ケッコンしないアシュレオ「レオ、俺とケッコンしよう」
突然かけられたその言葉に驚いて視線を上げると、そこには屈託のない笑顔をみせるアシュレイがいた。
まだ高い空、てっぺんまで登りきっていない太陽、少し冷たい風が頬をかすめてアシュレイの髪を揺らした。思わず息を吸い込むと、朝露に濡れた草木の匂いで肺が満たされる。
兄貴は何を、いや…俺はこの光景を知っている。そうか、これは夢か。幼い頃の記憶の夢を見ているのだ。
そう自覚した途端に全てがぼやけて、目の前の幼き日のアシュレイも木々のざわめきも匂いも何もかもが消えていく。思わず手を伸ばそうとした次の瞬間、全てがかき消えて真っ黒な空間だけが広がっていた。
気がつくと、俺は自分が眠りについていた部屋の天井をぼんやり見つめていた。頭を少し動かすと枕元に置かれた時計が目に入る。起きるにはまだ早い時間だ。しかし、自分のベッドの横に並べられているもう一つのベッドにはその主の姿はない。今日の朝食当番の「あいつ」はもう起きているようだった。
まだ、起きていかなくても良いか。朝食ができたらいつものようにやかましく起こしにくるのだから。
それにしても懐かしい夢を見たものだ。先ほどまで見ていた光景を、目を閉じてもう一度思い出そうとする。頬をかすめた風や草木の匂いの感覚も、もう再現することはできない。ただ、アシュレイのあの屈託のない笑顔だけが脳裏にこびりついていた。
些細な思い出、のはずだった。それなのに、あの時の感情まで全て蘇ってくるようなこの感覚は何だ?軽く頭を振ってみても、幼き日のアシュレイの顔は依然として目の裏に焼きついているみたいだった。
別に、悪い思い出という訳でもない。むしろあいつを揶揄うネタになるだろう。たまにはあの頃の事を思い出してみても良いかもしれない。体を起こしてベッドに腰掛ける。俺は深呼吸をして、夢で見た「あの日」のことをひとつひとつ思い出していた。
俺がアシュレイと別たれ、レビュール族の族長の養子になった後、まもなくして「流れの剣士」が俺たちの師匠となり鍛錬をしてくれることになった。まだ成長期も来ていない俺たちは体力や健康面から野営などは許されず、ゼドラとレビュールの集落の中間地点に毎日のように通っていた。おそらく足腰を鍛える目的もあったのだろう。通い始めの頃は子供の足には辛かったが、次第にある程度の距離を歩き回る体力もついていったことを覚えている。
師匠は元々どちらの部族にも属さない「流れの剣士」であったため、勇者の指導者と言えども集落に身を置くよりは野営をしている方が好きなようだった。しかしゼドラとレビュールの双方から「勇者の鍛錬の近況報告」を求められることも多く、俺たちが二人だけでも与えられた課題を行えるようになってからはしばしば俺たちの側を離れた。これはそう、そんな時の出来事だった。
「少し行ってくる。なるべく早く戻ってくるから準備をして待っていてくれ」
師匠がそう言い残して集落に向かっていく後ろ姿をなんとなく眺めていると、アシュレイが声をかけてきた。
「レオ、最近はどうだ?飯ちゃんと食ってるか?」
会うたびにこれだ。アシュレイは俺が養子に出てから、それ以前よりもずっと過保護に色々聞いてくるようになった。色々な事を考えてしまったり、寂しくて中々眠れない夜もあった。しかしレビュールでの待遇は悪くないし、鍛錬のためにアシュレイに会うこともできる。頭につけたお揃いの羽飾りにも、何度も励まされてきた。
「食べてるよ。兄貴こそ好き嫌いしてないか?何でも食べないと身長が伸びないし強くなれないって師匠も言ってたぞ」
アシュレイはうぐっ、と表情を引き攣らせた。まだ苦い野菜が苦手なのか。
「嫌いだけどちゃんと食べてる!夕飯に出るな!って毎日祈ってるけど…。グランゼニス神が眠っているって本当なんだな」
「毎日出てるんだ?」
「出てる!もう食べれるから大丈夫って言ってるんだけどな」
母親らしい、と思った。過保護なところはあるが、食べ物の好き嫌いは克服するべきと、苦手な野菜を散々食卓に出されたものだ。レビュールの方でも苦手な食べ物などがないか聞かれたが、「特にない」と答えてしまっていた。実際、苦手であっても食べれないほどのものはないので問題はないが。
そんなことを考えていると、アシュレイはハッとして「しまった」という顔をした。俺が養子に出てからは、アシュレイは家族の話をほとんどしなくなっていた。珍しい虫を見つけただの、大きな水たまりができていただの、少し背が伸びただの、いつも当たり障りのない話をしていた。気にしなくてもいいのにと思う反面、自分のためにしてくれる気遣いが嬉しかった。しかし、こうも不安そうに顔色を窺われると居た堪れない気持ちになる。何か別の話題を振ろうかと、そう思った時。
「な、なぁレオ。…寂しくないか。辛くないか?レオが辛いなら俺…」
不意打ちでそんな言葉を聞いて、一瞬で目の奥が熱くなるのを感じた。「みんなのため、世界のため」と大人たちに言い聞かされて、自分にも言い聞かせてきた。今、この世界でそんな事を聞いてくれるのはアシュレイだけだった。それが嬉しくて、苦しい。でも、もし今泣いてしまったらこの優しくて無鉄砲な兄貴は…。
とっさに視線を下げて、「大丈夫」と頭の中で繰り返す。
「大丈夫だよ。みんな優しくしてくれてるし、兄貴にもこうして会えてるしね。修行はたまに辛い時はあるけど、それは兄貴も同じだろ」
「なぁ」
俺は大丈夫だよ。
「レオ、俺とケッコンしよう」
「…え」
突然かけられたその言葉に驚いて視線を上げると、そこには屈託のない笑顔をみせるアシュレイがいた。
まだ高い空、てっぺんまで登りきっていない太陽、少し冷たい風が頬をかすめてアシュレイの髪を揺らした。思わず息を吸い込むと、朝露に濡れた草木の匂いで肺が満たされる。
堪えていたと思っていた瞳に溜まっていた液体はすでにどこかへ消え去ってしまっていた。きっと誰だってそうなるだろう。一体こいつは何を言っているんだ?
「よく分からないけど、ケッコンしたら一緒の家で暮らすんだって聞いたんだ。近所のおばさんが言ってた!キュウコン?って言うのをしたらケッコンできるんだって!」
無邪気に笑うアシュレイを前に思考が上手くまとまらない。こいつ、結婚がなんなのかも知らないのか。いや、俺も結婚している人たちの状況や気持ちを理解しているわけではないが。でも、だからってこんなことを言い出すなんて誰が予想できる?
「えーと、結婚ていうのは、愛し合う人同士がするもので…」
「愛って好きってことだろ?俺はレオのこと好きだけど。…え、レオは俺のこと」
おい待て、ショックを受けたような顔をするな。
「違う、いや違くない、愛し合うっていうのは」
「レオは俺のこと好きじゃ」
「好きだけど!そうじゃなくて!」
暑くもないのに変な汗がじんわりと額に滲む。俺だって愛だのなんだのことはよく分からないというのに、アシュレイには何と言えば伝わるのだろうか。感情なんていう曖昧なものよりもっと明確な…。
「あっ!そう、そうだよ、兄貴。兄弟はそもそも結婚できないんだよ」
「え」
「何でかは知らないけど、そう決まってるって聞いたことがあるんだ」
言い切ってホッと一息つき、額の汗を拭う。別にこれだけの誤解を解くことなんて大したことでも無いのに、何だか妙に焦ってしまった。これもアシュレイが急におかしな事を言い出すからだ。本当に人騒がせなやつだ。
しかし、妙に静かな目の前の人物に違和感を感じて見やると、優しくて無鉄砲で人騒がせな俺の兄貴は、瞳から大粒の涙をボロボロと溢していた。
「な、なんで泣いて…」
今度は血の気が引いた。怪我をしても、修行が厳しくても、俺が養子に出されたその日だってアシュレイは泣かなかったのだ。少なくとも俺の前では。
何を言えば良いのかも分からず、思わずアシュレイの目元に手を伸ばし、そっと指で拭う。しかしそんなことでは溢れ出す涙を止めることはできる訳もない。
「俺…やっぱり、レオと一緒に、いたくて…」
絞り出すような声に胸が締め付けられる。俺は間違った。アシュレイが、兄貴がどういうつもりでケッコンなんて言い出したのかなんて少し考えれば分かることだった。ただ一緒にいたかっただけなんだ。本当に結婚なんてできなくても、後からそれを知ることになったとしても、気持ちを汲んだ返事をしてあげれば良かった。その事に今更気づいても、もう全部遅いけれど。
立ったまま静かに泣いているアシュレイの肩を引き寄せて、腕を回して抱きしめた。引っ込んだはずの涙がまた溢れそうになって堪えた。
「あのさ、結婚はできなくても、大魔王を倒して世界が平和になったら、きっと好きなだけ一緒にいれるよ。…それじゃだめ?」
「…でもレオが寂しいのは、今だろ」
兄貴は全部分かってくれてる。通じてる。泣かせてしまって心は痛いのに、同時に満たされていくのを感じる。
「離れていても心は一緒だって言ってただろ。兄貴がいてくれるから、今頑張れてるんだよ」
「…うん」
そう小さく返事すると、いつの間にか背中に回されていた腕で抱きしめ返された。まだ涙は止まらないらしく、鼻をすすっている。
「鼻水つけるなよ」
「ごめん、もうついた」
「…バカ兄貴」
師匠が戻ってくるまでにアシュレイは泣き止んだが、目は腫れてしまっていた。師匠には「喧嘩でもしたのか?」と珍しそうに聞かれたが、アシュレイは「何でもないです」と押し通した。その日の鍛錬が終わる頃にはいつものような元気を取り戻しいて、「またな!」と手を振り走っていく後ろ姿を見送った。
日はもう沈みかけていて、風も少し肌寒かった。茜色に染まる空を見ながら、今日の日のことを俺は何度も思い返すのだろうなと思った。
回想から現実世界に意識を戻して、しんみりとした気分になる。子供の頃に兄貴が突然結婚しようと言い出した、というだけの思い出のつもりだったのに妙に感傷的になってしまっていた。この出来事を思い出さなくなったのは、きっと「一緒にいることが絶対に叶わなくなってから」だろうな、と自嘲気味な笑いがこぼれた。
兄貴は覚えているだろうか。もし覚えていなかったら、面白おかしく脚色して揶揄ってやろうかな。そんな事を考えていると、部屋のドアがゆっくりと開けられた。
「…あ、レオ起きてたのか。おはよう、朝食できたぞ!」
右肩上がりに大きくなる声に思わず笑ってしまった。羨ましいことに、アシュレイは昔から朝を苦手としていない。
「おはよう兄貴。今日は焦がさなかった?」
「おい、別にいつも焦がしてる訳じゃないだろ!今日のは自信作。お前の好きなやつ用意したから!」
そう言い残すと颯爽と部屋を後にする。アシュレイと共に生活するようになってからどれくらい経っただろうか。生きていた頃に叶えられなかったことが死後、それも数千年越しに叶うなんて分からないものだ。
身支度を整えて朝食が並べられた机に向かう。アシュレイは「どうだ」という顔で俺を迎えるが、盛り付けは及第点といったところだな。確かに焦げてはいないようだが。…しかしいつもの事ながら朝からこの量は多くないか?食事を必要としない身体でも満腹にはなる。こいつは俺の胃を過大評価していると思う。
席につき食器を手に取りながら、机の向こう側で俺の感想を待っているアシュレイに話しかける。あの話をしたらこいつはどんな顔をするだろうか。
「子供の頃にさ、兄貴が俺に求婚したことあったよな」