星空の中で君と社交ダンスを星空の中で君と社交ダンスを
見渡す限りの湖は湖面が鏡のように磨き上げられ、夜空に浮かぶ星々を反射していた。流れのない緩やかな浅瀬は歩行の邪魔をしない程度に足先を浸し、吹き渡っていく夜風は夏の蒸し暑さを洗い流すかのように澄んでいる。荘園にこんな場所があったなんて知らなかった。発明一筋21年。それでも美しい景色というものは心の保養になる。私はぴちゃぴちゃと浅瀬を踏みながら中央に誂えられた橋まで歩いて行き、しばし穏やかな時間を享受した。
橋の下では様々な参加者達が思い思いの相手と手と手を取り合って踊っている。荘厳な景色にふさわしい厳かな足取りで踊る男女もいれば、ただはしゃぎたいだけの賑やかなステップを踏む男連中もいる。ダンスホールから外れた場所では水飛沫を掛け合う仲良し集団も見られるし、ブランコで一休みする物静かな佇まいの者もいる。
ふとダンスホールの隅、誰も寄り集まらない目立たない場所で一人佇む人影に目を留めた。白雪の髪に白磁の肌は星空の下で煌めいていて、透き通ったルビー色の瞳が湖面を映して輝いている。おや、彼はこのような社交場に来るような性分だっただろうか、と訝しく思うも、彼は誰も見ていない場所でこっそりと、それはそれは楽しそうに湖面をぱしゃぱしゃしていた。銀河を反射する湖に立つ彼は、星空の中を歩いているような幻想的な錯覚を私に覚えさせた。誰も見ていないと思って油断して、頬が緩んでいるのが丸わかりだ。私は一人欄干にもたれかかりながら彼の様子を観察した。
アンドルーは近くに人が寄ってくると、わかりやすく身を固くしてこそこそと移動していた。ほとんどの人間はアンドルーのことを目に留めず去っていくのだが、彼はおっかなびっくりした様子で辺りを見回し、ようやく誰もいなくなると再び湖面に映る星空を見て一人小躍りするのだった。その様子があまりにも可愛らしくて、思わず笑みが浮かんでしまう。アンドルーのステップはお世辞にも美しいものとは言えなかったが、一人無邪気に星空の中で踊る彼はなんだかこの世のものとは思えない美しさを感じさせた。
不意に彼はスッと顔を上げた。遠くのものを見るような目つきで空を見つめている。彼らしくもなく背筋をぐっと伸ばし、何かをじぃっと見つめ続けている。私と彼の間に水が打たれたような静寂が流れる。私はドキリと胸が高鳴るのを感じた。アンドルーがこのまま星屑となって消えてしまいそうな、焦燥感が私を襲った。彼はふっと目を伏せ、夜空に向かって背伸びする。気づいた時には私は橋の上から駆け出し、手に手を取り合って踊る男女を突き飛ばしてアンドルーに手を伸ばした。
「アンドルー!」
パシッ、と彼の腕を掴む。彼は目をパチリと開き、驚いた顔で私の方を振り返った。
「ル、ルカ?ど、どうしたんだ、いきなり」
彼のキョトンとした顔を見て、息を切らしている私は「……私は何をしているんだ?」と聞き返した。「な、なんだよそれ……」とアンドルーは溜め息を吐く。実際、私は何をしているのだろう。何をこんなに焦っていたのか。
「……き、君は何をしていたんだい?」
「え?ああ……流れ星が、見えたんだ」
彼は人差し指で湖面を指差し、「湖に映ったから、空を見てた」と言った。
「アンタも知ってるだろ。僕は目が弱いから、普段は星が見えないんだ。でも、ここの星はこんなに大きい。湖に映ってるから、こんなに近くで星が見られる。その……ここなら人の邪魔にならないと思って、見てたんだ」
彼は照れ臭そうに頬を掻いた。私は呆然とその様子を見て、それから大きく息を吐いた。「なぁんだ……」と口から声が漏れた。
「なんなんだよ、アンタ。じ、邪魔はしてないだろ」
「邪魔とは言っていないよ。ただ……」
君が消えてしまいそうだったから、とは言えなかった。アンドルーは不思議そうに首を傾げ、その後ろを流れ星が尾を引いて滑っていくのが見えた。「なんでもない、なんでもないよ」と私は両手を上げる。
「なぁ、せっかくだからちょっと踊らないかい?」
「え?で、でも僕、踊ったことないぞ」
「私の動きに合わせて足を動かすだけでいい。それがいい、そうしよう!」
「お、おい、ちょっと待てっ」
私はアンドルーの手を引き、ダンスホールに連れ出した。足をもつれさせながらついてくるアンドルーを向かい合わせで立たせ、手を取って彼の腰に手を回した。ちょうどダンスホールからは人気が引いていて、男同士で踊ることにヤジを飛ばす厄介者はいなかった。
「な、僕が女役なのか!?」
「だって君、リードできないだろう?大丈夫、私に万事任せておきたまえ」
お喋りな口を黙らせるためにBGMに合わせて足を踏み出すと、彼は慌てて私に縋り付いてきた。なるほど、確かに全く慣れていない彼のためにゆっくりと動いてやる。「ル、ルカ」と不安そうに見つめるアンドルーは、私より上背が大きいはずなのに、なんだか守ってやりたくなるような儚さを感じた。
「ほら、ご覧」
くるりとアンドルーを回して背中を支えてやり、天を見上げた。同じようにアンドルーも顔を上げる。空には満天の星が広がり、今にも落ちてくるみたいにきらきらと輝いていた。誰かが打ち上げた花火が宵闇を彩り、鮮やかな火花が湖面に反射する。
「私は社交パーティーなど興味はなかったが」
飲み込みの早いアンドルーはだんだん私の動きに合わせて自らステップを踏むようになってくる。彼の手を離さないようにしっかりと繋ぎ止めてやりながら、引き寄せて顔を覗き込む。
「こんな風に君と踊れるのなら、ダンスレッスンを受けたのも無駄じゃなかったということだな」
そう言うと、彼はクスッとおかしそうに笑った。
「気障な奴」
「おや、そうかい?」
「そういうのはもっと綺麗な女の子とかに言ってやれよ」
「私がこんな気障な台詞を吐くのは君の前だけだよ」
「やめてくれ、腹が捩れる」
最後のステップを踏み終えると、アンドルーは私の腕に抱かれたまま私を見上げた。彼の手のひらが私の頬に添えられる。
「でも、こんな綺麗な場所で踊れるのは、悪くない気分だな」
アンドルーの背後には、湖面に映る星空が広がっている。散りばめられた宝石のような輝きの中に抱かれるアンドルーは、罪深い私に遣わされた天使のように美しかった。思わず彼の背中を服越しに弄り、翼の痕跡がないかを探ってしまう。「おいやめろ、くすぐったい」と彼は身動ぎし、私の腕の中から抜け出してしまった。
「ゲームの息抜きにまた来てもいいな」
アンドルーは再び空を見上げた。彼の髪を涼やかな風が掬っていく。私は傍らに立って「そうだね」と言った。
「次もまた私と踊ってくれるかい?」
「今度は僕が男役がいい」
「そうか。なら君がリードできるようになるまで私が教えてあげよう」
「……アンタ僕に男役を譲る気ないだろ」
「はは、バレたか」