お弁当屋さんでバイトしてたらめちゃくちゃな美人が来たのだが恋とはどんなものだろう。
つい先日、兄に恋人ができたということを知った。二人いる兄のうちどちらもが自身のプライベートなことはあまり話したがらず、そもそもこれまでまともに交際経験があるのかも怪しい。
私も彼らも等しくそうだが、おそらく恋愛などには向いていない。
恋というものは誰かを特別にする。その存在に釘付けになり、自身の中で優先順位が跳ね上がる。
他者から聞く恋というものは、自分にとって恋に落ちた相手が特別な存在であることを第一条件としているようで、私にはいまいちそれがよく分からない。
誰であれ差をつけず、分け隔てなく接すること。それは優しさとは違うのかもしれない。
ただ、生まれながらにそういう性質である私たち兄弟は、他人を「特別扱い」などできないものだと、そう思っていた。
エミヤちゃん!と声をかけられ私はハッと顔を上げた。
目の前にいるのはバイト先のパートの女性だ。この女性に限らずバイト先の妙齢の女性たちは、快活で底抜けに明るく、タフだ。
「はい、エビフライ揚がったよ」
フライヤーを担当する女性が金属バットにのせられたエビフライを渡してくる。私はつい、ぼんやりとしてしまっていたようだ。
「ありがとう、小野さん」
受け取ったバットからエビフライを弁当箱の中に詰めていく。綺麗に詰められた物を店頭に並べ、今日の作業が完了する。あとは機材やテーブルの上を綺麗に片付けて、夜の清掃員へ交代するだけだった。
「いつもありがとうね、エミヤちゃん。この間試作した鳥ゴボウのおこわ、おにぎりとお弁当で両方出そうって店長が」
ビニールの手袋を外して帰る準備をしていたところに声をかけられて私はにっこりと微笑んだ。
以前兄が知人に頼まれて助っ人していたというツテでバイトしている弁当屋は、若い女性が店長をしている小さな店だ。
店長の女性は小柄で気が強く、とても不器用ながら人に料理で笑顔になって欲しい、美味しいものをお腹いっぱい食べて欲しいという信条でこの弁当屋を営んでいるらしい。
私がシフトに入るのは平日の午後、学校が終わってからの時間がもっぱらで、五時から九時までの時間を担当している。店長は早朝から夕方までの慌ただしい時間を担当しているため、夜は家路に着く人たちがほとんどのゆったりとした客足になるこの時間帯は、裏で事務作業をしていることが多かった。
ビニールのエプロンを外し、ダストボックスに入れてタイムカードーーこの店はいまだにあの古めかしい打刻機を使っているーーを差し込んだ。ロッカーから鞄とコートを取って、お疲れさまでしたと裏口から出ていく。
表通りはとっぷりと暮れて、夜空には丸い月が浮かんでいた。
息は白くないものの、だいぶ寒くなってきた。
今日の夕食当番は二番目の兄が担当する。もしかしたら鍋かもしれないな、など思いながら帰路へついた。
「ただいま、……?」
帰宅してすぐ、なにやら兄たちが騒いでいる声を耳にした。
三兄弟仲睦まじく、といえば聞こえが良いが、兄たちは妙に過保護で、私が二十歳になるまでは面倒をみると言ってなんだかんだ一緒に暮らしている。
家は一軒家で広く、私一人どころか兄弟三人暮らしでも持て余すくらいの敷地であったが、数少ない親の形見の一つだ。兄二人が出て行っても、バイトをいくつかこなしていれば自分一人暮らしていくくらいはできそうだったが、兄たちは断固としてそうしなかった。
私が弁当屋のバイトを兄のツテで続けているのは、せめてもの生活費や、学費の足しになればと思ってのことだった。
「兄さん?」
騒いでいるのはキッチンだった。三和土から上がり框を越えてキッチンが据えてある茶の間へと向かう。
「あ、ああ、おかえり」
下の兄が妙に動揺して迎え入れる。
「手洗いうがいはしたのか」
口うるさいのは上の兄だ。
洗面所に足を向け、聞こえてくる兄たちの声に耳をそばだてる。
「本当に知らなかった」
「私も彼に兄弟がいるとは聞いていなかったからな……」
「それが理由で別れる必要もないだろう」
「もちろん。やっとうまくいったんだろう?おめでとう」
断片的な情報でよく分からないが、上の兄に恋人ができたということだろうか。
兄弟の中で一番の強面である上の兄は、その見た目から女性男性ともに敬遠されることが多い。これといって色恋沙汰にも興味はなく、このまま独り身で暮らしていくのかと思っていた矢先のことで、驚いた。下の兄は誰にでも分け隔てなく優しく、細かい気配りが得意なこともあって引く手数多といった印象ではあったが。
「兄さん二人とも、恋人ができたということかね?」
手洗いうがいを済ませて、食卓につきがてらそう尋ねる。大袈裟に咳き込む二人がその後沈黙の肯定を示したことで、私は手を叩いて祝福した。
唐変木な我々にもついに春が来たのだ。いや、我々と一括りにしては語弊がある。彼らに、が正しい。
今度紹介してくれ、と当たり障りのない会話で食事を終え、部屋に戻って畳の上に大の字になった。
恋を知らぬは自分ばかり。
それに理想も憧れもない。ただ、特別に人を好きになるという感覚がどういうものか、興味がない訳ではなかった。
「恋とはどんなものだろう」
天井を見上げ、自問自答する。強制されたことでもなく、恋をしなくてはいけない理由などなにもない。
ただ、私にかかりきりだった兄たちが、自分や家族以外の特別を見つけたことが少しだけ寂しかった。
バイト先の弁当屋は遅くまで開いている店だったが、周囲にコンビニがあるせいか夜の人の入りはそこまで多くない。閉店までに売り捌けるか分からないため、夕方以降のちょっとしたピークが終わってからは新しく弁当を詰めたりはしなかった。今日はそこまで客足がなく、売れ残っている弁当が多かったのもあり、私は店頭で売り場の管理をしていた。私自身はそこまで売り場に出ることはなかったが、人手が足りないときに駆り出されることはしばしばある。
店頭から見る通りは人影もまばらで、今日はこのまま閉店するのかもしれないと考えていたときだった。通りの向こうから現れたのは上下グレーのスウェットを着た男性だった。パーカーを目深に被り、表情はよく見えない。
まっすぐこちらに向かってくる足取りに、弁当を買いに来ていることが分かる。軒先まで来たのを確認してから、いらっしゃいませと挨拶をした。
近くに来た男性は遠目から見たら老人に見えるのではと心配になるくらいの猫背で、その丸まった背のままガラスケースに並ぶ弁当や惣菜を品定めしていた。
「んー……ミックスフライ弁当と、肉団子の甘酢あん、あとゴボウサラダ」
注文をするためにかフードを取った瞬間現れたのは、夜の闇の中でも明るく見える天色の長い髪だった。黒いウェリントンの眼鏡を掛けていて、重たいのかただの無精なのか、鼻の半ばほどまでズレてしまっているのに気にかける様子もない。
彼が注文したミックスフライ弁当は、白身フライ、エビフライ、カニクリームコロッケが入った海鮮メインのフライ弁当で、付け合せにはナポリタンとポテトサラダが入っている割とガッツリ系の弁当だった。カロリー爆弾と言ってもいい。それ一つでも結構なボリュームだが、肉団子とゴボウサラダを単品で追加している。このおかずは、私が考案したものだった。
緩いスウェット姿で体型はよく分からないものの、長身で細身、脚がすらりと長いのは服の上からでも分かる。その彼がこのガッツリメニューを平らげるのは、ある種爽快な気分もあった。
私の料理は下の兄にすべて教わった。上の兄も料理はできるが、作ること自体はそこまで好きではないらしい。家庭的で素朴な和食が多い下の兄に比べ、上の兄が作る品は味が濃い洋食が多かった。
本人いわく味の計算が楽でいい、そうだ。
食材の扱い方や切り方などと言った下ごしらえ全般から、調味料の特性、使い方、タイミングなど下の兄の調理は無駄がない。
私は、いまだに調味の際必要以上に薄味になってしまうこともあり、目下修行中だ。
そんな私の拵えた料理は、下の兄の教育の賜物とも言える。
追加のおかず二品が私の作ったものだと思うと、なんだか兄のことを褒められたようで嬉しかった。
「ここのおかず、美味いよな」
会計を済ませてビニール袋に入れた弁当を渡したとき、そう言いながら受け取った指先に不釣り合いなくらい、太く無骨な指輪をつけているのが見えた。太いアームの中央にコインのような円形が平打ちされているデザインで、指輪全体に蔦とローマ字に似た、何か紋章のような意匠がびっしりと絡みついている。ところどころ黒ずんでいる銀の指輪は、独特の迫力があった。
彼は気さくに笑いかけている。
「いつもありがとうございます。またいらしてください」
平然と答えながら、耳が熱くなっているのを知っていた。それを知ってか知らずか、彼はにこやかに袋を受け取って、来た道を引き返していく。
「あの人よく来るのよ」
妙に雰囲気のある美しい人だな、と噛み締めている背中からパートの女性の一人が声を掛けてきた。
そこからバックヤードは対応した人たちの賛美で色めき立つ。
日本人離れした容姿で、美しく、長身で人当たりも良さそうな人だった。対応した私が圧倒されて照れてしまうほど、魅力的な人だった。私自身は詳しくないが、もしかしたら芸能界に属する人かもしれない。
「綺麗な人でしたね」
退勤時間間際の対応だったこともあり、女性たちに同意しながらエプロンを外して帰り支度をする。
彼の正体を知ったのはそれから数日後のことだった。
茶の間のテーブルにたまたま置かれたままあった雑誌を手にとって開いた瞬間、見覚えのある意匠が飛び込んできた。
私も兄たちもそう頻繁に雑誌を買うタイプではない。もしかしたら借り物かもしれないな、そう思いながらパラパラとめくってみたそれは、文芸系の雑誌だったらしい。
今一押しの小説、新設された新人賞の紹介、作家のインタビュー記事などで紙面は埋め尽くされていた。インタビューを受けている作家は、顔は出さないタイプなのか、普通紙面の何箇所かにある容姿が分かる写真は一枚もなかった。重厚な造りの椅子にスーツ姿で腰を掛け、脚を組んでいる上に交差させた指を置いていた。その指に見つけたのは、件の意匠だ。数日前に弁当屋の軒先で見かけたものと同じ、古びたシルバーリング。
スウェット姿の猫背も、ズレた眼鏡も全く思い起こさせない。並んでいるのは、それらしい言葉の数々だった。薄暗い書斎らしい場所で本を持っている写真も掲載されている。革張りの洋書を持っている手元は美しかったが、小道具かもしれないそれを持たされた彼はどんな心境だったのか考えると妙におかしかった。作家という職業にどういった印象があるかは人それぞれ異なるだろうが、紙面に載る写真は全て、イメージを損なわない気取った様子の彼がいた。
「君、ミックスフライ弁当なんて食べなそうだな」
本名ではないだろうが、ペンネームが代表作と共に太字の明朝体で掲載されていた。
私はその名前をスマートフォンのメモ帳に記載した。不思議と、どんなものを書いているのか興味を惹かれた。
「作家さんだったのか」
著作は図書館で探せば見つかることだろう。後で向かうことに決めて、私は昼食の準備に取り掛かった。
昼食と簡単な家事を済ませた後に図書館で数冊を借り家に戻る途中、バイト先の店長から電話が一本あった。
季節の新作を作りたい、という相談だった。季節、ということなら今は秋口であるし、栗おこわに秋刀魚、牡蠣にさつまいも、きのこに葡萄といったところだろうが、おかずと弁当でそれぞれ何か提案してみようと食材もついでに買い込んで帰宅したのだった。
「今日は私が夕食を作っても良いだろうか」
当番で言えば上の兄の番だったが、試作も兼ねるなら味見役がいた方が助かる。何より少量を作るより、普通の食事として用意した方がはるかに作りやすいこともあった。バイト先で採用されればそれなりの量を作ることになる。食材の量や調味料の計算も、普通に作った方がやりやすかった。
数日前彼に渡した弁当とおかずを思い出す。あのガッツリとした揚げ物の弁当に濃い味のおかず、その免罪符がゴボウサラダだとしたら、あれで一応は気を遣っているつもりなのだろう。
意外なことに、揚げ物のおかずや弁当は結構な数をお年寄りが買っていくことが多い。気軽に油を扱えなくて、たまにはフライを食べたくて、なんてはにかみながら購入して行くのを何度か見かけたことがあった。
気怠い、だらしのない見た目でありながら彼は隠居した賢者か魔法使いのような雰囲気だった。見た目よりずっと、老成している印象だ。それがあの、独特の雰囲気に繋がっているのかもしれない。
手始めに椎茸の煮しめを作っていたとき、ちょうど下の兄が帰って来た。
早速相談してみる。
「秋らしいメニューはないかと相談を受けたんだ。兄さん、何かレパートリーはないか?」
「定番は栗おこわに秋刀魚の塩焼きだろうが、近年秋刀魚も安くはないからな。コストを抑えるなら牡蠣飯はどうだろう。青ネギと糸生姜を散らして……この椎茸をおかずに入れるなら、酢ばすなんかも入れてもいいかもしれないな」
「色どりに赤色も欲しいな。椎茸と人参、こんにゃくの煮しめにしたら良いだろうか?」
「人参は型抜きにすると映えるだろうな。黄色で、栗の甘露煮と出汁巻もいいかもしれない」
「豪華な行楽弁当みたいだ。美味しそうだな」
「ネギとキノコを合わせた鶏肉の照り焼きはどうだ?これは単品のおかずとして」
「さつまいもの茶巾絞りなんかも良さそうだが、ちょっと手間かもしれないな……」
「鮭の照り焼きも美味しいぞ。ホイル焼きみたいにしてもいいが、弁当には向かないだろうか……」
「おい」
下の兄と交互に議論を交わし、メモを取っていたところに上の兄が割り込んで来た。
「メシはまだか?」
ひとまず簡単にメニューの方向性は決まった。下の兄も随分と乗り気なようだから、これから一緒に早速試作することとした。
ーー最近来なくなったのよねえ。
なんて声をちらほら聞いたのは、秋も終わりの頃だ。私が試作した行楽弁当もどきは、秋の味覚弁当として多少メニューの見直しがされて売り出され、結構な好評だったらしい。
店長からもいつもありがとう、丁寧なレシピで助かったわなどと感謝の言葉を受けて、私は今日か明日かと、作家業の彼が来るのを、密かに楽しみにしていた、らしい。
限定メニューは盛況なまま提供を終え、そろそろ冬のメニューを考え出す頃合いだった。
何を期待してしまったんだろう。
常連が必ずコンスタントに訪れるとは限らない。そもそも引っ越してしまえばもうこの弁当屋に通うことさえ困難になる。それなのに、また食べてくれるかもしれない。そうなら、少しでも健康に良い、旬の味覚を美味しく味わってもらえたら、など差し出がましい夢を見てしまった。
冬のメニューも、兄に相談しながら決めるとしよう。そう思いながら、片付けと清掃を終えて退勤しようとしたときだ。
「すいません」
店頭に声がかかって、出ていた人が外していることに気がついた。
慌ててバックヤードから顔を出して注文を受け付ける。
「お。久しぶりだな、お兄さん」
来なくなった、彼がそこにはいた。