日だまり、或いは一杯の卵粥 寒い。
布団に入ってしばらく寝付けないでいるうちに、スグリは妙に、背中のあたりが冷えるような感覚をおぼえた。
毛布の中へ首まで潜り込んでもまだ寒い。ハルトが出張で出かけているから、今この家にゴーストタイプやこおりタイプのポケモンはいない。……だとすると。
嫌な予感を感じつつ、なんだか重たい体を起こして、救急箱から体温計を引っ張り出して熱を測る。一分ほど待って、案の定。
「……わやじゃ……」
熱があると分かったとたん、さっきまで平気だったのに急にくらくらと目が回り出すから不思議だ。
額を片手で支えながら、ハルトに電話……とスマホロトムを呼び出しかけて、今あちらが何時なのか分からないし仕事中だろうと思い直す。そもそも遙か海の向こうにいるハルトに、熱が出ましたと電話したところでどうなる。ただハルトに心配をかけてしまうだけだ。
明日も仕事がある。ひと眠りしたら熱が下がっていますようにと祈りながら、冷蔵庫から出してきた氷枕を頼りに、スグリは毛布を頭からかぶってひたすら眠る努力をした。
「うぅ……下がってない……」
むしろ、熱は上がっている。
ひと眠りすることはできたものの、起きてみたら声まで枯れている。もう出勤時間まであまり猶予もなかった。しかたなく上司に電話をして状況を伝えると、『あ~確かに声カッスカスやな、しんどいやろ、ええから今日は休んどき』と即休暇をとらせてもらうことができた。
『あんまり休まれると人手不足で困るからなぁ。早いとこ治すんやでー』
必要以上に気負わせない調子で明るく言ってくれる上司に心からの感謝を述べて、スグリは通話を終了する。少し悩んで、一応ハルトにもメッセージを送っておくことにした。体調を崩していたことがあとでバレると、何故だかハルトがしょんぼりしてしまうことを、経験上分かっていたからだ。
スマホで文字を打つ動作にもずいぶん慣れてきたのに、発熱でぼんやりする頭では言葉がなかなか浮かんでこない。『熱出た』『今日は仕事休む』とだけ、なんとか打ちこんで送信した。
向こうは今何時なんだろう。もう起きて、朝ご飯食べたのかな。
ぼーっと考えながら画面を見つめているうちに、ほんの十秒そこそこで既読マークがついた。さらに数秒後、『すぐ行く!』という短い返信が表示され、スグリは慌てて制止の文字を打つ。
『だめ』『ちゃんと仕事して』『寝てたら治る。ポケモンたちもついててくれてる』
全速力でそれだけ送信したあと、『仕事途中で放り出して来たら俺怒るから』という念押しの一文も追加で送っておく。すべて即既読がついたのに、たっぷり数十秒は経ったあとで『わかった……』と分かりやすく渋っている様子の返信が来た。念を押しておいてよかった。
「……まったく、もう……」
年々悪化している気がするハルトのこういう部分にちょっと呆れはするものの、画面に並ぶ文字列を見ていると口元が緩んでくる。心配してくれるだけでうれしいんだから、そんなに気を回さなくていいのに。
ぽんぽん、と矢継ぎ早にハルトからのメッセージが送られてくる。
『ご飯食べられる?』『あったかい服着て、できれば何か食べて病院に行って』『なるべく急いで帰るから』
スグリの身を案じてくれる言葉たちに短く了解の意を返信してから、のろのろとベッドから降りて手持ちのポケモンたちをモンスターボールの外へ出した。食欲はわかなくても、彼らのぶんの朝ご飯だけは忘れずに用意しなくてはいけない。
「みんな、ちょっと待っててな。いま朝ご飯作るから……」
足元がふらついて歩くのに苦労していると、ボールから出てきたポケモンたちがドアの前にずらりと並んで壁を作る。とおせんぼうを覚えている子は一匹もいないのに、代表して進み出てきたカミツオロチの頭でベッドまで押し戻され、いいから休んでいろ、と言いたそうにオロチュたちが咎めるような鳴き声を出した。普段は移動担当の二匹にまで、蜜飴の中からわざわざ顔を出して叱られた。
オオタチも丸い前足を広げ、ごはんくらい自分たちで用意できる!とアピールをしている。スグリは降参して、笑っておとなしく毛布の中へ引っ込んだ。
「何か困ったら、呼んでな」
大丈夫です!とばかりにニョロボンが片手のひらを突き出し、人間でいえば首にあたる部分を頭ごと横に振るような仕草をした。一階のキッチンへ降りていくみんなについて行かずに寝室に残ったカミッチュは、スグリが本当にきちんと休んでいるか見張っているつもりのようだ。
にゃあお……、と、細く不安げな鳴き声を出しながら、小さなニャオハがカミッチュの後ろから顔を覗かせた。種族特有の身軽さで、ニャオハはベッドの上へ飛び乗ってくる。そうして枕元にちんまりと座ると、横たわるスグリの顔を心配そうに見下ろして、前足の肉球を枕のふちにふみふみと擦りつけはじめた。たちまち、花のようないい香りがしてくる。ハルトを思い出す匂いだ。
スグリは手を伸ばして、ニャオハの頭をそっと撫でた。まだタマゴから生まれて間もない彼女の若草色の体毛は、スグリが毎日ブラシをかけてあげている甲斐あって、艶があってやわらかい。
「ありがとな、ニャオハ。カミッチュも」
ニャオハとカミッチュに見守られながら、スグリは毛布にくるまって目を閉じた。
少し眠ろう。はやく治さないとチリさんたちに迷惑がかかるし、ポケモンっこたちにもこれ以上心配をかけるわけにはいかない。
◇
かすかに、人の話し声がする。
重い瞼を開けると、すぐ近く――ベッドの縁のほうに、ポケモンたちの可愛らしい顔が並んでいた。カミッチュと……パーモットとニンフィア?
「あっ、スグリ! 起きた?」
「おー」
「え……ネモ……? ボタンも、なんで……!?」
スグリは慌てて体を起こした。ニャオハを膝に乗せて椅子に腰掛けているボタンが、「これ」と自分のスマホロトムを指し示してみせる。
「スグリ、寝ぼけてうちらのグルチャにメッセ送ったっしょ。熱出たーって」
「心配だから、みんなで来ちゃった! 玄関の鍵はニョロボンが開けてくれたよ」
「チュ!」
「うんうん、カミッチュもお出迎えしてくれたもんね。スグリのこと、みんなでちゃんと見ててくれてえらい!」
カミッチュはネモに褒められて得意そうにしている。
ニャオハがボタンの膝から降り、またベッドへ飛び乗ってきて、ごろごろと喉を鳴らしながらスグリの腕に擦り寄ってきた。
「今ペパーがごはん作ってるよ。ゼイユもこっちに向かってるとこだって。ま、病人はもうちょい寝てろし」
「ポケモンのお世話はわたしたちに任せて!」
ネモが頼もしく胸を張ってみせると同時に、玄関のチャイムが鳴った。
「……ん、ゼイユ来たっぽい」
ボタンが自分のスマホを覗き込みながら言うと、「はいはーい!」とネモが応対に出ていく。
状況に、頭が全然ついていかない。スグリはぽかんと口を開けっぱなしにしたまま、とりあえず、先ほどから懸命に甘えてきているニャオハの頭を撫でてやった。
「川に落ちそうになってた野生のポケモン助けようとして自分が落っこちて、ずぶ濡れになったって? どんくさいわねー」
「うぅ……ねーちゃんうるさ……」
ぷーくすくす、と口元に手を添えてゼイユは意地悪に笑っている。
午前の予定をキャンセルして駆けつけてきたくせに、弟が熱はあるものの起きていて普通に話もできると分かると、もうすっかりいつもの調子だ。
「オマエら、熱出てるヤツの横でギャーギャー騒ぎすぎだろ……下まで聞こえたぞ」
ペパーが呆れ顔をしながら寝室へ入ってきた。手に持っているお盆の上に、土鍋と湯呑みがひとつずつ乗っている。ペパーの後ろに続いて、黄緑色の小柄なポケモン――チュリネが一匹、ドアの向こうから顔を覗かせた。ペパーのポケモンだろうか。スグリははじめて見る新顔だ。
「スグリ、メシ食えそうか? 食欲なくても食べやすい、ハイダイ師匠直伝! 優しい味付けの卵がゆちゃんだぜ。チュリネの葉っぱ入りハーブティーと一緒に召し上がれだ」
熱いから気をつけろよと言い添えて、ペパーがお盆をスグリの膝に乗せてくれる。ニャオハをネモに預かってもらってから土鍋の蓋を開けると、ほかほかの湯気とともに、食欲をそそる出汁の香りが漂ってきた。
まだ胃袋の中に鉄の塊でも入っているような違和感が居座ったままだが、せっかく作ってもらったものだ。いただきます、とスグリは匙を手に取った。
「チュリネの葉っぱは、昔から薬として使われてきたんだと。生で食うとすげー苦いけど、滋養強壮の効果を消さない程度に飲みやすくアレンジしてみたぜ」
解説しているペパーの足元でチュリネがにこにこしながら飛び跳ねている。よく見ると、その頭部に通常は三枚生えているはずの葉っぱが二枚しかない。
「ねえ……もしかして、その子の葉っぱ……あ、あんた……!」
「まっ、待て待て! 変な勘違いすんなって! 一枚くらいなら明日にはもう生えてくるんだよ! 毎日うまいメシを提供する代わりに、ちゃーんとアタマ下げてお願いして、たまに葉っぱを分けてもらってんだ!」
なっ!と膝を折って身の潔白の証明を必死に請うペパーに、チュリネは不思議そうに首を傾げる仕草をした。それからもう一度ぴょこっと元気に跳ねてにっこりしてみせる。
「……漫才コンビは置いといて。スグリ、どう? 食べられそ?」
「うん。わやおいしいよ」
ペパーが言う通り、お粥もお茶もとてもおいしい。お粥は卵のまろやかさに出汁の香りと塩気がちょうどよく絡んで食べやすく、お茶は苦味の中に少しだけ清涼感があって、重たい胃を楽にしてくれた。息を吹きかけて冷ましながら口へ運ぶと、次第に体全体がじんわり温まっていく。
なんとか全部食べ終えることができた。ペパーが満足そうに笑って、お盆ごと食器を回収してくれる。
「よーしよし。完食だな! メシが食えるならもう大丈夫だ。あとはぐっすり寝ちまえよ」
「ありがとな、ペパー。ほんとに助かった……まだ昼間なのに、わざわざ家まで来てもらっちまってごめんな」
自分の料理を必要としている人やポケモンがいるならば、必ず、すみやかにおいしい料理を提供する……というのがペパーの信条だ。少しのあいだだって店を留守にしたくはないはず。スグリが眉を下げていると、ペパーは片手でお盆を持ち直して、空いた片手でスグリの背中をぽんぽんと叩く。
「ランチタイムにはまだ早えし、カフェメニューならバイトの子にも教えてある。ここからならうちの店はそんなに遠くねーし、台所片付け次第戻るから大丈夫だ。病人がヘンな気回してんなよ」
「ふーん。頼もしいじゃん、ペパーお兄さん」
「おわっ!? ……オマエがそういう言い方すると、なんかすげー怖ぇー……」
「はー!? どういう意味よー!?」
「もう、ふたりとも! 熱出てる人の横で騒いだらダメだよ!」
「ぶっちゃけ全員やかましいし……」
「……ん?」
笑っていたスグリは、一階のほうで物音がしたことに気づいた。だんだん近づいてくる。ニョロボンたちのものではない、人間の足音だ。
ねーちゃんが来たとき、玄関の鍵を閉め忘れてた?
まさか不審者かと、いつでもカミッチュに技の指示を出せるように身構えたそのとき。
「――スグリ!」
息せききって寝室に駆け込んできたのは、ハルトだった。
「ハルト!?」
スグリは仰天した。驚いた拍子に思わず声を張ったので、喉がやられて咳き込む。
ハルトが駆け寄ってきて背中をさすってくれた。同時にニャオハがネモの腕から抜け出して、またスグリの膝の上に登ってくる。
「なんで、ハルトが……っ」
なんでハルトがここにいんの?と混乱状態に陥ったスグリに、ネモが「来るって言ってたよー」とスマホのメッセージ画面を向けて見せてくれる。
スグリも自分のスマホロトムを呼び出して見てみると、かなりの数の未読の通知が届いているようだった。眠っていたから全然気がつかなかった。
「あんたにしては来るのに時間かかったじゃない」
ゼイユがふんと鼻を鳴らしてみせる。
「ごめん。みんながいてくれて助かったよ」
「やー……うち的には、飛行機で半日かかる距離を二時間ちょいでブッ飛ばしてくるハルトイズ何って感じなんよ」
引くわー、とボタンが半笑いしている。
「ハル……えっ、仕事は、」
「そう言うと思ったから、でんこうせっかで仕事ぜんぶ終わらせてから来たよ」
「仕事込みで二時間!?」
ボタンとペパーとゼイユが、スグリに代わって揃って素っ頓狂な声をあげてくれた。
……慣れたと思ってたけど、まだハルトのこと甘く見てたのかもしれない。どんな手を使ったのか訊くのも怖い。
軽く眩暈がして、スグリは額を押さえて呻いた。唯一ネモだけが、「アハハ! さっすがハルトだね!」と全く動じずに笑っている。
「オモダカさんが一緒だったから、報告ももう済んでるし。あ、これ、オモダカさんからお見舞い。『お大事にしてください』って」
ハルトは腕にひっかけていた、木の実の盛り合わせのバスケットをサイドチェストの上に置いた。ちゃんとしたお見舞い用のものらしく、バスケットの持ち手部分に綺麗なリボンがかけられている。
「あー…………まあ、とりあえず、よかったな! スグリ!」
難しいことを考えるのをやめたらしいペパーが元気に親指を立ててみせた。
「……熱さ、上がってきた気がする……」
「ノロケてんじゃないわよ」
「ねーちゃんうるさい……バカ……」
訂正する気力もなく、スグリはベッドに沈んだ。
なんだか一気に力が抜けた。……でも。
「誰がバカだ!」といつもの調子で食ってかかるゼイユのセリフに笑っているネモとボタンがいて、「なんか飲むか?」と心配して言ってくれるペパーがいて、「病院行く?」とおろおろしているハルトがいて――みんないる。
頭からかぶった毛布の下にニャオハが潜り込んでくる。甘い香りのするやわらかな毛がくすぐったくて、スグリはニャオハとおでこをくっつけ合わせながら「にへへ」と笑い声を漏らした。氷枕の冷たさも気にならないくらい、ぽかぽかとした温もりに全身が包まれている。ふやけたスグリの口の端は、いつまで経っても上がりっぱなしになっていた。