日だまり、或いは一杯の卵粥 寒い。
布団に入ってしばらく寝付けないでいるうちに、スグリは妙に、背中のあたりが薄ら寒いような感覚をおぼえた。
毛布の中に首まで潜り込んでもまだ寒い。ハルトが出張で出かけているから、今、この家にゴーストタイプやこおりタイプのポケモンはいない。……だとすると。
嫌な予感を感じつつ、なんだか重たい気がする体を起こして体温計を引っ張り出し、熱を測る。しばし待って、案の定。
「わやじゃ……」
熱があるとわかった途端、さっきまで平気だった頭まで急にくらくらしてくるから不思議だ。ハルトに電話……とスマホロトムを呼び出しかけて、時差がどれくらいか分からないが寝る前に電話したばかりだし、仕事中だろう、と思い直す。そもそも、遙か海の向こうにいるハルトに、熱が出ましたと電話したところでどうなる。ただハルトに心配をかけて、やきもきさせてしまうだけだ。
明日も仕事だ。ひと眠りしたら熱が下がっていますようにと祈りながら、冷蔵庫から出してきた氷枕だけを頼りに、スグリはひたすら、眠るべく努力をした。
***
「うぅ……下がってない……」
むしろ、熱は上がっている。
ひと眠りすることはできたものの、起きてみたら、声までなんだか変だ。もう出勤時間まで、あまり猶予もない。仕方なく上司に電話して状況を伝えると、『あ~確かに声カッスカスやな、しんどいやろ、ええから今日は休んどき』と、即休暇をとる許可が下りた。
『あんまり休まれると人手不足で困るからなぁ、早いとこ治すんやで~』
必要以上に気負わせない調子で明るく言ってくれる上司に感謝しつつ、スグリは通話を切る。
少し悩んで、一応、ハルトにもメッセージを送っておくことにした。実は体調を崩していましたということが後でバレたら、しばらくのあいだハルトがしょんぼりしてしまうことを、経験上、分かっていたからだ。
スマホで文字を打つ動作にも今ではだいぶ慣れたのに、発熱でぼんやりする頭では、言葉がなかなか浮かんでこない。『熱出た』『今日は仕事休む』とだけ、なんとか打って送信した。
向こうが現在何時なのかは分からないが、ものの数秒で既読マークがついた。さらに数秒後、『すぐ行く!』という短い文が表示されたので、スグリは慌てて制止の文字を打つ。
『ダメ』
『ちゃんと仕事して』
『寝てたら治る。ポケモンたちもついててくれてる』
全速力でそれだけ送信したあと、『仕事途中で放りだして来たら俺怒るから』という念押しの一文も、追加で送っておく。
すべて即既読がついたのに、たっぷり数十秒は経ったあとで、『わかった……』と、分かりやすく渋っている様子の返信が来た。念を押しておいてよかった。
「……まったく、ハルトは……」
なんだか年々悪化している気がするハルトのこういうところにちょっと呆れはするものの、画面のなかの文面を眺めていると、ほんの少し、口角が上がる。心配してくれるだけでうれしいんだから、いい大人が余計な気を回さなくていいのに。
『ご飯食べられる?』『あったかい服着て、できれば何か食べて病院に行って』『なるべく急いで帰るから』とスグリの身を案じてくれる言葉たちに了解の意を返してから、スグリはベッドから降りて、手持ちのポケモンたちをモンスターボールから外へ出した。食欲はわかなくても、彼らのぶんの朝ご飯だけは、忘れずに用意してあげなくてはいけない。
「みんな、ちょっと待っててな。いま、朝ご飯用意するから……」
足元が妙にふわふわして歩くのに苦労していると、ボールから出てきたポケモンたちがドアの前にずらりと並んで壁になって、スグリは行く手を遮られた。
とおせんぼうを覚えている子は一匹もいないのに、代表して進み出てきたカミツオロチの頭でぐいぐいとベッドまで押し戻され、いいから休んでいろと言わんばかりに、オロチュたちの頭が口々に咎めるような鳴き声を出す。普段は移動担当の二匹にまで、蜜飴の中からわざわざ顔を出して叱られた。
オオタチも、後ろ足で立ち上がって小さな両手を広げて、ごはんくらい自分たちで用意できる!とアピールをしている。スグリは観念して、笑っておとなしく布団を被った。
「なにか困ったら呼んでな」
大丈夫です!とばかりにニョロボンが片手のひらを突き出して、人間でいえば首にあたる部分を頭ごと横に振るような仕草をした。一階のキッチンのほうへ降りていくみんなについて行かず寝室に一匹残ったカミッチュは、スグリが本当にきちんと休んでいるかどうか、見張っているつもりのようだ。
「にゃあお……」
カミッチュの後ろから顔を出した小さなニャオハが、ベッドの上へ飛び乗ってくる。ニャオハは枕元にちんまりと座ると、横たわるスグリの顔を心配そうに見下ろして、前足の肉球を、ふみふみと枕のふちに擦りつけはじめた。花のような、いい香りがしてくる。ハルトを思い出す匂いだ。
スグリは布団の中から手を伸ばして、ニャオハの頭をそっと撫でた。ふわふわの体毛はスグリが丁寧にブラシをかけてあげている甲斐あって、柔らかくて手触りが良い。
「ありがとな、ニャオハ。カミッチュも」
ニャオハとカミッチュに見守られながら、スグリはゆっくり目を閉じた。
少し眠ろう。はやく治さないとチリさんたちに迷惑をかけるし、ポケモンっこたちにも、これ以上心配をかけるわけにはいかない。
***
かすかに、話し声がする。重い瞼を開けると、すぐ近く――ベッドの縁のほうに、ポケモンたちの可愛らしい顔が並んでいた。カミッチュと……パーモットとニンフィア?
「あっ、スグリ! 起きた?」
「おー」
「え……ネモ……? ボタンも、なんで、」
慌てて体を起こしたスグリに、ニャオハを膝に乗せて椅子に腰掛けているボタンが、「これ」と自分のスマホロトムの画面を指し示す。
「スグリ、寝ぼけてうちらのグルチャにメッセ送ったっしょ。熱出たーって」
「心配だから、みんなで来ちゃった! 玄関の鍵はニョロボンが開けてくれたよ」
「チュ!」
「うんうん、カミッチュも一緒にお出迎えしてくれたもんね! スグリのこと、みんなでちゃんと見ててくれてえらい!」
カミッチュはネモに頭を撫でられて得意そうにしている。ニャオハがボタンの膝から降りてベッドに飛び乗ってきて、ごろごろと喉を鳴らしながら、スグリの手に頭を擦りつけてきた。
「いま、ペパーがごはん作ってるよ。ゼイユもこっちに向かってるとこだって。ま、病人はもうちょい寝てろし」
「ポケモンたちのお世話は、わたしたちに任せて!」
ネモが頼もしく胸を張ってみせると同時に、玄関のチャイムが鳴った。
「……ん、ゼイユ来たっぽい」
ボタンが自分のスマホを覗き込んで言う。はいはーい、とネモが応対に出ていく。
……状況に、頭がついていかない。スグリはぽかんと口を開けっぱなしのまま、ただ、ぐりぐりと擦り寄ってくるニャオハの頭を撫でて、成り行きを見守るほかなかった。
***
「川に落ちそうになってた野生のポケモン助けようとして自分が落っこちて、ずぶ濡れになったって? どんくさいわねー」
「うぅ……ねーちゃんうるさ……」
ぷーくすくす、と口元に手を添えてゼイユは意地悪に笑っている。つい先程はひどく心配そうな顔で焦って駆け込んできたくせに、弟が熱はあるものの起きていて普通に話もできると分かると、もうすっかり、いつもの調子だ。
「お前ら、熱出てるヤツの横でギャーギャー騒ぎすぎだろ……」
下まで聞こえたぞ、とペパーが呆れ顔で部屋に入ってくる。その両手に持っているお盆の上に、白い湯気をほのかに立ちのぼらせる土鍋と湯呑みが一つずつ乗っている。ペパーの後ろに続いて、小さなチュリネが一匹、ドアの向こうから顔を出した。ペパーのポケモンだろうか。スグリは初めて見る新顔だ。
「スグリ、メシ食えそうか? 食欲なくても食べやすい、ハイダイ師匠直伝! 優しい味付けの卵粥ちゃんだぜ。チュリネの葉っぱ入りハーブティーと一緒に召し上がれだ」
ニャオハをネモに預かってもらって、お盆ごと膝の上に乗せた鍋の蓋を開けると、食欲をそそる出汁の香りが、ふわりとスグリの鼻腔をくすぐった。まだ胃袋の中に、熱い鉄の塊でも飲み込んだような違和感が居座ったままだが、せっかく作ってもらったものだ。いただきます、とスグリは匙を手に取る。
「チュリネの葉っぱは、昔から薬としてよく使われてるんだと。そのまんまだとすげー苦いけど、滋養強壮の効果を消さない程度に、飲みやすくアレンジしてみたぜ」
ペパーの足元でチュリネがにこにこしながら、小さな体でぴょこぴょこと飛び跳ねている。よく見ると、その頭に通常は三枚あるはずの葉っぱが、二枚しかない。
「ねえ……もしかして、その子の葉っぱ……あ、あんた……」
「ま、待て待て! 変な勘違いすんなって! 一枚くらいなら、明日にはもう生えてくるんだよ! 毎日うまいメシを提供する代わりに、時々ちゃーんとアタマ下げてお願いして、葉っぱを分けてもらってんだ!」
なっ!と膝を折って身の潔白の証明を必死に請うペパーに、チュリネは不思議そうに首を傾げる仕草をしながらも、もう一度ぴょこっと元気に跳ねて、にっこりしてみせた。
「……漫才コンビは置いといて。スグリ、どう? 食べられそ?」
「うん。わや、おいしいよ」
ペパーが言うとおり、お粥もお茶も、とてもおいしい。お粥はまろやかな卵に出汁の塩気がちょうどよく絡んで食べやすく、お茶は苦味といっしょに、少しだけすーっとする清涼感があって、重たい胃の中を楽にしてくれた。息を吹きかけて冷ましながら少しずつ口へ運ぶと、胃の内側から、じんわりと体全体が温まっていく。
頑張って食器を空にし終えると、ペパーが満足そうに笑って、お盆ごと食器を回収してくれた。
「よーしよし。完食だな! メシが食えるなら、もう大丈夫だ。あとはぐっすり寝ちまえよ」
「ありがとなペパー。ほんとに助かった……まだ昼間なのに、わざわざ家まで来てもらっちまって、ごめんな」
自分の料理を必要としている人やポケモンがいるならば、必ず、すみやかに料理を提供する、というのがペパーの信条だ。少しの間だって、店を留守にしたくはないはず。スグリが申し訳ない気持ちでいっぱいになっていると、片手でお盆を持ち直したペパーの手のひらが、スグリの背中をぽんぽんと軽く叩く。
「ランチタイムにはまだ早えし、カフェメニューならバイトの子にも教えてある。ここからならうちの店はそんなに遠くねーし、台所片付け次第戻るから、大丈夫だ。……病人がヘンな気回してんなよ」
「ふーん。頼もしいじゃん、ペパーお兄さん」
「おわっ!? ……オマエがそーいう言い方すると、なんかすげー怖ぇー……」
「はー!? どういう意味よー!?」
「もう、ふたりとも! 熱出てる人の横で騒いだらダメだよ!」
「ぶっちゃけ全員やかましいし……」
「……ん?」
笑っていたスグリは、一階の方から、ぱたぱたと忙しない足音が響いてくるのを耳で拾った。だんだん近づいてくる。ニョロボンたちのものではない、人間の足音だ。
ねーちゃんが来たとき、玄関の鍵を閉め忘れてた?
まさか不審者かと、いつでもカミッチュに技の指示を出せるようにスグリが身構えていると。
「――スグリ!」
息せききって部屋に駆け込んできたのは、ハルトだった。
「ハルト!?」
スグリは仰天した。驚いた拍子に思わず声を張ったので、喉がやられて咳き込む。大丈夫?とハルトが駆け寄ってきて、背中をさすってくれた。同時にニャオハがネモの腕から抜け出して、スグリの膝の上に飛び乗ってくる。
「なんで、ハルトが……っ」
なんでハルトがここにいんの?と、発熱しているスグリの頭がいよいよ混乱状態に陥る。
ネモが、「来るって言ってたよー」と、なんでもない顔でスマホのメッセージ画面をスグリのほうへ向けて見せてくれた。確かにスグリのスマホロトムも、呼び出して見てみると、未読の通知があることを知らせている。眠っていたから気がつかなかった。
「あんたにしては、来るのに時間かかったじゃない」
ゼイユがハルトの方を向いて、ふんと鼻を鳴らしてみせる。
「ごめん。みんながいてくれて助かったよ」
「やー……うち的には、飛行機で半日かかる距離を二時間ちょいでカッ飛ばしてくるハルトイズ何って感じなんよ」
引くわー、とボタンが半笑いしている。
「ハル……えっ、仕事は、」
「そう言うと思ったから、でんこうせっかで仕事ぜんぶ終わらせてから来たよ」
「仕事込みで二時間!?」
ペパーとボタンとゼイユが、スグリのかわりに揃って素っ頓狂な声をあげてくれた。
……ずいぶん慣れたと思ってたけど、まだ、ハルトのこと甘く見てたのかもしれない。どんな手を使ったのか、訊くのも怖い。
軽く眩暈がして、スグリは自分の額を手で押さえた。ただ一人ネモだけが、「アハハ! さっすがハルトだね!」と、まったく動じず笑っている。
「オモダカさんが一緒だったから、報告ももう済んでるし。あ、これ、オモダカさんからお見舞い。『お大事にしてください』って」
ハルトは腕にひっかけていた、美味しそうな木の実の盛り合わせのバスケットを、サイドチェストの上に置いた。ちゃんとしたお見舞い用なのか、バスケットにはきれいなリボンがかけられている。
「あー…………まあ、とりあえず、よかったな! スグリ!」
難しいことを考えるのをやめたらしいペパーが、また親指を立てて、ニカッと明るくスグリに笑いかけてみせた。
「……熱さ、上がってきた気ぃする……」
「ノロケてんじゃないわよ」
「ねーちゃんうるさい……バカ……」
訂正する気力もなく、スグリはベッドに沈んだ。なんだか、一気に力が抜けた。……でも。
誰がバカだ、といつもの調子で食ってかかるゼイユのセリフに笑っているネモとボタンがいて、なんか飲むか?と心配して言ってくれるペパーがいて、病院行く?とおろおろしているハルトがいて。……みんないる。
頭からすっぽり被った毛布の下に、ニャオハが潜り込んでくる。いい匂いのする柔らかな毛がくすぐったくて、「にへへ」と、ごく小さな笑い声が口元から漏れる。小さなニャオハとおでこをくっつけ合わせながら、ふやけた口の端が上がりっぱなしになるのを、スグリはしばらくのあいだ、抑えることができなかった。