俺は三年ほど前から衛尉として後宮の門を守っている。
この歳にしてはなかなかの出世頭だと思う。女にも酒にも目もくれず鍛練に励んだ努力の賜物だ。
だというのに。
「はぁ……」
夕暮れに染まる路を眺め、大きなため息をこぼす。
「ははっ、今日も芍薬の君は現れなかったな」
共に門番を務める相方が、こらえきれないと言うように肩を震わせた。
そう、そんな仕事一辺倒だった俺にも春風が吹いたのだ。
想いを寄せる名も知らぬ麗人、「芍薬の君」は数日前に後宮を訪れた皇太子に付き添っていた女官である。
サラサラと艶やかな白髪に透き通るような白磁の肌、長い睫に縁取られた瞳は容姿からくる儚さとは反して理知的で強かな光を宿しており。月のような凛とした佇まいを花弁のような薄紅色の衣が彩っていた。
一目見た瞬間からその姿が脳裏から離れず、今もこうして恋患っているというわけだった。
「そこまでというなら、俺の知り合いに太子殿下の屋敷に勤めるものがいるから、この後飲みにでも誘おうじゃないか」
「それは本当か!?」
思わず身を乗り出してしまい、慌てて姿勢を正す。しかしせめてその名前だけでも知ることができたなら、と高鳴る鼓動は抑えられない。
『皇太子殿下はそろそろ十五になられるというのに、女性に関することがらには関心をお寄せにならない』と、後宮に出入りする宮女や宦官が頭を抱えていたのを見聞きしたことがある。
であれば芍薬の君も皇太子付きの高嶺の花であるとはいえ、まだ望みはある。
多くの宮女達は皇族に見初められることを目標として日々勤めているが、夢叶わず年数が経つとその大半は後宮を去り生家へと戻る。
皇族と比べてしまっては正に雲泥の差ではあるが、この都のなかでは俺もかなりの優良物件であるはずだ。彼女が暇を請うその時までに、なんとしてもかの心を射止めるしかない。
今宵がその第一歩と、酒場の戸をくぐる。
友が連れてきた男は皇太子殿下の屋敷で料理人を務めていると言った。自分も下級の使用人だから、そこまで詳しくは語れずすまないが、と前置いて男は席に着いた。
「白い女官か、確かに数日前に見かけた気がするな」
「そうか、やはりそちらに勤めているのだな。後宮で見かけたことはなかったから」
「いやしかし、私も殿下のもとに勤めて5年ほどになるが、彼女を見たのは初めてだ。常に人の出入りはあるから、最近召しあげられたのかもしれない」
そんなわけで名前もわからない、と申し訳なさそうに眉尻を下げる男に、気にするなと酒を注ぐ。
「それで……噂に聞く太子殿下は女性にあまりご興味を持たれない、というのは誠なのか」
「ああ、求められるのは書ばかりだそうだ。今のうちから未来の皇帝陛下に取り入ろうとしている女達が、何人追い返されてきたことか」
その言葉に安堵して、そうかそうかと上機嫌で杯をあおる。
「しかし気になることはひとつある。私が殿下の屋敷に勤める前から、殿下の食事は必ず二人分用意するようにと決められているのだ」
毒味のためか?と問えば、それは違うとはっきりと否定される。
何でもかつて皇太子の食事に毒が盛られていた事件があったという。その時は毒味役があたり大事には至らなかったものの、それが原因で使用人が入れ換えられることになり、男にも声がかかった。以後毒味も更に念入りに行われており、問題ないとわかったものを二膳用意するのだと。
「毎回しっかりと完食されて戻ってくるから、おそらく誰かと召し上がっておられるんじゃないかとな……それから」
君に言うのは心苦しいが早い方が傷は浅いか、と歯切れが悪くなった男に、なんだと身構える。
「例の宮女が殿下の部屋へ共に入られてから、一人で出てきたところを見ていないともっぱらの噂なんだ」
皇帝陛下の亡き皇后への溺愛は後宮では知らぬものは居ない話である。
二人からの悼みの視線を感じながら、親が親なら子も子かと、残った酒を舐めて天を仰ぐ他なかった。