リジェネレイト、アンダーレイン その日、ハルトが買い物のために立ち寄ったマリナードタウンの市場で、たまたま目と目が合うなり突然ポケモンバトルを挑んできたのは、ほかの地方からパルデアへ来たという、旅行者の少女だった。
バトルの腕には自信があるのだと言っていた通り、少女はハルトがまだ見たことのない、相当に鍛え上げられたポケモンたちを次々と繰り出してきた。油断すれば、流れを持っていかれる。ハルトは互いのポケモンたちの動きを注視しながら、市場内のバトルコートで、暫くぶりにひりつくような緊張感を味わった。
カミツオロチが相手の攻撃を耐えきってくれて生まれた隙に、すかさず反撃を叩き込んで、なんとか勝利をおさめることができた。相手のポケモンたちの強さと、彼らをそこまで鍛えた少女の実力を称えようと、ハルトが少女のほうへ駆け寄っていったとき。少女が、下を向いた。握り締めたモンスターボールを見つめる大きな瞳に、涙が滲んでいる。その姿に、過去の、ここではない場所の記憶が重なって見えた。ずきりと胸が痛んで、ハルトの足が止まる。
勝負してくれてありがとう。震える声でそう言って、名前も知らない少女はハルトに背を向けて駆け出していった。先程まで感じていた楽しいバトルの充実感も高揚も、いつの間にかどこかへ消えている。走り去る少女へ、咄嗟にかける言葉を見つけられずに唇を開きかけたまま、ハルトは暫く、その場に立ち尽くしていた。
アカデミーの自室へ戻ると、スグリからの手紙が届いていた。
丁寧に封を開け、中の便箋をそっと取り出す。待ちこがれた手書きの文字をひとつひとつ味わうように、ゆっくり目を通していく。頭の中で、スグリの声が手紙の文面を読み上げていった。
姿を傍で見られなくても、声を直接聞くことができなくても、遠く離れた海の中で暮らす想い人の現在を、こうやって知ることができてうれしい。今では確かに心で繋がり合えているという実感に、かけがえのない、幸せな気持ちを噛み締める。
返事を書かなきゃ。
新しい便箋とペンを手に取って、まずはスグリの手紙の感想をしたためて、それから、こちら側の近況報告に移ろうとしたとき。昼間の少女の顔が、ハルトの脳裏に浮かんだ。文字を綴る手が止まる。
少女の容姿の細部はもう記憶の中でぼやけてきてしまっているのに、その表情だけは、いやに鮮明に思い出すことができた。
勝敗がついた瞬間、大きく見開かれた両の瞳から、光が消えるさまを。
俯いて歯を食いしばりながら、大粒の涙を一粒、こぼした姿を。
――おれ、ハルトみたいに……なりたかっ……た!
「……これは……知られたくない、な……」
ペンを持つ手を止めたまま、制服の胸元を握り締める。呟いた言葉は、誰の耳にも拾われることはなかった。
秋の夕暮れは早い。しとしとと小雨まで降り出したなか、傘をさして、ハルトは足早に家路を辿っていく。
みんな屋内に避難したのか、テーブルシティの通りには、人の姿はほとんどない。日没までにはまだ少し時間があるはずだが、重く厚く垂れ込めた雲が空を覆いつくしていて、辺りはもう、夜さながらに暗かった。遠くのほうの雲が光って、少し遅れて、雷鳴が轟いてくる。
でんきタイプのポケモンたちは、大喜びする天気だけれど。スグリに、一足先に帰ってもらっていて正解だった。
道沿いにある缶詰め屋さんの軒先を借りて雨から一時避難をしつつ、上着のポケットの中のスマホロトムに声をかけて出てきてもらう。『もうすぐ帰るよ』と、スグリにメッセージを送ってみた。
『雨、大丈夫だった?』
すぐに既読マークがついて、それから一分少々経って、スグリからの返信が届く。
『降り出す前に家に着いた。夕飯準備してる。たぶん、ハルトが帰ってくるころにはできるよ』
口の端が緩む。『楽しみにしてる!』と、返事を手早く打ち込んだ。
大好きなパートナーが、家で夕飯を作って待っていてくれている。じくじくとハルトの心を刺し続けていた痛みが、少し、和らいでいった。
パルデアリーグチャンピオンとして挑戦者を迎え撃った今日のバトルは、かなり長期戦になった。
リーグ本部にあるバトルコートで繰り広げた熱戦に決着がついて、悔しそうに唇を噛み締めて下を向いていた今日の挑戦者は、オレンジアカデミーの生徒――つまり、ハルトの後輩だ。ハルトがアカデミーに編入して最初の『宝探し』を始めたころと、あまり変わらない年頃の少年だった。
丁寧に一礼してバトルコートから出たとたん、彼は糸が切れたように大声を上げて、泣きながら走り去っていった。言葉をかける暇もなかった。
こういう時、なんと言うべきなのか。声をかけていいのかどうかも、いまだに分からない。オモダカさんはどうしてたんだろう。仕事を引き継ぐ前に、訊いておけばよかった。
バトルで負けて泣くほど悔しがるのは、それほどまでにポケモン勝負に真摯に打ち込んでいる証拠だ。もちろん、情熱を注いでバトルに臨んでいても泣かない人だって多くいる。けれどもハルトは、どちらの種類のトレーナーのことも――全力で戦うトレーナーとポケモンたちのことが、総じて好きだった。
きっと、あの子とポケモンたちは、明日からもっと強くなる。ハルトのライバルたちが、みんなそうだったように。
消えない痛みを胸に抱えながら、ハルトは顔を上げた。目の前の、お店のショーウィンドウに映る自分は、それはもう酷い顔をしていた。慌てて窓ガラスを見ながら自分の顔をぐにぐにと揉んで、表情を整える。
遠回りして帰ったほうがいいかな。でも、遅くなるとスグリに心配かけちゃう。コライドンたちもお腹がすいただろうし……。
できるだけ、ボールの中のポケモンたちにも、誰にも悟られたくなかった。
隠し事はしたくない。だけど、特に、家で待ってくれている大切な人には、この痛みの存在を知られたくない。きっと、気にしてしまうから。
「……しっかりしなきゃ」
小さな声はまだ止まない雨音に紛れて、人知れず消える。傘をさして、ハルトは再び歩き始めた。
テーブルシティの南門を抜け、さらに暫く歩いて、ようやく自宅の前まで辿り着く。
もう一度、野生のパモたちが頬の電気袋を擦る動きと同じように両手で自分の顔面をぐにぐにと整えてから、ハルトは玄関のドアを開けた。努めて、いつも通りに。
「ただいまー」
おかえりー、と、廊下の奥――キッチンのほうからスグリの声がする。
しっかりしなきゃ。スグリは今、こうしてハルトが共にいることを許してくれているのだから。
「……あ、いい匂い。お味噌汁だ」
「もうできるから、洗面所で手洗ってき、て……、……ハルト、何かあった? 具合悪い?」
まっすぐキッチンへ顔を出したハルトに、鍋の中へ味噌を溶き入れながら肩越しに振り向いたスグリはぎょっと驚いて、二度見してきた。「鬼が山の土みたいな顔色してる」と想定外の部分を指摘されて、ハルトは思わず、きゅっと口を引き結ぶ。
嘘で隠すことをしたくない。でも、すべては話せない。体の調子は悪くないよと苦し紛れに言えば、いよいよ何かあるなと思ったらしいスグリが鍋に蓋をして近寄ってきた。なんでもないよというフリは、こうなったらもう通用しない。
「……実は……さっき、挑戦してきた子に勝ったんだけど、泣かれちゃって」
「ああ……」
スグリは困ったように微笑んだ。
「強かったんだよ。仲間のポケモンたちのことを信じて、大切にしてることが、僕にも伝わってきた。育て上げるまで凄く頑張ったんだと思う」
「頑張ってきたぶん、悔しいんだろな。ポケモンっこたちの力を、自分が活かしきってやれなかったって」
「うん……分かるよ」
目をそらしてはいけないのに、うまく笑えていない。スグリがハルトの表情を観察するように覗き込んでくる。
あ。逃げられない――ダメかも。
話にまだ続きがあることをスグリは察して、黙ってハルトの言葉を促している。ハルトは追い込まれてしまった。これ以上言えば、きっとすべてバレてしまう。言うべきか言うまいか、心の中で揺れて、
――嘘つき!
じっと見つめてくるスグリの目に、記憶の中の姿が重なって、ハルトは息を呑んだ。
「…………でも、」
震える唇を動かして、ようやく、言葉を発した。
「でも?」
「……泣かれるの……苦手、かも」
スグリが両目を見開く。今、ハルト史上いちばんへたっぴな、笑顔になりきれない笑顔をスグリに見せている自覚はあった。
――うわああああああ!
遠い日に、鬼が山で聞いた泣き声が。泣きながら走り去っていくスグリの後ろ姿が、今も頭に焼き付いている。
ブルーベリー学園の、雨が降りしきるバトルコートの上で、光の消えた金色の目が、自分の敗北を信じられずに呆然とハルトを見ていた。その表情を、よく覚えている。
「……うん」
一歩踏み出したスグリの腕の中に、ハルトは抱き込まれた。あたたかくて大きな手がこわばったハルトの背中を包んで、とんとん、とあやすように叩く。
ハルトだって頑張ったもんな。
あの頃よりも低くなった、優しい声が降ってくる。全部、悟られてしまった。
「ハルトは、本気でかかってきた相手に、本気で向き合っただけだ。なんにも悪いことしてないよ」
ハルトは悪くない。言い聞かせるようにもう一度、スグリが言葉を重ねた。現在のハルトを通して、スグリはハルトの過去にも語りかけている。
「ごめんな」
スグリに抱き締められながら、ハルトは、ぐす、と洟をすすった。生傷を手当てするような手つきで、スグリが繰り返し背中を撫でてくれる。
「もしかして、前にも似たようなこと、あった? ずっとひとりで悩んでたの?」
「……うー」
「もう……泣くほどつらいなら、次からは言ってな。俺ももう子供じゃないし……困ったら一緒に考えようって言ったの、ハルトだべ?」
「……うん……隠してて、ごめんね……ごめんなさい……」
「……ん。ちゃんと謝ったから、許したげる」
スグリに抱きついてべそをかく珍しいハルトを、スグリは思いきり甘やかしてくれるつもりのようだ。でも、だから絶対に、スグリに言っておかなければならないことがハルトにはあった。
「ほら、泣きやんだら晩ご飯にしよ。はやく顔さ洗わないと、明日、目が腫れちまう」
「……スグリも……」
「うん?」
「スグリも、悪くない……スグリのせいじゃないからね……絶対……っ」
あの日のことは、スグリも、ゼイユも、誰も悪くない。誰のせいでもない。どうすれば良かったのかは、きっと誰にも分からない。
「……。……うん。ありがとな。ハルト」
ハルトの目の端に、スグリがそっと唇を押し当ててきた。ハルトがよくやる行動を真似て、涙の粒を吸い取っていく。あたたかく塩辛いその涙は、スグリの口の中でゆっくりと溶けていった。