現実に思考が軋むだけだ。
何も言わず、一郎が踵を返そうとした瞬間、空却は行かせないとばかりに反射的に腕を掴んだ。
「空却ぉ…!」
一郎が苛立ちに任せて口を開く。
手を振り払われる前の、ほんの一刹那。
お、の母音を象る口の中に、空却は躊躇なく右手親指を突っ込んだ。
そして外側の頬に人差し指から小指までを引っ掛けると、口内の粘膜に親指を喰い込ませて一郎の顔を無理矢理引き寄せる。
頬の外側と内側に痛みが走り、一郎は目を真丸くして、体勢を崩した。
空却に覆いかぶさるように壁に縺れる。
「………!」
固い第一関節に歯がきつく食い込んだ。ぷつり、と何かを千切る感覚が伝わる。
空却の指を反動で噛んだのだ、と頭が理解したのは、舌の上にじわじわと鉄の味が広がってからだった。
一郎はハッとなり、空却を見下ろす。
「ようやく拙僧を…まともに、見たな」
空却は相手の眼の色が変わった事を悟ったのか、顔色一つ変えず、淡々と言いながら親指を引き抜く。
「…噛まれる覚悟があって、した事だから…何も言うなよ、拙僧のせいにしとけ」
そう言って傷付いた箇所を、血諸共、じゅっと吸いながら舐める。
空却の舌の動きを見て、一郎は眩暈のようなぐらりとした感覚に襲われた。
吐き出す筈だった、空却の血が交じる唾を飲み下す。
それにすら喉元を抑えて驚愕する。
想定外の未来が続き、一郎から殺気めいた感情が徐々に薄れていく。
「お前は怪我で戦線離脱したって伝えとくからよ」
感情の乱高下に未だ着いて行けない一郎は狼狽した。絞り出したような呼吸音が喉奥から幾度となく上ってくる。
「ちゃんと息しろアホ。…大人しくしとけよ」
空却は自身に被さっている一郎の背中を一撫でした後、するりと身を躱して走り出す。
曲がり角の向こう、空却の姿が見えなくなる。
一郎は再度ゴクリと強く唾液を飲み、口元を指先で拭う。
「………」
一郎の唾液が絡んだ空却の血。
透明が赤を中和し、淡い色に変わって、指に付着していた。
誘われるようにそこに唇を押し当てた後、一郎は糸が切れたように、その場にしゃがみ込んだ。
心臓が痛い程脈打っている事に、ようやく気付いたのだった。
その日の夜、計画は無事遂行された事と、電話の先で紫籐は喜色満面と言った雰囲気を散らしていた。
路地裏で空却を待ってはいたものの、報告の義務やらで上層部に捕まっていると追加で聞かされ、一郎は取り敢えず兄弟の様子を見に孤児院に向かった。
兄弟と通い合う血液。
暴力に伴う血飛沫。
相棒が身を挺して流した血潮。
後者が何故か艶めかしく脳裏をちらついて、一郎は暑い夜をゆらゆらと浮浪した。
「路地裏にけぇってみるといねぇしよ。まぁ涼しいとこにでも行ったんかな、とも思ったけど…」
空却はそう言いながら、先刻一郎が眺めていた干からびた虫達を、拾った木の枝を使って一か所に丁寧に集めている。
「バチくそにあちぃんだから、休んどけって、アホ」
ヂヂッと蝉が悲痛に鳴く。
空却は集め終えた虫の前で、ギャーテーギャーテー、と唱えている。
「…要らねー手間かけちまった」
一郎はぽつりと呟いて空却を見下ろした。
「あと…突き飛ばしたり、…噛んだり…、痛かったろ、悪い」
空却は木の枝で椅子の足をカーンと叩いた後、手を合わせて深々と頭を下げる。適当な葬式もどきを終えると、首を傾げながら顔を上げて、一郎を見遣った。
「拙僧はそんなヤワじゃねぇ。アホ。テメーが一番知ってんだろ」
金色の眼は、同じ性質を持つ筈の太陽より、ずっと柔らかな光を宿していた。
瞳の中に宿る恒星は、一郎の心の底をそっと照らす。
「…なぁ、一郎。お前気付いてるか?拙僧への本心ってヤツ」
空却は茶化すようで、そうでなく、煽るようで、それを隠すような口振りで言う。
空却の、熱気で赤くなった頬が更に紅潮したように見える。
相手の感情の抑揚に弱い一郎がどう言葉にするかどうか躊躇っていると、また一陣の風が吹いた。
「おわ」
先程より倍近く強い風に煽られて、一郎は目を瞑り、空却は素っ頓狂な声を上げた。
木々の葉がざわざわと揺れ、蝉の声が徐々に聞こえなくなり、虫の残骸が風に攫われていく。
「あーぁ」
空却は少し寂しげに息を吐く。立ち上がって、ズボンを両手でパンパンと叩いて背伸びをした。
「………今の風、ぬるい癖に、変に冷たかったな…。雨が来んぞ」
一郎はその言葉を受けてゆっくりと瞼を上げた。
「しょーがねぇ。舎弟がバイトしてるネカフェにでも行くかぁ。ちっと安くしてもらえるし」
ずいっと目の前に手を差し出される。
親指には絆創膏が適当に巻きついている。
一郎は空却の目を真正面から見詰めながら、迷わずその手をぎゅうっと力を込めて握った。
―――自分にとって空却は大事な存在なんだと、素直に、その意思を全力で肯定するように。
いきなり手を繋がれた空却は一瞬目を見開いたが、すぐに穏やかな表情になり、こくりと頷く。
雲が重なり合い、空が段々暗くなっていく。
湿気っぽい臭いが辺りを漂い始める。
きっと、後もう少しで本格的に雨が降り始める。
―――空却を想う気持ちが、夕立雲と同じように分厚く盛り上がって、一郎の心を覆う。
胸の内に一頻り雨が降ると、雲が散り散りになり、突き抜けるような高く青い空が現れた。
自分から手を伸ばしたくなるような穏やかな陽光に包まれる。
一雨毎に夏が離れていく。
季節が移ろいゆくように、いつか自身も変わっていけるかもしれない。
空模様と心模様が重なる瞬間を、一郎は少しだけ見たような気になった。
一郎はペットボトルを持って立ち上がると、空却の手を取ったまま走り出す。
「んだよ、いきなり!」
空却の怒号が響く。
それと同時にアスファルトに雨粒が弾ける。
ああ。きっと、この後なんだ。
一郎は鬱屈を置き去りにする。
そして、手を握り返してきた空却を伴って、高揚を辿るように駆け出した。