舞遊ぶ花弁湿気を纏う初夏の夜。
薄闇が空を覆い、眼下には星々の如く営みの灯りが瞬いている。
昼頃であれば、人々の喧騒が届いていたであろう。今は建物を縫っては舞い上がる風の音が響くばかり。
それなりに高さのある建築物の屋上、落下防止の柵の傍らに、一つの影が色濃く落ちている。
そこに佇むのは一人の男。
蝋色のスーツを纏う、白練と射干玉の混ざる髪。髪色は知命を思わせるが、顔を見れば而立の頃であろうか。左目に縦へと走る傷痕は痛々しいが、そこになくてはならないパーツにも感じられる。
男が纏う薄い煙は、緩く喰んだその口元の煙草が発生源である。常時細く棚引く煙と、時折口端から吐き出される煙の塊。煙草の先端が赤橙に明滅するたびに、男の呼吸を示している。
紫煙が揺蕩い、火種が煙草の命を削りゆく中で、唇の隙間から血液にも似た鮮やかな赤がチラリと覗く。忌々しいと言わんばかりの指先が、赤の色を摘んで引き抜いた。
それは、唾液でしっとりと濡れた、ゼラニウムの花弁であった。
花なんぞに興味は一欠片もなかったが、己の口から吐き出したものは別だった。
知識として得たものは、花の名前と花言葉。女々しい慣習に充てられたその言葉は。無意味で馬鹿馬鹿しいものだと切り捨てるには、あまりに胸中を映し出していた。
「尊敬」「信頼」「真の友情」
思い出して、乾いた笑いが花弁と共に舞遊ぶ。そこに紫煙が絡みつき、心中を表すが如く収拾がつかない。
たかだか花に、何を心乱されているのだろうか。
自嘲も紫煙も花弁も。
無機質な建築物の隙間へと、溶けて消えてしまえ。
呪う言葉を音に乗せずに吐き捨てて、新たに口から溢れた赤の花弁をも薄汚れたコンクリートの床に吐き捨てて。
ザリ、と音を立てて踏み締める。
二度と鮮やかな色など咲かせぬように。