ワンドロ1作目「涙 笑顔」ワンドロ1作目「涙 笑顔」
その時、僕はまだ小さな子どもであった。
周囲をメラメラと炎が燃え盛る。焦げた木材の匂いと天井が崩落する轟音が僕を襲い、震え上がるような恐怖が腹の底から湧いてくる。
子どもの頃、僕はまだ炎の選別というものを知らなかった。当然、その記憶の中で僕が感じたのは、死への恐怖と両親との別れへの悲しみだった。
炎に包まれていく幼い頃の思い出が詰まった家の中で、父と母の笑顔が浮かぶ。僕を暗闇の中に突き飛ばし、遠ざかっていく姿は、オレンジ色に輝いていて幻のようだった。
嫌だ!嫌だ!行かないで!
必死に手を伸ばす僕の手はあまりにも小さく、か弱く、何も守れない。そんな虚しさと、愛するものを失うことへの恐怖が、僕を絡め取って深淵の中へ引き摺り込んだ。
自然と左目から涙が伝う。その時、現実の僕も泣いていたのかもしれない。炎の選別という薫陶を受けて尚、僕は未だこうして幼い頃の記憶の中でわんわんと泣くことがあるみたいだ。溢れんばかりの涙の海の中に僕はドボンと音を立てて落下し、ぶくぶくと泡を吐きながら沈んでいった。水面には炎の灯りが反射していて、夜明けの海のようにきらきらと輝いている。それをぼぅっと見つめていると、ふわりと温かいものに頭を包まれる感覚を覚えた。柔らかく、繊細な手つきで頭がふわり、ふわり、と撫でられる。少し頼りない細さの何かが僕の後頭部を支えている。そこで僕の意識は浮上した。
ぼんやりと目を開けると、涙で瞼が湿っていて視界が潤んで見えた。寝起きの頭では現在の状況が上手く把握できない。しかし、何かが僕を覗き込んで、ゆっくりと、優しく、僕の頭を撫でていることはわかった。
だれ、と乾いた声で呟いてみると、その人は目を覚ました僕に少し驚いたような顔をした後、人差し指を唇に当てて「しー……」と囁いた。その人は片方だけしかない目を綺麗な三日月型に細めて、緩く口角を上げていた。
その笑顔を見て、僕は胸に温かいものがぽかぽかと湧いてくる気がした。ランプの灯りに照らされた彼は神秘的に、酷く美しく、そして可愛らしく微笑んでいる。彼はこんな風に笑う人であっただろうか。ぼやける思考を動かしていると、彼はほっそりとした指先で僕の目元を拭った。
「 Ať se vaše rány zahojí 」
なんて言っているのかは理解できなかった。発音からして彼の母国の言葉かもしれない。そうして彼は再び心地良い手つきで僕の頭を撫でるのであった。次第にうとうとと眠気が襲ってきて、瞼がとろとろと閉じていく。
ああ、駄目。もう少しだけ、彼の美しい笑顔を見ていたい。もう少しだけ、この心地良さに浸っていたい。
そんな意思とは無関係に、僕の意識はぷっつりと夢の中へと閉じていった。炎の悪夢は見なかった。瞼が閉じられる瞬間、その微笑みが人形師のマティアスのものであることは辛うじて理解できた。
次に目が覚めた時、僕はソファの上で一人横たわっていた。身を起こしてみると全身が仄かに軋む。変なところで眠っていたせいだ。
僕のお腹にはブランケットが被せられていた。荘園支給のものだから誰のものかは把握できない。しかし、眠る前に誰かの顔を見た気がする。そう、確かとても繊細でほっそりとした手をしていて、片方だけしか目がなくて……。
「目が覚めたみたいだね」
声をかけられて、僕はハッとなった。見ると、木製チェアに腰掛けて何かの本を読んでいたらしいマティアスが、僕の方を向いていた。
「もしかして、ずっとそばにいてくれたの?」
「本当は君なんか置いていっても良かったんだけど、皆が『誰かフロリアンさんが起きたら食事をするように伝えて』なんて言うからさ……要は押し付けられたんだよ」
「あはは……それはごめんね」
確かに僕のお腹はその瞬間ぐー……と間抜けな音を立てた。ゲームが終わった後、疲労に任せてソファで居眠りをしたことを思い出し、寝顔を見られていたという仄かな羞恥心も相まって、頬をぽりぽりと掻いた。
ブランケットを畳んでソファに置き、大きく背中を伸ばした。ゴキリと背骨が音を立てる。
「あー……よく寝たぁ」
「そう。それじゃあ、私はもう行くから……」
「あ、待って」
去ろうとするマティアスを呼び止めると、彼は訝しげに振り返った。いつもみたいに眉が下がっていて、不機嫌そうに目が細められている。
「ねぇ、マティアス」
「……何」
「僕が眠っている間、膝枕をしながら頭を撫でてくれていなかったかい?」
そう聞くと、彼の瞳が一瞬狼狽えたように揺れたのを見た気がする。しかしすぐに鋭い視線に戻ると、彼は溜め息を吐いた。
「私がそんなことすると思うのか?」
「でも、確かに君だったような気がするんだ。僕の頭を優しく撫でてくれて、微笑んでくれて……あの時の君は、すごく綺麗だった。天使様みたいだったよ。お陰で怖い夢を見ないで済んで……」
「……気のせいだよ」
マティアスはふいっと顔を背けると、そのまま僕を置いて出ていってしまった。遠ざかる彼の後ろ姿は颯爽としていて迷いがない。僕はしばらく彼の後ろ姿を見つめた。
あの時、確かにマティアスは僕を撫でてくれていた。海に溺れた船乗りを引き上げて、目が覚めるまで歌ってくれる人魚のように、慈愛に満ちた温もりがあった。あれは夢なんかじゃなかった。
あの笑顔がもう一度見たい。あんな風に僕を温もりで満たしてほしい。
僕は鼓動が高鳴っていくのを感じ取った。ぎゅ、と拳を握り、口元を覆う。
いつかまた、彼の笑顔を引き出してみせよう。その時まで、今はこのときめきに浸りながらゆっくりと彼へ想いを馳せていこう。
僕は勝手ににやけていく頬を押さえながら、食堂へ向かうために部屋を後にした。
テーブルの上に残された本に、小さな文字で書き込みがある。
「 Ať se vaše rány zahojí (君の傷が癒えますように)」