DF月×FW鯉 シンプルな黒地の表面に、アディダスのロゴが白く抜かれたそのトレーニングマットを、鯉登は高一の春から愛用している。マットのフチだけがパキッと鮮やかに赤いのも良い。肝心の厚さもちょうど良くって、だけど縦幅が足りなくなってきたな、と寝転んでから思った。買い替え時だろうか。気に入ってるんだが、と考えつつ、サイドプランクの姿勢にうつる。右側30秒。左側30秒。その反復。体幹を鍛えるトレーニングは鯉登の就寝前の日課で、有料配信サービスの欧州リーグの実況をBGMに行うのが、毎晩のルーティンだった。
プレミアリーグ首位のアーセナル対エヴァートンの一戦。リーグ下位のエヴァートンの善戦を伝える解説者の浮かれ声に紛れて、ぽいん、ぽいん、と続けざまに2回、LINEの通知音が鳴る。鯉登は30秒のプランクをきっちり終わらせ、ふぅと息を吐きだしながら仰向けになった。全身の筋肉がゆるゆると弛緩していくのを待つ。そのまま手探りで床の端末を拾い、顔の上に掲げて見た。スクリーンに表示された名前に、勢い込んで起き上がる。
――月島。
急いでアプリを開き、トークをタップする。
“月島基”という名前のとなりに、新着表示が3件。
『夜遅くにすみません。月島です』
『今度俺の地元のクラブがJ1昇格戦でこっちに来るんですけど、もし予定あいてたら観に行きませんか』
『11月28日(日)の東京対新潟戦です。19時キックオフです』
鯉登は白い吹き出しに浮かぶメッセージを凝視した。驚きと高揚がないまぜになって、落ち着かない心地でスマホをぎゅっと握り締める。あの月島に、サッカー観戦に誘われている。
指定された日は、今日から3日後。幸い練習は早朝開始で、午前上がりの日だった。ナイターであれば十分に間に合う。すると帰りは21時くらいだろうか。東京のJクラブの本拠地は、確か西東京の方だ。おそらく京王線沿い。23区内に高校と実家の両方がある鯉登は、他校との試合に行くくらいでしか利用したことがない。というか月島って、新潟出身だったのか。
返事を打とうとして、キーボードの上で指が泳ぐ。少し書いては消して。書いては消して。
そうこうしているうちに、月島の方から追送が来た。
『忙しいなら大丈夫なので』
しまった。速攻で既読を付けてしまった。鯉登は焦って、意味もなくアプリを閉じたり開いたりする。
普段は友人からのメッセージを既読無視することさえ一向に気にならないというのに。どういうわけだか妙に気が急いた。「断る理由を探しているのだろう」と月島に誤解されることが、どうしても嫌だった。
それで色々考えた挙句、『行く』とだけ返した。緑の吹き出しに浮かぶ、簡潔な了承の文字。
既読の表示はすぐに付いた。そのまま画面をじっと見つめる。なかなか返事が来ない。いつの間にかサッカー配信は終了していて、部屋の中はしんと静まり返っている。
やがて2つの吹き出しがぽんぽんと画面に並んだ。
『わかりました』
『じゃあスタジアムの最寄り駅に待ち合わせで』
鯉登はその文字を無言で噛みしめる。誤字をしないように気を付けて、『わかった。最寄りは京王線だったよな?』と返した。
『京王線の飛田給駅です』
『行ったことありますか』
『降りたことはないが、行き方は分かる』
『分からなかったら言ってください』
『調布駅から二手に分かれるんで、お気を付けて』
『18時15分に改札前集合でどうですか』
『わかった』
『じゃあ当日よろしくお願いします』
『うん。よろしく』
そこまでやり取りをして、鯉登は深々と息をはきだした。長い潜水からようやく浮かび上がったような解放感がある。プレーンな青色の背景に連なる短いやり取り。スタンプの1つも使われない素っ気ない会話を、指先でつらつらと遡ってみる。ほとんどスクロールしないまま、すぐに天井に突き当たった。
“今日”の表示の前には、とても短いメッセージが2つだけ。日付は10月17日。
『七高の月島です。よろしくお願いします』
『鶴学の鯉登だ。よろしく』
短い自己紹介と、定型文の挨拶。それだけ。そこから一ヶ月以上、何のやり取りもないまま時は流れ、先程の会話に至る。
――あの月島と、サッカー観戦に行くのか。
鯉登はマットの上で胡坐をかき、ぐんにゃりと上半身を前に折った。滑り止めの効くゴム地の表面にぎゅうっと額を押し付ける。ざりざり、前髪が擦れる音がする。
胃の底がぷかぷか浮いたような、なんとも落ち着かない気分だった。ルーティンのトレーニングは、まだ少しメニューが残っている。さっさと済ませて眠らなければいけないのに、どういうわけか動く気にならない。そのくせやたらと体は熱かった。心臓もなんだかおかしくて、とくとくと駆け足の鼓動が耳の奥を打つ。
その夜は結局、トレーニングの続きをやらないままにベッドに入り、長い長い夜を過ごした。
「この列車は飛田給駅に臨時停車いたします」というアナウンスが流れ、色鮮やかな集団が一斉に車外へと吐き出されていく。鯉登はその流れに混ざって、蛍光灯が照りかがやくホームへと降り立った。車内の熱気を吹き消すような夕風が首筋を舐め、ちいさく身震いする。チェスターコートのボタンを締めながら、もっと厚着するべきだったかもしれない、と心の隅で悔いた。
観戦当日の日曜は、連日の秋晴れを裏切るような曇り空だった。なにも観戦の日にこんな天気にならずともと、ホームの屋根から覗く黒い空を恨めしげに見やる。一足飛びに厳冬が訪れたような、凄まじい寒波が関東を襲い、今朝がた慌てて厚手のコートを引っ張り出してきた。
改札を目指し、人混みの中を泳いでいく。抑えきれない昂奮を帯びた声がそこかしこで上がり、今宵の一戦に掛ける両陣営の熱を肌で感じた。「絶対に今日昇格してほしい」という声――これは新潟サポーターで間違いない――が聞こえてきて、鯉登は思わず頬を緩める。
――うん。おいも上がってほしか。今日、ぜったいに。
改札前は観戦客でごった返していた。これでは待ち合わせどころではないなと呆気に取られるが、そもそも指定された時間より20分も早いのだ。月島はきっとまだ着いてないだろう。
駅のコンビニにでも入って時間を潰すか。頭を巡らせつつ、人だかりの改札を通る。構内をぐるりと見渡して、いやなんにもないなと首を捻っていると、「鯉登さん」と背後から呼びかける声があった。ぱっと後ろを振りむく。
「……月島」
「どうも……ご無沙汰してます」
見覚えのある顔の男が、見慣れない服装で立っていた。ジャージでも学ランでもユニフォームでもない。私服の月島基だ。鯉登にはその姿がやけに新鮮で、なんだかこの男らしい恰好だなと確かに思ったのだが、それよりも何よりもまず最初に、鯉登を襲った一番の衝撃が別にあった。
「……お前、その服」
「服?」
鯉登の低い声を受け、月島は戸惑いの表情を浮かべる。鯉登からの無遠慮な視線を追って、自分の体へと目を落としてみる。
無地のブラックキャップ。カーキのダウンジャケットの下にライトグレーのパーカー。ワイドめのブラックデニムと、白のエアマックス。
「え、っと……なんか、変ですかね」
「変というか。緑じゃないか」
「は?」
モノトーンに揃えられた中で、唯一色味を持つミリタリーのダウンジャケット。
カーキ、つまり緑色のMA-1。
「お前、新潟サポーターだろう。敵チームのクラブカラーを着てどうする」
今日の対戦カードは東京VS新潟。つまりグリーンVSオレンジ。クラブにはそれぞれ決まったカラーがあり、熱心なサポーターなどは応援するクラブのカラーに合わせて観戦着を選んだりする。あるいは公式グッズのタオルを首に掛けたり、選手の名が入ったユニフォームを羽織ったり。実際、鯉登が乗って来た電車では、緑色の集団と橙色の集団とが混ざりあって、ちょっとしたパーティのような有様だった。
しかし鯉登の目の前の新潟サポーターはどうしたことか。オレンジを纏わないのはともかくとして、あろうことか緑色の上着を着ている。この男、地元クラブの昇格戦だと意気込んでいたくせに。
月島は鯉登の台詞がてんで予想外だったらしく、ぽかんと口を開けて呆けていた。鯉登に促されるまま、自分たちの周囲にいる人々を見回すと、「あぁ……」と覇気のない相槌をうつ。
「……完全にわすれてました」
本当にたった今気がついた、という顔だった。鯉登は思わず笑ってしまう。ここまで鯉登と同じく電車に乗って来たくせに、何も気にならなかったのか。この男、もしかすると鯉登が想像していたよりもずっと天然なのかもしれない。
「まぁ、タオルを巻くなり、上着を脱ぐなりすればいいだろう。グレーのパーカーならどちらサイドでもないし」
「……今日の気温で脱いだら、観戦どころじゃなく死にますよ」
月島が憮然とした声で突っ込むのに、鯉登はますます面白くなってしまう。ふふ、と含み笑いをしつつ出口の方向に向かって足を踏み出すと、すぐ隣を月島が付いてきた。ちらりと横を見ると、月島の視線は鯉登の顔よりもやや下に向けられている。
「鯉登さん、その下に着てる服、朱色っぽいっていうか……オレンジですよね」
月島の目は鯉登の上半身を見ていた。鯉登は自身の服を見下ろす。ダークグレーのチェスターコートの下に、オレンジ色のモックネックセーターを着込んでいた。
「ああ。新潟のクラブカラーを調べて選んだんだ」
いいだろう! とすこし胸を張ってみせる。観戦前の下調べには余念がない。月島の目が見開かれ、思わずといった勢いで「かっ……」と呻いた。
「か?」
「……か、金が、かかってそうですね……」
言いながら尻すぼみになっていく月島の台詞に、今度は鯉登の方が憮然となる。むっとした表情のまま、何も返事をせずに速足で階段を駆け下りれば、「冗談ですって!」と焦った声が、鯉登の背後を急いで追いかけてきた。
飛田給駅からスタジアムに向かっては、歩いて10分ほどかかる。凍てついた風が頬を切るのに、鯉登は首をすくめながら速足で歩を進めた。すでに辺りはとっぷりと更け、ぽつぽつと佇む街灯や、ファミレスの鮮やかな看板が目印のように瞬いている。
ぞろぞろと続く人波が、一定の方向に向かって押し寄せて行くのに紛れながら、月島と鯉登はぽつりぽつりと話をした。今日の試合のこと。ここに来るまでに乗換えた駅のこと。新潟の現在の獲得ポイント。昇格を競り合っているクラブとの差。月島の地元のこと。
出身地である新潟の話に触れたとき、月島が一瞬だけ口ごもったことに鯉登は気がついた。それで何気なさを装い、「そういえば」と話の方向を変える。
「決勝戦、惜しかったな」
鯉登は前を行く男性の迷彩柄のスニーカーを見つめながら言った。重く聞こえないように気を張って。月島はやや間をあけて、「そうですね」とつぶやいた。
秋から冬にかけてのこの時期、全国の高校サッカー部はもれなく、選手権大会の地区予選の真っ只中にあった。都の2次予選が開幕し、すぐに敗退してしまった鯉登の高校に対して、月島の高校は順調にトーナメントを勝ち進んでいった。しかしその勢いも、半月前に行われた決勝戦で、激闘の末のPK戦に敗れて終わった。
鯉登は録画放送のその試合を、深夜、暗がりの自室で観た。勝敗を決める5本目のPKを外して泣き崩れる仲間を、力強く支える背中。その腕に巻かれたキャプテンマークを、じっと見つめていた。
「……それで、引退後は何をやってるんだ」
試合の内容には触れないまま、鯉登は気になっていた質問を投げた。2年生の鯉登とは違って、最上級生である月島は、選手権大会が終われば引退の時期のはずだった。
「まぁ……暇なんで、結局練習に顔出してますね」
月島が本当にやることがない、という調子で言うので、鯉登は眉を上げる。鯉登の部活の3年生などは、今頃予備校に通い詰めて受験勉強に追われているか、推薦に向けた準備に励んでいるかのどちらかだ。
「進路は?」
「大学です」
「一般か?」
「いや、推薦受かったんで」
「どこだ」
「筑波です」
鯉登はがちりと立ち止まって月島を凝視した。
「お前……そんなしれっと……」
信じられん、という眼差しを受け、月島が嘆息する。ほら後ろから来てますから、と促され再び歩き出すが、全国でも指折りの強豪校の名を出したにしては、余りに淡白な態度だと思った。
鯉登の視線を億劫そうに避けようとした月島が、右横を過ぎ去っていく黒いセダンに気のない視線をやる。
「ただのラッキーですよ」
ダメ元で受けたら受かっただけで。もともとは一般受験するはずでした。平坦な声がそのように言うので、鯉登は相槌を打つでもなく、黙って聞いていた。
「それに、行ったところで、死ぬ気でやらなきゃベンチにも入れない」
筑波大。サッカーに携わるものなら誰もが知る大学サッカーの名門だ。部員数は数百人にのぼり、チームは1軍から6軍にまでカテゴライズされる。その中で、トップチームである1軍に入れるのは、ごくわずかの傑出した実力者だけ。限られた席を奪い合う部内競争の熾烈さは、察するに余りある。
だけど、と鯉登は黒いキャップに遮られた月島の顔を見つめた。
「……きっと死ぬ気でやるんだろうな。お前なら」
鯉登が目にしてきた月島基は、そういう人間だった。そういうプレイヤーだった。諦めが悪く、打たれ強い。鯉登がどれだけぶつかって行っても、揺るぎなく地に足をつけて、前を見据えて立っている。
鯉登はわずかに身をかがめ、つばの下の月島の目を覗き込んだ。視線が合う。黒い瞳の中で、街頭の光がちかっと瞬く。流れ星みたいに。
「なんにせよだ。合格おめでとう、月島」
自然、鯉登の口元はふわりと緩んだ。月島はどこか放心した様子で、鯉登の顔を見つめ、口元をむずむずとさせると、帽子を目深に押し下げて「ありがとうございます」とつぶやく。蚊の鳴くような、月島らしくない声で。
黒いキャップのつばを見下ろしながら、不思議だなぁ、と鯉登は思う。月島の進路を祝えているこの状況が。初対面の頃を思えば、夢みたいだ。今もまだすこし信じられない。
鯉登の脳裡を、過ぎる光景があった。昨年の初夏、茹だるような猛暑日。銀色の蛇口に映り込んだ空。
青と白の鮮やかな季節に、月島と出会った。
互いに忘れようにも忘れられない。最低最悪の出会いだった。
絶え間なく耳を裂く蝉の声も。こめかみを伝い落ちる汗のぬかるみも。むっと籠った草いきれも。
その日の鯉登には、五感を刺激するありとあらゆるものが癪に障った。肌に張り付く練習着。それから、鯉登の全身にまとわりつくような、不躾な視線。
鯉登の視界の端に、見慣れぬ黒いジャージ姿の集団が映り込んでいる。揃いのエナメルバッグに、白く抜かれたクラブ名。第七高校FC。午後に開かれる練習試合の相手校だ。監督同士が旧い友人だという、ここ数年で頭角を現したと評判の都立高校だった。
遠巻きにこちらを窺っている鴉の群れに、鯉登はあえて目を向けず、手洗い場へと歩み寄る。蛇口をひねり、ぬるい水流に両手をさらした。汗ばんだ手の平を、透明な水が浄めていく。
本当は今すぐにでも、頭から流水に突っ込んでしまいたい気分だった。胸のむかつきを綺麗さっぱり洗い流したかった。しかしほんの近くに、他校の生徒の目がある。みっともない振舞いはできない。
鯉登は念入りに両手を濯ぐと、ズボンのポケットからタオルを取り出し、同じように水にさらした。布に付着した黒ずみ汚れを、繊維を擦り合わせて落とす。そうこうしているうちに、ひそめる気もなさそうな会話が、蝉しぐれをすり抜けて、鯉登の耳へと入り込んできた。
「あいつじゃん。U-15代表のFWって」
鯉登の目はすうっと細まる。――またか。
先の一言を皮切りに、無遠慮なやり取りが増長していく。
「え、あそこの? かなりイケメンじゃね?」「イケメンで日本代表のストライカーって! 盛りすぎでしょ」「足長ぁ……」「イチネンだろ? 結構背ぇ高いな」「海外勢? ハーフ?」「いやニホンジンでしょ、たぶん」「確かコイトって名前」「Jユースのスカウト蹴ったらしいよ」「へー、なんで?」
名前も知らない赤の他人から、自分という人間を測られる不快感。
鯉登はきつく口の端を縫い留め、タオルの水気を絞った。相手にするだけ無駄だ。これまでの経験から、理解していた。水滴がしっかりと途切れたのを確かめ、この場を離れようと踵をかえす。部室棟へと続く歩道に差し掛かって――踏みとどまった。
「はー。私学のボンボンはいいよなぁ」
ただ他人を羨むだけの、何の悪気もなさそうな口調だった。
実際、害意はないこともわかっていた。普段であれば聞き流して、歯牙にも掛けないような、とうに聞き慣れてしまったからかい文句。
それでもこの時の鯉登には、その言葉は到底聞き流せるものではなかった。タオルを握りしめる拳が細かく震える。呼吸は浅く、ぎりぎりのところで塞き止めていた奔流が喉元までせり上がってくる。
今にも集団目がけて駆けだして行きそうな衝動を、しかし平らかな一声が押しとどめた。
「無駄口叩いてないで、さっさとグラウンド行くぞ」
はしゃいだ空気を諫める低い声の主は、鯉登の位置からは伺い知れなかった。黒い鴉の集団は呆気ないほどするりと鯉登から興味を逸らし、グラウンドの方向に向かって歩き出す。その後姿を、鯉登は苦々しい表情で見送った。
――そうしたことがあってから、ほんの十数分後。
部室棟でユニフォームに着替え、フィールドに向かう途中で鯉登は、例の七高の部員がスマートフォン片手に歩道脇に佇んでいるのを見つけた。既に着替えを済ませたらしい、上下とも濃紺のユニフォーム姿。俯き加減でスクリーンをいじっていて、他に連れらしき人影はない。
はじめ、鯉登は無視を決めこもうと思った。これから試合だというのに、馬鹿げた諍いで集中を切らすわけにはいかない。
しかし、その男の視線がスマホの表面を滑り、歩く鯉登の横っ面に不躾に投げ付けられていることを知覚したとき、それまで鯉登の中で抑圧され続けてきた感情が、突沸する水の唐突さで爆発した。
男の目の前まで来て、ひたりと両足が止まる。向けられていた視線がぱっと下ろされるのがわかり、いよいよ鯉登の敵愾心のタガは外れる。
「おい」
剣呑さをまったく隠さない語調で男に呼びかける。「お前」
男の眉がぴくっと動いた。ゆら、と鯉登を見上げる。深い黒目が印象的な、アーモンド型の目。
「……は? 俺ですか」
疑問文だが、語尾は低い。その低音に、先程集団を促した声はこいつか、と鯉登は察する。
均一に刈り上げられた坊主頭。迫力を与える頬の線。低い鼻っぱし。身長は178cmの鯉登よりも一回りほど低く、160cm代後半か。体格は、高校生ではあまり見ないほどに良い。ラグビー部でも通用しそうな太い首と腕が、ユニフォームの端から覗いている。発達した上腕筋。掴みかかられたら勝てないかもしれないな、と頭の隅で思う。
――だが、それがどうした。
鯉登は仁王立ちのまま、真正面から男の目を見据えた。
「さっきからじろじろ睨みおって。言いたいことがあるなら言え」
嫌悪感をあらわに言い放つ。
意図して不遜な物言いをした。無益なことをしている自覚はあったが、それでも止まれなかった。
躊躇いのない剥き出しの悪意をぶつけられた男は、鯉登の言葉に込められた意図を、あまさず正確に汲んだらしかった。つまり、”喧嘩を売られている”と。
男の黒目が不穏に据わる。物騒な目つきをするやつだ、と鯉登は思った。
「……べつに、睨んでませんが」
敬語の形を取ってはいたが、含められた感情が穏やかでないのは明白だった。
無言のうちに睨み合う。鯉登の肌がぴりぴりとあわ立つ。胃の底で渦巻く熱いものを、今この瞬間に一切合切吐き出してしまいたい。
ふと、男の二の腕に巻かれた黄色いバンドに目がいった。白く抜かれた”C”の文字。
――この男。七高のキャプテンか。
とすると3年生か。1年の鯉登よりも2歳は年上ということになる。思い当たった事実は、鯉登をひるませるどころか、かえって激情を煽ることになった。喉奥からせりあがってくる泥濘。
「……3年のくせに、ずいぶん子ども染みた噂話をするんだな」
「は?」
「お前キャプテンだろう。部員の言動くらい統率したらどうだ」
過分なほどに攻撃的な鯉登の物腰を受け、男の白目がすうっと青く透ける。
「……そういうアンタは1年らしいですけど。その様子じゃ、上級生の苦労が思いやられますね」
その言葉は、図らずしも鯉登の地雷を的確に踏みぬいた。
すとん、と鯉登の顔から表情が抜け落ちる。度を越えた怒りに、瞋恚の焔が照りはえる瞳を男に向ける。
「お前、ポジションは」
「センターバックですが」
「その身長でか? 冗談だろう」
男の頬にピキ、と青い血管が浮く。何かを言いかけて口を開いたところで、「月島ァ!」と遠くから呼ぶ声があった。見れば、眼前の男と同じ青いユニフォームを着た男が、こちらに向かって走ってくる。
「監督いたぞ! ミーティング始めるって!」
月島と呼ばれた目の前の男はチームメイトに顔を向けると、「おう。今行く」と端的に返す。そのまま去るのかと思いきや、鯉登にちらりと視線を戻した。
「……また後で」
低く呟き、スパイクの鋭い音を鳴らして走っていく。その青く広い背中を、鯉登はじっと見送った。
センターバック。守りの要となるそのポジションは、FWである鯉登にとって、まさに相対する敵となるに違いなかった。
ざわめく内臓を宥めるように、鯉登はユニフォームの白い布地を握りしめる。烈しい闘志がみなぎる身体をゆっくりと動かし、青い背中が消えていった方向へ歩き出した。
――あの男。絶対に叩きのめしてやる。
しかし、その決意は無情にも、午後の試合で完全に覆されことになる。