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    BlueFish_DC

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    BlueFish_DC

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    書きかけの🦁🌸
    多分これで半分くらいにはなるはず…後半を書き上げたらpixivに上げたい所存です。
    タイトルも何も決まってないしなんならオチも決まってない

    以下、数点ご注意ください。
    ・死=幸せであるという描写と、死、自殺を思わせる描写があります。それらを推奨する意図はありません。
    ・名前有りのオリジナルキャラが出ます。
    ・スワヒリ語、ズールー語を古い言語とする描写があります。

    未定 何か得体のしれないモノの、深い息遣いが聞こえる。
     吸って、吐いて。吸って、吐いて。深く、長く。
     自分の呼吸とは合わないそれは、音だけで形を持たないというのに何故か私のことをじっと見つめているような恐怖があった。
     呼吸が、私を見つめている。私からは見えないところで、私のことをじっと見張っている。監視している。そんな恐怖から私の呼吸は徐々に乱れ、刻み、細かく速くなっていく。ますます、私を見ている呼吸とずれが生じていく。速い自分の呼吸と、深く長い何かの呼吸。身震いする。
     そもそも、ここはどこだろう。辺りは一面闇に包まれていて、どこに視線を向けても何も見えなかった。声を出してみようと口を開くものの、舌はからからに渇いていて言葉を紡ごうとしても喉が張り付いて音にならない。声が出ない。声にならない。呼気が震えて、私はそっと口を閉じる。足は動くだろうか。足を持ち上げようとして、失敗した。触れられている感触はないのに、何かに足を掴まれているようで動かすことは出来ない。
     見られている。姿は見えないのに確かな気配を感じる。得体の知れない何かが、私を見つめていることを理解している。噤んだ唇を噛み締めて、私はその視線から、気配から逃れるように息をひそめた。自分の呼吸が聞こえなくなって、深く長い呼吸が余計に耳障りになる。
     怖い。ここは一体どこで、私はどうしてここにいるのだろう。こんな場所に自分で来た覚えはない。気がついたらここに立っていた。ここにいた。ここに来る前何をしていたかも、思い出せない。

    ――前へ、

     声がする。地の底を這うようなおぞましい声が、私を前へと促した。
     先程まで全く動かなかった足が、私の意思とは関係なく動き出す。滑らかに前へ。闇を踏んで歩き出す。嫌なのに、進みたくないのに、足はまるで私の言うことを聞いてくれない。前へ、前へ。
     気付かないうちに、私はあるものに引き寄せられているようだった。いつしかぼんやりと闇の中に浮かんでいたのは、大きな断頭台。ギロチンと呼ばれる四角い枠が、大きな口を開けて私を誘っていた。不気味なのに荘厳で、恐ろしいのに不思議と美しく、私は呼吸を忘れて見入る。魅入られる。

    ――前へ、前へ、前へ。

     あぁ、きっとこれは夢なのだろう。恐ろしい悪夢。
     私の意思とは関係なく膝をつく。何かの許しを請うように頭を垂れて、断頭を今か今かと待っている大きな口へ。これは夢だ、わかっている。あまりに現実味がなく、けれどだからこそ恐ろしい。
     これは夢、悪い夢だ。
     この悪夢を終わらせるには、この悪夢から抜け出すには、きっとこれ・・しかないのだ。

     目を閉じる。頭と体が分かたれる音を最後に、意識は夢の闇に溶けた。



    「わぁぁぁぁっ!!」
    「ふなぁぁぁぁあッ!!」

     大きな声を上げながら飛び起きる。私が体を起こした拍子にベッドから転がり落ちたらしいグリムが、床にべしゃりと潰れるのが視界の端で見えた。ごめん、悪気はないんだ。
     ここは、オンボロ寮。私とグリムの寝室。部屋の中は明るくて、窓から朝の光が差し込んでいるいつもの景色。この世界にきた当初は目が覚める度に見慣れない室内に落ち着かなかったけど、今となってはすっかり我が家というか落ち着く場所のひとつである。
     私の大声に姿を現してふよふよと近寄ってくるのは、このオンボロ寮で一緒に暮らすゴースト達だ。ゴースト達は私のベッドを取り囲み、心配そうな顔をして各々口を開いた。

    「今日もまた変な夢を見たのかい?」
    「毎朝ぐっすり眠っているグリ坊とお前さんを起こすのが楽しみだったんだがなぁ……」
    「ここのところ毎日じゃないか。悩みでもあるのかい?」

     ゴースト達は私やグリムを驚かすことを楽しみにしている割に、私やグリムの様子が本当におかしい時はこうして心から心配してくれる。オンボロ寮で生活することが決まった当初は彼らともいろいろあったけど、一緒に生活するうちに立派な家族である。
     まぁ、翻訳薬を服用する前だから何を言っているかは曖昧にしかわからないのだけど。
     私はばくばくと暴れる胸元を押さえながら、ゴースト達の顔を見回してからゆっくりと息を吐き出した。

    「……お、はよう」
    「うんうん、おはよう」
    「今日も良い天気だよ。でもお前さんの心は良い天気じゃなさそうだ」
    「コブン、オマエほんとに最近おかしいんだゾ。……大丈夫か?」

     ゴーストに抱え上げられたグリムにまで心配される。いつもなら自分に被害があったらまずそれについて文句を言うのに、グリムは私のせいでベッドから転げ落ちたことには触れずにじぃと私のことを見つめている。……まんまるな目に見つめられると癒されるけど、彼は心から私のことを心配してくれているのだろう。
     一度深く息を吸って、それからゆっくりと吐き出す。うん、大丈夫。

    「……へいき、げんき!」
    「平気でも元気でもなさそうだから言ってんだゾ!」

     ぐっと手を握り締めながら元気に声を上げたら、少し怒った様子のグリムに頭を叩かれた。
     これは猫パンチなのだろうか。……なんて言ったら口を利いてくれなくなりそうなので、黙っておいた。




    「元気っつってもさぁ、実際寝不足なんじゃねぇの? さっきも魔法史の授業寝かけてただろ」

     パスタをフォークでくるくると巻きながらエースが言った。頬杖をつきながらパスタを巻きつつ視線はこちらに向けているその様子は、お世辞にもお行儀が良いとは言いにくい。とは言え、見ないままフォークを動かしているというのにソースが一切飛び散っていないのは器用だなと思う。今日のエースのランチはミートソーススパゲッティだ。私なら今頃シャツには赤いシミが飛んでいることだろう。変なところに感心しつつ、私は齧りかけのサンドイッチに視線を落とした。

    「トレイン先生の授業はいつだって眠いもん」
    「開き直んなよ、そうだけど」
    「寝かけてる監督生の隣でグリムは爆睡だったけどな」
    「ツナ缶たっくさん食べる夢を見たんだゾ」
    「そういう問題じゃねぇって言ってんの!」

     パスタが巻き付いたフォークを私に突き付けながらエースが怒鳴る。彼の視線から逃れるようにサンドイッチを口に運んで咀嚼した。厚切りハムとマスタードマヨネーズ、それからシャキシャキのレタスがいい塩梅でとても美味しい。NRCの食堂のメニューは種類も豊富で味も申し分なしだ。
     ちらりと視線を上げて向かいのエースを見たら、もぐもぐと口を動かしながらじっと私を見つめていた。ちょっと気まずい。

    「……本当に元気なんだよ。悪い夢を見るだけでしっかり睡眠時間は確保してる……と思うし。夜中に目が覚めたりすることはないもん。朝まで熟睡」
    「悪夢を見てる時点で残念ながら熟睡ではねぇんだよなぁ」
    「悪夢って、どんな夢なんだ? 怖い夢か?」
    「それがあんまり覚えてないの。ただ、夢から覚める方法はわかってる」
    「夢から覚める方法って何なんだゾ?」
    「夢の中で死ぬこと。多分」

     エースとデュースとグリムは揃って複雑そうな顔をした。そんな顔をされると私がおかしいみたいに思えてくる。……いや、おかしいのかもしれないけど。でもさすがにそんな可哀相なものを見るような目をされると心が痛む。
     ゆっくりと私の言葉を咀嚼したらしいデュースが、おずおずと口を開いた。

    「……夢の内容はあんま覚えてないのに、夢の中で死ねば目が覚めるってことだけはわかってるってことか?」
    「えーっと……つまり監督生は毎晩夢の中で死んでるって? やば」
    「それは……なんというか、その。……大丈夫なのか?」
    「大丈夫だったら毎朝大声上げながら起きたりしないんだゾ」
    「そ、そんな変人を見るような目をしないでよぅ……!」

     畳みかけるように言われても困る。私だって見たくてそんな夢を見てるわけじゃないし、死にたくて夢の中で死んでるわけじゃない。
     先程言った通り、夢の内容としてはほとんど何も覚えていないのだ。暗くて怖くて身動きがとれない、ということだけはなんとなく意識として覚えているけど、どんなものを見ただとか何が出てくるだとか、夢から覚める手段である自分の死に方も覚えていない。
     だから、〝多分〟なのである。夢から覚める時はいつも死んでいる、という気がするだけ。……もちろん私は今生きていて当然死んだことなどない為、余計に〝多分〟なのだけれど。そう考えると私の証言なんて何の正確性もない。

    「とは言ってもな……。誰かのユニーク魔法だったり? 悪い夢を見せる魔法とか」
    「何それ、監督生に対する嫌がらせ的な? まぁないとは言い切れないけどさぁ」

     エースの言うことも一理ある。NRCに入学した当初は、魔法が使えない生徒なんてとからかわれたり、いじめという程ではないが絡まれたりしたことはある。でもここ最近はそんな目立つことをされてもいないし、私の学園ライフは平和そのものである。立て続けにオバブロ事件に巻き込まれていることを除けば、ではあるが。
     自分が恨みを買うような生き方をしているとは思っていないけど、とは言えそれでも私はこの学園において特殊な立場だ。いるだけで目障りだと思う人だって、きっと中にはいるだろう。

    「心配してくれてありがとう。でも本当にね、そんな大げさな話じゃないんだよ。悪い夢を見るってこと以外は特に何もないし」
    「大声上げながら目を覚ますんだろ」
    「……それは、ごめん。グリム」
    「まったくだゾ」

     グリムの気持ちの良い目覚めを邪魔してしまっていることは心苦しいけど、でも体は元気だし今のところ生活する上で支障があるわけじゃない。何も問題はない。

    「監督生に自覚がないだけかもしれねぇけどさ。オレ達に出来ることなら協力くらいはするし」
    「悩みがあるなら、誰かに話すだけでも楽になるかもしれないしな。僕達で良ければ聞くぞ」
    「そーそー。何かあるなら、一人で抱え込むなよ? ただでさえ監督生にはグリムがいて大変なんだし」
    「やいエース! どういう意味なんだゾ?!」

     やいのやいのと言葉を交わす彼らを見ながら自然と頬が緩む。心配させてしまって申し訳ないと思うと同時に、持つべきものは友だなぁなんて呑気なことを考えた。
     それでも。友達にも、話せないことと言うのはある。
     最近あった、少し変わったこと。でもそれは誰にも話しちゃいけない内緒の話だ。私とだけの秘密。だから、何も問題はない。



     ***



     放課後になり、ハーツラビュルに遊びに行くというグリムを見送ってから一足先にオンボロ寮へと戻ってきた私は、出迎えてくれるゴースト達への挨拶もそこそこに菓子パンを手にオンボロ寮を出た。菓子パンは帰りにサムさんのお店で買ってきたものだ。
     エースやデュースにはグリムと一緒に来ればいいのに、と言われたけど、私には放課後に絶対に外せない用事がある。内緒の用事なので誰にも言ったことはない。内緒の秘密。大切な用事。
     向かったのは、オンボロ寮の裏手の森の中だ。オンボロ寮の周りには何もないし、この辺りは先生も学生も寄り付くことはない。森に人の手が入った痕跡はなく、ここ数年どころか数十年単位でほったらかしにされていることは明白だった。学園の敷地内の森だし、さほど広くもないから迷子になることもない。ただ、昼間でも少し薄暗くひんやりしているのがちょっとだけ不気味だった。

    「おーい……、……パン持ってきたよー……いないのかな」

     ゆっくりと間延びした声で呼びかけてみるけれど返事はない。しんと静まり返った森の中で、時折風に吹かれた木々がさやさやと音を立てている。チチチチ、と鳴いているのは小鳥だろうが、姿は見えなかった。
     ……確かに、いつもいるわけじゃない、とは言ってたけど……でも私が足を運ぶと毎日顔を見せてくれていたのにな。今日はどこかに出かけているのだろうか。もう少し探して見つからなかったらオンボロ寮に戻ろうか。そんなことを考えながら一歩踏み出した時だった。

    「わっ」
    「わぁあっ!!」

     突然耳元で声がして飛び上がった。慌てて耳を押さえて振り向けば、ふよふよと宙に浮きながらくつくつと笑いをこらえている小さな生き物がいる。
     見た目は人間と大差ないけど、その背丈は大体二十センチくらい。背中には半透明の羽が生えていて、ほんのりと光っている。彼の髪はチョコレートを思わせるような焦げ茶色で、緩くウェーブしたショートカットだ。日焼けしたような少し濃いめの肌は、きっと太陽に愛された証。
     彼は肩を揺らしながら私の目線まで浮かび上がると、そのままふわりと近寄ってきて私の鼻先にちょんと触れた。

    「そんなに驚くことかよ」
    「び、びっくりするよ……! 急に脅かしてくるのはやめてって言ってるのに」
    「悪いなァ、人を脅かすのが妖精なもんで」
    「言ってることがまるでゴーストだよ」

     悪びれもしない小さな妖精は宙に浮いたまま足を組んで肩を竦めた。

    「パン持ってきたよ。一緒に食べよう」
    「今日のパンは?」
    「キャラメルとチョコソースのかかったシナモンロール」
    「全部盛りって感じだな」
    「でも好きでしょ?」
    「嫌いじゃない」

     素直じゃない口ぶりだって慣れたものだ。本当は喜んでくれていることを私はちゃんと知っている。
     いつもの通り近くの岩に腰を下ろすと、彼は私の肩に腰を下ろした。
     このツイステッドワンダーランドという世界に落ちてきてそれなりの時間が経って、それなりの常識くらいは私にも理解出来るようになった。けれど彼は妖精という違う種族だからか、更に深く面白い話を聞かせてくれる。ひとつのパンを分け合い一緒に食べながら彼の話を聞くのが、ここ最近の私の楽しみだった。
     彼が飽きないように、総菜パンや菓子パンのバリエーションを変えながら持ってきている。甘いのもしょっぱいのも食べてくれるけど、味が濃いめのものの方が好きなようだった。

    「どう? 美味しい?」
    「悪くねぇ」
    「良かった。……ねぇ、妖精って太るの?」
    「人間とは蓄え方が違う。少なくとも俺の種族は肥えて丸くなることはねぇな」
    「カロリー爆弾を食べても太ることがないなんて……羨ましい」

     キャラメルとチョコソースが濃厚なシナモンロールは、いかにもカロリー爆弾ですという甘さをしている。弾力のあるもちもちの生地に歯を立てれば、強い甘さの後からシナモンのスパイシーさが香る。めちゃくちゃ美味しい。カロリーが高いものは大体間違いなく美味しいのである。


     妖精の彼との出会いは、大体十日ほど前のことだ。たまには学園内であまり踏み入らない場所を散歩しようと思い立ってオンボロ寮の裏手の森に入った私は、たまたま、本当に偶然、一本の木の根元に落ちている小さな生き物を見つけた。
     その姿は、以前フェアリーガラの時に目にした妖精と同じ生き物のように見えた。ツノ太郎も妖精らしいけど、ツノはあるけど妖精の羽はないし、大きさも小さくないし、むしろすごく大きいし、私が思う〝妖精〟というもののイメージからは離れている。この世界では、妖精にもいろんな種類がいるのだと知った。
     木の根元に落ちていた生き物は、ぱっと見は息をしているのかどうかもわからなかった。羽は泥で汚れてしまっていて顔の色も悪く、血の気が引いているように見えたから。手のひらに掬ってみたら小さく身動ぎしたため、私は妖精は生きていると判断して介抱することに決めた。翻訳薬が妖精の言葉にも有用であることはフェアリーガラの時にわかっていたから、意思の疎通に困ることは無かった。
     グリムやゴーストのみんなにばれないように、彼を匿う場所には難儀した。寝室はグリムもゴースト達も出入りするし、談話室も同じ理由から却下。キッチンは基本あまり使わないし、使ったとしても私しか使わないけど、それでもグリムの好きなツナ缶を置いてる場所なのでうっかりばれないとも限らない。オンボロ寮に部屋自体はたくさんあるが、その殆どは鍵が壊れていて開かなかったり、または物置になっていたり、或いは埃だらけのまま放置されている部屋だったりして、そんな場所に彼を押し込む気には到底なれなかった。
     悩みに悩んで、バスルームの戸棚に匿うことにした。グリムには届かない上の方にある戸棚。しまってあるタオルの上に彼を寝かせて、私は朝と夜の日に二回彼を介抱した。介抱と言っても私に出来ることは食べ物と水を運ぶこと、それと怪我の手当くらいなものだ。それでも彼はみるみるうちに回復し、三日後には言葉を交わせるようになった。回復して真っ直ぐに私を見つめた時の彼のマラカイトグリーンの瞳は、吸い込まれるほどに綺麗だった。

    「あなたのことを、なんて呼んだらいい?」

     もくもくとパンの欠片を齧る彼に声を掛けたら、彼はちらりと私を見てぺろりと唇を舐めた。その仕草に、何故かどきりと胸が跳ねる。

    「俺のことか? マウティだ」

     そんな私に気付いているのかいないのか、彼は目を細めてやけに妖艶に笑った。
     彼は、レオナ先輩によく似ていた。濃いめの色をした肌も、焦茶色の髪も、マラカイトグリーンの瞳も。それが理由なのかはわからないけど、私は彼に強い親近感を覚えたのである。

     誰かに妖精のことを話す気にはなれなかった。私一人で対処するより、エースやデュース、他にも頼りになる先輩達に相談した方が良いなんてことは頭では理解していたけど、何故だか〝口外してはいけない〟と強く思った。
     誰にも、何も言わない。だって彼を見たのは私だけだから。私だけが彼を助けてあげられるから。彼には私だけだから。
     だって私には、マウティだけだから、



    「何ぼーっとしてやがる」
    「えっ」

     突然声をかけられて体が跳ねる。視界に入り込んだ小さな妖精は、ややむっとしたような表情で私のことをじっと見つめていた。
     怪我も治ってすっかり元気になった彼は、オンボロ寮の裏手の森に住み着いたようだった。居心地が良いとの事。学園を好きに飛び回っているからいつもここにいるわけではないそうだが、何だかんだで基本的にはここにいるようだった。

     私は食べ掛けのパンを両手で持ったまま、ぼんやりとしてしまっていたらしい。……グリム達には大丈夫だと答えたけど、自分で感じていないだけでもしかしたら寝不足の疲労とか、あるのかもしれない。軽く頭を振って、笑みを浮かべながら妖精に向き直る。

    「大丈夫、なんでもないの」
    「なんでもない、なんて顔じゃねぇな。鏡見るか?」

     呆れたような口調や言葉尻は、先日までお世話になっていたサバナクロー寮の寮長を思い起こさせた。オクタヴィネル寮寮長のオーバーブロット事件はつい先日のことだ。
     オンボロ寮を追い出された私とグリムは、サバナクロー寮に転がり込むこととなった。成り行き……というよりはジャックの厚意があって、ラギー先輩が助け舟を出してくれて、レオナ先輩が渋々頷いてくれて……という流れだったけど。成り行きと言うにはあまりにも強引が過ぎる。
     レオナ先輩の部屋で寝泊まりさせてもらったのは三日だけ。いろいろと協力してもらって、私個人としては少しだけ……本当に少しだけだけど、距離が近付いたような気がしている。テスト勉強を見てくれたこともあるし、レオナ先輩は何だかんだ後輩の面倒見がいいのだ。
     そんな風に私が感じているからか、マウティはどこかレオナ先輩に似ている雰囲気を持っているように思う。レオナ先輩ほど大人びてはいないけど、もしかしたらNRCに入学した当初のレオナ先輩はこんな感じだったのかななんて想像している。

    「鏡なら毎朝見てるよ、大丈夫」
    「なら、自分がいかに酷い顔をしてるかも理解してるんだろ?」
    「んー……」

     煮え切らない返事しか出来ない。
     彼の言う通り自覚はあった。そのままでは隠し切れなくなった隈を誤魔化すために、ミステリーショップでサムさんにコンシーラーを売ってもらったのは一昨日のこと。私の目の下の隈を見たサムさんは、「君に必要なものは秘密の仲間に聞かなくてもわかる」と困ったように笑いながら、ヴィル・シェーンハイト先輩のお墨付きだというコンシーラーを出してくれた。
     コンシーラーを購入した後、深くは聞かないでいてくれたサムさんは「コンシーラーじゃ根本的には解決しない。悩みがあるなら周りに相談したりするのも大切だよ、子鬼ちゃん。よく眠れますように」と諭すように言い、ぽんぽんと子供にするように私の頭を撫でた。
     確かにそのコンシーラーは自然に隈を隠してくれている。けれど隈は隠せても、感じる疲労感までをも誤魔化すのはなかなかに難しい。とはいえ、サムさんの言うように相談してどうにかなるようなものでもない。
     夢見が悪い。寝起きは最悪。グリムやゴースト達にはすっかり迷惑も心配もかけてしまっているし、今日はエースやデュースにも心配されてしまった。彼らは多分、もう少し前から私の様子には気付いていたんだろうな。それでも今日まで触れずにいてくれたんだろう。それは彼らの優しさだ。
     でもただ夢見が悪いだけ。ちゃんと寝てるし夜中に目を覚ますようなこともない。食欲が落ちたということも無く、朝昼晩と三食きちんと食べている。夢見が悪いせいで少し疲れていて、寝た気がしないだけ。精神的に疲労していることは否めないが、体は元気なはずだ。
     ちらりと肩に視線を向ければ、マウティはじっとこちらを見つめていた。ひらひらと動かしている羽が頬に触れてくすぐったい。

    「……最近変な夢……というか、悪夢をよく見る、んだよね」

     グリムにもエースにもデュースにも話していることだ。マウティにだって話してもいいだろう。そう思った私の口は、自然と素直な言葉を吐き出していた。

    「夢の内容自体はあまり覚えてないんだけど……その悪夢から覚める方法は、多分夢の中で死ぬことで」
    「へぇ?」

     マウティの声は、どこか愉しそうだった。エースやデュースが話を聞いてくれた時とは真逆の声音だ。

    「だからかな。体は元気なんだけど、なんか少し疲れちゃってるのかも」
    「いいじゃねぇか。自分が死ぬ夢は吉夢だぜ」
    「……そうなの?」

     ぱちりと一度目を瞬かせてマウティを見つめ返す。彼は私の肩の上でゆるりと足を組むと、そこに頬杖をつきながら軽く首を傾げて口角を上げた。それからゆっくりと唇を動かす。

    「ウクファ クヨフィカ」
    「え?」

     耳に馴染まない言葉に思わず聞き返す。翻訳薬の効果が切れるにはまだ早いのに、マウティの言葉は全く意味がわからなかった。きょとんとしている私がおかしいのか、マウティはくつくつと肩を揺らしながら笑っている。

    「うく……なに?」
    「ウクファ クヨフィカ。古い呪文だ、翻訳できないのも無理は無い」

     翻訳薬は万能だと思っていた。妖精の言葉ですら翻訳できるのに、まさか翻訳できない言葉があっただなんて知らなかった。戸惑いも大きくて何も言えないでいる私に、マウティは何てことは無いとでも言うようにひらりと指先を振る。

    「幸せが訪れるだろう、って意味だ。大丈夫さ、お前は救われる。寝る前に唱えるといい」
    「……幸せ、かぁ」

     私は別に不幸では無いんだけど、と思いかけて、本当にそうなのだろうかと思考が止まる。
     自分の暮らしていた世界とは全く違う異世界に突然落とされて、そこは言語も違う世界で、知り合いもなく目まぐるしい毎日で。
     ここで出会えた人との縁は間違いなく私にとっての幸運ではあるけど、それは恐らく私の状況から見れば「不幸中の幸い」というやつだ。異世界に落とされたなんていう大前提が、そもそも不幸でしかない。
     夢を見なかった私が、この世界に来てからは多く夢を見るようになった。不思議な夢や悪い夢はよく見るけど、楽しくて幸せな夢というのはあまり見ないような気がする。それは自分自身の状況を表してもいるようで、私は不幸ではないと思う反対側でもう一人の私が首を傾げている。
     私は別に、幸せでは無いのだ。ただ、絶望に苛まれる程の不幸ではない、というだけで。

    「幸せ、来るかな?」
    「来るさ。……ああ、もう近付いてきてるかもなァ?」

     残っていたパンを平らげて、マウティが笑う。
     目を細めて笑うその顔は、やはりどこか妖艶で、レオナ先輩を思わせるのであった。





     折り入って頼みたいことがあるのです。そんな言葉と共に学園長がオンボロ寮にやってきたのは、授業もない休日のこと。いつもよりも少しだけ寝坊をして、朝よりは昼に近い時間に遅い朝食をとって、さて勉強でもしようかと談話室で寛いでいた時のことである。
     突然の訪問者に、談話室をふわふわ飛んでいたゴースト達はさっと掻き消える。グリムはいない。エース達とマジフトの練習をするのだと喜び勇んで、朝食を食べたらすぐに出て行ってしまった。戻って来るのは、多分夜になってからだろう。
     ソファーに座ったままオロオロとしている私に構わず、学園長は手に持っていた杖で2回強く床を叩き、それからテーブルを挟んで私とは反対側のソファーに腰を下ろした。パチンと指を鳴らした瞬間、テーブルの上にはティーセットが用意される。ふわりと漂う豊かな香りは、多分それなりに高い茶葉だと思う。

    「少々困ったことになっている上に、初動が遅れてしまいました。監督生くんには、とある古い聖典を探して欲しいのです」
    「古い聖典?」
    「ええ。少し長い話になるのですが」

     曰く、その古い聖典は「夕焼けの草原」のものであるという。とある信仰の象徴としてその昔はとても大切にされていたそうで、後世に伝わるうちに本来の信仰自体は失われているものの、今に残る宗教に大きな影響を与えたらしい。

    「聖典の内容自体は人の手により書き写されてそれなりに広まったようですが、それらレプリカは消失して現代には残っていません。残っているのは唯一、原初の聖典ただ一つ。その信仰自体、いつ頃からあったものなのかかなり曖昧でして……軽く見積って二年、もしかすると五千年ほど昔の代物ではないか、なんていう噂も」
    「五千年?!」

     思わず声を上げてしまい、慌てて口を押さえる。
     この世界において五千年という時間がどれほどのものかはわからないが、私の世界で考えれば紀元前のこと。そんな古い書物が、この現代に残っているのはやはり魔法の恩恵なのだろうか。

    「その聖典がこのNRCに持ち込まれたのは、私が学園長に就任して少ししてからのことでした。かつては聖典自体に劣化防止の魔法もかけられていたのでしょうが、長い時が過ぎるうちに当然魔法は弱くなる。私が見た時には、紙自体が持っている特性を生かして劣化を防ぐしかない状態になっていました」
    「紙自体が持っている特性?」
    「聖典は特殊な紙で作られているんです。魔力を蓄え、腐敗や劣化を防ぐことが出来る素材です。魔力を蓄えるには、魔力が充分に満ちた場所か…或いは、魔力の流れが活発な場所に置く必要があった。ですから、ここ・・が選ばれたのです」

     NRCは魔法士養成学校。魔力の流れは申し分ない上に、特別な時以外は関係者以外立入禁止の囲われた場所。聖典を保護する場所としては最適な場所のひとつだったんだろう。
     だがそこまで聞いて、ふと首を傾げた。

    「……ん? NRCが選ばれたということは、ここで保護……保管しているんですよね?」
    「はい」
    「……学園長は私に何を探して欲しいと…?」
    「その聖典を」
    「どうして?」

     間髪入れずに「どうして」と言ってしまったのは許して欲しい。だって、この学園で保管しているということはこの学園にあるということだ。それを探して欲しいなんて矛盾もいいところではないのか。そんなすごい聖典がこの学園にあるということにも驚くが、それを探して欲しいという意味のわからなさの方が上回った。
     ぱちぱちと目を瞬かせる私を見て、それまで真剣な面持ちで話をしていた学園長は何故だかにっこりと笑った。

    「いやぁ、何せここに持ち込まれてから随分と長い時間が経ってしまったので。どこに保管したかすっかり忘れてしまったんですよ」

     あぁ困りました、困りましたねぇ。全然困っているとは思えないようなトーンで言う学園長を前に、私は開いた口が塞がらない。

    「どこに保管したか忘れてしまったって……それ、とてもまずいのでは」
    「ええ、ええ! ですからあなた達に探して欲しいのです。私の心当たりは全て探しました。学園の備品室や保管庫、図書室も! ずっと探していたものが思いがけず見つかったりと私個人の収穫はありましたが、目当ての聖典は見つかっていません」

     残るは、と学園長が言葉を切った。
     ぴ、と立てられた人差し指が、上を示している。私の視線は学園長の指を辿り、談話室から伸びる階段を進み、やがて二階の奥へと続く廊下で止まる。二階…上階?

    「まさか」
    「そのまさかです! あとはもうオンボロ寮くらいしか心当たりがないんですよ。ほら、色んなものを詰め込んでしまっていますので。よくわからない物置になっている部屋がいくつかあるでしょう? あの辺にもしかしたら置いたかもしれないなーなんて」
    「……あ、」

     曖昧すぎる……!
     確かにオンボロ寮には未だに片付けが行き届いてない部屋があるし、その中にはよくわからない物置と化してる部屋もある。最初の頃は「宝探しだ!」と意気込んでいたグリムも、しばらくすれば飽きて興味も示さなくなった。物置部屋の中にあるものはほとんどがただのガラクタに見えるけど、時々見るからに魔法の道具のようなものもあるし、骨董品のようなものや、もしかしたら価値がありそうだから触れない方がいいかな? なんてものもあったりする。下手に触って壊したりしたらいけないと思って、敢えて手をつけていないというのもあるのだ。
     そんな中から、聖典を見つけて欲しいと言うのか。そもそも、オンボロ寮にあるかどうかも定かでは無いというのに。

    「……というか、今まで忘れていたものをどうして今更探そうなんて思ったんですか?」

     学園長の言う「困った」という言葉には、「大切なものを紛失してしまい困っている」というよりは、もう少し別のニュアンスが含まれているような気がした。
     NRCは創立百年にもなる由緒ある学校だ。ディア・クロウリーという人は、その当初から学園長を務めているのだと噂で聞いたことがある。嘘か本当かは知らない。でもこの世界に来てから驚くことばかりだったので、今更学園長の年齢が百歳を優に超えていようとまぁそんなものなのかな、くらいにしか思わない。
     仮に学園創立から学園長を務めているとして、就任して少ししてから聖典が持ち込まれたのだとしたら、百年近くの間放ったらかしにされているということになる。それを今更慌てて探しているということに、どうしても違和感が拭えない。

    「その聖典の鍵とやらが、学園に紛れ込んだ可能性が出てきたんだとよ」

     学園長のものでもグリムのものでもない、第三者の声にびくりと体が跳ねる。ぱっと顔を上げて談話室の入口に目を向ければ、しっかりと寮服を着込んだレオナ先輩が立っていた。
     彼は至極面倒臭そうに頭を掻き、深い溜息を吐きながらこちらへと歩み寄ってくる。私の隣に立つと「詰めろ」と短く言うので、私は慌てて腰を上げると横にずれた。
     どさり、レオナ先輩がソファーに腰を下ろす。すぐ隣の圧倒的な気配になんだか急に緊張してしまって、私はゆっくりと息を吸いながら背筋を正した。

    「待っていましたよ、キングスカラーくん! いやぁ、必ず来てくれると思っていました!」
    「半ば脅しのように呼び付けておいてよく言うぜ。クロウリー、大方の話は済んでるんだろうな?」
    「聖典がオンボロ寮にあるかもしれないというところまでは。鍵の話はこれからです」
    「……どうしてレオナ先輩がここに……?」

     ぽんぽんと交わされる学園長とレオナ先輩の会話に口を挟むのもどうかと思ったが、気になることは出来るなら初めに潰しておきたい。混乱したまま話を進めても、話が頭に入らない可能性があるからである。ただでさえ聖典の話なんて難しくて頭がこんがらがりそうなのに。
     困惑しているのが顔に出ていたのか、レオナ先輩はちらりとこちらを見ると軽く肩を竦めた。

    「お前、聖典がどこの国のものか聞いてたろ?」
    「それは、はい。夕焼けの草原の……、……あ、」
    「夕焼けの草原から失われて久しい重要な宝が、まさかこんなところにあったとはな。聖典自体は国の所有物というわけではねぇが、所在がわかってしまった以上、そして夕焼けの草原のものだという以上、黙っている訳にもいかねぇ。……こんな時ばかり〝王族〟を頼ってきやがる。面倒臭ェ代物は国に押し付けちまおうって魂胆だろ」
    「人聞きの悪い! 私は在るべきところにお返しした方がいいと思っているだけです」

     夕焼けの草原由来のものだから、その国の王族であるレオナ先輩が呼ばれたのか。学園長はこれを機に厄介事からは手を引きたい、ってことなんだろうな。厄介事の中身はまだわからないけど。
     おほん、と咳払いをした学園長は、「話を戻します」とやや強引に私とレオナ先輩を引き戻した。

    「聖典には、鍵がかけられていました。よく鍵付きの日記帳があるでしょう? 見た目はあんな感じです。鍵が無ければ中を見ることは出来ないのです」
    「……? でも、聖典って……信仰の象徴というか、そういうものですよね? さっき学園長が仰ったように、人の手で書き写されて広められたってことは、別に鍵なんてかける必要はないんじゃ」
    「鍵をかける必要があったんだろ。いくら古いものとは言え、現代に聖典のレプリカが残っていない理由は? レプリカだけじゃない、内容の断片すらほとんど残されていない。その内容は今では原初の聖典でしか知ることが出来ず、なのに聖典には鍵がかけられていて所在は安定しない。鍵の行方も謎のまま。後ろ暗いことがあると言ってるようなもんだ」

     信仰は広めるもの……或いは広まっていくものだと思っていたけど、鍵をかけなければいけない理由があった、ということなのだろうか。後世に伝わる宗教に大きな影響を与えたものらしいのに、どうしてそんなことになってしまったんだろう。レオナ先輩の言う通り、内容が今現在に残されていないのは確かに気になる。

    「錠と鍵自体は魔導具ですしねぇ。鍵が開かないことにはどうにも出来ないんですよ。だから私も長い間触れずに保管しておいたのです」
    「だから見つけて、鍵を開けたいってことですか?」
    「まさか、とんでもない! その逆です」

     学園長は大袈裟に両手を大きく振った。

    「……逆?」
    「大層大事に鍵なんかかけてる理由は必ずある。俺個人としてはその理由や聖典の内容に興味くらいはあるが……だがまぁ、お断りだな。魔法でどうにかなることならともかく、神を相手取るにはどう考えたって分が悪い」
    「……つまり」
    「聖典の鍵が学園に紛れ込んだ可能性が出てきたって言ったろ。ただの鍵じゃない、魔導具の鍵だ。どんな条件で解錠するかわかったもんじゃねぇ。鍵と聖典は、近付けないでおくに限る」

     聖典の鍵を解かないためには、聖典がどこにあるか分からない状況では困るということ。だから、探す必要があるのだ。
     聖典と言うからには尊ぶべき聖なるもの、というイメージがあるけど、学園長やレオナ先輩の様子からしてそれだけというわけではないのだろう。触らぬ神に祟りなし、という言葉もある。「神を相手取るには」というレオナ先輩の言葉を脳内で繰り返し、私は小さく息を飲んだ。

    「……と、とにかく。なんだか大変そうなのはわかりました。私なんかが役に立てるならお手伝いします。それで、えっと……その聖典の見た目とかってどんなものなんですか?」

     学園長の顔を真っ直ぐに見つめながら言う。探すにはまずそれがどんなものなのかを知らねばならない。
     レオナ先輩が何も言わないところを見ると、彼も見た目については知らないのだろう。ちらりと視線を向けると、レオナ先輩もまた学園長をじっと見つめていた。
     学園長は私とレオナ先輩の眼差しを受け、ふむ、と顎に指を添える。

    「聖典の見た目は……端的に言えば本ですよ。そうですねぇ、このくらいの大きさで、厚さはこの程度だったと思います。ポムフィオーレ寮寮長の証である本と同じくらい、と言えばイメージしやすいですか?」
    「あ、わかりやすいです……なるほど」
    「色は」
    「黒です。夜の闇を思わせるような深い漆黒でした」

     ヴィル先輩が持っている本と同じくらいの大きさで、色は漆黒。それに錠がついている。何となくイメージは出来るけど、だとしたらそこそこ大きいもので目立ちそうだな。

    「じゃあ、鍵は?」

     私が問うと、学園長とレオナ先輩は揃って似たような顔をした。ほんの少し眉を寄せて、小さな苦虫を一匹くらい噛み潰しているような、なんだか複雑な顔だ。良い予感はしない。

    「それがわかりゃ、苦労しねぇんだよ」
    「えっと……」
    「鍵がどんなものなのか、今に至るまで分かっていないのです。錠の形状からして、恐らく穴に鍵を差し込み回すタイプだとは推測されていますが……鍵の大きさ、長さ、形状、どれも謎に包まれています」

     だからこそ、聖典の鍵は長い時の中で今に至るまで開くことは無かった。所在が安定しない聖典を、どんな形なのかわからない鍵で開けることはほぼ不可能だ。
     あまりにも途方のない話に、無意識のうちにゆっくりと長い息を吐き出す。でも、だとしたら。

    「鍵の形が分からないなら……どうして、学園に鍵が紛れ込んできたのかもしれないってわかったんですか?」

     それは、多分当然の疑問だろうと思う。
     困惑を隠せないままレオナ先輩を見やれば、彼はじっと私を見ていた。数秒私と見つめ合った後に、ついと学園長に視線を向ける。
     学園長は笑っていた。にっこりと口角を上げて。

    「お恥ずかしながら、私は聖典を学園で保管していることを何十年もの間忘れていました。脳裏を過ぎることすらなかった。……それが二週間ほど前のことでしょうか、不意に思い出したんですよ。虫の知らせ、というやつですかね。可能性なんて、それだけで充分ではありませんか?」

     だって私、それなりに凄い魔法士ですよ?
     学園長の言葉に、こくりと喉が鳴る。
     それなり、なんてものではないことくらい、当然わかっているのだから。


     ***


    「それはそれとして、そんな大切なものをどこに保管したか忘れて何十年も放ったらかしにしていたのはどう考えても学園長の怠慢だと思うんです」

     マスク代わりにと貸してもらったサバナクロー寮のバンダナからは、レオナ先輩の使っている洗剤と柔軟剤の匂いがした。……洗濯をしているのは多分ラギー先輩だと思うので、レオナ先輩が使っているのはちょっと語弊がある気がするけど。
     レオナ先輩はいつも腰に着けているバンダナで口を覆っている。それってそうやって使うためのものだったんですかと聞いたら、やる気のない声で砂にするぞと返された。可愛い戯れである。

     学園長に対する小さな愚痴はほぼ独り言のつもりで呟いたが、しかしその声は獣人である彼にはしっかり届いていたらしい。視界の端で、本棚を確認していたレオナ先輩の耳がぴくりと反応するのが見えた。

    「学園長が啓示を受けたのが二週間くらい前で……多分それから探し始めて。学園の備品室や保管庫、あの広い図書室に至るまで探したって言ってました。オンボロ寮なんかよりよっぽど可能性がありそうな場所を探してる気がするんですけど、なんで見つからないんでしょうか」
    「そこに保管してなかったからだろ」
    「私が言いたいのはそういうことではなくてですね」
    「なんでもっと分かりやすく、かつ安全な場所に保管しておかなかったのかって言いてぇんだろ。諦めろ、あの学園長だぞ」

     ですよねぇ、なんて返しながら本の上に降り積もった埃をそっと払う。錠がついていないので聖典でないことはすぐにわかるのだけど、埃だらけのままにしておくのも忍びないので軽く綺麗にして机の上に重ねていく。
     レオナ先輩と一緒にオンボロ寮の物置部屋の確認をしたところ、二階だけでも三部屋ほどが物置と化していた。どの部屋もかなりゴチャゴチャしていて一日二日では終わらなそう。かつ、三階や屋根裏もあるから難易度はかなり高いかもしれない。私とグリムが生活する上で使っているのは、オンボロ寮のほんの一部に過ぎないのである。
     学園長は初動が遅れたと言っていたし多分かなり急を要することだとわかってはいるが、全部の物置部屋を確認し終わるまでにはかなり時間が必要そうだ。何せ、私とレオナ先輩の二人でやらなければいけないので。
     聖典のことも鍵のことも基本的には極秘事項らしい。口が固く働き者(とは学園長の評価である)である私と、事の重大さをよく理解しており夕焼けの草原の王族であるレオナ先輩になら安心して任せられる……と言っていたけど、良いように丸め込まれた気がしないでもない。ともあれ、事を大きくしないために私とレオナ先輩までで話を止めておきたいということらしい。今回ばかりはグリムにも任せられないという話であった。
     そういえば学園長がオンボロ寮にやってきた瞬間からゴースト達の姿も見えなくなった。突然の訪問者に驚いてのことかなと思っていたけど、もしかしたら話を聞かれないために学園長が魔法か何かを使ったのかもしれない。

    「……なんかこう、目的のものを探すためにぱっと使えるいい魔法とか、あったりしないんですか?」
    「お前は魔法をなんだと思ってんだ」

     呆れたように見つめられて言葉に詰まる。

    「いや、その……例えば部屋の埃を一掃するとか、その程度だけでも出来たりしないのかなぁ……と」
    「そんなもん造作もねぇよ。この場所じゃなきゃな」
    「……どういうことですか?」

     レオナ先輩は手に持っていた本を傍の椅子の上に重ねると、少し考えるように口を閉ざした。それからすぐに顔を上げると、例えば、と指を立てる。

    「ガスが充満してる部屋の中で火をつけたらどうなる?」
    「それは……爆発します」
    「今の状況はそれと同じだ。大きさも力も大小異なる魔導具、特性も異なる魔導具……それらがずっとろくな管理も一切なく押し込まれていた物置の中は魔力の〝ガス〟が充満してやがる。そんなとこに俺の魔法で〝着火〟したらどうなるかわかったもんじゃねぇ」

     理解できるか? と問われて頷く。レオナ先輩はこの部屋に入ってから魔法を使っていない。
     部屋を塞ぐ家具や山積みになった箱なんかは、全てレオナ先輩が持ち上げたり押したりしてどかしてくれた。手伝おうとしたけど「どいてろ」と言われてしまったので、私に出来たことといえば窓を開けて部屋の空気を入れ替えることくらいだ。窓を開けたところで部屋の埃がなくなるわけではないから、私もレオナ先輩もバンダナで口を覆っているとは言っても時々咳き込んでいる。
     魔法を使わないのは、やっぱり理由があったんだな。

    「魔法はただ便利なだけじゃねぇ。使い方を間違えれば危険が己に降り掛かることもある。……当然、翻訳薬みたいな魔法薬なんかも同じことだぜ?」
    「うっ」

     サバナクロー寮に泊めてもらった時に厳しく注意されたことを思い出して思わず潰れたような声が出た。

    「だ、大丈夫です。元気です」
    「……の割に最近随分と疲れた顔してんじゃねぇか。翻訳薬が原因じゃねぇだろうが、寝不足か? お前は夜遊びなんて柄じゃねぇだろ?」

     口調はかなり軽く聞こえるけど、窓を背にして壁に寄りかかりながらじっとこちらを見つめる目はどこか鋭い気がする。口元を覆ったバンダナのせいで、彼の表情がよく分からない。

    「寝不足ってわけでは……三食食べてしっかり寝てますし、夜中に起きちゃうなんてこともないですし、元気です」
    「鏡見て来いってんだ。……ったく、」

     先日マウティにも言われたセリフだった。毎日鏡は見ているしコンシーラーだって使っているのに、私の顔はそんなにわかりやすく酷いものなのだろうか。自分のことは自分では気づきにくいと言うけれど、自分では本当にそんなに酷いとは思っていないんだけどな。
     いつしか床に落としていた視線をチラリと上げてみると、レオナ先輩は変わらず私のことをじっと見つめていた。傾いた太陽の日差しが逆光になっているにも関わらず、レオナ先輩のサマーグリーンの瞳は煌々と輝いているように見える。どうしたって、彼に何かを隠したり嘘を吐いたりするなんてことは出来ないのだ。
     だから、グリム達やマウティにも話した通りのことを伝える。

    「……最近少し夢見が悪くて。でも、食欲がなくなってる訳でもなければ夜中に目が覚めてしまうなんてこともないんです。これは本当です」
    「夢見……ねぇ。どんな夢を?」
    「夢の内容はあまり……ただ、夢から覚める方法は、夢の中で死ぬこと……だと思います」

     言うと、レオナ先輩は顔を顰めた。エースとデュースもわかりやすかったけど、レオナ先輩の表情はもっとあからさまだ。先ほどよりも鋭く目を細め、綺麗な眉はきゅっと寄っている。マウティとは、全く真逆の反応である。
     レオナ先輩は少し考えるように視線を落とすと、黙ったまま口元に指を添える。それだけの仕草が、たまらなく様になってしまう人だ。

    「死ぬ夢は吉兆とも言うが……」

     それは、マウティにも言われたことだった。彼は幸せが来るだろう、救われるのだと言ってくれた。ウクファクヨフィカは幸せの呪文。ちょっと調子が悪いのは確かかもしれないけど、それでも私は元気だ。

    「大丈夫ですよ、ご覧の通り私は元気です。少し夢見が悪いだけで、それ以外はいつも通りです」
    「いつも通りなんて言いたいなら、その酷い面を何とかしてから言うんだな」

     やれやれと言わんばかりに溜息を吐いたレオナ先輩は、ポケットから取り出した懐中時計に視線を向けた後に窓から空を見上げた。作業を開始したのは昼過ぎだったけど、それなりに時間は過ぎていたようだ。傾いた日は赤く染まり始めている。季節柄、暗くなるまではあっという間だ。

    「聖典はこの部屋には無さそうだな。今日の作業はここまでだ。続きはまた明日」
    「あっ、は、はいっ。ありがとうございました」
    「息苦しいったらねェ……おら、とっととこんなとこ出るぞ」

     バンダナを外しながら近づいてきたレオナ先輩に背中を押され、少し躓きながらも部屋を出る。部屋を出た途端に口にしていたバンダナをするりと取られ、慌てて首を上へと向けた。

    「バンダナ! 洗って返します!」
    「いい、ラギーにやらせる。どうせ明日も使うだろ」

     高いところに持ち上げられてしまって私の身長では跳んでも届かない。手を伸ばしながら何とか取り返そうとするものの、まるで遊ばれている気分である。遊ばれてるんだろうけど。

    「明日も使うなら尚更です。レオナ先輩のバンダナもお預かりして、私が洗っておきます……!」
    「あーあーうるせぇ、いいから前見て歩け。でねぇと、」

     転ぶぞ。
     レオナ先輩の視線がこちらに向けられた途端にかくんと体を支えられなくなり、体が傾いた。へぁ、だか、ひぇ、だか、多分私はそんな変な声を出したと思う。軽く首を捻れば階段の先、階下の談話室から驚いたようにこちらを見上げるゴースト達と目が合う。階段を踏み外したのだと今更気づいたところで遅い。
     ゴースト達も戻ってきたんだなぁなんて呑気なことを考え、重力に身を任せるしかないとぎゅっと目を閉じた瞬間、腰周りに逞しい腕が絡んで強く引き寄せられる。
     どん、と軽くぶつかるようにして、私の体は止まった。落ちたのでは無い、すくい上げられたのである。

    「怪我は? レディ」
    「……無いです」

     恐怖と羞恥で顔は上げられなかった。目前には隆起した胸板があって、私を引き寄せた腕は未だ体を支えるように背中に回されたままだ。

    「良かったなァ、俺がいて」
    「……ありがとうございました、助けていただいて。……だけどそもそも、レオナ先輩がバンダナを渡してくれたらこんなドジ踏むこともなかったと思うんですが」
    「それは失礼を。では階下までエスコートしても?」
    「レオナ先輩!」

     からかわれている! 羞恥で耐えきれなくなって顔を上げれば、レオナ先輩は楽しそうに目を細めて笑っていた。
     顔に熱が集まって、未だ抱きしめられたままだということにも頭がパンクしそうで、私は改めてきちんと自分の足で立つと一歩レオナ先輩から離れる。冷静に。
     レオナ先輩の腕は私を気遣うように少しだけ支えつつも、私が身体を引くとすぐに離してくれる。こういう紳士的なところがまた私の羞恥を煽る原因なのだけど、決して、嫌では無いのだ。

    「翻訳薬の効果は、まだもう少しあるな?」
    「え? えっと……はい。今日は少し遅めに飲んだので、多分あと一時間か二時間くらいは……」
    「飯食いに行くぞ」
    「えっ?」

     ぽかんとした私に構わず、レオナ先輩は階段を降り始める。確かに日も暮れ初めてそろそろ夕飯の時間と言っても良いかもしれないけど、突拍子もないことに私は口を半開きにしたまま動けなかった。
     そんな私に、レオナ先輩は当然気付いていたのだろう。数段降りたところで足を止めて振り返る。

    「三食食ってるって言っても、どうせ大したもんじゃねぇんだろ。草食動物だって、たまにはしっかり肉でも食った方がいいんだよ」
    「……草食動物は肉は食べないですよ」
    「お前は人間だろ?」

     くつりと喉で笑われる。草食動物って言ったのはレオナ先輩なのに。ちょっとむっとした気持ちにもなるが、どこかむず痒くてぽかぽかして複雑で、私は何も言えなくなる。
     さりげなく差し出された手を無視するなんて私には出来なくて、結局私はレオナ先輩の手を取った。顔が熱い。鏡を見なくても、自分の顔が火照っているであろうことは簡単に予想出来た。

    「くく、」
    「……なんですか」
    「顔色、少しは良くなったじゃねぇか」

     もう本当に、勘弁して欲しい。





     翌日の朝少しだけ早起きをした私は、グリムより一足先に朝食を食べ終わり、戸棚にしまってあったボールドーナツのカップを手に取ると急いでオンボロ寮を出た。グリムには変な顔をされたけど、勉強でわからない部分があるから図書室で調べ物をしてから行くと言えばあっさり納得してくれた。
     向かうのはオンボロ寮の裏の森、マウティのところである。昨日はレオナ先輩と夕食を食べ終わったら翻訳薬の効果が切れてしまい、マウティに会いにいくことが出来なかったからだ。私からパンの差し入れがなくても彼なら何も困ってはいないだろうが、それでも秘密の友達との時間を作れなかったことが自分の中で引っかかっていた。

    「マウティ? ……いないの?」

     いつもの場所に足を運んで、彼がいつもいる辺りで呼びかける。そういえばマウティに朝会いに来るのは初めてだった。いつも授業が終わった後、翻訳薬の効果が切れる前に一緒に過ごすようにしていたから。
     朝独特の静けさが満ちる森の中で耳を澄ます。鳥の鳴き声も、小動物の鳴き声もしない。さやさやと木々を揺らす微かな風の音が響いていて、私はぐるりと辺りを見回した。
     少し早い時間とはいえ、メインストリートからの声は聞こえてくるような場所だ。なのに、不思議と……ほんの少し不気味なくらい、そこは静まり返っていた。

    「唱えなかったな?」

     背後から声がして、私は勢い良く振り向いた。ヒラヒラと羽を動かしながら、マウティが私の眼前を飛んでいる。彼の姿を見つけられたことにほっと胸を撫で下ろしたが、彼の表情が鋭く暗いことに気付いて戸惑う。
     こちらを見据える鋭い瞳はマラカイトグリーン。レオナ先輩と同じ色だ。
     昨日、物置部屋でレオナ先輩に真っ直ぐ見つめられた時のことを思い出す。状況は似ているのに、昨日は感じなかった居心地の悪さから私の足は僅かに逃げを取ったようだった。ざり、と地面を靴で擦る音がする。

    「マウティ、」
    「昨日、唱えなかったな?」

     低い声にたじろぐ。唱えなかったと言われて、心当たりはあった。マウティに教えてもらった幸せの呪文だ。寝る前に唱えるといいと教えてもらって、確かに私は就寝前に小さな祈りを込めて口にするようにしていた。
     昨日はレオナ先輩と一緒に夕食を食べて、その際に他愛のないいろんな話をした。主に話をするのは私でレオナ先輩は相槌を打ってくれるような感じではあったけど、なんだかそれがすごく楽しくて。マジフトの練習から戻ってきたグリムにも私の機嫌が良いのが伝わったのか、若干変な目で見られてしまった。少しだけ久しぶりに、いい夢が見られそうだなぁって感じて……シャワーを済ませた後は、そのまま寝てしまったのだ。幸せな夢は見なかった。だけど、悪夢も見ることはなかった。
     幸せの呪文を唱えることを忘れていた訳じゃない。ただ昨日はなんだか、幸せの呪文を唱えなくても幸せな気持ちだったから。

    「唱えろよ」
    「あ、」
    「必ず毎晩、寝る前に」

     マウティは、「寝る前に唱えるといい」と教えてくれた。まだ数日だけど、私はそれを守ってきたつもりだった。だけど、昨日は守れていなかった。急に、そのことがとても悪いことのように思えて膝から力が抜ける。
     感じていた居心地の悪さとか、逃げの気持ちとか、そんなものはもうどうでも良かった。悪いことをしてしまった自分への恥と、申し訳なさで思考が塗り潰されていく。

    「ご、ごめんなさい」
    「あぁ……少し怒りすぎたな。悪かった」

     優しい声が降ってくる。俯く私の膝の上にひらりと降りてきたマウティは、先ほどとは打って変わって穏やかな表情で私を見上げている。再びふわりと浮かび上がった彼は、私の頬にそっと口付けた。触れられた場所から温かいものがじわりと広がるようで、無意識に強張っていたらしい体からゆるりゆるりと力が抜けていく。瞬間、彼から赦されたのだと理解する。

    「大丈夫だ、救われる。お前は救われるべき人間だ。だから俺の言う通り、ちゃんと唱えてくれ」
    「うん、」
    「ウクファ クヨフィカ」
    「……ウクファ、クヨフィカ」
    「そうだ」

     いい子だ。心地の良い声で囁かれて、ほうと息を吐く。もう恐怖はなかった。胸に残るのは安堵と多幸感。マウティを信じて、私は呪文を唱えればいい。
     マウティは、私は救われるべき人間だと言った。彼は私に嘘を吐かない。大丈夫だ。私に幸せは訪れる。

    「ドーナツ、ありがとな。腹減ってたんだ。後でゆっくり食う」
    「本当? 持ってきて良かった。その……昨日は来れなくてごめんね、」
    「いいさ。だが、次はないぜ。……朝でも、昼でも、夕方でも、夜中でもいい。ちゃんと毎日必ず、会いに来い」

     マウティは目を細めて笑う。それが嬉しくて、私も笑顔になった。ドーナツを届けて、マウティは喜んでくれて、一緒に過ごすことが出来て、私はすごく幸せだと思う。もっとマウティと近くなりたい、近い存在になれたらいい。
     これからも毎日パンやドーナツを届ける。幸せの呪文を唱える。私がマウティにしてあげられることは、他に何があるだろう? 私に出来ることは何だってしたい。

    「ほら、そろそろ授業が始まる頃だろ? 遅刻するなよ」
    「え、……あ、本当だ」

     マウティに言われてポケットから時計を取り出せば、もう少しで予鈴が鳴るという時間だった。時間には余裕を持っていたつもりだったけど、マウティと一緒に過ごしているとあっという間だ。今日の一時間目はトレイン先生の魔法史である。遅刻は許されない。
     急いで立ち上がると、制服に着いてしまった砂を払い落とす。マウティ一人でも食べやすいようにと小さなボールドーナツにしたのは正解だったかもしれない。ドーナツの入ったカップを彼が気に入っている木の側に置くと、私は鞄を抱え直した。

    「それじゃ、行ってくるね」
    「あァ」

     こちらを見送ってくれるマウティに手を振って歩き出す。森を抜けたら、途端にいろんな音が耳に入ってくるようになった気がして思わず足を止めた。
     振り返った先の森は、陽が昇ったばかりだと言うのに何故かいつも以上に薄暗く見える。だけどそれは多分、私の気のせいだろう。再び校舎を目指して走り出した。



     ***



     放課後は、昨日に引き続きレオナ先輩と物置部屋の探索である。今日は二部屋目。レオナ先輩からは夕方にオンボロ寮に行くと言われていた為、私は一足先に寮に戻って二部屋目の下調べだ。
     授業が終わるなりオンボロ寮へ戻るという私に、グリムは何かあるのかと興味を示していたけど、「学園長から頼まれてオンボロ寮の物置部屋の片付けしなきゃならないの。手伝ってくれる?」と言うと、慌てたように用事があると駆けて行ってしまった。普通の片付けであればグリムの手でもあった方がありがたいけど、今回に限ってはグリムの面倒臭がりな性格には感謝している。
     ゴースト達も、これからしばらくレオナ先輩と一緒に物置部屋の片付けをするのだと伝えたらそれ以上深く聞いてくることはなかった。そうなのかい、大変だねぇ、頑張れよ、くらいなものである。もっと深くあれこれ聞かれるかもしれないと、グリム以上にどう誤魔化そうかと悩んでいただけに拍子抜けだった。これも学園長の魔法か何かなのだろうか。或いは何か、釘を刺してあるのかもしれない。

    「よい……しょ、っゲホ! ッ……ここもすごい埃……」

     重いドアを押し開ければ、澱んだ埃っぽい空気が纏わりついた。外はもう肌寒く感じる季節だと言うのに、部屋の中はむわりと温かい。埃だらけだというだけではなく、何となく長居したくはないなと感じた。昨日はレオナ先輩と一緒だったから気にならなかったのだろうか。私が感じているのはほんの少しの恐怖だと思う。
     オンボロ寮にある可能性が高くて私一人に探せるものなら、学園長ならきっと私にだけ話をするだろう。それが事前にレオナ先輩に話をしていて、かつ協力を求めていたとなれば、それはつまり私一人では対処出来ないということ、それなりの危険が伴うということである。さすがにその程度のことは私にだって理解できる。となれば、怖いと感じるのだって普通のことだ。
     薄暗い部屋の中を見つめて、私はゆっくりと息を吐いた。窓まではそう離れていないが、そこに行くまでには家具や山積みの箱が遮っている。せめてレオナ先輩が来る前に窓くらいは開けておきたいんだけど。

     ぴちゃん、
     音が聞こえた気がして指先が震える。部屋の中は……静かだ。私は廊下に立っているはずなのに、急速に階下の音が遠ざかる。一切の音が失われたような感覚に陥り、私の耳は自分の呼吸の音だけを拾っていた。
     静かすぎる。強い耳鳴りがして、部屋の奥から目が離せなくなる。薄暗い部屋の隅の方。影の、更に陰になった場所。その一角だけが、深く暗い闇に染まっている。じわじわと耳鳴りが小さくなり、遠ざかり、そうして耳が一瞬の無音を感じた刹那――私は思わず、息を止めた。

     何か得体のしれないモノの、深い息遣いが聞こえる。
     吸って、吐いて。吸って、吐いて。深く、長く。
     呼吸を止めていても耳の奥に響いてくるそれは、音だけで形を持たないというのに何故か私のことをじっと見つめているような恐怖があった。

     ――前へ、

     呼吸が、私を見つめている。
     私は、これを……知っている。



    「おい、」
    「わぁああああああああ!!!!!」

     ぽん、と肩に感じた衝撃に、私は文字通り弾かれたように飛び上がった。足が縺れてバランスを崩し、後ろにひっくり返りそうになったところを逞しい腕が強く支えてくれる。デジャヴ。

    「……っるせぇ……!」
    「は、……あ、れ、……れ、レオナせんぱい、」

     顰めた顔で私を見下ろしているのはレオナ先輩だった。いつオンボロ寮に来たのだろう。その名の通りオンボロであるこの建物は、歩けばそこそこ音がするはずなのに全く気付かなかった。
     ばくばくと激しく心臓が胸を叩いている。どっと変な汗が噴き出して、私はとうとう立っていられなくなりずるずるとその場に座り込んだ。レオナ先輩の腕は私を立たせて支えるか少し迷っていたようだったけど、私が腰を抜かしたのがわかったんだろう。結局、私の傍に屈み込んで溜息を吐いた。
     とりあえず、間違いなく今ので寿命が何年か縮んだ気がする。

    「……何度ドアをノックしても返事がねぇから勝手に上がらせて貰った。一応ゴースト達には断りを入れたぜ。ゴースト達がお前は先に物置部屋に行ってるって言うから来てみりゃ……随分なお出迎えだな? あァ?」

     レオナ先輩の口元は笑みを形作っているが、片手で頭を押さえているところを見ると……多分至近距離で私の絶叫を聞いて、鼓膜に多大なダメージが入ったに違いない。申し訳ない。申し訳ないけどさっきのは不可抗力だった。だってあまりにもびっくりした。

    「す、……すみません……、……あれ、今何時……」
    「五時前だ。……そろそろ翻訳薬の効果も切れる頃だろ。談話室のテーブルの上に薬を見つけたから、一粒貰った」

     レオナ先輩が来る頃には薬の効果も切れていると思っていたから、彼の話す言葉が普通に理解できることを疑問に思ったらレオナ先輩は先手を打っていたらしい。
     耳のダメージが少し回復したのか、レオナ先輩は呆れたように小さく息を吐くと頭から手を離す。それから、先程まで私がじっと見つめていた部屋の中へと視線を向けた。

    「……で? 熱烈に何を見てたんだよ」
    「あ、……いえ……」

     レオナ先輩は立ち上がると、部屋のライトのスイッチを入れる。ぱっと明るくなる部屋を見て、私は真っ先に明かりを点けるべきであったのだと気づく。恐怖からかわからないが、そんな簡単なことにも意識が回っていなかったようだ。
     ようやく少し落ち着いてきた胸元を軽く叩いて、壁に手を付きながらよろよろと立ち上がる。レオナ先輩は私を振り向くと軽く肩を竦めた。

    「ごちゃごちゃしててどこに何があるかわかりゃしねぇ。……そんな中で、お前は何を見た?」

     私は、何を見たのだろう。見たと言うよりは聞こえてきた方が正しいが、あの深く吸い込まれるような闇の一角はしっかりと瞼の裏に焼き付いている。

    「……見た、と言うより……聞いた、と言いますか……」
    「聞いた?」

     レオナ先輩の目が、「何を」と問う。

    「……ぴちゃん、っていう水の音と……な、なんだかよく分からない呼吸の音……です」
    「水の音と、呼吸の音……?」

     支離滅裂も良いところだろうに、レオナ先輩は私の言葉を聞いても笑ったりしなかった。再度部屋の中に視線を向けると、何かを考えているのかじっと佇んでいる。こちらに背中を向けているため表情は見えないが、彼が真剣に辺りの音を拾おうとしていることはわかった。
     しばしの沈黙の後に、ゆらりとレオナ先輩の長駆が動く。

    「……今は何も聞こえねぇな。とりあえず、おら。これ着けとけ」
    「わ、っ……は、はいっ」
    「お前が聞いた音がなんにせよ、まずはこのガラクタを退けねぇと調べるにも調べられねぇ」

     投げられたバンダナを慌ててキャッチして顔を上げると、レオナ先輩もバンダナで口を覆うところだった。レオナ先輩が山積みになった箱を抱え上げると埃が舞い、それを軽く吸い込みでもしたのか彼は顔を顰めて小さく咳き込む。

    「あの、」
    「あぁ?」
    「信じてくださる、んですか」

     支離滅裂で、信憑性も何も無い私の話を。
     恐怖から私が聞いてしまった幻聴だったかもしれない。あの不気味な音を私が本当に聞いたかどうかなんてわからないし、レオナ先輩がそのことを調べる必要なんてこれっぽっちもないのである。要は聖典を見つけるか、オンボロ寮には無いのだと言い切るかどちらかを果たせば良いのだから。わざわざ私の話に耳を傾けて、それを調べるために動かなくたって良いはずなのに。
     バンダナを握りしめたままの私を見て、レオナ先輩は呆れたように目を細めた。

    「お前、しょっちゅう幻聴なんか聞いてんのか」
    「えっ? いや、そんなことはない……ですけど」
    「この世界に来てから、一度でも幻聴を聞いたことが?」
    「……ないと思います」
    「お前がここに来てから短期間でどれだけのことがあった? 軽く思い出すだけでもトラブルには巻き込まれ放題のお前だろ。そんな中で一度も幻聴を聞いてない、そんなお前がはっきり〝聞こえた〟と思ったんだろうが。ならそれは、気の所為でも幻聴でもねぇだろ」

     俺は可能性の話をしている、と付け加えられる。確かにそうだ。幻聴なんて今までになかったことだと思う。だからそんな私がはっきり聞いたのならそれは幻聴では無い。多分の可能性の話。それでも、たまたま今回、少し気が動転していて、という可能性だってあるはずなのに。
     じわじわとレオナ先輩の言葉が染み込んでくる。私を信じてくれる言葉と心地の良い低い声は私の体から緊張を取り払うようで、浅くなっていた呼吸がゆっくり深くなる。
     嬉しくなって、むず痒くなって、私は返事を返すことも出来ずにただ誤魔化すようにバンダナで口元を覆う。頭の後ろでしっかりと縛れば、こちらを見つめていたレオナ先輩が軽く顎をしゃくった。

    「おら、わかったらとっとと手伝え。埃臭くてかなわねぇ」
    「はいっ!」

     今の私出来る最大限の良い返事をして、私はレオナ先輩に駆け寄るのだった。



     ***



    「……あれ……?」
    「どうした」

     その物体に気づいたのは、部屋の片付けと探索を始めてから一時間ほど過ぎた頃だっただろうか。物置部屋に押し込まれていたアンティークのテーブルの下に、シミのように広がる水滴のようなものを見つけたのである。水滴のようなもの、と言ったのは、それが銀色に鈍く光っていたから。ただの水なんかではないことは一目見ればわかる。
     私の声に気づいたレオナ先輩は、側までやってきて屈み込むと私と同じようにテーブルの下を覗き込んだ。それからすっと目を細める。

    「……なんでこんなもんがこんなとこに」
    「これ、何なんですか?」
    「水銀だ」

     水銀。触れると生体の細胞をただれさせる、強い毒物としてのイメージが強いけど、この世界に来てからはそれなりに馴染みのある元素だ。魔法薬学、主に錬金術で使用する機会が多いのである。気化したものを吸い込むと体に害があるのは有名な話だと思う。確かこの世界では五十度を目安に気化し始める……だった気がするけど。

    「……気化してません? 大丈夫ですか?」
    「お前、その程度はクルーウェルの授業でやったろ」

     じとりと呆れた目で見つめられて言葉に詰まる。

    「う、……気化するのは五十度くらい、ですよね。わかってはいるんですが、液体ってすぐに気化するイメージが……」
    「そもそも、水銀が気化してりゃ匂いですぐわかる。少なくとも俺はな。今の季節、この部屋の温度なら問題ねぇ。……それに、最近紛れ込んだもんだろ、これは」

     最近、という言葉にこくりと息を飲む。だから、「なんでこんなもんがこんなとこに」なのだ。
     水銀なんて危険物は生徒達が個人で取り扱うには先生の許可と監視が必要になるし、そもそも魔法薬学室からの持ち出しは禁止のはず。私もグリムも、当然寮に持ち込んだりはしない。オンボロ寮に比較的よく出入りするのはエースとデュースとジャックだけど、彼らが水銀を持ち込むかと言われたらまず有り得ないと思う。
     であれば、一体何故? どこから? ……誰が?
     よくよく見ると、水銀の跡はテーブルの下を転々と伸びて、部屋の隅へと続いている。それをじわじわと辿り、私はひゅっと息を吸い込んだ。

    「……レ、レオナ先輩」

     咄嗟にレオナ先輩の腕を掴む。何かに触れていないと酷く不安だった。
     水銀の跡は、部屋の隅にあるチェストの前まで続いていた。木製のチェストはかなり年季が入っているようだが、物としてはしっかりとしている。引き出しは全部で五段あり、取っ手の金具は錆び付いているものの凝った装飾がしてある。
     見た感じは、普通のチェストだ。至って普通の。けれど私には、わかってしまった。
     先程部屋に踏み込んで目が離せなくなった深い闇。薄暗い部屋の影の、更に陰になった場所。そこにあったのは、このチェストだ。ぞくりと背中が震えて、私はほんの小さく身動ぎした。
     とても嫌な気分なのに、そのチェストから目を離せない。
     レオナ先輩はちらりと私を見ると、小さく息を吐いた。それは溜息のようなものとは違い、どちらかと言うと思考をまとめる時の呼吸に似ている。

    「下がってろ。俺が見てくる」

     レオナ先輩が立ち上がり、釣られて私も立ち上がる。宥めるようにくしゃりと頭を撫でられて、私はそれ以上何も言えずにそっと先輩の腕から手を離した。
     レオナ先輩はアンティークのテーブルを少し動かすと、躊躇無く部屋の隅へと踏み込んでいく。チェストの前に屈み込んだ彼は、一番下の引き出しに手をかけた。ゆるゆると取ってが引かれ、中から覗く吸い込まれそうな黒に、小さな悲鳴を飲み込む。

     レオナ先輩が引き出しの中から手に取って私に見せたのは、夜の闇を思わせるような深い漆黒の本。学園長が言っていた言葉通りの本だった。軽く見積って二千年前、もしかすると五千年ほど前の代物だと聞いていたけど、確かに見た目は古びれてはいれどそんなに昔のものだとはとても思えない。どんな素材で作られた表紙なのかわからないが、光を一切反射しない。吸い込まれそうな黒は、それが理由だった。
     表紙には金で文字が書かれているが、翻訳薬の効果も切れてしまっている今は読むことが出来なかった。……仮に翻訳薬を飲んでいたとしても、読めたかどうかはわからない。表紙に書かれた文字はどれも私が見た事のないもの。少なくとも今日常で使っている文字とは全く違うもののように見えた。
     本には重厚な金属の錠が付いていた。かつて誰かが無理矢理にでも壊そうとしたのか、意図的に付けられたものだと思われる細かい傷がいくつも残っている。

    「……これが、聖典……?」
    「間違いねぇだろうな。鍵は――」

     レオナ先輩が言いかけた時だった。
     彼は本を傾けただけだ。水平に持っていた本を、ほんの少し傾けただけ。その瞬間、鍵穴からどろりとした液体が溢れ出す。

    「っ、」
    「なに、」

     言葉は最後まで続かない。鍵穴から溢れ、レオナ先輩の手を伝い床へと零れ落ちる銀色の液体。到底鍵穴の中の容量では納まりきらないだけの液体が、まるで意思を持っているかのように収縮しながら鍵穴から這い出してくる。ぼたぼたと音を立てて床に流れ落ちていくのを、私も先輩もただじっと凝視していた。

     ――水銀だ。

     魔法薬学や錬金術で取り扱う危険な物質。けれど私は、物質が魔法の力もなく独りでに動くところなど見たことがない。無機物が生き物のように動いている。不気味で気持ち悪い光景に喉が張り付いたようだった。
     たっぷりコップ一杯分くらいは溢れ出しただろうか。やがて、ぴちゃんと最後の一雫が床に落ちると、水銀はじわじわと鈍い輝きを失って黒い塵となった。……まるで、役目を終えたかのように。

     レオナ先輩も私も、床に積もった塵を見つめたまま動けない。……私達は、今何を見たのだろう?
     水銀の跡を見つけた。その跡が続く先には古びたチェストがあって、その中から探していた聖典らしきものを見つけた。その鍵穴からは水銀が溢れ出し……そうして、塵となった。

    「せ、先輩……手は、大丈夫なんですか」
    「……手袋越しだ、直接触れちゃいねぇ。……だが随分とまずいことになった。……いや、既になっていた、と言うべきか」
    「まずいこと?」

     先輩が親指で錠を軽く弾くと、それは小さな音を立てながら呆気なく開いた。学園長は魔導具だと言っていたが、そんな気配は一切感じられない。

    「水銀がこいつを開ける鍵だった。鍵は今開けられたんじゃねぇ、もう既に開いていたんだ。……いつからかは知らねぇがな」
    「……それじゃ、」
    「クロウリーが聖典のことを思い出したのが二週間前、だったか? 下手すりゃ、その時に鍵が開いてた可能性だってある」

     学園長は鍵を開けないために聖典を探して欲しいと言った。レオナ先輩は神を相手取るには分が悪いと言った。聖典の鍵を開けないために探していたのに、見つけた時にはもう鍵が開いていただなんて冗談にしたって笑えない。
     そんな、
     私の掠れた声が床に落ちる。レオナ先輩は手に持った聖典に視線を落とし、深く考え込んでいるようだった。

    「……この聖典自体には変わったところはない。元々かけられていたっていう劣化防止の魔法の残滓もほぼほぼ残っちゃいねぇ、祝福も呪いもかかってねぇ……ただの書物だ」
    「……ただの書物に、魔導具で鍵をかけたんですか?」
    「お前は、ただの書物にわざわざ魔導具で鍵をかけると思うのか?」

     レオナ先輩の手が表紙を撫で、そのまま捲る。あまりに自然に聖典を開いたものだから止める間もなかった。

    「あ、開けちゃって大丈夫なんですか」
    「言ったろ? これ自体はただの書物だ。少なくとも今はな」

     そっとレオナ先輩の傍に寄ってその手元を覗き込む。表紙と同じような形の文字の羅列は少し不気味なようでもあり、それと同時に不思議と神聖なもののように感じる。これは聖典なんだから、不気味だなどと感じてしまう方がおかしいのかもしれない。それでも、水銀が鍵穴から溢れ出す先程の光景が脳裏に焼き付いて離れないのである。不気味だとしか、言いようがない。

    「……古代呪文語だ。さすがに失われた言語は薬の力を持ってしても翻訳出来ねぇか」
    「レオナ先輩でも読めない?」
    「時間をかければある程度は解読も出来るだろうが、今すぐには無理だな」

     レオナ先輩はパラパラと数ページ捲ると、すぐに聖典を閉じた。何はともあれ聖典は見つかったのだから学園長に報告に行けねばならない。……その聖典の状態が、どういう状態であれ、だ。

    「……学園長に、なんて報告しましょうか……」
    「そのまま言うしかねぇだろ。聖典を紛失したことも、見つけた時には鍵が開いてたことも、俺達には何の責任もねぇ」

     レオナ先輩の言う通りではある。私達は聖典を探して欲しいと言われただけで、その状態については何も言われていない。
     ただ……見つけた時には鍵が既に開いていました、なんて聞いたら、学園長が卒倒してしまいそうだな。

    「お前が聞いた水音は水銀の音だったのかもしれねぇが、呼吸の音についてはそれらしき原因は見当たらなかった。……が、お前はチェストを開ける前からあそこに何かがあると感じていたな?」
    「……水音や呼吸が聞こえたのが、あのチェストの辺りだったな、くらいしか……。テーブルの下に落ちてた水銀の跡がチェストの方に続いてたのが、なんだかすごく怖くて」
    「……夢見が悪いのも、もしかすると解錠の影響もあったのかもしれねぇな。ここはお前の生活圏だ」

     そう、なのだろうか。
     そういえば、私の夢見が悪くなったのはいつ頃からだっただろうか? 朝は毎日悪夢から飛び起きて、ゴースト達やグリムに迷惑をかけてしまっている。ここ最近の話のはずなのに、じゃあそれがいつ頃からだったのかと考えると思考が上手くまとまらない。
     昨日眠って、今朝起きた時は飛び起きずに済んだ。幸せな夢が見れそうだと思ったけど、夢は見なかった。それは、幸せの呪文を唱えなかったから? 唱えていたら、もしかして素敵な夢が見られていたのかな。思考がぶれる。
     悪夢は、一体いつから。悪夢から覚めるためには死なないといけない。幸せが来る、私のところに。死ねば目を覚ますことが出来る。寝る前には必ず幸せの呪文。毎日マウティに会いに行く。
     死が、生が、幸せが、恐怖が、安堵が、慟哭が、歓喜が、
     ――あぁ、考えがまとまらない。

    「おい、」
    「っ!」

     少し強めに声をかけられてはっとする。ぱっと顔を上げれば、レオナ先輩は怪訝そうな顔で私を見つめていた。
     いつしか強く握りこんでいた手のひらは、少し汗ばんでいた。何をぼんやりとしていたのだろう。軽く頭を振って意識をはっきりさせようとしたが、脳みそが揺れただけだった。

    「……クロウリーのとこに行くのは俺一人でいい。お前はとっとと飯食って寝ろ」
    「え、でも」

     口元のバンダナを外しながら部屋から出ていくレオナ先輩の背中を見て、私もバンダナを外しながら慌てて追いかけた。
     どちらかと言えば今回の件は頼まれたのは私であって、レオナ先輩はその協力者という立場である。なら私が学園長に報告するのが当然であり、レオナ先輩について来てもらうというならまだしもレオナ先輩にまるっきりお任せしてしまうのはあまりにも心苦しすぎる。

    「私も行きます」
    「そんな辛気臭ェ面してる奴連れて行けるか。倒れられでもしたら困る」

     昨日も、レオナ先輩には心配をかけてしまった。だから今日の言葉も、私を心配してのことなのだろうと頭ではわかる。変な音を聞いて、ぼんやりとして、私は調子が悪いんだと思う。だから先輩の言う通り、ご飯を食べて寝てしまうのが最善なのだと、わかっている。
     それでも、心のどこかにいる弱い私が、私のことを「足手纏い」だと罵った。
     ぼんやりとさえしなければ。疲労感をちゃんと隠せていたら。足手纏いなんかにならずに済んだはずなのに、と。

     足を止めた私を、レオナ先輩が振り返る。
     私は今、どんな顔をしてレオナ先輩を見つめているのだろう。

    「いいか、ちゃんと休めよ。昨日よりは幾分マシかと思ったが……今のお前、酷ェ顔だぞ」
    「……、はい……」

     私が頷いたのを確認すると、レオナ先輩はそのまま振り返らずに階段を降り、オンボロ寮を出ていったようだった。玄関のドアがバタンと閉まる音が聞こえて、しばらくは動くことが出来なかった。
     手に握りしめたままだったバンダナに、ゆるゆると視線を落とす。返しそびれてしまった。いや、先輩の分のバンダナを受け取りそびれてしまった。今日こそは私が預かって、洗ってから返そうと思っていたのに。

    「……ウクファ、クヨフィカ」

     ぽつりと呟く。
     私が強く握りこんだせいで、バンダナに描かれたライオンの紋章はしわしわに歪んでしまっていた。





     レオナ先輩は、聖典を見つけたその日に学園長への報告を終えたらしかった。と言うのも、私は翌日学園長に呼び出されて、現状の説明を受けたからである。
     曰く、見つかった聖典は既に鍵が開けられた後で、かつては……或いは解錠されるまでは何らかの力を持っていた可能性もあるが、今はただの書物に過ぎないということ。中身は古代呪文語で書かれており、翻訳薬などでも太刀打ちできない言語のため、一日二日では解読も出来ない内容であること。そもそも読んでも人体に影響がないかどうかはわからないので、解読はしない方向だということ。レオナ先輩の報告により鍵が水銀であることは判明したが、結局鍵が何を封じていたのかは謎のままであること。
     意外に冷静に説明をされたものだから、「もしかして大事には至らなかった感じですか?」と聞いた。そんなわけないでしょうと怒鳴られた。動揺を抑え込むために精一杯冷静であろうと努めていたらしい。

    「全く本当に、とんでもないことになってしまいましたよ。何もわからないからこそあまりにも怖い。鍵が水銀だなんてそんなこと考えるわけないじゃないですか。何千年もの間、鍵がどんな形でどんな色をしているのかわからなかったわけです。そりゃあわかりようがない、だって、水銀ですから!」

     学園長は半ば悲鳴混じりの声で言っていた。適当な場所に保管して、その場所を忘れてしまったことを心底後悔していたのだろう。せめてもっと私の目の届く場所にしまっておけば、とは話の最中に何度か漏らしていた言葉である。

    「キングスカラーくんからあなたの様子についても聞いていますよ。最近具合が悪いんですって?」
    「……えっ?」

     聖典の話題に意識を集中させていたから、突然レオナ先輩の名前が出て一瞬反応が遅れてしまった。

    「顔色がよくありません。聖典を探している最中、どうにも様子がおかしかったとか」
    「それは……レオナ先輩が心配しすぎているだけではないでしょうか……」
    「あなたに対しては心配しすぎるくらいで丁度いいと思いますけどねぇ」

     どこまで本心なんだかわからないような口調で言う。けれど口調と裏腹に、声音は思いのほか真剣だった。

    「大丈夫です。元気です」
    「ふむ……。……キングスカラーくんも言っていましたが、聖典がオンボロ寮にあったことであなたに何か影響があったかもしれません。或いはこれから出てくる可能性もあります。何か普段と違うこととか、心配事とかがあれば、いつでも相談してくださいね。きちんと対処しますから。何せ私、優しいので!」

     にっこりと微笑まれながら告げられるいつものセリフに、私も頷くことで返した。

     結局、目に見えて何か聖典の悪影響がある訳では無いから対処という対処も特に出来ない、というのが現状だった。わからないことが多すぎる。が、その謎を解明する方が危険である、ということらしい。正に「触らぬ神に祟りなし」だ。
     聖典の今後については、まだ決まっていないのだそう。禁書であろうと重要な歴史的書物には変わりがない。このまま学園でひっそりと保管するか、そっと夕焼けの草原に押し付けるかは検討中だと言っていた。

    「……ひとつ、気になっていることがあるんですが」
    「はい、なんですか?」
    「今回、聖典の鍵が開けられてしまったのは……誰かが企んだことだとか、そういう可能性はないのでしょうか?」

     聖典がここにあることを知っていて、鍵を開けてしまおうと目論んだ輩がいたのではないか。考えにくい話ではあるが、有り得ないと一蹴するのもまた難しいことだと思っている。
     学園長は私の言葉にふむ、と小さく考えると、ゆるく首を横に振った。

    「それはないでしょう。聖典の話は有名です、興味が無い人でも話を聞いたことがある程度には知られているものです。ですが、全てが謎に包まれているその聖典を、人はどうやって信じますか? 聖典をここに持ち込んだ人物も、聖典が本物であると心からは信じていないようでした。偽物でも本物でも厄介なことには違いない、これっきり忘れてしまいたいと言っていましたよ。そもそも何故聖典が見つかったかと言うと、ずーっと開かずの間だった先祖の蔵を数百年ぶりに整理していたらお宝発見ってやつで見つけてしまったってことでしたしね。私はすごい魔法士なので見た瞬間に本物だと気づきましたが、本物が見つかったのが良かったことだったのかどうか」

     見つけてしまった人も気の毒だったのかもしれない。聖典が偽物であったら良かったのだろうが、聖典は本物だった。そして恐らく本物の聖典が実在しているということを、この世界中で学園長しか知らなかった。……今は私とレオナ先輩も知ってしまったわけだけど。

    「魔導具にも様々ありますが、錠や鍵なんかはその中でも数が多いものの一つです。昔から逸話もたくさんありますしね」
    「逸話?」
    「グレートセブンが生きていた時代には、世界にも鍵穴があったとか。一人の少年が、剣のように大きな鍵で世界に鍵をかけていたそうですよ」

     まぁ、ほぼ御伽噺のような話なので本当か嘘かを確認する術は無いんですけどね。言いながら学園長は肩を竦める。

    「錠は鍵をかけるもので、鍵は錠を開けるものです。片方ずつでは意味の無い物は、欠けた部分を埋めるために引かれ合う。魔導具であれば尚更です。たった一つの理由を込められた魔法は強い。鍵がどのようにして長い時の中を渡ってきたのかはわかりませんが、ここに流れ着いたのは限りなく必然に近い偶然、でしょうね。ずっと錠に呼ばれていたんでしょう」

     水銀は、錬金術などに使う用の水銀を発注した際に紛れ込んだのだろうとのこと。クルーウェル先生が調べてくれたそうだ。ただでさえ危ない物質だから、発注したときの数と合わなくて驚いただろうな。他の生徒に被害が出ていなくて何よりである。 

    「とにかく、あなたの言うように誰かの陰謀だとすると、聖典が本物であり、解錠の仕方も知っていなければ成り立ちません。今回は本当に、不幸な事故ですよ。あぁ……本当にどのように処理したらいいのか。私も頭が痛いです」

     現状何も起こっていないからと言って放置することは到底出来ない。何かしらの対策を打たねばならないが、なにも起こっていないから対策への足掛かりもない。学園長の悩みももっともなことであった。
     何も出来ていない私に出来ることなんてほぼ無いも同然だが、せめて「なにか私に出来ることがあれば」と告げてから、私は学園長室を出た。



     ***



     悪い夢は、少しずつ鮮明になってきているようだった。今まではろくに内容も覚えておらず、ただ夢が恐ろしいことと悪夢から覚める為には夢の中で死ぬ必要があることしかわかっていなかったと言うのに、最近は夢の中で聞いた声が目を覚ました後も耳から離れないのである。
     声に告げられた言葉までは、覚えていない。けれど今まではあまりにぼんやりとしていた夢が僅かながらも輪郭を持ったと言うことに、戸惑いや恐怖を感じないわけではない。

    「……なんか、悪い夢を見てしまうのも。私の自己嫌悪が全部出てるような気がして……情けなくなっちゃうんだよね」

     いつものようにパンをマウティと食べながらそんなことを漏らせば、彼はきょとんと目を瞬かせて首を傾げた。

    「情けない?」
    「うん。こないだも学園長からの頼まれごとを先輩と二人でこなしたんだけど、結局私はほぼ何も出来なくて……先輩の足を引っ張っただけ。逆に足手纏いになっちゃった」

     数日経つ今でも、聖典を見つけた日のことを思い出すと胸が痛んだ。いっそ私がいなかった方がすぐに見つかったんじゃないかとか、私は何のためにあの日手伝いをしたのだろうとか、いつだって誰かの足を引っ張るのは私だな、だとか。そんな卑屈で嫌な自分が顔を出す。卑屈になるのは自分が弱いからで、そんな自分が嫌だから強くあろうとするのに、結局上手くいかなくてまた卑屈になる。堂々巡りで何も変わらない。
     溜息を飲み込むようにカフェオレの紙パックを口に運べば、こちらをじっと見つめているマウティに気がついた。彼は綺麗な瞳で私を見据えながら、背中の羽を羽ばたかせてふわりと浮き上がる。

    「誰がお前のことを情けないなんて言うんだ? 足手纏いだって誰かに言われたのか?」
    「え? ううん、誰かに言われたわけじゃないけど……私がそう思うの」
    「どうして」
    「どうして、って……」

     マウティの声は少し怒っているようでもあった。

    「よくわからない世界に落とされて、言葉も通じなくて、そんな中でお前は良くやってるだろ」
    「それは……でも、例えば他の誰かが私と同じ目にあったら、きっともっと上手く出来るんだろうなって」
    「それはもしもの話でしかない。この世界に落とされたのはお前で、頑張ってるのも他の誰かじゃなくお前だろ。もしもの話に意味なんてない」
    「……うん」

     こんな時にも、卑屈な自分が出てくる。マウティは私を慰めてくれようとしている。それが伝わるのに、わかるのに、どうせ私なんてと考えてしまう自分が嫌で仕方がなかった。ありがとう、また頑張るねって笑顔で言えるような人になりたいのに、私には小さく返事を返すのが精一杯だ。

    「お前じゃなきゃ、俺は救えなかった」

     低く穏やかな声が耳を打つ。無意識に手元に落としていた視線を上げると、マウティは変わらずじっと私のことを見つめていた。

    「消えかけていた俺を救ったのは誰だ? お前だろ? お前がいたから俺は今ここでこうして存在できている。お前は俺の恩人だ。だから情けないだとか足手纏いだとか、そんなことは絶対に有り得ない」
    「マウティ、」
    「俺はお前を気に入ってる」

     小さな手のひらが頬に触れる。マウティの手はひんやりとしていて、それが不思議と心地いい。波打っていた気持ちが徐々に落ち着いて、ゆっくりと長く息を吐き出した。

    「……ありがとう、マウティ。嬉しい。これからも頑張るね」
    「いい顔になったな」

     マウティに褒められるとなんだかくすぐったくなる。
     あぁ、早くマウティに近づきたいな。もっと近い存在になりたいな。ぼんやりとそんなことを考えながら、私の肩に座り直したマウティと二人でパンを食べるのを再開する。
     唇に付いたパンのくずを舐め取るマウティの仕草を見て、その色気に思わずどきりとした。ゆっくりと瞬きをしながらこちらを見上げるのは、意図してやっていることなのだろうか。
     マウティに褒められると、くすぐったくて嬉しい。それが何故なのか深く考えていなかったけど、今は何となく自分でもわかる気がした。
     彼が、レオナ先輩に似ているからだ。似ているとは最初から常々思っていたけど、マウティと秘密で会う日々を重ねる度に更に強く感じるようになった。マウティに褒められると、レオナ先輩に褒められているような気持ちになるのだ。だから嬉しいと感じる。何故嬉しいと感じるのか、そこに気付かないふりが出来るほど私は大人では無い。

    「……好きなんだなぁ、」

     溜息のように零れた呟きに、マウティは小さく首を傾げている。
     好きだから、レオナ先輩の足手纏いになりたくなかった。彼の前ではちゃんとしていたかった。ちゃんと出来なかったから、情けなくなった。
     恋だとか、愛だとか、そんなことにうつつを抜かしている場合では無いと、よくよく理解している。そもそも、一国の王子様と庶民ではあまりにも不釣り合いすぎるというのに、私はこの世界の庶民ですらない。出自の知れない、得体の知れない存在だ。もしものことを考えることさえ烏滸がましい。
     気付いたところで、不毛すぎる。好きだという気持ちを持っていることさえ恥ずかしくなって、私は残っていたパンを無理やり口に押し込むとぬるくなったカフェオレで飲み下した。

    「好きって、何が?」
    「何でもないの。……ねぇ、マウティは、ずっと私の傍にいてくれる?」

     酷いことを口にしているとわかっていた。彼を恋の代わりにするなんて、誠実さのない酷いことだとわかっていた。けれど自覚したてで捨てなければならない恋心の穴を埋める為に、どうしても彼に縋り付きたかった。
     マウティは私の言葉に小さく羽を揺らし、それから口角を上げて目を細めながら微笑む。

    「もちろん。妖精は執念深いんだ。気に入ったお前のことを離すつもりは無い」
    「そっか。……うん、ありがとう」

     マウティの言葉に酷く安心して、ほうと息を吐いた。マウティがいれば、きっと私はこの世界で一人ぼっちになることはない。マウティがいれば、きっと私は大丈夫だ。

    「悪夢が鮮明になってきたのも、いい傾向だ」
    「そう……なの?」

     先程マウティに話した夢の話に戻って目を瞬かせる。夢が鮮明になり、声が耳に残っているところまで話していたのだった。

    「魔法だってイマジネーションが大事なんだぜ。輪郭が掴めれば対処できることだってたくさんある。自分が死ぬ夢は吉夢。これからは死に方だって選べるかもしれない」
    「……うーん……それは、なんか……それはそれで複雑というか……あんまり嬉しくないかもしれない」
    「何でだよ」

     心底わからないという表情を浮かべるマウティに、私は苦笑することで返した。死に方を選べないよりは選べる方がそりゃまだマシなのかもしれないが、そもそも何とか死を回避する方法はないのだろうか。とはいえ、慣れとは恐ろしいもので、今では夢の中で躊躇なく死を選ぶことができるようになってきているのも事実であった。マウティの言うように「良い傾向」と言われれば、そうなのかもしれない。

    「お前が呪文をきちんと唱えている成果が出てるんだよ」
    「そう?」
    「あぁ」

     マウティに会いに来るのも、幸せの呪文を唱えてから寝るようにするのも、毎日欠かさず行なっている。その成果が出ているのかは私にはわからないけど、そうだといいなと思う。

    「もうそろそろ、朝も穏やかに目覚められるようになる。救いの訪れはもうすぐだ」



     ***



    「コーーブーーン!」

     ぺち、と頬を叩かれてぱっと目を開ける。グリムと、エースとデュースが私の顔を覗き込んでいた。三人の後ろは抜けるような青空。寒さも本番に近付く季節で、少し乾燥した冬晴れの空は心地が良い。
     だが、状況がわからずに混乱する。……ええと、私は何をしていたのだっけ? 頬に触れているのは、グリムの肉球だ。

    「居眠りしてんなよ、監督生」
    「大丈夫か? どこか具合でも悪いのか?」
    「居眠り……」

     眠いと思った記憶も、寝落ちたという記憶もない。バルガス先生の飛行術の授業中だった。魔力のない私は飛行術の授業には参加出来ない為、見学か筋トレかその日によって異なってくる。今日は見学の日だった。
     少し離れた場所にある木の下で座って皆が空に舞い上がるのを見学していたはずなのに、私は何故今エースとデュースに起こされたのだろう。

    「授業なら終わったぜ。なのにお前が全然動かねぇからどうしたのかと思って呼びに来たら堂々と寝ててビビったわ」
    「立てるか?」
    「……私、寝てた?」

     私が問うと、三人は怪訝そうな顔をした。
     私は今確かに三人に起こされて目を覚ました。だから、私が寝ていたというのは間違いないのだろう。けれど、記憶にないことを思い出すことは出来ない。眠った記憶などない。寝落ちた記憶もない。ほんの一、二秒程度目を閉じて開けたら、授業は終わっていてグリムに起こされた。そうとしか説明ができない自分の状況に戸惑う。
     私が本当に混乱しているのだと伝わったのか、エースが目の前にしゃがみこんで私の額に手を当てた。

    「熱はー……無さそうだけど」
    「まだ夢見が悪いのは続いてるのか?朝飛び起きたりするのも」
    「夢見は……まだ良くは無いけど……」
    「少し前からは、飛び起きることも無くなったんだゾ。……でもコブン、ずっと調子悪そうじゃねぇか」

     先日マウティに言われた通り、私の寝起きは徐々にではあるが改善していた。夢見が悪いのは変わらない。けれど、夢の中で死を選ぶことに抵抗がなくなってきた、というのだろうか。死は恐怖すべきことでは無いのだと感じるようになって、それからは朝の目覚めも穏やかである、はずだ。
     調子が悪いなんてことはない。穏やかに眠って、穏やかに目を覚ます。怖いことなどない。救いはもうすぐ、マウティの言葉が優しく耳に残っている。

    「……なぁ、監督生。やっぱさ、一回ちゃんと診てもらった方がいいんじゃねぇの?」

     ぼんやりとしている私の顔を覗き込んで、エースが言った。言葉とは裏腹にその声は少し鋭い。

    「こんなに長い間ずーっと調子悪いなんておかしいって。お前はちゃんと夜は寝れてるって言うけど、実際はお前がそう思ってるだけでそうじゃないかもしんねーじゃん」
    「普段の授業の勉強に加えて、監督生は言語の勉強もあるしな……疲れが溜まってるんじゃないか?」
    「コブン、顔色悪いんだゾ……コブンの体調管理も、親分である俺様のギムなんだゾ!」
    「大丈夫だよ」

     そうなのかな。そうなのかもしれない。皆に心配されればされるほどやっぱり私はどこかおかしいのかもしれないと感じるのに、心配されればされるほどそんな事ないと突っぱねる気持ちが膨れ上がる。三人の声を弾き返すように、私の口からは軽い声が零れた。自分の意思とは反して口角が上がる。

    「三人とも心配しすぎだよ、ありがとう。でも本当に大丈夫なの。ほら、早く行かないと次の授業に遅れちゃう」
    「監督生……本当に大丈夫なのか?」
    「うん、もちろん」

     立ち上がって運動着に付いた草を払う。顔を上げれば、三人は困ったような、もどかしいような、複雑な顔をしていた。
     そんな顔をさせたいわけじゃないんだけどな、心配をかけたいわけじゃないんだけどな。もっと上手くやらないと。こちらを不安そうに見上げるグリムに小さく笑いかけて抱き上げる。優しいお日様の匂いがする。

    「お前、気付いてねぇの?」
    「気付いてないって、何が?」
    「メイクして顔色誤魔化してんだろ。目の下の隈とか、青白い顔色とかさ。最初はわからなかったけど、さすがにそろそろ気付くって。毎日一緒にいる俺達はもちろん、きっと他の連中だって。まさか本気でバレてないとでも思ってんの?」

     エースの声には棘があった。その棘が私に対する心配からきていることもきちんと理解している。上手くやれてると思っていたのは私だけなのかもしれない。思っていた以上に周りに心配をかけてしまっていたのかもしれない。でも、

    「私、皆に迷惑なんてかけてないよ」

     思っていたより低い声が出た。エースが怯む気配がする。

    「心配かけちゃってるのはごめん、私が悪いと思う。でも、私エース達に何か迷惑かけた?」
    「っ、迷惑とか、そういう話じゃねぇだろ。何か悩みでもあるなら聞くって言って、」
    「悩みなんてないし。それに頼んでないよ、そんなこと」

     こんなこと、言いたくないのに。上手く頭が回らなくて、私は心配してくれている友人達を突き放すような言葉を口にする。どうして、やめてと思うのに、すらすらと流れ出す言葉は止まらない。
     エースは私の言葉に押し黙ったけど、空気がピンと張り詰めている。彼を怒らせたのは、間違いない。

    「ッそうかよ! じゃあもう勝手にしろよ!」
    「エース!」

     私を追い越すような形で、エースは校舎の方へ走っていってしまった。デュースが慌てて彼を呼ぶものの、振り向くことすらない。こんな酷い空気にしてしまったというのに、私の心は動かない。ただ、「ああ、やってしまったな」とだけ思った。

    「……監督生、」

     校舎に足を向けた私を呼び止めたのは、デュースだった。振り向くと、思っていたよりもずっと真剣な顔をしたデュースと目が合う。

    「僕達に何か隠してないか?」
    「何かって、何を?」
    「何かって……それは、わからないが」
    「ないよ、何も」

     心底わからない、という声が出る。何も隠してない。話さなきゃいけないような話は何もない。話す必要があることなんて、何も無い。
     デュースはしばらくじっとこちらを見つめていたけど、私が口を開かないと理解したのかやがて小さく溜息を吐く。

    「……何もないなら、いい。でも何かあるなら、ちゃんと話してくれ。……エースだって心配してるんだ」
    「うん。ありがとう、デュース。グリムもね」

     腕の中に視線を落とせば、エースの剣幕に口を挟むことが出来ずにいたであろうグリムと目が合った。依然黙ったままだが、それでもグリムの瞳は小さく揺れている。
     皆、納得はしていないようだった。けれどだからといって、話せることなど何も無い。



     ***



    「小エビ!!」

     鋭い声が飛んではっと目を開ける。ずぶ濡れになったフロイド先輩が、珍しく焦った表情で私の顔を見下ろしていた。フロイド先輩の髪から滴る雫が頬に当たって、そこで私は自分の体もずぶ濡れであることに気付く。だんだんと意識が覚醒してくれば、周りにはアズール先輩やジェイド先輩までいる。フロイド先輩だけじゃなく、二人ともやや焦った表情を浮かべていた。

    「……えっと、」
    「……まーじでびっくりした。え? 何? 小エビちゃんこの寒さで水浴びする趣味でもあったの?」
    「みず、あび」

     私は、授業でわからなかったところをクルーウェル先生に聞きに行った。放課後は基本的に魔法薬学室にいる先生の元を訪れ、丁寧に問題の部分を解説してもらった。クルーウェル先生には、「勉強に熱心に取り組む姿勢は良いが、随分と覇気がない。きちんと休むように」とのお言葉を受けた。授業は問題なく受けられているはずなのに、そんなに私は酷い顔をしていたのだろうかと思いながら魔法薬学室を出て……そこからぱったりと記憶が無い。
     体をそっと起こして辺りを見れば、私は魔法薬学室からほど近いところにある池の側に寝かされているようだった。冷たい風が吹いて、小さく身震いする。ずぶ濡れの服は当然冷え切ってしまっている。

    「僕達、鏡舎から寮へ帰るところだったんですよ。そうしましたら、魔法薬学室から出てきた監督生さんが、池の方へふらふらと歩いていくのが見えまして」
    「気がついた時にはドボンです。足でも滑らせたのかと思いましたが、そんな素振りはなかった。……どうしたんです、あなた」
    「どうした、って……」

     ジェイド先輩もアズール先輩も、表情には困惑を滲ませている。けれど多分、誰よりも私が一番困惑していた。
     だって何も憶えていない。魔法薬学室から出てオンボロ寮に戻ることを考えていただけ。オンボロ寮に戻ったらマウティに会いに行って、その後はグリムと一緒に夕飯を食べて、今日の授業のおさらいをする。そんなことを考えていただけだ。それが何故、池に落ちることになるのか全くもって理解ができない。

    「オレにはよく見えてなかったよ。小エビちゃんドジだなって思って、なんならからかってやろーと思ってこっちまで歩いてきたら、全然浮いて来ねぇんだもん。だいじょぶ? 水飲んでねぇ?」
    「いえ……その、池に落ちたことすら、憶えてないです」
    「はぁ?」

     フロイド先輩はぱっかりと口を大きく開けて眉を寄せた。見れば、アズール先輩もジェイド先輩も絶句している。

    「いや、さすがにそれは無いっしょ。珊瑚の海出身のオレ達には大したことないけど、今日結構寒いよ。水も心地良い冷たさだったし、陸の軟弱な奴らがこの寒さで目が覚めないわけないじゃん」
    「監督生さんには……池に落ちた覚えがないと言うことですか? 自らの足で池の方に歩いていったことも?」
    「……魔法薬学室を出たあたりから、記憶が途切れていて……」
    「なにそれ、どーゆーこと?」

     それは私が聞きたい。
     こないだも、こういう事があった。飛行中の授業の時、エースと喧嘩をしてしまったあの日だ。あの日も、寝落ちた記憶なんて私にはなかった。眠いとさえ思っていなかった。なのに目を閉じて開けたら授業が終わっていた。
     あの日から、エース、デュースとはあまり行動を共に出来ていない。エースとは口を利けていないからだ。グリムは私を気遣って私の傍にいてくれようとするけど、それも何だか可哀想で時々デュースに任せるようにしている。
     エースと私の喧嘩に、デュースとグリムを巻き込んでしまう形になっていて申し訳ないと思う。私自身、あの日になんであんな言い方をしたのかわからないままでいる。でも、謝るのも何だか違う気がして、結局エースとの意地の張り合いみたいになってしまっていた。
     突然意識が飛ぶ。記憶が途切れる。どんなタイミングなのかわからない。原因なんてもっとわからない。何が起こっているのかも。

    「……小エビちゃん、水ん中で暴れたような様子なかったよ。普通さ、陸のヤツらっていきなり水の中に落ちたらパニックになって暴れるでしょ。小エビちゃんにはそういうの無かった。……ねぇ、本当に意識なかったの? 自分の意思で飛び込んだんじゃねーの?」

     ねぇ、とフロイド先輩が尋ねてくる。意識が無かったのは本当だ。水に落ちた覚えもなく、気付けば池の側に寝かされていた。自分の意思で飛び込んだなんて、そんなはずはない。
     否定したいのに、じっとこちらを見つめてくるフロイド先輩の瞳がきゅうと細くなって、何も言えない。凍りついた空気を変えてくれたのは、ジェイド先輩だった。

    「フロイド、監督生さんが怯えていますよ」
    「だぁって、」

     ぽん、とジェイド先輩がフロイド先輩の肩に触れる。瞬間、フロイド先輩の表情が緩んだ。気付けば止めていた息を吐き出して、強ばりかけていた思考を回す。

    「あなたも、いつまでもこんな所にいては体を冷やします。送っていきますから、帰りますよ」

     言いながら私の肩にブレザーを掛けてくれたのはアズール先輩だ。濡れた衣服に体温を奪われてはいるが、風が避けられるだけで全然違う。
     そのまま、アズール先輩とジェイド先輩、フロイド先輩送って貰ってオンボロ寮まで帰った。三人とも何か言いたそうな顔をしていたけど、深くは聞かないでいてくれた優しさに感謝している。
     冷えた体をちゃんと温めるんですよ、なんて心配までしてもらったので、対価のことを聞いたら三人に呆れた顔をされてしまった。対価はいらないと告げて去っていく三人の背中を、ぼんやりと見送ることしか出来なかった。



     ***



     異変は、これだけで終わりはしなかった。

    「うっっっそでしょ?!」
    「監督生!! 」

     突然降ってきたラギー先輩とジャックの声にはっと目を開ける。私の体は、校舎の外へと投げ出されていた。ぶらぶらと揺れる足の数メートル下に石畳の地面が見える。そこには、私が落としたであろうペンケースと、そこから零れた筆記用具が散乱していた。
     さすがに息を飲んで顔を上げれば、外廊下のへりから体を乗り出したラギー先輩が私の腕を掴んでいる。

    「っ、なにぼーっとしてんの! 監督生くん早くそっちの手も頂戴!」
    「ぁ、え、は、はい……!」
    「監督生掴まれ!」

     ラギー先輩の剣幕に押されて垂れ下がっていたもう片方の手を上に上げれば、ラギー先輩の後ろから乗り出したジャックが掴んでくれる。そのまま二人によって引き上げられ、なんとか廊下に戻ってくることに成功した。
     私は足に力が入らないし、ラギー先輩は息を切らしているし、ジャックはいっそ恐怖しているような顔で私を見ている。全く状況が分からない。
     放課後だからだろうか、私達の他に生徒の姿は無かった。下の階の方からは人の気配がするけど、基本的にこの学校の生徒は皆放課後は部活に精を出していたり、麓の街まで足を伸ばしたり、そうでなければさっさと寮に戻ることが多い。そもそも校舎内に残っている生徒はさほど多くないのだろう。
     冷たい廊下に座り込んだままの私に、少しだけ息を整えたラギー先輩が怒鳴った。

    「キミ、何を考えてるんスか?! いきなりこんなとこから飛び降りようとするなんて、正気の沙汰じゃないッスよ!!」
    「飛び降り、……私が、ですか?」
    「こんな時間にこんなとこ歩いてるなんて珍しいなって思って声かけようとしたらふらふらっと端の方に寄っていって、突然足掛けて飛び降りたでしょ! 魔法が使えるならともかく、魔法が使えないキミがなんでそんな危ないことするんスか!」

     ひゅっと息を吸い込む。全く、何も憶えていない。恐る恐るジャックの方を見れば、彼も黙ったまま私のことをじっと見つめていた。ラギー先輩の言葉が嘘では無いことを物語っている。
     ラギー先輩は一先ずの思いを吐き出せたのか、深い深い溜息を吐くと私の前にしゃがみ込んだ。それから眦を下げて私の顔を覗き込む。

    「……どうしたんスか、本当に。何か思い詰めてる? 最近エースくんやデュースくんとあんまり一緒にいないって聞いたけど」

     打って変わって、ラギー先輩の声は優しかった。心底心配してくれているんだと思う。エースとデュースのことに関しては、もしかしてジャックから聞いたのかな。ジャックとは普段一緒になる機会は少ないけど、デュースがジャックと同じ陸上部だからそこから伝わったのかもしれない。
     けれど、今日のことはエースとの喧嘩とは全く関係ない。

    「いえ……あの、今の……何も、憶えてない、です」
    「は?」
    「え?」

     ラギー先輩とジャックが揃って口をぽかんと開ける。こないだ、オクタヴィネルの三人もこんな顔をしていた。

    「何も憶えてないって……お前、それどういう……」
    「移動教室の時に……忘れ物を、してしまって」

     放課後になって一度オンボロ寮に帰ったのだ。そこで、忘れ物に気がついた。二階の端に位置する移動教室。そこに忘れたペンケースを、放課後になってから取りに行った。机の下に置き去りにされていたペンケースを手に、そのままオンボロ寮に戻る予定だった。
     教室を出てからの記憶が無い。いつ自分が外廊下に差し掛かったのかも、どうやって飛び降りようとしたのかも。何も、憶えていない。

    「……そんなの、おかしいっしょ。だってキミ、自分から足掛けて、飛び降りたんスよ? つまづいて落ちたとかそういう事故じゃない。憶えてないって、そんな……」

     ラギー先輩の声は僅かに震えているようだった。私にも、自分が普通じゃないことくらいはさすがに理解出来る。この間から、あまりにもおかしなことが続きすぎた。

    「……あの、助けていただいてありがとうございました。もう大丈夫です。ちょっと、疲れてるのかもしれないです。帰って休みます」

     ようやく力が入るようになった足を動かして、ゆっくりと立ち上がる。呆然としているラギー先輩とジャックに頭を下げてそのまま立ち去ろうとしたら、大きな手のひらに腕を掴まれた。見なくてもわかる。ジャックの手だ。

    「……エースとデュースから、お前の様子がおかしいことは何となく聞いてる。お前、全然大丈夫じゃねぇだろ」
    「大丈夫だよ」
    「何も大丈夫じゃねぇ。今回は俺とラギー先輩がいたからいい、だがもし誰もいなかったら……お前、大怪我するところだったんだぞ。打ちどころが悪けりゃ死んだっておかしくねぇ」
    「わかってる、」
    「いーや、何もわかってねぇッス。監督生くん」

     少しだけ振り向けば、ラギー先輩もジャックもこないだのエースやデュースと同じような顔をしていた。真剣に、真っ直ぐ見つめられて居心地が悪い。視線からも二人からも逃れたくて小さく身を捩るが、ジャックの手は私のことを放してくれそうには無い。

    「自らの意思で……ってのも大問題ッスけど。無意識だっていうなら、それはもっとやばいでしょ。オレらに話せないって言うなら、別にそれでもいいッス。でもキミが信頼してる誰かには、絶対相談した方がいい」
    「相談って、なにを?」
    「キミが今そんな状況になってることを、でしょ。悩みでもあるのか知らないけどさ、普通じゃないッスよ。このまま放置して良いわけが無いッス」
     
     悩みを聞くとか、何かあるなら話して欲しいとか、相談だとか。皆私にそういうことを言うけど、それなら何を言ったらいいのか教えて欲しい。私から何が聞きたいのか教えて欲しい。私には心底わからないのだ。
     あぁ、でも。これ以上は二人と会話を続けたくないな。きっと私はまた、エースにしたみたいに二人に酷いことを言ってしまう。自分の意思では止められない言葉が溢れ出てきてしまう。私のことを心配してくれている人達のことを、傷つけたくはない。酷いことを言いたくない。

    「……本当に、大丈夫です。ジャック、放して」
    「放さねぇ」
    「放してってば、」
    「逃げんな」
    「逃げてない、やだ、放して!」

     私はその時、ジャックから逃れようとすることに必死だった。ジャック達の方に向き直って、私の手首を拘束する手のひらを引き剥がそうと意識をそちらに向けていた。だから、全く気付いていなかったのだ。ラギー先輩がこちらの様子を窺いながらもスマホを操作していることに。少し靴底を引き摺るようなような、ゆったりとした足音が近づいてきていることに。
     そして、その気配や足音に気付いた時にはもう遅い。

    「キャンキャン吠えてんじゃねぇよ、草食動物」

     低く響く声に体がびくりと震えて、そのまま硬直する。
     声は、私の後ろから聞こえた。目の前にいるラギー先輩が、小さく息を吐いてから頭の後ろで手を組む。

    「遅いッス、レオナさん」
    「馬鹿言え、こっちは転移魔法まで使って来てやったんだぞ。遅いってんならお前の連絡が遅いんだ」
    「わ、ひでー」

     乾燥した大きな手のひらが、後ろから私の首をそっと掴む。絞められているわけじゃない。息も出来る。なんなら私の手首を掴むジャックの手の力の方がよっぽど強いのに、それでも私は指一本動かすことすら出来ない。大きな手のひらは、私を宥めるようにうなじの辺りを撫でている。正しくライオンに牙を立てられた草食動物のように、私は身動きが取れなくなっていた。

    「……さて、話の続きは俺の部屋でしようじゃねぇか。なァ、レディ」

     オンボロ寮の階段から落ちかけたときも、レオナ先輩に「レディ」なんて言われてからかわれたのを思い出す。けれど同じ言葉でも、今はあの時のような温かさはなかった。からかうとかじゃない、強い圧を感じて息苦しくなる。
     ジャックの手は、レオナ先輩が私に触れた時には離れていた。それなのに柔らかく私の首に触れる手のひらだけで、抵抗する気さえ起きない。
     口がからからに渇いて、喉が張り付く。震える唇を開けて、何とか声を絞り出した。

    「……話すことなんて……」
    「お前に無くても俺にはある。安心しろ、別に取って食いやしねぇよ」
    「……それは、脅しですか」
    「くく、随分と反抗的だな? よほど俺と話がしたくないと見える」

     レオナ先輩は楽しげに笑っているけど、その声が纏う空気は重い。何も面白くなんかない。

    「反抗的なのも嫌いじゃねぇが……俺のオーバーブロットを止めた時の勢いも、覇気も。今のお前には爪の先程もねぇ。これ以上の問答は俺を退屈にさせるだけだぜ」

     到底、逃げることなんて出来ない。レオナ先輩も、最初から私を逃がすつもりなどないのだろう。私に拒否権など残されてはいない。
     私が返事をしないことを了承と取ったのか、レオナ先輩は私の首から手を離すと自然な動きで腕を絡ませた。エスコートをされる時のそれに、苦い気持ちになる。
     好きな人と、こんな距離でくっつけて。本来ならもっと甘くて、幸せで、くすぐったい気持ちになるはずなのに。羞恥もときめきもない、ただ重苦しい気持ちが私の胸をじりじりと焼いている。

    「ラギー、ジャック。こいつは連れてくぞ」
    「はいはーい、ごゆっくりー」
    「落ちたペンケースは拾っておきます」

     歩き出すレオナ先輩に半ば引きずられるように足を動かす。ちらりと後ろを振り向いてラギー先輩とジャックを見やると、彼らはまるで正反対の表情を浮かべていた。ジャックはエースやデュースと似た複雑そうな顔、ラギー先輩は小さく笑ってひらひらと手を振っている。
     心から、逃げ出したい。死んだ方がマシだとさえ思った。



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    Replies from the creator

    BlueFish_DC

    MAIKING書きかけの🦁🌸
    多分これで半分くらいにはなるはず…後半を書き上げたらpixivに上げたい所存です。
    タイトルも何も決まってないしなんならオチも決まってない

    以下、数点ご注意ください。
    ・死=幸せであるという描写と、死、自殺を思わせる描写があります。それらを推奨する意図はありません。
    ・名前有りのオリジナルキャラが出ます。
    ・スワヒリ語、ズールー語を古い言語とする描写があります。
    未定 何か得体のしれないモノの、深い息遣いが聞こえる。
     吸って、吐いて。吸って、吐いて。深く、長く。
     自分の呼吸とは合わないそれは、音だけで形を持たないというのに何故か私のことをじっと見つめているような恐怖があった。
     呼吸が、私を見つめている。私からは見えないところで、私のことをじっと見張っている。監視している。そんな恐怖から私の呼吸は徐々に乱れ、刻み、細かく速くなっていく。ますます、私を見ている呼吸とずれが生じていく。速い自分の呼吸と、深く長い何かの呼吸。身震いする。
     そもそも、ここはどこだろう。辺りは一面闇に包まれていて、どこに視線を向けても何も見えなかった。声を出してみようと口を開くものの、舌はからからに渇いていて言葉を紡ごうとしても喉が張り付いて音にならない。声が出ない。声にならない。呼気が震えて、私はそっと口を閉じる。足は動くだろうか。足を持ち上げようとして、失敗した。触れられている感触はないのに、何かに足を掴まれているようで動かすことは出来ない。
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